「長距離列車というものは、乗り心地が良くないものだな」
「これでも一等車なので随分とマシな方らしいですが……」
列車に揺られて流れゆく景色を眺めながら呟くと、隣に座る副官から苦笑交じりの声が返ってくる。
「そうなのだがな……それに機密保持措置とやらで一等車から出ることも禁じられているとなるとな」
「そうですねぇ、折角の少佐殿との旅ですのに」
「ははは、セレブリャコーフ少尉、参謀本部からの出頭命令なのだから、そんな楽しいものではないぞ」
「うっ……不謹慎でしたね、申し訳ございません」
「別に構わんよ。もうしばらく時間はかかるのだ、今から気を張っていても仕方あるまい。ある程度の余裕も必要だ」
「はいっ」
しゅんとした表情から一転、パァァと花が咲いたような笑顔を見せるヴィーシャ。
そんな笑顔を見せられると同行を許可して良かったと思える。
「(しかし、何故隣に座るんだ……)」
4人座ってもまだ余裕がある対面式のボックス席、先に座ったターニャに続いて流れるように自然と隣に陣取った我が副官。
それとなく対面に座るように促したが、上手くかわし続けられたため、特に害はないし別に拘ることでもないかと諦めた。
まぁそれはまだ良い。
「(何故、そんな期待に満ちた目で私を見るのだ……!)
そう、問題はこちらであった。
乗車した初めの方は、ちらっ、ちらっ、といった感じの視線であったから大して気にしてはいなかったが、今ではじぃぃ……と穴が開くほど見つめられている。
書類を読んでいたのだが、もはや読んでいるフリになっており、内容は一切頭に入ってこない。
そのまま書類を読んでいるフリをしながら、ただひたすらに、ヴィーシャの視線の意図を考えていたのだが、数十分ほど思考したところで答えが出なかったので、それとなく探りをいれることにした。
「……少尉、どうかしたのかね?」
「はっ、いいえ、少佐殿。質問の意図が分かりかねます」
ヴィーシャから憮然とした声色が返ってくる。視線も心なしか冷たいような気がする。
いつも、というのは自意識過剰かもしれないが、どちらかというと好意的な感じで接してくるヴィーシャの予想外の態度にショックを受けた。
ヴィーシャに何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうか、もしかして、同行を申し出たのはヴァイス中尉の冗談に付き合っただけで本当は同行なんてしたくなかったのではないだろうか。
ヴィーシャの態度の原因を作った要因を色々と思い浮かべる。
「ヴィーシャ、私は貴官に対して、何か嫌われるようなことでもしただろうか」
ヴィーシャに少し冷たくされただけでショックを受けている自分に驚き、その動揺を隠せていないまま沸き起こる焦燥感に駆られるがままに問いかける。
「私が少佐殿を嫌うことなんてあり得ません!」
ヴィーシャから即座に否定の言葉が力強く返ってくる。
「ただ、その、少佐殿は、お忘れになられていることがあるのではないかと……」
「忘れていること……?」
嫌われていないことにほっとしたターニャは、ヴィーシャの言葉を反芻して記憶を思い起こす。
「少尉、私は自分がいったい何を忘れているのか思い出せそうにない。すまないが教えてはくれないか」
「はい。……出発前にヴァイス中尉とお話しされていた内容をお覚えでしょうか」
ヴァイス中尉との会話だと。
「休養の許可と外出の容認だったと思うが……」
「いえ、そちらではなく、その、ジョークの方です」
「ジョークの方……『売春宿でモテない』、『一人旅に同行』、『慰みに期待するな』、『せいぜいが頭をいいこいいこしてやることくらい』……これくらいだったかと思うが」
「その、最後のやつです……」
「最後の……まさか、少尉、貴様……」
本気か?
