Fate/Φ's Order REMNANT SE.RA.PH/ZERO 作:うろまる
巡る流星
これは、終わってしまった物語だ。
触れたくても触れられない。やり直したくてもやり直せない。もはや指先の端ですら届かないほど、彼方へと過ぎ去ってしまった物語。
暗い水底に沈みゆく、電子の世界で繰り広げられた、いがらっぽい灰と粘ついた血に濡れ、重苦しい慚愧と苦痛に満ちた物語。
そこに救いや希望などなく。ただ無限の闘争が広がり、幾つもの絶望が転がり、とうの昔に腐り落ちた願いが、雪のように降り注いでいた。
溢れ出た溶岩が堆積して、ひとつの島ができあがるように。野晒しにされた獣たちの死体が重なり続けた結果、吐き気を催す腐臭を漂わせながら静かにたたずむようになったあの蒼海は、きっとこの世の地獄と呼ばれるに相応しい。仮にあそこでもう一度戦い抜けと命じられたとして、うんざりしない自信は彼女にはまるでなかった。
だが、そんな場所で走り抜けた血みどろの日々を、彼女はこころから愛していた。
己が身にはあまりにも過ぎた輝かしい思い出だと、何のてらいもなく思うことができた。
たとえゴールに、魂と記憶が擦り切れ果ててしまうほどの結末が待ち受けていることが、わかっていなくても──初めから、わかっていたとしても。自分はきっとこの物語を、宝石よりも輝かしいと思うだろう。彼女はそういう確信があった。
無用だと断じられ、廃棄場に打ち捨てられ、ガラクタで終わるしかなかった自分に訪れた、運命のような偶然から始まった───いや、違う。
きっと本当に、運命の出会いだったのだ。
そう考えた直後、なんて陳腐な発想なのだろうと、自分が考えたのにもかかわらず失笑したくなった。もう少し他の物言いはなかったのかと思う。運命だなんて、子供でももう少しマシな表現を選ぶだろう。「彼」がこの言葉を聞けば、いったいどんな顔を晒すだろうかと考えて、少女の身のうちに笑みの衝動が押し寄せる。堪えるために少し身体をよじらせると、鈍く重い痛みが走る。すっかり気が削がれてしまい、傷んだ箇所を見やると、自分の身体が徐々に光へと溶けていく虚ろな光景が目に入った。
そして彼女は、なんの前触れもなく、いずれ己に訪れる必定の結末を突きつけられた。
取り乱す──なんて、無様な真似はしなかった。そうなるだろうという覚悟を、初めから心のどこかでしていたからかもしれない。
なにせ自分が今から成そうとしている所業は、机上の空論どころか泡沫の夢にさえ等しい、実に馬鹿げた夢想だ。そんなものを、血反吐を吐きながらでも叶えようとしている自分は、もっと馬鹿げているに違いない。
天を目指して地から飛び立ち、炎に焼かれて海に呑まれた、愚かな男の伝説を思い出す。いまの自分はまさしくそれだと彼女は確信する。
確定された滅びを携えながら、届くかどうかもわからない不確かな空を、ひたすらに目指す女。これを愚かだと言わずして、なんと呼べばいいのだろうか。
けれど。
そういうバカげた女を、彼は心から信じていたのだ。
信じて、手を伸ばしてくれたのだ。
ならば、自分がそういう男のサーヴァントであったのなら、最期までそう在ろうと思う。
───全部終わったら、何がしたい?
