1
「大丈夫!? 怪我はない!?」
「あ、ああ……」
半泣きになったセレナはアトリに駆け寄る。しばらく動けず茫然としていたが飛び付いてきたロコンに押しつぶされ、支えきれずに潰れた。
「痛てて、ロコン、爪! 爪しまえ。食い込んで――アダダダ!!」
アトリの訴えもなんのその。力いっぱいしっかり捕まって離さないロコンの背をポンポンとタップして落ち着けるように努めた。
男を拘束した後、赤い男がアトリに手を差し伸べる。ロコンを抱きながら、促された手に従って手を預けると一気に吊り上げられた。
「危ないところを――ありがとうございました」
「君の行動は勇猛だったが、軽率だったな。相手を拘束するまで気を抜いてはいけない」
威圧的な外見に反して、穏やかで理知的な語調。だが、その言葉は激しい叱責よりもアトリの心に突き刺さった。唇を噛み締めて彼の言葉を刻む。
一歩間違えば怪我では済まないところだった。
最悪、殺され、――脳裏に刻まれたひったくり犯の血走った眼を思い出し、今更になって背筋が寒くなる。
「とはいえ、君と君のロコンのおかげであのご婦人の大事なポケモンは奪われずに笑っていられる。その点において私は君の勇気に敬意を抱くよ」
落としてから、上げる直球ど真ん中の賛辞にアトリは赤面した。
気恥ずかしすぎて赤髪の男から視線を逸らして、抱き上げていたロコンの体で顔を隠す。
「もしかして照れてる? ねえねえ、照れてる?」
からかうような口調で横から覗き込んでくるサナに軽いデコピンで対応する。
「……近頃はあのような下賤の輩が増えて、嘆かわしい限りだ。美しくない」
拘束していたひったくり犯を見て呻くように言った。
美しくない。そんな言葉を使った彼はきっと自分自身が是とする美意識があるのであろう。カロス地方では美意識の高い人間が多いと、以前に何かの本で読んだことを思い出す。
「他人から奪い、私腹を肥やす思考は私には一生かけても理解出来ないだろうね」
「ああ、確かにそれは分かります」
「ほう。わかるかね」
「手に入れた持ち物っていうのは、それなりの労力の対価として手に入れたものです。それを横から出てきて掠め取るって考え方は、生理的に受け付けませんよ」
アトリはお金が大好きだ。
給与とは労働の対価であると同時に、自身の仕事に付けられた値段なのである。定期預金によって桁が増えた通帳を眺めるときは快感を通り越して、絶頂すら覚える。
だが、他人からそれを横取りしようとする気にはなれない。
犯罪は割に合わないからである。
人の生涯年収は個人差があれど、大体1億~3億円。それが人間の一生分の値段である。
だが、一度犯罪で捕まれば、経歴に傷がつき、それから先の自身の人生の値段を底値で買い叩かれても文句は言えない。
傷のついたメロンが相場より安く取引されるのと同じものだ。
裏にそんな打算がることを知ってか知らずか、赤い髪の男は目を瞬かせてアトリを見つめた。
「君とは気が合いそうだね」
少しだけ逡巡して、「そうかもしれませんね」と、適当に返すと赤い髪の男は柔らかい笑みを浮かべた。
「出来るなら君とは少し語り合いたいところではあるが、今は時間が惜しい」
赤髪の男は何かを悟った様に、明後日の方を向く。
時間にしてほんの数秒。男が見ていた方角から、制服を着た男たちがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「あ、警察が来ましたよ」
「あとはよろしく!」
トロバが言葉を発するのとほぼ同時に、ロコンをボールに戻したアトリと赤い髪の男は駆けだした。
「あ、ちょっと待って」
続いてセレナもアトリを追うべく走り出すが、彼の背中はどんどん遠ざかっていく。
残された3人は顔を見合わせた後、面倒事を押し付けられたことに気づいて頭を抱えた。
こうしてポケモン図鑑のデータ収集のための旅はまた出発が遅れてしまうのであった。
2
「って、よくよく考えたら、なんであなたも逃げてるんですか?」
「人にはそれぞれ事情というものがあるのだよ」
