1
ジョゼットを送り届けて、アサメの小道を通り抜けて家路につく。
思ったより遅くなってしまった。時計の短針は既に10を指している。
昼はスクールの講師。夜は体力の消耗の激しい土木作業。
その上、余計な仕事まで抱え込んでしまい、疲労はかなり蓄積されている。
「サービス残業なんて慣れないことはするんじゃねえな」
皮肉気な口調とは裏腹に、わだかまりなく笑っていることに、アトリ自身、気づいていない。
明日は休みだ。少し長めに睡眠をとって、午後から22番道路まで足を延ばしに行くつもりである。
22番道路。デトルネ通り。
ハクダンシティとポケモンリーグを繋ぐ道路であり、修行の為集まるポケモントレーナーが多い。
ブランクを埋めるためには実戦が一番。
そして、その中で自分自身の力を計り、現状を知っておくことは重要だ。
とはいえ、負けるつもりなど毛頭ない。アトリは『勝つため』にバトルに挑むのだ。
既に走り出しているセレナと、スタート地点にすら立てていないアトリとで差が出るのは仕方ない。
だからこそ、その差を埋める為の努力は怠れない。立ち止まっているアトリが、上を目指すことを辞めてしまえば、今度こそ自分の『夢』は『夢』のまま終わってしまう。
一度はアトリが捨て、セレナが大事に拾い集めてくれた大切な夢だ。
もう二度と、手放しはしない。
恐れはある。今の生活は心身的な負担もかなり大きく、いつ潰れてもおかしくない。依然、状況は厳しいままである。
だが、同じ夢を追う仲間がいるから頑張れる。
陳腐で使い古された台詞だが、悪くない。
「たっでえまー」
今夜はディスクに保管してある『グリーンVSレッド戦』を見て士気を高めよう。
そう思い、ややテンションが上がった状態で自宅のドアを開いて飛び込んできた光景を前に浮かれた気持ちは木端微塵に粉砕された。
忘れもしない。3か月前、アトリに大きな爪跡を残した獅子を思わせる赤頭。
唯一違うところと言えば、服装がファー付き黒スーツではなく、裸エプロンだったのだ。
もう一度言おう。『裸エプロン』である。
あまりにショッキングな光景に、顎が外れるぐらい驚いているアトリを他所にフラダリは優雅な動作でカップにコーヒーを注いでいく。
「どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
そう言ってサキはコーヒーの香りを堪能しながら一口飲み込んだ。
「美味しい」
「趣味で経営しているカフェで出しているオリジナルブレンドです。ミアレシティに立ち寄った際には是非とも来てください」
会話だけ聞いていればまともだが、その光景に裸エプロンの社長がいるというだけで、筆舌に尽くしがたいものへと変貌してしまう。如何せればいいかわからず、立ち尽くしているとフラダリと目があった。
「おかえり。ご飯にするかね? お風呂にするかね? それとも、私にするかね?」
「それは勿論、お・ま・え――――ッてバカァ! 何、気色悪い事やらせるんですか!!」
「シンオウではこれが正しい出迎え方だと聞いている」
「何その間違ったシンオウ知識!? 誰から吹き込まれたんですか!?」
「プラターヌくんからだが?」
「………………………なんか、すみません……」
「気にすることはない」
それにしても、こんな明らかに間違った知識を鵜呑みにするとは……。
「真面目かッ!!」と叫びたい衝動に駆られるが、事の発端が自分の身内だけに強くは出れない。アトリの胃が痛む。
「因みに誤解しているようだから言っておくが……今の私の格好は裸エプロンではなく、海パンにエプロンだ」
エプロンを脱いで、あったらいけない部分にカエンジシ♂の飾りつけのなされている赤いブーメランパンツをアピールするフラダリ。
アトリの胃はメルトダウン寸前であった。
クールに燃える炎のような男。それがフラダリへの第一印象であったが……180度どころではない。もうすでにどの角度にもっていっていいのかすらわからない。
「大して変わりませんよ! 自分の家にそんな海パンはいた変態がいるってだけで僕のストレスがマッハなので、早く服を着ていただけませんかね!!」
