彼が始まりの提督と呼ばれるようになったのは、この世で初めて顕現した艦娘が彼を『提督』と呼んだからであった。
日本が未曽有の好景気に入り始めていた頃、彼が選んだのは自衛隊員であり、その志望理由もただで体を鍛えられて、お金が稼げるからという単純なもので、あくせく働いて金を稼ぐよりも、自分のために時間を使うことの方が大切だった。
そんな彼がにわかに忙しくなったのは、深海棲艦の出現と、それに伴う米国海軍の敗退により、海上自衛隊による哨戒が頻繁に行われるようになったからで、基地勤務が希望だった当人は詐欺だと大いに愚痴ったものだった。
199X年7月8日。深海棲艦出現より5か月経ち、米国の太平洋艦隊が散々に打ち負かされた後。
日本近海に出現した深海棲艦イ級の猛攻を前に、イージス艦こんごうでは誰もが不甲斐なさに顔を歪めていた。最新鋭の装備がまるで役に立たず、一方的に蹂躙されるだけで、護衛対象のタンカーもすでに撃沈されていた。
「こいつは駄目かもしれないな」
呑気に構えていた彼の姿を、後輩で元帥となった高杉は明治時代の薩摩の将帥のようだったと未だに口にする。
そんなおっとりとした彼が、さすがに甲板に直撃を食らい、まずいと思い始めた時だ。彼女たちが現れたのは。
まず目を引いたのは、弓を構え、弓道着姿の女性。
彼女は、心配そうに甲板の方をちらと確認すると、続けて深海棲艦に対して矢を放った。
高速で突き進む矢が途中で昔のレシプロ機に姿を変え、瞬く間に深海棲艦を攻撃する。
他にも水上をまるでスケートのように滑りながら走る少女たちが砲撃を繰り返すと、近代兵器がまるで効かなかった深海棲艦があっけなく沈んでいった。
九死に一生を得て皆が沸き立つ中、不思議そうに彼は彼女を見つめた。
「いや、お陰で助かった。すごい力だねえ。ところで君たちは何者なんだい?」
それが、今や始まりの提督と呼ばれる紀藤修一が、初めて艦娘にかけた言葉であり、
「お怪我はありませんでしたか、提督」
そう答えた女性こそ、偉大なる七隻として名を遺す軽空母鳳翔だった。
⚓
暗い暗い海の底。
そもそも自分は解体された身。幸せな戦後を送った筈。
けれど、海に揺蕩うこの思いはなんなのだろう。
もう100年もすれば、この海と一緒になることができるのかしら。
そんなことを考えていたこの身に、変化が起きたのはもうずっと前のことです。
気づけば人の形をとっていました。
気づけば深海棲艦から人を守ろうと考えていました。
深海棲艦イ級の攻撃を食らい、煙を上げるイージス艦の甲板には多くの人が集まり、絶望に身を震わせていました。
弓を取り、艦載機を飛ばし。
共に顕現した子たちと共に、深海棲艦を追い払いました。
湧き上がる歓声の中、不思議と彼を一番に見つけたのです。
突然現れた私たちに対して驚く風でもなく。
呑気に、だが興味津々といった目で私たちを見た彼。
「いや、お陰で助かった。すごい力だねえ。ところで君たちは何者なんだい?」
「お怪我はありませんでしたか、提督」
誰かと問う前に助けてくれたことへの礼を述べた彼。
その彼に最初に話しかけられたことを。
私、鳳翔は今でも大切な思い出としています。
面倒くさがりで、酷い時には平気で食事を抜くということをする提督が、手紙を書いているのを見つけた時にまず抱いたのは驚きでした。家族だろうか。友人だろうか。もしかして恋人だろうか。己の胸の中にあるもやもやをよそに、これが青葉さんに見つかれば、艦隊の多くの子が動揺するでしょうと、秘書艦としての仕事もそっちのけでお茶を淹れながらそれとなく話を振ると、提督は恥ずかしそうに頭を掻きました。
「私が養い親になっている子がいてね。私の数少ない同級生だった父親と死に別れてから施設に入れられて、母親とはそれっきり音信不通。施設を出てからうちに住まわせているんだが、電話をしてもなかなか出ないものだから」
「それはその子も喜びますね」
「いや、どうかな。あいつの場合面倒くさがって読んでないんじゃないかな。元々私が養い親になるのだって拒否していたくらいだからね」
「『こちらは無事。そちらはどうか。便りを寄こせ』。何です、これ。手紙にもなってないじゃありませんか。軍の定時報告と変わりませんよ!」
「相手がそれ以上読む気がないんだから、仕方ない。長く書こうとすると説教臭くなって、あいつにまたおっさん臭いと言われる」
「それにしてももう少し何か書いてあげたらどうですか」
「そうだな。一生分働いたから、今度帰ったらひたすら寝ると書いておこう」
懐かしそうに、笑いながら手紙を書く提督。そんな顔をさせる相手とはどんな子なんだろう。私
があの子に興味を抱いたのはその時が最初でした。
あの子のことを思い出したのは鉄底海峡の戦いに向かう二月前のこと。
深夜執務室に呼び出された私は、唐突に男性の写真を見せられました。