そんな思いを込めた視線を受けたヴィーシャは、恥ずかしそうに微かに頬を赤く染めてコクリと頷いた。
「あれは冗談のつもりでの発言だったのだが……」
「しょ、小官は冗談だと認識しておりませんっ」
さて、これは困った。年ごろの少女の頭を撫でるなど、事案待ったなしである……あぁ、今は幼女だから問題はないか。
しかし、幼女が少女の頭を撫でるのも、それはそれでいかがなものだろうか。……いや、仲睦まじく微笑ましい光景になるだけか。
ちらりとヴィーシャの様子を伺う。
それは羞恥か高揚か、白い頬を赤らめて祈るような真摯な眼差しを向けてくる。こちらが黙り込んでしまったが故に叱責を受けると思ったのか目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
そんなヴィーシャの様子を見たターニャは、大きく息を吐いた。
「セレブリャコーフ少尉」
「は、はいっ」
怒られると感じたヴィーシャは、目蓋をぎゅっと閉じた。
「高い、そのままでは貴官の要望はかなえられそうにないな」
「へ……、は、はいっ」
一瞬、上官の言葉の意図が分からず停止したが、ゆっくりと言葉を飲み込んで理解に至り、笑顔を浮かべて手が届く位置まで頭を下げた。
しかし、隣り合って座っているため、身体を捻って向き合っている体勢はなかなかに辛い。
「ヴィーシャ、私の膝に頭を置きたまえ」
「そ、そそれは、膝枕をしてくださるということでしょうかっ」
そちらの方が体勢的に楽そうだと思い提案したのだが、異様に興奮した様子のヴィーシャを見てやっぱり撤回しようか少し迷ったものの、撤回したらしたらで面倒そうだと思い、こくりと頷いた。
「し、失礼いたします」
ゆっくりと横に倒れて、ぽふりと膝に頭を置いた。
「…………」
これは想像以上に気恥ずかしいものだな……。
思えば、前世も含め人の頭を撫でるという行為をした記憶がない……初めてが幼女の身で年上の少女相手とは、人生何が起こるか分からんものだ……そんなことを考えながら、おそるおそるヴィーシャの頭に手を置く。
「はぅ……」
小さく吐息を漏らす音がした。
そのままゆっくりと、力を入れ過ぎないように掌を髪に滑らせ、その手触りに感嘆の息が漏れる。指を曲げて手櫛を入れても引っ掛かることなく、するすると抜けていくほどにサラサラとしている。いつまでも撫でていたくなる感触だ。くせ毛気味な自分の髪とはえらい違いである。
それに、ヴィーシャから凄く良い香りが漂ってくる。甘く柔らかな香りだ。この香りは、彼女に支度の手伝いをしてもらっている際にも嗅いだことはあるが、それは短時間であり、ここまで長い時間嗅いだことはなかった。
「(すごく好きなな匂いだ――)」
ふと気が付いて、撫でる手をとめた。果たしてこれは、セクハラに当たらないのだろうか、と。……いや、向こうから望んだことだし、セクハラにはなるまい。
「少佐殿」
声を掛けられて我に返った。気が付けば、横向きに寝ていたはずのヴィーシャの顔がこちらを向いていた。しかし、その表情はどこか不機嫌そうだ。
やはりセクハラに当たるのだろうか、そう思ったターニャは弁明するために口を開こうとしたが。
「少佐殿は、こういったことをよく誰かにされるのでしょうか」
「――は? こういったこと……私が先程まで、貴官にやっていたあれのことか?」
「はい」
ヴィーシャは一体何を聞いているのだろうか。意図がまったく分からないのだが、ヴィーシャの何かを乞い願うかのような表情と真剣な眼差しを見る限り、彼女にとってこの質問は、何か重要な意味を持つのであろう。
「少尉、誰かの頭を撫でたのは、これが初めてだよ」
嘘偽りなく正直に答えたつもりであったが、どうやら我が副官は不満だったらしい。
「少佐殿は嘘を付いておられます。初めてというわりには、手付きが慣れていらっしゃいました」
拗ねたように頬を膨らまして抗議の意を示す我が副官。
「ほぅ、上官を嘘つき呼ばわりするとは、良い度胸だな。……それにしても、貴官は私のことを信じてくれないのだな。そこそこ長い付き合いではあるし、貴官からの信頼は得られているものだと思っていたのだが、私の勘違いだったようだ」
「少佐殿のことは誰よりも信頼しております! 私が一番、誰よりも、少佐殿のことをお慕いしている自信がありますっ! ですが、それとこれは別のお話です」