「アトリ! お客様になんてことを言うの!」
「母さんも母さんだ! この人の奇行をどうして止めないんだよ!? こんな変態と二人っきりってご近所に知られたら下世話な噂を立てられて主婦の井戸端会議の肴にされんだろうがッ! 大体母さんは昔から警戒心ってモンが――「やー、サキさんいいお湯でした」
風呂場の方から出てきた水で湿ったワカメこと、叔父のプラターヌの姿を確認して固まる。
そして、勝手に冷蔵庫を開けてアトリが大事にとっておいた苺牛乳を勝手に飲んでいる男への対応を決めて、無言でロコンを繰り出した。
「撃て。よく狙って撃て。家具の修理代はあの野郎に弁償させるから構わず全力で撃て」
「わーっとっとと! 落ち着いて、話し合いのテーブルにつこう! 紳士なら誰でも知っている紳士協定だよ!?」
「ああ、わかった。話を聞こうか。アンタをぶちのめした後でなッ!! つーか、テメー、母さんにナニをしたァァァッ!!!」
逃げるプラターヌを追い回すアトリ。ロコンも悪乗りして一緒になってプラターヌを追い回しているものだから始末に負えない。
その様子を見かねたサキが財布から小銭を取り出して投げる。
「100円ッ!!」
チャリーンという音と同時にアトリはプラターヌを追うことを辞め、1にも2にもなく床に落ちた小銭にルパンダイブする。拾った小銭を眺めてアトリはニタリと笑った。
一拍遅れて、動きを真似たロコンがアトリの頭部に着地する。
ロコンの標準的な体重は9.9㎏。意外に重いのである。そんなものが勢いよく乗りかかってきたら当然待っているのは――――
ドスン!! という音が部屋に響いた。
2
「これを見なさい」
客人への無礼を働いた罰として正座させられているアトリの目の前に一枚の紙を差し出した。
大きなコブを摩りながらアトリは訝しげな表情をしながら、紙を受け取った。
「講演会の依頼……?」
「その通り。私は私の思う美しい未来へ進むための道筋を模索している。今はまだ見えないが、輝かしい明日の為にはまず、良き隣人との相互理解を深めることは重要だ。その手段としてサイホーンレースの生ける伝説『フワ・サキ』選手に講演会を開いていただきたいと考えて無礼を承知でお邪魔させていただいた次第だ」
「それでどうしてあんなふざけた格好になる必要があるのか、理解に苦しむのですが」
棘のある口調で蒸し返し、サキが軽くアトリの頭を叩く。
だが、ほんの軽い皮肉を流さずフラダリは真剣に考え込むそぶりを見せた。
「むぅ……、あれはあれで決まっていたと思うのだが……」
からかっているのか? と一瞬思ったが、フラダリの真剣な表情をみて思い直した。
コイツ、マジだ!!
戦慄するアトリの肩にプラターヌはそっと手を置く。
「フラダリさんは文武共に文句なしに一流なんだけどね、昔から服装のセンスだけは本当に残念なんだよ」
「スーツのセンスはいいのですか?」
「あれは僕のコーディネートさ。やっぱりコーディネートはこーでねーと!」
「まあ、その辺は置いておきましょう」
プラターヌの寒いオヤジギャグを右から左へ置いといてのジェスチャーをして、しれっと流す。
気になるのは講演会一回についての報酬だ。一回につき50万円。
講演会の報酬は法人か個人かによって金額が違う。
法人だと半日拘束で200万。個人だと5万から10万といったところが相場である。
それゆえにこれは破格の待遇といえるだろう。
逆に話がうますぎて――
「怪しい、と思ったかい?」
プラターヌにこちらの心情を見抜かれて、ドキリとした。
「安心していい。この取引は正式なものだよ。『フラダリラボ』と『プラターヌポケモン研究所』のトップが保証する」
「む……」
よくよく見れば契約書にはカロス地方の三大企業の内、二企業が連名となっていて、正式な社長印まで押されている。その上、一人は身内である。
疑うべき点は何処にも見当たらない。
「サキ選手のサイホーンレースの実績を考えれば、これくらいの報酬が妥当だ」
「いまいちピンと来ないのですが、母はそんなに有名な選手だったのですか?」
