扉の向こうから、金づちを打つ音が響いてくる。シャルロットは少し早くなった鼓動を抑えるように胸に手を当てて深呼吸をした。
もう工房の仕事を始めているのだろうか。ルインのお父さんは大工仕事の棟梁をしている。村にある家や教会、畑の柵などの修繕や建築を一手に引き受けていた。この時間になると、いつも建材を加工する音が響き始める。
扉をノックしてから、そっと開ける。勝手に入ってきていいとルインのお母さんから言われているので、いつも通りシャルロットはルインの家にお邪魔した。
扉をくぐると、朝食の後片付けをしているおばさんが振り返った。
「――あら、シャロちゃん。ルインに用事? ルインなら工房でお父さんの手伝いをしているわよ」
恰幅の良いルインのお母さんがエプロンで手を拭きながら、その独特の少し枯れた声で言った。そうして視線を奥の扉へと投げる。工房へ続く勝手口だ。
「――お母さんにイノチウムを森から取ってきてってお使い頼まれて……。森に一人で行っちゃだめだからって……」
――言葉が上手く出てこない。慣れているはずのおばさんの前でも、ルインを意識し始めてから上手く喋れなくなったような気がする。
「あぁ、それでうちのをね。はいはい。ちょっと待っててねぇ」
そう言いながら、おばさんは勝手口から奥へと消える。しばらくしてルインが入れ替わりに顔を出した。
長く伸ばした銀髪がふわりと靡いてきらめく。ついさっきまで作業をしていたのだろう、後ろで結んだ髪は馬の尾っぽのようにさらさらと動く。アッシュグレーの瞳にシャルロットの姿が映る。穏やかな微笑みは、教会にある天使像に似ているような気がした。
「――シャロ。ちょっと待ってて」
穏やかな声。ルインの優しい声にシャルロットは小さく頷く。そしてにっこりと微笑みまた工房へと消える。
(緊張しすぎだよ。前はこんなんじゃなかったのにさ)
「――しょうがないじゃない。……どきどきしちゃうんだもん」
鞄の中のアーニャの言葉に口を尖らせる。顔を見ただけ、声を聞いただけでどきどきするのはどうしてなんだろう。身体って、心って本当に不思議。
しばらくすると準備を終えたルインが出てきた。
「お待たせ。さぁ、行こうか」
扉を開けてルインが一歩下がり、手を添えてシャルロットを扉の外へと誘う。シャルロットはその手に引かれるように先に家を出た。
「――それじゃあ母さん。少し出てくるよ」
「はいはい。ゆっくり遊んできな」
明るい声に送られて、ルインが扉を閉める。そうしてシャルロットはルインの少し後ろをついていくように歩いた。
(隣を歩きなさいよ)
アーニャがうるさい。最近アーニャはシャルロットのやることなすことに文句を言う。外ではそれに反論することも出来ないので言われっぱなしだ。
先を歩くルインの後姿を見つめる。
昔は同じくらいの背丈だったのに、今では少し見上げるくらいになっていた。歩みに合わせて揺れる手は、自分のふにゃふにゃの手とは違ってしっかりと骨が張って、たくましく思える。以前より筋肉もついたのだろう。力仕事だってするようになったとおばさんから聞いている。
「シャロは今日も大人しいな」
そうこちらを振り返り言う。髪がふわりと風に舞う。
「――うん」
どうしたら上手くお話が出来るの。柔らかく優しい声色で名前を呼んでくれるルイン。話したいことはたくさんあるはずなのに、何を話せばいいのかわからなくなる。
(――シャロ。お母さんの言葉を思い出してみなよ)
アーニャに言われてシャルロットは目を瞑って、今朝のやりとりを思い出す。
――女は行動力だよ。シャルロット。
そう心で唱えて、一つ頷く。行動してから、考えるんだ。
「ルイン、ついてきてくれてありがとうね」
言葉はなんだってよかった。話ながら、歩みを速めて隣りを歩く。そうして、自分の見せたい笑顔をルインへと向けた。
ちょっと驚いた顔をしてからルインが微笑み返してくれる。
「どういたしまして」
ふふふ、と二人で笑いながら道を行く。村を抜けて街道へと出る。平原のところどころに柵が立ち、牛や羊が放牧されているのが見える。遠くにある風車がゆっくり回っていた。
その奥に森があった。木々に囲まれたその場所は昔から魔法の力が強く滞留しているのか、イノチウムがよく見つけられた。リンドダット村の人はいつもその森へイノチウムを探しにいくのだ。だけど時折、怪物――モンスターが現れることがある。人前にほとんど姿を見せないが、一人で入るのは少し危険だ。
街道を抜け、森に入ると少しだけ涼しい風が流れてくる。木々のざわめきが風のリズムに乗って自然の音楽を奏でているようだった。
森には人が通って踏み固めた道があった。いつも通りその道筋に沿って奥を目指して歩き続ける。イノチウムは森の中心でよく見つけられるからだ。
「――ねぇ、ルイン。ルインはもうすぐ旅に出てしまうのよね」