ターニャのお腹に顔を埋めてぐりぐりとマーキングするかのように擦り付けてくる。
「くすぐったいからやめろ、犬か貴様は……はぁ、ならば、どうしたら信じてもらえるのかね」
「そうですね、もう少し続けていただけたらきっと信じられます」
即座に返答したところを見ると、これが嘘つき呼ばわりした理由か。
「セレブリャコーフ少尉、途中でやめたから拗ねていたのか」
「ち、違いますよ。私はただ……」
ごにょごにょと言い訳を口にするヴィーシャだが、その態度ではバレバレだ。
「分かった分かった」
「んっ……」
ゆっくりとヴィーシャの髪に手櫛を入れると気持ちよさそうな声が聞こえてくる。
暫し撫でているとふと思い出した。
「ああ、確か撫でるだけではなかったな。――いいこいいこ」
「! はぅぅ……っ」
悶える声がの口から漏れる。その声を聴いた瞬間、背筋がぞくぞくした。
……11歳にしていけない趣味に目覚めてしまいそうだ。
「……ヴィーシャは本当にいい子だな。いつも美味い珈琲を淹れてくれるし、言葉にせずとも私の言わんとすることを察して行動してくれたり、仕事中さり気なくフォローもしてくれる。それに身支度をいつも手伝ってくれているな。感謝している。ヴィーシャ、君が私の副官で良かったよ」
「あぅぅ……しょうさどのぉ」
顔がこちらを向いていないため表情は窺えないが、耳が真っ赤に染まっているのを見れば、顔はそれ以上に赤く染まっていることが容易に分かる。
「だが、ヴィーシャがいい子過ぎて困ってしまうこともあるな。このままでは、ヴィーシャが淹れてくれる珈琲でないと満足できない舌になってしまう。それと、ヴィーシャがいないと一人で身支度も整えられない駄目軍人になってしまうな。さて、そうなってしまったら、どう責任を取ってもらおうか。ん?」
もっとヴィーシャが照れる姿を見たくなってしまい、つい口が滑った結果、何故か責任論を盾に婚約を迫る人みたくなってしまった。
しかし、ターニャの最後の言葉を聞き、すっかり蕩けきっていたヴィーシャはガバッと起き上がり、詰め寄ってきた。
「せ、責任取りますっ。取らせてください! 小官は、生涯ずっとデグレチャフ少佐殿の副官です! ずっとお傍におります! 珈琲も毎日淹れます、身支度のお手伝いも毎朝毎晩いたします、だから――」
捲し立てるヴィーシャの唇に指を当てて言葉を遮る。
「ヴィーシャ、ありがとう。そう言ってもらえて素直にうれしいよ。……しかし、貴官はあれだな、よく重い女だと言われないか」
「言われたことなんてありませんが、私、重いでしょうか……」
「ん、んん……そう思う者もいるかもしれんな。まぁあまり気にするな。……さて、きりもいいし、ご褒美タイムは終了だ」
「えぇ、そんなぁ……」
この世の終わりだと言わんばかりに落ち込むヴィーシャ。
「なんだ、そんなに良かったのか? ふむ、それならば、今後うちの隊の連中にも試して『駄目です!』……耳元で大声を上げるでない」
「申し訳ございません……、ですが、あの、少佐殿、あまりこういったことを他の者にするのは……」
しどろもどろに言葉を紡ぐヴィーシャ。今の発言、『他の者』の部分は『私以外』と解釈できてしまうぞ、暗にそう言っているのだろうか。
まあ、まずは副官の不安を取り除いてやるか。
「安心したまえ、冗談だ」
「じょ、冗談ですか……」
「そもそも、これを褒美にして奮起するのは、うちの隊に限らずとも貴官くらいなものだ」
「そんなことはないと思いますが……」
「仮にいたとしても、貴官以外にはやる予定はないさ」
「――はい!」
膝枕なんて誰かにするなんて考えたことなかったし、しようとも思わなかったが、つい絆されてしまった。
ヴィーシャにはどうしても甘くなってしまうのは何故なのだろうか。
そう考えながら、固まった身体をほぐそうと全身を延ばした瞬間、鋭い痛みが太ももに走った。
「……? 少佐殿、どうかなされましたか?」
ターニャの様子がおかしいことに気が付いたヴィーシャが声を掛けた。
「い、いや、太ももを少し攣ってしまったみたいでな……」
「大丈夫ですか!?」
「この体勢のまましばらく待てば痛みも治まるだろう」
「私があのようなことをお願いしたせいで……」