かつて彼に投げ掛けられた、なにげない問いかけが、ふっと彼女の脳裏を通り過ぎた。
まだ何も終わっていない。ここで終わらせていいわけがない。
だが、あの時は答えることができなかった問いに、今なら答えられる気がした。
光になって。時さえ超えて。
きっとあなたに、会いに行く。
ゆっくりと溶け落ちていくセラフの空を、一筋の閃光が、撃ち放たれた矢のように駆け抜けていく。
逃れられない破滅を連れて。それでも決して道に迷ってしまわないように。
ひたすら強く、まっすぐに。
流れる星は、青い宙を孤独に昇り続けていく。
──それは、遠い遠いかつての名残。
とうの昔に、終わってしまった物語。
今はもう亡い、二人の話。
○
自分を生み出した女が、ゆっくりと電子の欠片となって溶けていく。
そんな光景を目の前にしても、『彼』の中には悲しみや恐れといったものは、欠片も湧き上がって来なかった。別に『彼』が特別に非道だった、という訳ではなく、『彼』には元々そういった感情を感じる機能が備わっていないのである。いや、そもそも心というものがあるかどうかさえも怪しいだろう。『彼』のわずか数ギガバイトの身体の中に入っているのは、女が自らの命を賭してまで伝えたかったメッセージと、女が血まみれになりながらも指定した行き先の情報だけだ。『彼』はそれ以外の何も必要としていなかったし、何かを必要とも思わなかった。
だから、『彼』は命じられた通りに動き出した。論理爆弾も、攻性トラフィックも、擬似情報発生用のウィルスも、偽装も電子チャフもダミーも一切抜きの、葉っぱ一枚どころか素っ裸も同然の状態で、女が焦がれ、電子の海の彼方で泰然と彼を待ち侘びている場所――カルデアの管制室に向けて走り出した。
しかし、その旅は無謀もいい所だった。
既に完全に掌握されてしまった施設のシステムは、『彼』という異常を認識し、即座に排除しようと試みた。十重二十重に防壁を張り巡らせて、たとえ運良く乗り越えられたとしても、今度は足の踏み場も確保できないぐらいの地雷をその先に埋め込んだ。施設に繋がる為の他のルートをウイルスでグズグズに崩し、善性悪性問わずプログラムと名のつく物を喰らいつくすワームをあちこちにばら撒いた。
ほとんどただの音声メールである『彼』が、その妨害を乗り越えられる確率はゼロだった。『彼』もわかってはいたが、止まる気など更々なかった。一心不乱に駆ける『彼』を認識したすべての妨害が、削除せんと迫る。
しかし、次の瞬間、『彼』の全身を不可思議な感覚が包み込んだ。まるで、何者かの手に包み込まれているかのような――柔らかく、暖かな感覚だった。続いて、声が響く。
「――――貴女という人間の無謀と、勇気と、無茶と、その諦めの悪さを、わたしは心の底から讃えましょう。
■■■■■女史。
貴女の願いは、このわたしがSE.RA.PH管理者として必ず果たす事を、ここに誓います」
そして。
たった一つの叫びを伝えるためだけに、深く遠い海の果てから放たれたメッセージは。
確かに、カルデアに届けられた。
SOS。
○
その頃、乾巧は爪を切っていた。
いまいち暖かみに欠けた自室のベッドに座って、背中を猫のように丸めながら多忙に駆られていたおかげでなかなかに伸びた自分の爪をじっと見下ろして、できるだけ均等な長さになるようにぱちぱちと地道に切っている。大雑把なのは違いないが、意外と細かい性格なのだ。時折退屈そうに大きくあくびを漏らしている様子は、ほとんど爪を切られているまっ最中にある飼い猫である。いくらバカみたいな猫舌だからって、なにもそこまで似せなくてもいいものを。多分当の本人は、自分がそうと見えていることには気づいていないだろう。そこがからかわれる絶好の的となっているというのに。
──とにかく暇で仕方がない。
切り落とした爪をまとめてティッシュにくるんで、足の指で近くに寄せたゴミ箱の中に放り込んでから、巧はそんな他愛のないことを考えた。
もちろん、朝から晩まで四六時中ずっと布団の中で寝こけていられるほど暇な──だったらむしろ歓迎したいぐらいだ──わけではない。生き延びて力を蓄えている魔神柱に、亜種特異点。いまだに立ちはだかり続ける脅威を取り除くベく、時間神殿での決戦を乗り越えて、魔術王の野望を阻止したあとも、巧はカルデアに居座り続けていた。