アトリの知っている母は『昔サイホーンレーサーだった』という事と、『サイホーンレースの発展に並々ならぬ情熱を持っている』という事くらいである。
「勿論さ。その神話的な活躍からサイホーンレース協会の生ける伝説として、殿堂入りを果たしているほどだ」
「ここを見てごらん」
プラターヌが開いたタブレットの端末を覗き込む。カーソルは9番道路『トゲトゲ山道』を指していた。
「この道はサキさんがサイホーンと一緒に道なき道を踏破したことで出来た道なのさ」
「本当なんですね……」
母に驚愕の眼差しを送ると「テヘペロ☆」とリアクションする。
ひいき目なしに見て、一応美人の部類には入るのだろうが、40近い中年女性、ましてや自分の母親にそんなものを見せられたら気持ちが萎えるどころの話ではないだろう。
「もっと早くこうしていれば、良かった」
夫より稼ぎの多い妻。
彼の自尊心を傷つけないよう、レーサーとしての自分を封じてしまった。
カロス地方を離れ、道楽程度にしか、サイホーンレースに触れる事がなくなった自分に『これでいいのだ』と嘘をつき続けてここまでやってきた。
夫が遊んで作った借金で首が回らなくなっても、その考えを持ち続けた。
だが、それは過ちだった。
その嘘の所為で、自分の子供がしなくてもいい苦労をして、追い詰められていたことに気付くことのできなかった自分は愚かだ。サキの最も収入を得られる仕事であり、最もやりがいのある仕事はレース関係の仕事だったというのに。
「あなたの目標金額にはまだまだ及ばないけど」
「……十分だよ。けど、いいの? これだけあれば厩舎を買い戻す資金として蓄えることもできるだろう?」
「……親の立場からするとね、金銭的な理由で『子供の可能性を奪っている現状』っていうのは、本当に不甲斐ないのよ」
アトリの描く夢は大きすぎる。代償を支払ったからと言って、必ず叶うものではない。
だが、彼が夢の実現のために、血の滲むような努力を重ねてきたかをサキは知っている。
トレーナーズスクールで主席をキープし、夜遅くまで戦略の論文を貪り読み、体力作りも怠らない。才能も周囲に認められ、これで叶わなければ嘘だ、と本当にそう思っていた。
それ故に、夢を奪われて、アトリが『働くだけの空っぽの器』になってしまったときは、見ていられなかった。
「これまであなたは私達のことを第一に考えて、自分のことは二の次にしていたんだから、今度はお母さんがあなたの力になる番よ」
そうしなければならない状況だったとはいえ、もとはと言えば、元夫とその妻であった自分が蒔いた種なのだ。
子供の一生を拘束しなければ何もできないなど、サキの親としてのプライドが許さない。
アトリが家計を考えて、夢を追えないのなら、自分が稼げば、アトリは何の柵もなく、夢を追いかけることができる。
これが親として出来る、唯一にして最大の手助けだった。
「それに我々が来た理由はもう一つある」
「伺います」
サキは何かを察して、席を外す。
ロコンをモンスターボールに戻し、プラターヌ、フラダリと対面して座る。
「回りくどいのは好かない。単刀直入に言おう。私にはポケモントレーナーとしての君に投資する準備がある」
「―――――ッ!?」
口から心臓が飛び出るかと思った。
企業からのポケモントレーナーへの投資。それは珍しい事ではない。
実力のあるトレーナーにはスポンサーがつく、というのはどのスポーツにもあり得ることだ。だが、しかし今回の話は明らかに異例だ。
ポケモントレーナーとしてのランクであるジムバッジを一つも獲得しておらず、トレーナーズスクールの推薦があるわけでもない。実績らしい実績など一つも持っていないアトリには分不相応な話なのである。
「御冗談を」
「私は真面目な場での冗談は好まない」
「……光栄な話なのですが、何故、何も成し遂げていない僕に?」
「『一目見れば才能の有無が分かる』『私は君を高く買っている』。私が以前、君にそう言ったのを覚えているか?」
「はい」
「あのとき、君の心は折れていた。自分の可能性を信じることのできない精神的な弱さが君のネックとなっている。そう判断したからこそ、あの場で君を落とすことにした」