この場合、膝枕よりも身体を伸ばしたことが足を攣った原因である可能性の方が高いのだが、ヴィーシャは責任を感じているようだ。
「はっ、少佐殿! 攣られた部分を伸ばすと良いと聞いたことがあります」
「しかし、伸ばそうにもこの体勢では少し厳しいな……」
額に脂汗を浮かべながらターニャは応答する。
「少佐殿、失礼します!」
するとヴィーシャがひょいとターニャは抱えて座席に横たわらせた。
「攣られたのはどちらのおみ足でしょうか?」
「左の太ももだ……」
ヴィーシャはターニャの太ももに手をやるとゆっくりと伸ばし始める。初めは痛みを覚えたが、徐々に痛みは少なくなり、数分後にはやや張りが残る程度となり、痛みはすっかり消えていた。
「すまない少尉、だいぶ楽になった」
「いえ、元は小官の責任ですので……ああっ、まだ起き上がらないでください。また再発するかもしれません。なので、はい、このままお休みになられてください」
起き上がろうとしたターニャだったが、強制的に横にされ、何故かヴィーシャの太ももに頭を乗せた状態になっていた。
「……これはなんだ」
「膝枕です! 先ほどは小官がしていただいたので、そのお返しです」
これが意趣返しであるならば、無理やりにでも起き上がったのだが、完全な善意なのであろう。それは嬉しそうな満面の笑みを浮かべたヴィーシャを見れば一目瞭然だ。
外見上は幼女が少女に膝枕をされているという微笑ましい光景なのだが、精神は男のつもりのターニャは羞恥心でいっぱいである。赤くなった顔を両腕で隠した。
「照れていらっしゃるのですか? ……お可愛いです」
「少尉! 上官に向かってかわいいとはなんだ!」
「少佐殿はお可愛いですよ?」
「ぐぅ……! もういい! 少尉、後で覚えていろ」
今のヴィーシャには何を言ったところで『可愛い』と返されるだけだと悟ったターニャは、これ以上の抗議を諦めた。
穏やかな気候と電車の揺れにより、徐々に意識が遠のいていき、心地よいまどろみの中へと誘われ始める。
「……ヴィーシャ、貴官から、何か良い匂いがするな」
「え、そうでしょうか? 自分ではわかりませんが……」
「ああ、先ほど、貴官の頭を撫でている時も思ったが、貴官の匂いは、嗅いでて落ち着く……好きな匂いだ」
「ええと、ありがとうございます……」
「…………」
「少佐殿? ……お休みなさい」
◆
私の膝を枕にして、小さな寝息を立てて少佐殿が眠られている。
普段は大人びた表情を見せることの多い少佐殿だけど、眠られている時は年相応の表情となられる。
……それにしても、私ってそんなに匂うかなあ。くんくん……やっぱり自分では分からない。けれど、少佐殿も不快に思われた訳ではなく、それどころか、好きだと、落ち着くとおっしゃっておられたのだし……そう言われて嬉しい自分がいた。
そういえばと、少佐殿に撫でていただいた感触を思い出す。優しく、労わるような手つき。
……こんな感じかな。少佐殿にしていただいたように、ゆっくりと頭に手を滑らせていく。少々くせっ毛気味な少佐殿の髪はもふもふとしており、こんな言い方は失礼かもしれないけど、愛らしいお顔も相まってどこか小動物を連想させる。飼いたいなあ……はっ、私ったら一体何を考えて……。いけない思考を振り払う。
「……ぃーしゃ」
「……少佐殿?」
今、私のことをお呼びになられたようだけど、少佐殿は眠られたまま。もしかして、寝言なのかな。夢の中でも私と一緒にいるのだろうか。……だとしたら嬉しいな。あ、私、今きっと凄いにやけてる。うぅ、ただ寝言で名前を呟かされただけなのに、それだけでこんなにも満たされてしまう……少佐殿は女たらしです。
それに、先ほども私のことを何度も『ヴィーシャ』とお呼びになられて――
『ヴィーシャはいい子だな』『感謝している』『君が私の副官で良かった』『ヴィーシャでないと満足できない』『ヴィーシャがいないと駄目になる』
少佐殿から掛けていただいた言葉が脳内で再生される。
『小官は、生涯ずっとデグレチャフ少佐殿の副官です!』
「うぅぅ……私、すっごい恥ずかしいことを……毎日珈琲淹れるとか、毎朝毎晩身支度のお手伝いをするとか……なんであんなこと言ってしまったのだろう。少佐殿の仰る通り、私って重い女なのかなあ」
少佐殿がそう指摘されたということは、少なくとも少佐殿はそう感じられたということで……い、いや、大丈夫よヴィーシャ。そもそも私と少佐殿はそのような関係ではないのだし……。