しばらく男にうろんな視線を向けていたが、一拍置くように息を吐いた。
「それはそうと先程のロコンの動きは素晴らしかった。名のあるトレーナーと見受けられる」
赤い髪の男からの賛辞に、苦笑して肩を竦めた。
「いえ、そんな大層なものじゃありませんよ。ジムバッチも1つも持っていませんし、無名もいいところです」
「ふむ。君ほどの実力を持ちながら、なんと勿体無いことか」
「買いかぶり過ぎですよ。僕にはそんな大層な才能なんて……」
くすり、と。男が口元を崩した。
笑われた。一瞬頭に血が上りかけるが、相手は命の恩人だ。
自重しなくてはならない。一拍置いて、平静を保った。
「何が可笑しいのですか?」
「いや、失敬。実に面白い。そう思ってね」
「バカにしてるのですか?」
「気に障ったのなら謝罪しよう。だが、君の物の見方は何処か老成していて、それでいて若者特有の視野の狭さを併せ持っている。厭世的とも言ってもいい」
「自分の力量を正確に見極めて、自身の分を弁えているだけですよ。それにあなたはさっき僕のことを『厭世的』と言いましたが、人生に嫌気がさしている訳ではありませんよ。むしろ、やるべきことがハッキリしていて充実しています」
「いいや。君は絶望している」
断定的な口調で必死に覆い隠してきた核心に迫られて思わず息を呑んだ。
反論しようと、赤い髪の男を見据えるが、猛々しい眼力に威圧されて目を逸らした。
「君は自分に才能がないと言った。だが、私には君には十分通用するだけの力を感じる。この矛盾はいったい何故だろうね」
「貴方に人を見る目がないのでしょう?」
「それはない。私はこう見えても数多くの人を見てきた。賢しい者。浅ましい者。心の強い者。弱い者。人に温もりを与える者。そして、奪う者……。本当に、嫌になるほど様々な人間を見てきたよ」
眉間を指で押さえこんだ。彼の言葉の端々には根深い疲労感と徒労感。そして、諦念が滲み出ていた。
「その中で身についた特技がある。一目顔を見れば、その人間の性格や才覚、そして何を考えているのかが分かる、というものだ」
「…………そんな勘の様なものがアテになるとは思えませんね」
苛立ちを隠すことなく、嘲るような口調で突っぱねる。如何に恩人といえどもこれ以上自分の心を土足で踏み荒らすことは看過できない。
「何事も『理解しようとする姿勢』が無ければ、受け入れられないものだよ。君に足りない者は説得力よりも納得力だろうね」
赤い髪の男は辛辣で無礼な物言いに怒るでもなく、逆に痛烈な切り返しを見舞う。
こうも的確に痛いところを突かれては閉口するしかない。
「それに、勘を馬鹿にしてはいけないな。経験に基づく感覚的な判断は、理論すら超越する精度を叩きだすことすらあるのだよ。君もトレーナーなら経験があるだろう」
「くっ……!」
苛立ちで奥歯を噛み締めた。
確かにそうだ。ポケモンバトルで勝つには知識だけではダメだ。
知識で頑丈な土台を作りあげ、実戦経験によって叩き上げることで確かなものになっていく。第六感は時として理論を超越する。
思えばアトリが惨敗したあのトレーナーも理論よりも感覚と勘で戦うようなトレーナーだった。
「その私が言うのだから間違いない。君は絶望している。そして、それに気づかないように、自分の気持ちに蓋をして、闇雲に就職活動をしている。そんなことをすれば、いつか必ず君は――壊れてしまうよ。シンオウ地方トレーナーズスクールトバリ本部の元主席フワ・アトリくん」
瞬間、後ろに飛び退いて警戒態勢に入る。モンスターボールを構えて、目の前の男に鋭い視線を投げつけた。
「お前……誰だ……?」
アトリは自分の名をこの男に明かしていない。それに就職活動中であることも。
にもかかわらず、この男はアトリの名前と近況を知っていた。最初からアトリのことを知っていて近づいてきたのだ。だとすれば、この男は――頭の先からつま先まで見て、もう一往復。
よくよく考えればこの男は警察から逃げていた。そして、この見る者を威圧するような風貌と理知的な口調。間違いない。こいつはインテリ系【検閲削除】だ!