だが、そう都合よく次から次へとやってくるほど脅威も暇ではないらしい。嫌々ながらも日課となってしまった訓練も、シミュレーションのメンテナンスだかなんだかでハネてしまい、自室待機を命じられている今この時は、ちっとも気にしてないくせに伸びた爪をまじめな表情で切り揃えてしまうぐらいには、乾巧は暇を持て余してしまっているのであった。
できることならさっさと帰りたい、というのが正直な本音だった。帰るというのはもちろん、自分がカルデアに来る前に暮らしていた街――東京にだ。
そもそも、魔術のまの字も知らない一般人だった自分が、まがりなりにも人類最後のマスターという役割を担えていた(あるいは担わされていた)のは、自分以外のマスター候補らしい47人の魔術師が、レフ・ライノール・フラウロス……魔神柱の策略によって再起不能となっていたからだ。
しかし人理焼却は、多大な犠牲はあれどもどうにか解決され、生命維持のために一時的に凍結されていたマスター候補達も、次々と回復の一途をたどっている。
ならば乾巧というズブの素人は、カルデアにとって単なる置き物でしかなくなったはずであり、置き物に食わせるメシはないとばかりにさっさとお役御免となってほっぽり出され、今ごろは東京の片隅にある小さなクリーニング屋のアルバイト風情に戻っているはずだった。
はずだと、思っていたのだが。
──なに寝ぼけたことを言ってるんだい。一年ばかり寝たきりだった彼らを、いきなり特異点攻略になんて、駆り出せるわけないじゃないか。君は問題がぜんぶ片付くまでは、馬車馬のように働かなきゃいけないんだぞ。それに別れの挨拶もなく出てくつもりだなんて……ダ・ヴィンチおかーさんは、君をそんな薄情な子に育てた覚えはないっ。
なにがおかーさんだ、バカらしい。
そんな胡乱な言葉を無視できても、まだ特異点が発生するかもしれないという可能性──何よりも、あの魔神柱が生き残っているという事実は、巧にとって無視できるものではなかった。
記憶にも新しい、巧にとっても馴染み深い土地……新宿に突如として発生した、特異点の有り様を思い出す。
果てしない憎悪に拠って行動を起こしていた魔神柱に呼応したかのように、悪意と殺意が充満し、裏切りと策謀が当然のように他者へと降りかかる世界だった。信頼や平和などといった美徳はゴミ溜めに打ち捨てられ、害意や虚偽といった悪徳が崇められている世界だった。
あんな物を、平凡な日々を暮らす人々に──なによりも、あの暖かな洗濯舗の面々に味わわせてしまう事態など、この世の誰が許したとしても、乾巧が許すわけがなかった。
巧は仰向けに寝転がり、天井を見上げた。突き刺さる蛍光灯の無機質な白光に目を細める。
本当は。
本当は、俺はここにいるのが怖いだけなのかもしれない、と思う。人間ではない存在──オルフェノクである自分を受け入れてくれた、もう一つの居場所。
初めは胡散臭さしか感じられなかったカルデアは、いつのまにか、乾巧にとってなにものにも代え難い存在となっていた。
それは巧にとってくすぐったくもあり、無性に恐ろしい物でもあった。
カルデアの人々が巧の心の奥深くまで入り込んでくるたびに、取り返しのつかないほど裏切ってしまうかもしれない自分の存在が、ひどくおぞましく思えた。悪い意味で、自分の性根というやつはあの時から──なにもかもを恐れて、ひたすら逃げ続けていた頃から、なに一つとして変わっていないのだと思う。
だから一度は、らしくもなくあれこれと理由をつけて去ろうとした。自分の正体を知って、それでもなお手を伸ばしてくれる者達を、これ以上傷つけてしまわないように。まったく女々しいにも程があるが、生憎とそれ以外のやり方を、巧は知らなかった。
「──クソ」
これまでずっと考えないようにしてきたのに、いまの自分の頭はそのことばかり考えてしまう。暴走を始めた想像力の歯車はなかなか止まってくれず、ようやく止まった頃には、巧の頭の中は血だらけになっていた。
寝転がりながらがりがりと頭を掻く。暇だとロクな考えが頭に浮かばないことが今のでよく分かった。どこで暇を潰そうか考えていると、ドアに取りつけられた端末が、来客を示すチャイムを響かせた。
──誰だ。
頭だけ起こして睨みつけたが、ドアはチャイムを一度鳴らしてからずっと黙り込んでいる。わざわざ起き上がる気力も湧かず、巧は寝転んだまま枕元に置いてあったリモコンを手に取り、適当な方向にロック解除のボタンを押した。がご、と顎を外したような鈍い音が響く。