確かに少佐殿のことはお慕いしているけれど、それはあくまで上官としてのこと。敬愛する上官だからこそ、公私ともにずっとお傍にいたいし、お世話もさせていただきたい、普段からこうやってスキンシップもとりたい、私のことをもっと見ていて欲しい、特別扱いしてほしい、そう思うのは当たり前のこと。
当たり前のことなのだ。そう自分を納得させていると、少佐殿の眉間に皺ができていることに気付いた。
夢の中でも何かお悩みなのかな。夢の中でくらい、安らかにお過ごしいただきたいのだけど。
少佐殿の眉間を指先でくりくりといじる。眉間の皺をほぐしたところで、気休めにもならないとは分かっているけれど……。
続けていると少佐殿のお顔が心なしか安らいだ気がする。良かった。
改めて、少佐殿のお顔を見つめ直す。
「あ、睫毛長い……それにお肌もすべすべしているし、唇もぷるぷるしてる……」
睫毛、ほっぺた、唇を指でそっとなぞる。
気が付けば、少佐殿のお顔がすぐ目の前にあり、お互いの息が肌で感じられるほどの距離になっていた。あ、これは、だめだ。ほんのわずか、少し頭を動かすだけで、少佐殿と私の唇は重なる。
「しょうさ、どの……」
10センチ……5センチ……3センチ……1センチ……重なる寸前、扉がノックされ、私の行為は中断された。
「は、はいっ! どうぞ!」
い、今、私は一体何を……、ノックされなければ、確実に……いや確かにスキンシップはしたいと考えていたけれど、これは色々と飛躍し過ぎだと思う。もっと段階を踏んで徐々になら、おかしくはないと思う。……って今はそれどころではなかった。反射的にどうぞと言ってしまったけど、少佐殿はまだ私の膝の上で夢の中だ。お、起こしたほうがいいのかな。
「失礼する……む?」
迷ってるうちに入室されてしまった。あの方は、確か少佐殿の同期のウーガ少佐だったはず。
「貴官は確か……ああ、いや、座ったままで構わない」
立ち上がり敬礼しようとしたが、膝上の少佐殿を一目見たウーガ少佐に制された。
「はっ、お気遣い感謝いたします。第二〇三遊撃航空魔導大隊所属、ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ少尉であります。デグレチャフ少佐殿の副官を務めております」
「マクシミリアン・ヨハン・フォン・ウーガ少佐だ。所属は兵站司令部になる。座ってもよろしいだろうか?」
「はい」
机を挟んで向こう側の席に座ったウーガ少佐の視線は、私の膝の上に注がれている。
「デグレチャフ少佐殿、お起こしいたしますか?」
「そうだな……いや、まだ起こさなくても大丈夫だ。しかし、これほどまで人前で無防備な姿を晒すデグレチャフ少佐を見るのは初めてだな」
「そうなのですか」
入室された際に少佐殿を見て少し驚かれたいたとは思ったけど、そういうことだったのかな。
「ああ。デグレチャフ少佐とは軍大学の同期でな、常に規律を重んじ向上心にも溢れ、幼い身であるにも関わず、そこらの大人よりも大人びて見えたよ」
「……何となくわかります」
同期のウーガ少佐からも評価されているとは、流石は少佐殿。
「だが優秀であるが故か、人に頼ることはあまりなかったように思える」
そこで言葉を区切ったウーガ少佐は、私と眠る少佐殿を交互に見て小さく笑みを浮かべる。
「貴官はデグレチャフ少佐に信頼されているのだな」
「そうでしょうか……。私はもちろん信頼しておりますが、少佐殿のお口からそのようなことは聞いたことがありません」
「そうなのか? デグレチャフ少佐の態度を見れば十分に信頼されていると思うのだがな……何にせよ、デグレチャフ少佐は良き部下を得られたようだ」
「ありがとうございます」
今日はよく褒められる日だなあ。そんなことを思っていると、少佐殿が身動ぎをされて、
「ん……ヴィーシャ、一体誰と話している……」
むくりと起き上がる少佐殿。寝起きで頭が回られていないのか、ぼんやりとしたご様子。まだウーガ少佐に気が付いておられない。
「おはようございます少佐殿、あの――」
「おはようヴィーシャ。私は一体どのくらい眠っていたのだ」
「1時間も経っておりませんよ。あの――」
「なに、1時間もか。……長時間列車に揺られて、疲れていたのかもしれんな。長い時間すまない。重かったし退屈であっただろう」