「それが、私がこの間言った養い親になっている子なんだよ」
「えっ!?これがですか」
私が驚いたのも無理はないと思います。話から想像していたのと違い、若そうに見える提督と比べ
ると、どう見ても写真の男性の方が年上に見えました。
「それで私より15も年下だからね。並んで歩くと私が弟に見られる時もある」
「まあ。それはそうかもしれませんね。それで、この子がどうしましたか?」
思わず微笑んでしまった私に提督はなぜかためらうような素振りを見せました。
「ええと。私はこの子を養子に迎えようかと思っているんだが、残念なことにこの国では独身の男
にそれが叶うことはなくてね」
「そうですか・・。それは残念ですね・・」
せっかく提督がその子のためを思っていても、制度というしがらみがあっては仕方ないこと。
心底同情し、元気を出してくださいと私が伝えると、提督は違う、そうじゃないと首を振りました。
「私がこんなことを言うと職権乱用ではと色々影響がありそうだし、かと言って一個人の自由を
様々なしがらみによって潰されるのも癪に障るし、言って後悔する方が言わなくて後悔するよりも
ずっと建設的だと思っているんだ」
ぶつぶつと熱病に侵されたかのようにつぶやく提督は、いつもの冷静さやのんびりとした雰囲気を
どこかに置き忘れてきたようでした。
今思えば何と呑気なことだったのでしょう。私はそのとき提督が何に言い淀んでいるか全く理解し
ていなかったのですから。
「はあ」
気のない返事をするつもりはありませんでしたが、提督の話の真意を掴み損ね、首を傾げる私に
提督はふうとため息をついて言いました。
「その、君にその子の母親になってもらえないだろうか」
「え?それはどういう・・・」
「結婚して欲しいんだ、私と。この戦いが終わったら」
何を言われたのか理解できませんでした。
結婚?人と艦娘が?
提督は確かに私たち艦娘を人同様に見てくださり、そして人間社会に溶け込ませようと、様々な
提言を行い、実際にそれは軌道に乗ってもいます。でも、顕現から一年近く経っているというの
に、未だに私たちを化け物扱いする人は減りません。
それは仕方のない事。いかに艦娘の方が人間に対し、距離を詰めようと得たいの知れない物に対する恐怖は拭えないのでしょう。私たちがいくら提督を慕おうとそれが報われることは無い。そう考えて、諦めていました。私たちといることによって、提督自身に何かご迷惑をおかけするのではないか。私の胸の中はそのことでいっぱいでした。
ですが・・・・・・・。
ですが、提督は、あの人はそんなことは分かっていると、私に微笑んでくれました。
「私と君が一緒になれば、艦娘と人との間にある壁を取り除けると思うんだ。それとも、私のようなおじさんではダメかい?」
ずるい。あの人は本当にずるい。そんなことを言われて、ダメと言える艦娘がこの鎮守府にいるでしょうか。どれだけの艦娘が貴方の事を慕っているというのか。初めて会ったあの時から一年余り。温めてきた思いは提督の言葉に揺れ動き、本当によいのかと私を不安にさせます。
私でいいのでしょうか。戦艦や空母の子達にもいい子はたくさんいます。それに艦娘でなくても提督ならば引く手あまたではありませんか。うず高く積まれたファンレターに、縁談の申し込み。その度ごとに私にどうしようかと相談してきたではないですか。
私でなくても。
「いや」
提督はじっと私を見ました。
「鳳翔。私は、君と結婚したいんだ」
照れ屋の提督が精いっぱい勇気を出して言っていることが分かり、私は喜びで体がどうにかなってしまうかと思いました。心の中が溢れんばかりになって、何も言えなくなってしまった私を見て、困っていると思ったのでしょう。
「その、返事は明日でも構わないが・・・」
そう言った彼は、それでもちらちらとこちらを伺がっていました。
そのなんと愛おしいことか。
人ならざるこの身がこのような感情を抱いてよいのか。
がっかりさせはしないだろうか。
頭をもたげる多くの不安も、目の前の提督の温かさに比べたらどうということはありません。
「いいえ。この場でお返事いたします。喜んでお受けいたします。不束者ですが、どうか末永くよろしくお願いいたします」
泣くのを堪えて笑顔で言えたこと。今でも密かな誇りです。
「「「おめでとうございます!!」」」
私の返答に執務室の扉が開かれ、赤城さんや加賀さんなど空母の子達が勢いよくなだれ込んできました。
クラッカーが鳴らされ、中にはくす玉を割る子もいました。どういうことなのでしょう。
「いや~。提督がいつ鳳翔さんに告白するのかってやきもきしちゃって」と飛龍さん。
「鳳翔さん、本当におめでとうございます。私、嬉しいです!!」涙を見せる瑞鳳さん。
「これはお二人の前途を祝福して間宮でたらふく食べるしかないですね!!」
「赤城さん、私達だけでなくみんなに伝えましょう」