思い切って、シャルロットはずっと避けてきた話をルインに振った。
「うん。そうだよ。――修行の旅に出る」
――リンドダット村では子どもは大人になる前に、見聞を広めるために旅に出ることがある。大工の家に育ったルインも同じようにその手の修行をするために村を出るのだ。
「大工さんの修行?」
聞き返すとルインは首を振った。
「人形作りの修行さ。そのアーニャを修理したときから、ずっと考えていたんだ。人形を作れる職人になりたいって」
鞄の中のアーニャを取り出して抱っこする。まだそれは私が人前でも人形とお話していた頃のことだ。
アーニャは一度、村の意地悪な子に壊されたことがあった。
シャルロットがまだ何も知らず、それが普通であると思いながら、アーニャと話をしているところを見られてしまった。その子はシャルロットを酷く馬鹿にして、アーニャを取り上げて笑った。
悔しかった。どうしてみんなには人形の声が聞こえないのかもわからないシャルロットは、悪戯をするその子に怒ってアーニャを取り返そうとした。
それは事故のようなものだった。伸ばした手が、相手の肌をひっかき、赤い痕を残した。
その子は怒り狂って、アーニャの身体を頭の上に持ち上げ、力いっぱい、ぶちりとちぎって捨ててしまったのだ。
壊れた人形とは話せなくなる。今までずっとそうだった。シャルロットは壊れたアーニャを拾い集めながら泣いていた。一番のお友達とお話しできなくなってしまうのが悲しくて、アーニャを失ってしまうことがただただ悲しくて泣いていた。
そんな私を見かねて、ルインはシャルロットを家へと連れ帰った。お母さんに慰められながらも泣き止むことのない私にルインはすっかり直ったアーニャを差し出した。
――ただいま、とアーニャは言った。信じられなかった。一度壊れた人形の心はどこかへ行ってしまうはずなのに、アーニャの心はアーニャの身体に戻って来てくれた。
「――あの時、シャロは泣いて喜んでくれただろう? あれからずっと手伝いの合間に人形作りの勉強をしていたんだ。まだ完成はしていないんだけど……」
ルインは空を見上げた。つがいの鳥が並んで遠くへと飛んでいく。
「マール王国のオレンジ村に有名な人形作りの職人が住んでいるんだ。その人のところに修行に行くんだ」
隣の国のオレンジ村。聞き覚えのある名前だった。それは隣国のこのリンドダット村でも流れてくるとても素敵なお話に登場する村だ。
「――オレンジ村ってコルネット王妃様がお生まれになった村……だよね」
マール王国には諸国に伝わる有名な話がある。悪い魔女に攫われた王子を小さな村の娘が救い出し、王子の心を射止めたのだという。
その小さな村というのがオレンジ村である。
「うん。そのオレンジ村だ」
その目には強い光が宿っているようだった。夢をみる人の決意の目だ。
ルインは人形作りのために旅に出てしまう。シャルロットは少し複雑な気持ちになった。アーニャを直したことがきっかけで、ルインが村を出ていってしまう。そう考えると何だかとても胸が苦しい。
(――私のせいにしないでほしいよ)
アーニャが呟く。感傷に浸っているところに水を差さないで。
「いつから行くの?」
――行ってしまうの? と胸の中で問う。
「聖歌祭の翌朝に出発する予定だよ」
じゃあ、あと一週間もないのね。シャルロットはしょんぼりと俯く。じわりと涙をこぼしそうになってぎゅっと目を瞑ってそれを耐えた。
聖歌祭とはリンドダット村のお祭りである。村の娘たちが歌を歌ってその年の豊作を祈って神様に捧げる催しだ。一番、美しい歌を歌った娘がその年の歌姫に選ばれる。シャルロットも聖歌祭では歌うようにお母さんに勧められている。
「――じゃあ、今年の聖歌祭がルインと一緒にいられる最後の聖歌祭になるのね」
「修行が終われば帰ってくるよ」
「わかってるよ。わかってるけど」
でもそれはいつになるのかわからない。ルインが夢を追いかけるというならそれを応援しなくちゃいけない。だけど、それでもそばを離れるなんて本当は嫌だ。
そんなことを言うわけにはいかない。そんなことを言って困らせて、嫌われたくなんてないんだもの。
「――今年はシャルロットも聖歌祭で歌うんだろう? シャルロットの歌声を聞くのは久しぶりになるね」
「そう……だね」
子どもの頃、シャルロットはよく歌を歌う女の子だった。それもアーニャを壊された日を境に歌わなくなった。人前で目立つことを恐れるようになっていたからだ。
「楽しみにしているよ」
そう言って、ルインは振り返り、シャルロットの頭をそっと撫でた。
「僕は昔から……きっと生まれる前から、シャルロットの歌声が好きだったからね」
物憂げなその瞳は艶やかに揺らめいて見えた。シャルロットはその美しい瞳から目を逸らせなくなってしまった。