「いいえっ、全然軽かったです! それに、少佐殿の可愛らしい寝顔を眺めていたので、退屈ではありませんでした。それよりも――」
「かわっ……まあいい、少尉、寝癖はついていないだろうか。もしついていたら、髪を梳いて欲しいのだが」
「ごほん、久しぶりだな、デグレチャフ少佐」
「――う、ウーガ少佐殿!?」
ウーガ少佐が咳払いしたことでウーガ少佐がいることに気が付いた少佐殿は、目を見開き驚きを隠せなかった。
「少し前にお邪魔させてもらっていた。ああ、そうだ、これを。珈琲とチョコレートだ」
気まずそうな表情のウーガ少佐が少佐殿にお渡しされた。珈琲は後で少佐殿にお淹れして、チョコレートはご相伴に預からせていただこう。
「どうもありがとうございます。……セレブリャコーフ少尉! 何故起こさなかった!」
「も、申し訳ございません……」
「そうセレブリャコーフ少尉を責めるな。私が起こさなくても良いと言ったのだ」
お怒りになられた少佐殿であったが、ウーガ少佐に宥められて落ち着きを取り戻された。
「はぁ……ウーガ少佐殿、お久しぶりでございます。みっともない姿を晒してしまいお恥ずかしい限りであります」
「気にするな。私としては珍しいものも見れたと思っている」
「珍しいもの、でありますか」
「ああ。なぁセレブリャコーフ少尉」
うぅ……こちらに振らないでください。先ほどから少佐殿の鋭い眼光がこちらを射抜いてくるんです。
「少尉、隊に戻ったら楽しい楽しい尋問訓練をやろう。無論、私と貴官の二人きりでだ。嬉しかろう?」
「はい……嬉しいです……」
「……やめてやれデグレチャフ少佐。珍しいものというのは、貴官の無防備な姿のことだ。そして、そんな姿を晒け出せるほど、セレブリャコーフ少尉のことを信頼しているのだなということを話していただけだ」
私の怯えっぷりを見て哀れに思ったのか、ウーガ少佐が我が大隊長殿の暴挙を止めてくださった。
「……確かに、信頼している者は誰かと言われれば、真っ先に思い浮かぶくらいには信頼しております。……ウーガ少佐殿に免じて尋問訓練はやめてやる」
「ありがとうございます!」
少佐殿に信頼していると言われた嬉しさと、尋問訓練をやらなくてすむ嬉しさから思わず声が弾む。
「デグレチャフ少佐、良い副官に恵まれたな。私もそんな副官が欲しいものだ」
「……念のため申し上げておきますが、これは小官の副官でありますので」
ぐい、と少佐殿に引き寄せられ、所有物宣言される。物扱いされたことに腹を立てるべきなのかもしれないけど、私は少佐殿に必要とされている喜びをただ噛み締めた。
「ははっ、貴官の大事な副官を取り上げようなんて思わないさ。それにしても、そうか……(デグレチャフ少佐は愛国心に満ちた私利私欲のない人物だというのが多くの者の印象だ。実際、私もそんな印象をいだいていた。しかし、あんな独占欲を見せることもあるのだな……。軍人ならばそういった感情を見せないほうが良いのかもしれないが、デグレチャフ少佐はまだ11歳、ならば今みたいに感情をむき出しにするほうが健全だな。)さて、そろそろ私がきた本題に入るか」
真剣な顔つきになったウーガ少佐の視線がこちらを向く。席を外したほうが良いと思い立ち上がるとするけど。
「ウーガ少佐殿。私の副官を同席させても問題ないでしょうか。先にもお伝えした通り、小官が最も信頼する部下であります」
「そうだな、ただの一兵卒であれば外してもらうべきだが、あの白銀が最も信頼する部下なら問題ないだろう。同席を許可する」
「あ、ありがとうございます」
こうして、少佐殿とウーガ少佐のお話は始まった。
◇
話も終わり、ウーガ少佐が去った後、少佐殿は黙り込んでしまわれた。私も傍らで聞いており、全部ではないけどある程度は理解してつもりだ。
少佐殿の思考の邪魔をしてはいけないと、黙ってそっと席を外して廊下に出た。そこにちょうど通りかかった給仕に声を掛けて、珈琲を淹れられる場所に案内してもらう。幸い、この車両内に小さなスペースがあり、珈琲を淹れるための器具も一式揃っていた。給仕の仕事を奪ってしまい申し訳なかったけれど、少佐殿にお出しする珈琲は私が淹れて差し上げたかった。
珈琲を持ち、席に戻ると少佐殿は窓の外を眺めておられた。