「借金取りか!? 金ならねえぞ、コノヤロー! それともあの親父をリッシ湖の底にでも沈めたって報告か!? だったらグッジョブだコノヤロー!」
「…………君は私をなんだと思っているのだね?」
「インテリヤク○!!」
「誰がインテリヤ○ザか!!」
「え、違うの?」
「違う!! 私をあのような奪う側の人間と一緒にするな!」
憤慨した赤い髪の男は咳払いを一つして仕切りなおした。
やはりこのタイミングまで黙っていたのは少々底意地が悪かったかもしれない。
心の中でそう前置きをして、通常通りの口調になるように努めた。
「私の名はフラダリ。株式会社フラダリラボの代表取締役にして、君の叔父プラターヌ博士の友人でもある」
「……………………………………はあ?」
まず、アトリが返した反応は何言ってんだコイツ? というものだった。
次に仮に赤い髪の彼――フラダリの言っていることが本当だと仮定する。
フラダリラボの社長で――自社の入社試験を受けているのだから、オレが就職活動中だと知っていて当たり前。
プラターヌ博士の友人で――ならオレのトレーナーズスクールのときの云々を知っていても不思議じゃない。ってことは……!?
仮定を当てはめると、疑問に思っていた箇所がすべて腑に落ちてしまう。
背中に冷たい汗が流れてく、酸欠状態のコイキングの様に口をパクパクさせる。
「えっと、社長……、これは……その……!」
拙い拙い拙い拙い!
アトリの顔色が白から青。青から土気色へと変わっていく。
社長へのあんな無礼やこんな無礼がアトリの脳裏に浮かんでは消えていく。
なんとか弁明しようと脳みそをフル回転させるが、上手い考えが一向に浮かばない。
「言っただろう。私は顔を見れば、その人間が何を考えているかがわかる、と。その私に対し何とか誤魔化してやり過ごそうと考えるのは少々浅はかではないかね?」
「ああ、ますますドツボにッ!!」
やらかしてしまったアトリは頭を掻き毟った後、力なく項垂れた。
「ふふ。驚いているね。黙っていてすまない。履歴書にあった君の顔から滲み出ている憂いがどうにも気になっていてね。調べてみたらプラターヌ博士に選ばれた5人の子供達の1人というじゃないか。どうにも居ても立ってもいられなくなってね、こうして直接会いに来た次第――「絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた絶対落ちた」――って聞いているのかね君」
死んだ魚の様な目で諦めモード入るアトリにフラダリはツッコミを入れる。
「落ち着きたまえ。誰も不採用とは言っていない。むしろ私個人としては君を非常に買っているのだよ」
「え。じゃあ採用ですか!?」
「いや、不採用だがね」
「憎シミデ人ガ殺セタラ……ッ!」
見事な上げ落とし論法に僅かな、本当に僅かな、誰が何と言っても僅かな殺意を覚える。しかも本人は悪気なしである。
余計にタチが悪い。
「アンタはいったい全体何をしやがりたいんですか、このモッサリオサレ赤頭がッ!」
ヤンキーモード全開でメンチをきる。
アトリの顔で激しく自己主張する青筋が、彼の憤怒を物語っている。
対するフラダリは目を閉じて少しも動じず、落ち着きを払って対応している。
「ガルルル……ッ!」
「まあ、落ち着きたまえ」
「何をどう落ち着けと?」
「………………………………いいから、落ち着けと、言っている」
「………………………………ハイ」
カッ! っと目を見開かれ、ヤンキーモードのアトリを慄かせるほどの静かな迫力にアトリは一気に平常心に引き戻された。
「繰り返し言うが、私個人としては君を高く評価している。だが、それは人として、そしてポケモントレーナーとしてだ。プラターヌ博士に選ばれるほどの才能。それを生かすべき場は私の元ではない。それがフラダリラボの社長としての私の判断だ」
誰もがその能力を正しく使うことでフラダリの切望する美しい世界への道が開く。フラダリはそう信じて疑わない。フワ・アトリには才気がある。今すぐにポケモンリーグに出しても通用する、とまではいかないが、その伸び代はいまだ未知数。発展途上だ。
その彼が『走る前から諦める』と言う。そんな馬鹿な話があるものか。
「いいかね。この世界はもっと素晴らしくならなければならない。そのためには選ばれた人間とポケモンは、より多くの努力をしなければならない」
ポケモンリーグの熱狂と興奮。誰もが憧れてやまないあのステージで戦えるのは、才能に加え、幾千通りの戦略を学び、幾万とポケモンとのコンビネーションを折り重ねた者だけだ。
あの盛大な歓声を誰もがもらえるとでも……?