「──あら、いらっしゃったのですか。てっきり狸寝入りを決め込むかと、アタリをつけていたのですが」
聞こえた軽やかな声に、巧は思わずのろのろと起き上がった。
扉が開いたそこには、割烹着を着込んだサーヴァント・キャスター──玉藻の前が、お玉を片手に突っ立っていた。
「……なんだそりゃ」
巧は格好に突っ込んだつもりだったのだが、玉藻はお玉を得意そうに掲げて、ひと言。
「お玉です」
見りゃわかる。
呆れ切った視線を送りつけると、玉藻はくすくす笑いながら、
「冗談はさておき。お昼時だというのに、いつまでも部屋に閉じ籠ってる寝坊助さんを起こしに来ただけですよ。もお、慌てて来たせいで着替える暇もなかったんですから。
あ、でもぉ、タマモちゃんの非常にきちょーなエプロン姿を見られて、まったく役得なマスターですねえ。きゃっ」
後半の猫撫で声で奏でられた寝言は、ほとんど耳に入っていない。最初の方に出てきたお昼時という言葉に、巧の意識はただただ呆然とするばかりだった。
「もう、そんな時間か」
「気づかなかったんですか?」
問い掛けにこくり、と頷き返す。まったく気づかなかった。疑うようにファイズフォンを開くと、液晶の数字はとっくに正午を超えているという顔をして、呆れ果てたような視線をぶつけてきた。
いったいどれだけ爪切りに無中になっていたのか。自分で自分が恥ずかしくなっている巧をよそに、玉藻は尋ねた。
「で、どうします?」
「どうするって、なにが」
いまいち意味がわからない、という顔をする巧に、玉藻は焦れたようにお玉を左右に振りながら、
「だから、お昼ご飯ですよぅ。体調が優れないなら、薬膳料理かなにかでも拵えますが」
「いや、俺は……」
今はメシを食うって気分じゃない──と言おうとした口を噤む。このままひとりで部屋にいても、頭に浮かんでくるのは相も変わらずロクでもないことばかりだろう。それなら、気は向かないが、ひとりでいるよりも喧騒の中で時間を潰していた方が、今の時点ではいくらかマシに思えた。
「……食う」
巧がそっぽを向きながら呟くと、そうですか、と玉藻は嬉しそうに笑いながら頷いた。
微笑ましいものを見たかのような笑顔が、鬱陶しくてしょうがない。小虫でも追い払うように手を振って退室を促すと、玉藻は「ひどいですわたしはこんなに貴方を思いやっているのにぐすんぐすん」というたわ言と、ド下手くそな目端を拭うポーズを捻り出した。巧は眉をひん曲げる。
「ヘタな芝居はやめろ。胸糞悪くなる」
「もお、つくづく冗談を冗談と受け取れない人ですねえ。それが愛嬌でもありますけど、誤解を受けやすくなりますよ?」
「冗談は元から嫌いだ」
「あら。それはまた、とんだご無礼を」
けらけらと笑うと、玉藻はきびすを返した。そのまま食堂へ向かうかと思った次の瞬間、くるりと振り返ってこちらを見る。先ほどまでとは違う真面目な顔に、なんとなく気まずくなった。
「んだよ」
すると玉藻は、余計な世話を焼く母親めいた口調でつらつらと流れるように話し始めた。
「いい大人なのでわかっているとは思いますが、いちおう。ちゃんと手洗いを済ませてから来てくださいね。指の間から爪の中までしっかり洗うんですよ。面倒くさがってズボンで水気を払ってはいけませんよ? それと──」
「いや、もう良い。言いたいことはわかった」
「えぇー、本当ですか? また適当に聞き流して誤魔化そうとしてません?」
「──本当に、わかったから。だから、さっさと出てけ」
「うぅん、イマイチ信用できませんが、ま、良いでしょう。息子の他愛のない嘘を受け入れてあげるのも、良き人妻となる為の第一歩と言いますからね。さしずめこれは、来たるべき未来に対する予行演習……といった所でしょうか?」
誰が息子だ。
そう視線で訴えかけると、玉藻はおどけるように肩を竦めて、入り口から姿を消した。今度こそ本当に終わり──と思いきや、もはや見飽きた狐耳がぴょこりと飛び出した。
「──次はなんだっ!」
半ば怒声に近い巧の問い掛けに、玉藻はにやにやと笑いながら答えた。
「うふふ。心配せずとも、この私がちゃーんとふぅふぅして、冷ましておいて差し上げますからねっ」
そう言い残して、大きく高笑いしながら廊下に消えていった玉藻を見届けて、巧は思った。
やっぱ部屋にいた方がマシかもしれない。