「少佐殿、珈琲、お飲みになられますか?」
「少尉。ありがとう、いただくよ」
珈琲を差し出すと小さく微笑んで受け取られた。
「先ほどのお二人のお話、全てを理解できたわけでありませんが、それでも、次の作戦が厳しいことくらいは分かります」
少佐殿の隣に座る。珈琲の芳醇な香りを楽しんでいた少佐殿でしたが、一度カップを机の上に戻されて私と視線を合わせられた。
「……あまり部下の前で弱気な態度は見せたくはないのだがな。現状、厳しいというほかない。……半包囲下での遅滞防御なんぞ、死ねといっているようなものだ」
苦々しい表情を浮かべる少佐殿を見ると、次回の任務が如何に困難を極めるか想像に難くない……半数は失うともおっしゃっておられましたし……。
「少尉、そう浮かない顔をするな。最悪の事態を避けるため常に最善の道を模索するのが指揮官たる者の務めだ。それに、どう転んでも貴官が二階級特進することはあるまい」
「? あの、それはどういう――」
「貴官のバディは誰かね?」
「――はいっ、ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐殿です!」
「そういうことだ。まあ貴官くらいは守ってやるから安心したまえ」
不敵な笑みを浮かべる我らが大隊長殿。そのお言葉はすごい嬉しいし、心強くもあるけど、私は――
「はい、いいえ少佐殿。小官は、少佐殿にただ守られる存在ではありません。小官も少佐殿と肩を並べて戦えます」
「……ほぅ、吐いた唾は飲めぬぞ少尉」
「はい! 承知しております!」
「成長したな……では、私の背中は任せるぞ」
「はい、お任せください!」
少佐殿と視線を交わして笑い合う。
「さて、冷めてしまう前に珈琲をいただくとしよう。貴官が淹れたのであろう?」
「はい。真心を込めて淹れさせていただきました」
「よくもまあ素面でそのようなことを口にできるものだ。……それにしても、やはり貴官の淹れる珈琲は美味い、実に私好みだ」
珈琲を口にして満足そうに微笑む少佐殿。
「これから先、何度でも淹れて差し上げます」
「そうだな。そのためにも無事に任務を完遂せねばな……」
「大丈夫ですよ。少佐殿とならばきっと無事に完遂できると、信じております」
少佐殿はどこか呆れたようにため息を吐かれた。
「やれやれ、根拠のない自信に、純真無垢な信頼とは……重いな」
「少佐殿、ご存じでいらっしゃらないのですか。どうやら小官は、重い女らしいです」
「ふふ、そうであったな」
「はい。……あ、少佐殿、チョコレートですがご相伴におあずかりさせていただいてもよろしいでしょうか」
「……隊の連中、特にヴァイス中尉には内緒だぞ」
「はっ、もちろんであります!」
私は久しぶりのチョコレートの胸を躍らせたのだった。
少佐殿と一緒に、ウーガ少佐からの差し入れであると珈琲とチョコレートを楽しんでいる。笑顔でチョコレートをお口に運ぶ少佐殿を見ると、ふと視線が唇へ行ってしまった。
……そういえば、危うく少佐殿に……。
「……ん? 少尉、私の唇に何かついているのだろうか」。
「あ、いいえ、なんでもありません……」
唇を見ていたことを少佐殿に気付かれて、慌てて視線を逸らした。うぅ……変に思われていないかな。幸い少佐殿はそれ以上は追及してこられず、笑みを浮かべながらチョコレートの味に舌鼓をお打ちになられていた。
「……あ、少佐殿、お口の端にチョコレートが……」
ずっと見つめていたからか、少佐殿の唇の端にチョコレートが付いたことにすぐ気付いた。
「む、……取れたか?」
「いえ、そこではなく……少し失礼いたします」
少佐殿は自分で拭こうとするものの上手く拭けず、私はハンカチを取り出して少佐殿との距離を詰めた。
人に口元を拭いてもらうことが恥ずかしいのか、少佐殿は少しお顔を赤くされながら目を閉じられた。お口を拭くだけなので、目を閉じる必要はないのだけれど、お恥ずかしいからなのかな。そして拭きやすいようにとのご配慮なのか、唇を軽く突き出してやや上を向かれた。
「あ……」
少佐殿、そのお顔は反則ですよ……。
ハンカチを引っ込めた私は、ゆっくりと顔を近づけて、少佐殿の唇に私の唇を重ね合わせた。
軽く触れるだけのキス。
私のファーストキスは、甘いチョコの味だった。