若い才能を潰す手伝いなど御免こうむる。
「君が表舞台で活躍してくれることを願っているよ」
眉間に皺をよせ、言いたいことを必死にこらえているアトリに気付かない振りをして、フラダリは彼の元を去っていく。
走るか、走らないか。あとは彼次第なのだ。
達成困難な目標を実現させるには、第一歩を踏み出す勇気が必要だ。
叶う確証のない不明瞭な未来へと踏み出す心の強さがなければ、才能があっても成功するはずがない。
だが、もしフワ・アトリにその心の強さがあるのならば――
フラダリの口元が僅かに緩む。
「フワ・アトリ君、君は行き詰ったこの世界を打破する新しい可能性を……私に示してくれるか……?」
答えるべき相手のいない問いかけは、ハクダンシティに吹く風の中へと消えていった。
3
ハクダンシティを逃げるように去りハクダンの森の中を走り抜ける。
ハクダンシティからずっと走り続けて、心臓は跳び跳ねて、肺は酸素を欲して暴れ回っている。止まった後、息を整えて周囲を見回した。人気のないことを確認した次の瞬間、アトリは足に力が入らなくなり、崩れ落ちる。そして――
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
――感情が弾けた。ありったけの声量で、ただ雄叫びをあげる。貯め込んでおくのは、もう限界だった。
「どいつもこいつも! なんだってオレを引きずり込もうとしやがんだよ! オレがどんな思いで諦めたかも知らない癖に!」
プラターヌ博士も。フラダリも。母も。セレナも。
揃いも揃ってトレーナーへの道を進むべきだと仄めかす。お題目のように『君には才能がある』と無責任な言葉を並べて。
自分がどれだけ苦しんで、諦めたかを知らない癖に。
本心を明かせば、アトリはポケモントレーナーの道へと進みたかった。
たとえ、失敗すると分かっていようとも全力で走って粉々になるならば、それはそれで本望だった。
今までの人生でポケモンバトル以上に情熱を傾けていたものはない。
だが、今の状況で我を通すことは許されない。自分一人の問題なら、失敗しても自分だけの責任だ。
しかし、もし今の自分が失敗したら、困るのは自分だけではない。
母も。アトリも。アトリの手持ちポケモン達も。等しく破綻してしまう。
「自分の人生を好き勝手に使えるのは、自分のケツを拭ける奴だけだ! そうじゃない奴はただの無責任なウジムシだ!!!」
世の中には自分の都合だけで片の付くことなど、何一つない。誰もがイデオロギーをぶつけ合い、理想と現実に折り合いの中で生きていく。それが人生というものだ。
それができない者は、淘汰されるか弾きだされる。
追うべき責任を放棄するということは、その人間の生きる意味を根こそぎ否定することに他ならない。それが、アトリがこの世で最も軽蔑する父から学んだことであった。
だが、その強い責任感が鎖となってアトリに絡みつく。まるで呪いのように歪に変質させて、心を蝕んでいっている。
「オレだってなぁ! 出来ることなら何も考えずに自分のやりたい事やりてえよ! けど、やりたい事やってたら生活していけねえんだよ! 生きるために諦めたのに……、オレにどうしろってんだ!!」
悔しさで、地面に叩きつけた拳が血で滲む。一度堰を切った感情の濁流は留まることを知らない。
「なんでオレなんだよ、他の奴でも良かっただろ!? なんで……オレが……こんな、死んでるみたいに生きないといけないんだ……! チクショウ。不公平だろ、こんなの……」
夢を語りながら実現させるために、何の努力もしていない人間だっている。
圧倒的な才能を見せつけられるのも。
父の残した借金の返済で追われるのも。
自分じゃなくても良かったはずなのに。
何故よりにもよって本気でやりたい事のあるオレのところにやってくる?
何故、責任を全うしようとするオレを寄って集ってつつき回すんだ?
何も見たくない。何も聞きたくない。
苦しい……。辛い……。だれか……、
「だれか……、助けてくれ……」
そんな彼が絞り出した、誰かに聞いてほしい言葉であり、誰かに聞かれたくない言葉だった。
腹の中で煮えくり返っていたものすべてを吐き出して、何とも言い難い疲労感で途方に暮れた。
そのとき背後からパキッ! と枝を踏む音が耳に届き、我に返った。
振り向いたその先には、最も醜態を晒したくない彼女の姿があった。
「セレナ……、どうして……」
「え、えっと……その……」
5年間。止まっていた時計の針が、今動き出す。