九頭神の森で赤子が泣く。お乳をくれと泣くその声は、誰かが聞けば化物の声だと錯覚するだろう。
その赤子は異質として捨てられた。産まれたその時より歯が生え揃い、二本の足で立って歩き、赤子を産んだ母は死んだ。せめてもの情けにと他者が乳を与えれば、凄まじい飲みっぷりで立ち所に乳が干上がってしまう。
異質な子の親として村から嫌われた父は、赤子を籠に入れ、この九頭神の森に捨てた。殺さなかったのは同情や悲哀などではない。母を失い異端の赤子に振り回されたことで疲れ果てたからだ。
それでも赤子は泣き続ける。赤子とは思えぬ声量で、お乳をくれと、寂しいと叫び続ける。
だが悲しき事に、九頭神の森は深く、他所の村からは遠い場所に捨てられており発見は困難。赤子の事情を知る村人は誰も赤子を拾いはしない。「あれだけ飲む赤子だ、放っておけば三日と持たぬだろう」と殺す事もしなかった。
故に……泣けども喚けども、人など来ようはずがない。それを赤子は理解せず……物心もつかぬからではなく、その子が持つ『生き意地の汚さ』を示すかのように、泣く。
そんな赤子の声に応えたのは、一匹の猫だった。
「ナァ」と小さく啼いた虎猫は、大声で泣く赤子をおっかなびっくりといった様子で近づき、その赤ら顔を覗き込む。熊どころか妖怪までも出るこの深い森に住み着いているのか、初めて見る、人間にとって異端と扱われた赤子を恐れることなくじっと見つめている。
勿論赤子は泣き止む気配がない。むしろ赤子は視界に猫が入ってきたことで怯えたのか、籠の中で藻掻いて暴れ、一層大きな声で泣き始めた。排他的とも言える行動だが、その行為には赤子にとって多大な体力を消耗する。命を縮める行為と言っても良いだろう。
対する虎猫は妙な行動に移った。赤子に背を向けたと思えば、根本が太く長い尻尾を赤子の眼前で揺らし始めた。
その尻尾の先端は二又に分かれていた……長生きし妖怪に至ったという化け猫【猫又】になる兆しだった。
この虎猫は尻尾が分かれ始める程に長生きしたのだろう。それなりに長い経験と智慧を示すかのように、猫は何も言わず、手慣れた様子で尻尾を揺らす。赤子をあやした経験でもあったのだろうか?
その結果は如実になって表れる。赤子は徐々に嗚咽を漏らしながらも泣き止み、視界に揺れるニ又の尻尾を追うようにして小さな手を空に掲げた。
ゆらゆらと揺れる尻尾と、自らを害さぬ生き物が其処にいるという事実。物心つかぬ赤子でも解る安心感が、一時でも空腹と不安を忘れさせてくれた。
猫は尻尾を揺らすだけ。籠に寄り添うように香箱座りで佇み、眠そうに瞼を下す。それでいて赤子が飽きぬよう、そして掴まれぬよう巧みに尻尾を揺らす。
観念した赤子は疲れ果てたように眠りにつく――――虎猫と共に拾われるのは、もう少し先の話だ。
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やがて赤子が「茨木」と呼ばれる鬼に育った頃。
「猫、鬼とはなんだろうか」
「……角がある妖怪でございやしょう?」
「いや見た目の話ではなく……というか吾をそのような曖昧な妖怪と見ておったのか猫よ」
その茨木が、今しがた仕留めたばかりの猪の臓物モツを血で濡らした口で頬張りながら、苔生した倒木に腰掛ける猫を相手に駄弁っていた。
珍妙且つ悍ましい光景だ。頭から2本の角を生やした少女が獣の臓物を食らう様も、まるで人間のように座り言葉を発する虎猫も、この世代の人が見れば恐怖を覚えるだろう。
かつて龍頭神の森に捨てられた赤子は鬼の母に拾われ鬼として育ち、共に拾われた虎猫は二本の尻尾を揺らす猫又となった。今は母と共に森深くに暮らし、妖怪として生きている。