もっと欲しくなり、少佐殿の肩を抱いて再び唇を合わせる。くっつけては離れ、くっつけては離れる、触れるだけのキスを何度も何度も繰り返す。
「……少尉、一体何を……」
「少佐殿がいけないのですよ……」
あ、まだチョコレートが残ったままだ。
「少尉、私の――んっ」
少佐殿の唇の端に付いていたチョコレートを舐めとって、軽く唇を合わせる。
「えへへ……」
「――少尉! 少し酒の匂いがするのだが、まさか飲んでいないだろうな?」
「お酒? 珈琲とチョコレートしか口にしていないです」
一体何をおっしゃているのだろうか。それよりも、もっと、
「ちょ、ま、……っ!?」
少佐殿が抵抗するから、勢いがついてしまって、その結果、唇を深く長く合わせることになった。少佐殿の唇、甘くてやわらかくて、とっても美味しいなあ……。
「……ぷはぁっ、はぁ、はぁ、くそ、やっぱりだ、ウーガ少佐め、寄越したチョコの中にリキュール入りの物が混ざっているな。一応私もヴィーシャも未成年だぞっ。それに、ヴィーシャがここまで酒に弱いとは……」
「しょうさどの、この、なかにえきたいがはいったちょこもおいしいですよぉ」
「ヴィーシャ、それを食べる、んぷっ」
しょうさどのにもおいしいちょこをたべてほしいから、ちょこをくちにくわえたまましょうさどののおくちにはこんだ。
わたしとしょうさどののくちのなかでとけあいからまりあって、ぐちゅぐちゅになっていく。
「ん、んく……。い、いかん、くそ幼女だからなのか、アルコールへの耐性がなさすぎる、前世ならまったく問題ないのに……!」
「うへへ……なんだかしあわせです……ねぇ、しょうさどの……もっと……」
「おい、おちつ……っ!」
えへへ……。
★
「……はっ」
……? あれ、私、どうしたのだろう。
「起きたか少尉」
隣を見ると、何やらお疲れ気味の少佐殿がおられる。
「ええと、おはようございます」
「ああ、おはよう」
少佐殿の後ろの窓ガラスを見ると、陽は傾きつつあったけれど、日照時間の長い5月ということもあり、日没までは時間があった。時計を見ると、どうやら2時間くらい寝てしまったようだ。
だけど、いつ寝たのだろう。確か、珈琲と一緒にチョコレートを食べて……ん? 私、少佐殿にキスを……っ!
「しょ、少佐殿! あの、私、少佐殿に何かしましたでしょうか……」
どきどきしながら少佐殿の答えを待つ。
「……いや、特に何もなかったが……どうかしたのかね?」
……あれ? じゃあ、少佐殿とのキスは……もしかして、夢、なのかな。思い出すように唇に指をやる。んん……夢にしてはリアルだった気がするけど……少佐殿が何もないというのなら、私の夢だったのかな。
「いえ、私の勘違いでした」
はぁ……夢で良かったと思う自分もいれば、残念だなぁと思う自分もいて、私は少佐殿とキスがしたいのだろうか。
「ならば結構。……少尉はアルコール入りのチョコレートを食べて、酔って寝てしまっていたのだ。おそらく、それで記憶が混乱しているのだろう」
そっか、そういうことだったのかぁ。
「セレブリャコーフ少尉、貴官は酒に弱いようだから、もし成人して酒を飲むときは、必ず私が傍にいる時にしろ。これは上官命令だ。わかったな」
「は、はぁ……了解いたしました」
お酒が残っていたのか、私はすぐに眠くなり、そのまま意識を手放した。
◆
「……眠ったか」
起きた後、どうしたものかと思ったが、セレブリャコーフ少尉は酒のせいで記憶が曖昧だったため、うまいこと誤魔化すことができた。
いやしかし、正直に話しても良かったのではないだろうか。……いや、この判断で間違っていないはずだ。正直に言ってしまえば、今後気まずくなってしまうかもしれないからな。
「……だけど、私はがっつり覚えているんだよ……っ」
最後の方は完全にこちらから求めていたし、本当に危なかった。あまりにも気持ち良く、その快楽に溺れてしまいたくなったが、誰かに見られたらまずいからな。
……はあ、すごかった。
「……今度、休暇の日にでも私の部屋で一緒にチョコレートを食うか。そうだな、副官は甘いもの好きだし、頑張っている副官に褒美としてチョコレートを分けるのは不思議なことではない。もしかしたら、用意したチョコの中に、偶然アルコールを含んだものがあるかもしれないが、偶然だから仕方ないな。そう、仕方ないのだ」
……帝都まであと少しか……。