いくら才能があろうとも、精神的に弱い人間には何も成し遂げられない。
絶望に打ちひしがれ深い闇の底にいても「それでも」と顔を上げて、実現させるという断固たる覚悟がなければ、大望を掴むことなど、出来はしないのだ。
「あの時既に君が逆境に立ち向かう覚悟を決めたのなら、君のスポンサーになろうと決めていたのだよ」
「……………」
「勿論、無名のトレーナーである君に投資するなど、ラボの役員は反対するだろう。だから、君には実績を作って示してもらいたい」
「具体的に何をすれば?」
「ハクダンジム攻略」
ポケモンジム。
ポケモン教会公認のジムリーダーが管理している対戦施設。そこでジムリーダーに実力を認められたトレーナーに贈呈されるジムバッジはそのままポケモントレーナーのランクを表すものになっている。当然、その攻略は容易ではない。
ポケモンの力量とトレーナー知恵。
共に相当なレベルに達していなければ、ジムリーダーに勝利することは叶わないであろう。
「こちらで信用できる人間に君の力量を査定させてもらうがいいかね?」
「勿論です。やります。やらせてください!」
ジムリーダー『ビオラ』は虫タイプのエキスパートだと事前調査で判明している。
アトリの手持ちのタイプは炎タイプのロコン。飛行タイプのムックルがいる。
タイプ上の利はアトリにある。これは千載一遇のチャンスだ。
「そして、僕からも改めて君に依頼がある」
「……以前、詫び状を送ったと思うけど」
「ああ、これかい?」
プラターヌは白衣のポケットからアトリの送った詫び状を取り出して見せる。
「こんなものは、ドーン!」
決め台詞と同時にゴミ箱に放り投げられる。
「あー! なにするんですか!?」
「僕はこんな答えを聞きたいわけじゃないのだよ。さあ、データ収集の依頼を受けるか『はい』か『イエス』で答えてほしい」
「それ、選択の余地ないですよね」
「まあ、冗談はさておき――」
「フラダリさん、これは真面目な場での冗談じゃないんですか?」
「……あれはこういう生物だと思えば…………」
遠い目で言うフラダリにシンパシーを抱いてしまう。
「この石を見てほしい」
そう言ってプラターヌは丸い石をテーブルの上に置く。
綺麗な石だ。水晶の様に透き通っていて、真ん中に赤と黒のグラデーションの平行四辺形は遺伝子の螺旋のようにも、捻じれた葉っぱにも見える模様が浮かんでいる。
「私の研究はカロス地方最大の謎と言われている現象『メガシンカ』の解明」
「『メガシンカ』?」
聞きなれないキーワードをアトリは訝しんだ。
「ポケモンの進化限界を超えた進化とされている」
「仰っている意味がよくわからないのですが」
「順を追って話をしようか。二段階進化したポケモンが更にもう一段階進化する可能性がある、と言ったら君は信じるかい」
「そんな馬鹿な。そんな話は聞いたことが無い」
通常ポケモンは多くとも一段階から二段階進化することで最終進化形態へと姿を変える。
それ以上進化したという事は、これまでに前例のないことである。
「それはそうだよ。その現象はカロス地方でしか確認されていない上に、目撃証言も少なく学会でも都市伝説のような扱いを受けているのだからね」
プラターヌに渡された資料を読み漁り、咀嚼する。
姿を変える。能力の向上。特性の変化。
思考の渦の中でややあって、アトリの中である仮説が組みあがった。
「博士の言葉を疑うようで申し訳ないのですが、それは『フォルムチェンジ』とは違うのでしょうか?」
特定の条件下――天候や道具、季節によって姿形、タイプ、得手不得手を変化させるポケモンがいる。『メガシンカ』というのがどのような現象かどのような代物かは見たことのないアトリにはわからないが、特徴を見る限り『フォルムチェンジ』と酷似している。
その疑問にプラターヌは静かに頭を振った。
「確かに『フォルムチェンジ』とよく似ている。だけど、まったく別物だよ」
アトリは身を乗り出してプラターヌの話に耳を傾けた。