興奮しながら艦載機を飛ばす一航戦の二人。
やがて、話が伝わったのか次々と色々な艦娘がやってきて、執務室はお祭り騒ぎとなりました。
「提督、その。私、上手くできるか分かりませんが母親役を頑張ってみますね」
笑顔で言った私に、彼は頭を掻いてみせました。
「ありがとう。本人は俺様を出汁にしやがってと怒るかもしれないがね」
「ふふっ。そこは怒られてください」
平凡ながら楽しい二月でした。
人の身体になって新しい発見はありましたが、愛する人と迎える日々はそれをも上回る新鮮さに満ちていました。
「あの子に連絡したら、おっさんにも遂に春が来たのか。物好きな奴もいたもんだな、と言われたよ」
「提督、まずは言葉遣いから直さなければいけませんね。おっさんなどと・・・」
「そうなんだよ。私よりあいつの方が余程老けて見えるんだ。どの面下げて人をおっさん呼ばわりしてるのかと言いたいね」
「いえ、そういうことではなく・・」
これからのことについてお互いこうしよう、ああしたいと言い合う。
この毎日がずっと続けばいいと願っていました。
けれど。
戦況は芳しくなく、いかに提督が策を立てようとも向こうの物量に抗し切れぬ戦いが日々増えてきていました。
今や人類の最後の砦とも言われる提督は連日、深海棲艦に怯える上層部に呼び出され、何か手はないかと詰問されるばかり。どこの国も大変で、救援は望めない以上、自前の戦力で何とかするしかないと繰り返される毎日。そんなときです。あの人が皆を集めたのは。
「鉄底海峡へと向かい、敵深海棲艦の本拠地を叩く」
守勢に回り、新しく建造される艦娘達を待って反抗作戦に転じる。当初の計画はけれど、それを上回るペースで現れる深海棲艦の物量に今や無きものとなっていました。このままでは早晩押しつぶされるのは必定とあの人が決断した作戦。
もはやそれしかないと覚悟を決めたあの人に、翻意させられる者はだれもいませんでした。
皆分かっていたのです。それ以外にこの窮地を救う道はないと。
最後の晩餐とばかりに、飲み・歌い、そして夜部屋へと戻った私に、彼は真剣な表情で告げました。
自分も行こうと思っている、と。
もちろん反対でした。
「な、何を言っているのです!貴方は自分が立てた作戦を忘れたのですか?多数の艦娘達が陽動をかけ、本体が槍の穂先となって敵の本拠地を一気に突く。どの戦場でも安全な所はありません。そんな所へどうして!」
「深海棲艦が無尽蔵に湧き出す訳を調べに行かないといけないのさ。それに私は、妻を戦場に送って安穏としているなど耐えられない」
「思ってくださっているのなら、私がどれだけ貴方を思っているかも分かってくださっている筈です!!一緒に小料理屋をやると話をしたはずではありませんか。私達艦娘と違って、貴方にとってはどれだけ危険か分からないのですよ!?」
「すまない。こればかりは詫びるしかない。だが、お願いだ。私も行かせてくれ」
「いいえ、いけません。後方で私たちの勝利をお待ちになっていてください。この戦いが終わったら結婚しようという貴方の言葉は嘘だったのですか?」
「嘘なものか!他に頼める者がいればそうしている。これは私でなければおそらく無理なんだ・・。分かってくれ」
「分かりません。分かりません、提督。貴方である必要などないでしょう?」
あの人は悲しそうに首を振りました。
必死になって頼みましたが、あの人の思いはまるで揺るぎませんでした。
「頼む。この通りだ・・・」
土下座までして。まるで死にたがるかのようなあの人の態度に瞬間的に頭の中が沸騰しました。
「目を覚ましてください!!」
乾いた音が響き、頬を抑える提督に、はっとなって己のしたことに今更ながら気付けども。
心の中はぐちゃぐちゃで、ただ泣くしかありませんでした。
どうしてこの人は分かってくれないのか。この人だから分かってくれないのだ。
何をすれば思いとどまってくれるのか。何をしても思いとどまってはくれないだろう。
それが分かっているだけに、泣くしかなかったのです。
「すまない、本当にすまない」
謝りながら私を抱きしめるあの人を、
「バカっ!バカっ!!」
私はポカポカと叩きました。
「バカっ!バカっ!!バカああ!!」
何度も何度も何度も叩きました。
青葉新聞9月15日号
『提督、遂に観念す。鳳翔さんと結婚を発表!!喜びに沸く鎮守府』
前々からお互いに脈ありだと思われながら、一向に仲が進展せず、周囲をやきもきさせていた提督と鳳翔さんが、遂に結婚を前提に付き合うことが大々的に発表された。多くの提督ラブ勢が悲嘆の涙にくれると予想されたが、どの艦娘にも概ね好評で、普段提督に対して辛辣な言葉を浴びせる者達からも、よくやったと称賛されている。人と艦娘との関りを大いに前進させると予想されるこの慶事に、今後多くの人・艦娘が注目していくことだろう。
(艦娘時雨提供の記事切り抜きより抜粋)