虎猫は生意気にも拾った煙管で煙を吹かし、先の質問を思い返すように目を細める。
「生憎と小生には質問の意図を真に知る事は叶いませぬが、それはもしや茨木の母君がおっしゃっていた事と関係がおありで?」
随分と達者になった口振りと煙の臭いに眉間を寄せながら、茨木童子は頷く。
自分と猫を拾い育ててくれた母は生粋の鬼だった。傲慢で暴れん坊で、人どころか弱小の妖怪ですら襲い、恐れられる事に快感を覚える畜生。それでいて母としての強さと優しさも兼ね揃える、茨木にとって尊敬できる母親だ。
虎猫にとっても、茨木の母は尊敬に値する。なにせ若年にして猫又に至れたのは、彼女が発する妖力に影響されたからこそ。やや乱暴ではあるが鍛え上げ可愛がってくれた恩もあり、鬼として恐れている以上に親しみを向けていた。
「母上からすれば我は随分と人間じみているらしい。真面目で律義で、時折怖がりだと。いや怖いのではないのだ。余計な面倒を増やしたくないだけで」
「それが貴方という鬼でありましょうや。人に恐れられ剛力を持って暴れる様は、立派に鬼として生きていると小生は思いまする。夜の獣の遠吠えに怯み小生に抱き着くのは若き身だからでございましょう」
「怯んでなどいない! 猫はか弱いから守ってやらねばと思っただけだ!」
「……やれ嬉しきや、茨木殿はそこまで小生の事を……ではそういうことにしておきましょう」
「なんだその、頑張って沢山薪を割って褒めてくれた時の母上のような目は……まぁいい。話を戻すが猫よ、お前は母上が吾にいつも言っていることを覚えておるか?」
「無論、覚えておりますとも。母君の矜持にして鬼たらしめる生き様。即ち―――」
―――「鬼が傲慢に振る舞わなくして、誰が傲慢に振る舞うのか」
茨木の母が常日頃から言っている言葉だ。人の里を襲う時、略奪した品を担いだ時、生意気にも襲い掛かる同胞を縊り殺した時……いずれも鬼としての格を見せつけながら、胸を張って口にするのだ。
それは母しか生き抜いた鬼を知らぬ茨木にとって事実であり、呪いのようにも感じていた。尊敬する母は、この上なく強く傲慢な鬼として生きてきた。故に、茨木にとって鬼とは母に他ならなかった。
だからこそ茨木は母の言葉に悩んだ……鬼として育ち鬼の血が流れる己が人間寄りだと言われたからではない。その言葉の先にあった。
「お前には鬼としての悦楽を知りながら生きて欲しいと、母上は言うのだ。あの時の母上は悲しそうな目をしていた。吾はそれが忘れられぬのだ……」
あの母が己を未来を案じて悲しむ……それを知った茨木は人知れぬ恐れを抱き、鬼の剛力を持って抱きしめるが、体の震えは止まらなかった。
そんな茨木を虎猫は何も言わず、煙管の煙を漂わせながら見つめていた。
虎猫は鬼の下で生きてきたが、所詮は猫だ。自由気まま、手前勝手に何処かに出かけてひょっこり帰ってくるなど日常茶飯事。土産に酒入りの瓢箪を持ってくる律義さもあるが。
故に虎猫は、茨木やその母のような固執した考えを持たない。訪れた人里ごとに違った考え方や、出会った妖怪の生き方を見て、多種多様な思考を持つようになったのだ。
それでも、虎猫にとっても茨木とその母は誇りだった。今までにも小鬼や小物めいた鬼にも会った事はあるが、二人に並ぶような心身共に強い鬼を見たことがない。
思考を巡らせ、茨木の呼吸が整ったのを確かめ、彼女からの強請るような眼差しを受けて虎猫は煙を吹く。
「茨木殿、不躾ではござんすが逆に問います。そもそも傲慢とはなんぞや?」
「……? 好きなように暴れ好きなように奪い好きなように食らう……そういうものではないか?」
「それは母君だけに限りませぬ。小生は独り歩きをする傍ら、様々な鬼にも会いましてな。