「メガシンカしたポケモンは総じて能力が急上昇する。それは適応し、得手不得手が変わる『
「メガ、シンカ……」
キーワードを反芻して、頭の中に刻み込む。
「アトリ、君にはポケモンのデータ収集とは別に、その『メガシンカ』について調査をお願いしたいんだ」
「………………、」
フラダリの様子を伺う。
「私は構わない。私の会社は君のスポンサーではあるが、君は社員ではないのだから、私には君に指示する権利はない。だが、プラターヌ博士の研究は我々にとって有益なものだ。出来るなら調査に協力してほしい」
「…………、少し考えさせてください」
外堀を埋められたアトリは絞り出す様な声でそう言った。
3
「では、日時は明後日の午前10時。ハクダンジムの前で待ち合わせにしよう」
「はい。よろしくお願いします!」
去っていくフラダリに対して深々と頭を下げて、姿が見えなくなるまで見送った。
「さて、ぼくもお暇しようかな」
「はい。お気をつけて」
慇懃な態度を崩さないアトリにプラターヌは少し泣き笑いのような表情を浮かべた。
「君が、元気そうでよかった……」
あのままでは確実に潰れてしまうと思ったから、カロス地方に呼んで、一度諦めてしまったポケントレーナーとして旅立てるようにお膳立てをした。
プラターヌに対して心を閉ざしているアトリが、受けるはずがないというのに。
兄とその妻との間に出来たプラターヌにとって初めての甥。
幼いころ、無邪気に慕って来てくれることが嬉しくて――よく二人で色んなところへ遊びに行った。
だが、兄が借金を残して消えたことで彼は昔のようにプラターヌに笑いかけてくれることが無くなってしまった。
無理もない。自分は彼をどん底に突き落とした男の弟なのだ。
何故このようなことになってしまったのか。深い悔恨は今も尚、プラターヌの中で火傷の様に疼いている。
「結局、私には何も出来なかったね……」
ずっと、壁を作られていて――
でも、笑っていてほしくて――
彼の心を救いたいと手を尽くしてきたが、結局彼は自分の力など必要としていなかったようだ。きっとアトリには、自分の力は必要なかったのだろう。
きっと、もうわだかまりを埋めることはできない。
だが、それでも良かった。
例え嫌われていたとしても、アトリが笑っていてくれるのなら、それだけで……。
「私のことを嫌いなら嫌いで仕方ないと思っている」
「……別に、アンタのことが……嫌いな訳じゃねえよ……」
プラターヌはその言葉にハッと顔を上げた。
アトリは罰が悪そうに、それでいてどこか荒い――言い換えれば親しい者へのぞんざいさを感じさせるような口調へ変わった。
プラターヌには感謝してもしきれない。
それは紛れもなくアトリの本心だ。
彼がいなければ、アトリとサキは膨大な借金を返す術もなく、首を括るしかなくなっていたであろう。間違いなく、アトリ達の恩人なのである。
だが、それと同時に彼はアトリが最も憎む父の弟だ。
「ただ……、アンタの顔見てると、どうしてもアイツの顔がちらついて、イラついてしまって……」
父とプラターヌは違う。責められるべきはアトリの父であり、プラターヌではない。彼を恨むのは筋違いもいいところだ。
そんな事はアトリにだってわかっている。
それでも、そんな理屈で簡単に割り切れる程、人の心は単純なものではない。
「………………、今はまだ、アンタと距離を置きたい。時間がほしいんだ……。オレがちゃんと割り切るための時間が……」
『嫌悪』と『恩義』、そして『親愛』が入り交じっている状態だ。
そんな状態でわだかまりなく、彼と笑い合える程、アトリは精神的に成熟していない。
プラターヌはアトリの心情を推し量り、距離感を確かめる。
「いつか、そんなことがあったねって笑いながら話せるようになるといいね」
「真摯に受け止めた上で前向きに検討させて頂きます」
政治家の様な言い回しをするアトリにプラターヌは大きく笑う。
理不尽な八つ当たりの様な感情を向けられても、受け止めて、いつも通り笑っているプラターヌは大人だ。未熟なアトリにはとても真似出来ないだろう。
この人って結構凄い。
アトリは心の底からそう思った。