人を脅かすだけの鬼、人を殺すだけを楽しむ鬼、人里から殺さずして酒を盗む鬼、愛するものを殺しもう片方に絶望を与える鬼、木の実を齧り洞穴に引きこもる鬼などもおりましてな。
その鬼らは、己こそが正しいと誰もが信じて疑わぬのです」
「己こそが正しいと信じる……母上に比べると随分と醜い生き方が、か?」
「小生は思うのです。傲慢とは誰がなんと言おうと『これこそが正しい』と信じて疑わぬ、良く言って信念、悪く言って頑固な生き方を差す言葉。
故に母君が日頃申す言葉も傲慢そのもの。茨木殿を案じ己の言う通りに生きて欲しいと申すのも傲慢な……只の押し付けと言っても過言ではないかと」
「押し付けだと? 鬼の生き様を誇り、吾に鬼であれと謳う母上を侮るのか猫よ」
「そうは申しておりませぬ。茨木殿、母君が其方を案ずる事に悩むのは良き事です。しかしその生き様は母君の物あり、茨木という鬼の生き様には直結しませぬ」
「……吾の、生き様?」
「狼は幾ら空腹でも熊を相手に戦いは致しますまい。小さな燕は鷹を相手に逃げ延び生きております。人間はバラバラなのに集まって生き、逃げ延びればまた新たな集落を作る。
しかしながら、同じ狼でも熊を相手に戦う狼もいれば熊のお零れを狙う狼もおり、同じ人間でも妖怪に立ち向かう猛者もおります―――生き方に決まりなどないのです。生き様は己のみぞ決められる」
母以外の生き方。母より弱い鬼や妖怪は数あれど、弱くとも独り歩いて生き延び、外を知って帰ってくる猫又。彼の言葉は、当たり前の生態系を述べているにも関わらず新鮮味を覚える。
煙草を切らしたのか、虎猫は最近になって妖力を応用して編み出した念力で煙管をクルクル回しながら、猫らしからぬ穏やかな笑みを浮かべた。
鬼の母に鬼であれと言われて育った自分が鬼らしくないと言われて戸惑っているというのに、そのような事が自分にできるのかと不安になる。
そんな不安をかき消すように「大丈夫です」と虎猫は言ってきた。思わず顔を上げて猫の笑顔を見やる。
「焦ることはありませぬし、所詮は猫の戯言と聞き流すのも茨木殿次第。まずは育ち、強くなりましょう。貴方様は強いが、より強くなれば、我を通して生きる事もできましょう。いずれ母君の下から旅経つその時まで、色々と考えてみると良いでしょう」
その為に小生を訪ねたのでしょう? と虎猫はクスクスと笑う。茨木は彼が何に笑っているのかは分からないが、何故か猛烈に恥ずかしくなったのでそっぽを向いた。
猫の言う事は母上と比べるとややこしくて解りづらい。それでも何か……切欠のようなものを掴んだ気がする。
己は人間らしいと言われたが、そもそも茨木は人間を深く知っているわけではない。単に群れて弱い生き物、としか考えていない。しかし狼よりも多く生きている。そんな生き物。
考えれば考える程に、興味が沸いてくる。他者の生き様、即ち生態系を知ってみたいという知的欲求。勿論暴れたいう欲求も忘れていないが、それに並ぶ欲求が茨木の中に芽生えてきた。
「おお」と虎猫の声がして意識を取り戻す。眼前には色鮮やかな蝶が数匹舞っている。そういえば春が近かったな、と茨木は考える。
「楽しくいきましょうや、茨木殿。吾は蝶と戯れます故、茨木殿も好きに楽しむと良い。やれ美しや、心躍るのう」
そういって虎猫は煙管を腰に括り付け、ニャアニャアと飛び回る蝶に飛び掛かった。先ほどの落ち着き用が嘘のようなはしゃぎぶりだ。
とりあえず、猫が蝶を相手に興奮するのは理解できないし、解らなくていいかと思った。はしゃぐ姿は可愛いとは思うが。
ふと掲げた指先に止まる蝶を眺めながら、茨木はまた一つ理知を得た気がした。
蝶に紛れて若葉が風に舞う。春の風が吹いていた。
夏の巻へ続く。