1
近代的な大都市圏と、豊かな自然が共存する地方。空から見渡すイッシュ地方は息を呑むほど綺麗だった。
あの中に様々なヒトとポケモン達が共存している。
白と黒が混じり合うだけの灰色だと思っていた世界はこんなにも色づいていたのだ。
不意に涙が滲んできた。不思議だ。
愛着なんて全くないと思っていたのに、いざ離れるとなるとひどく名残惜しい。
或は彼女と過ごした時間が、彼にそう思わせるのか。
――よいのか? 君にはレシラムのトレーナーと共に生きるという道もあるぞ。
青年は首を左右に振った。
「きっと、今のボクが彼女の傍にいたら邪魔になってしまうよ」
何も知らず借り物の理想を振りかざしているだけの操り人形だった愚かな自分。
自分の過ちの所為でいったいどれほど多くのものを傷つけてしまっただろうか。
『英雄』の資格がない自分にはイッシュの白い英雄の隣に相応しくない。
だが、
「ボクは、知るべきなんだ。人間とポケモン。白と黒を分けるのではなく、異なる存在を許し合うことを。異なる考えを受け入れることで 世界は化学反応をおこす。 これこそが……世界を変えるための 数式……」
それが彼女との戦いでボクが感じ取ったこと。
そうだ。世界にはまだ見たことのない数式がある。
見に行ってみよう。
ただ与えられただけの理想を、本当に自分の理想にするために。
彼女が愛した数式を解き明かすために。
雷雲が割れ、隙間から眩いほどの光が差し込んでくる。
「行こう、ゼクロム」
青年の声と共にゼクロムが咆哮を上げる。
青い稲光と共に空を駆けて行った。
この日、プラズマ団の王を称した『N』という青年はイッシュ地方から姿を消した。
2
トロバにダウンロードしてもらった地図アプリは実に使い勝手が良かった。
ミアレシティの土地勘がないアトリでも簡単に目的地に辿り着けた。
サウスサイドストリートの路地裏。華やかな街並みに埋もれて目立たないこの目的地にはアトリ一人では絶対に辿りつけなかったであろう。
「……………………」
それはそれとして、フワ・アトリは今人生で最大の危機に陥っていた。
「ご注文をどうぞ♪」
プライスレスな笑顔を向けられ、冷や汗が流れ落ちる。
調査前の腹ごしらえに、と入ったカフェの注文システムがまるで理解できない。
驚くことなかれ。彼は基本的に『外食』というものをしない。
トレーナーズスクールに通っていた頃は友達と一緒に買い食いすることはあったが、5~7年前、本当に数えるほどでしかなかった。
その後、父の残った借金の所為で手持ちを優先に食べさせて、本人は塩水をオカズに砂糖水を飲むような赤貧生活を送っていたので外食とは完全に無縁。
それ以前に、守銭奴スピリッツが『外食』と言う言葉に拒否反応を起こす。
だが、ここ数日バトルで勝ち越している為、アトリの懐は軽く小金持ち状態。昨日のサナにつけられた唯一の黒星。その分マイナスになった所持金を鑑みても少しくらい普段頑張ってくれている手持ちポケモン達に贅沢させてやりたい、と思う。
アトリはケチではない。倹約家なのだ。
それなのに、注文という段階で躓くとは……!
恐るべし、ミアレシティのオシャンティカフェ!!
「あの、お客様?」
落ち着け……。落ち着くんだアトリ・フワ! Smart&Kooooooolになれ!
努めて冷静に状況を分析する。
どんな店にも注文方法というものがある。そのルールに乗っ取って行動すればいいだけ。つまり隣の人の真似をすればいいのだ!!
そう思いアトリは右のギャル風の女性の注文を盗み見た。
「ご注文はお決まりですか?」
「シングルグランデヘーゼルナッツチョコレートチップエキストラホイップキャラメルソースホワイトモカフラペチーノ」
意味がわからんんんんんんん!!
ナニソレ、 呪文!? 呪文なのか!?
いや、待て。まだ左に人がいる。左のヴィジュアル系の青年はジョジョ立ちをしながらこう言った。
「翼をください。この背中に鳥のように白い翼つけてください」
「店長~、アホが一人来ています~」
「嗚呼、過ちのエンジェル」
ハイ、無理ッ!!
その上、店内は7割程カップルで埋め尽くされている。
一人で入店したアトリとしてはアウェー感が半端ない。
彼女といちゃついている奴は小指をタンスの角にぶつけてもんどりうってマッハ7で地獄の8丁目まで大滑降していけばいいのに。
女性が近寄り難い孤高の雰囲気を纏った少年アトリは心の中でそう毒づいた。言い回しは大切。
横文字だらけのメニューと睨めっこをしても、まるで状況が打開できる気がしない。
さっぱりわからない。とイケメンな変人物理学者の様に言ってみたいが、アトリがやっても多分決まらないだろう。
サイズSTGVってなんだ? 普通はSMLじゃないのか?
コーヒーメインの店なのにアイスコーヒーがないってどういうことだ?
そして相変わらずあの呪文の意味が分からん!
助けて僕のスーパーピンチクラッシャァァ―――!
疑問がグルグル頭を駆け巡り、打つ手がなくなったことを悟る。
キリキリと。キリキリと。ストレスがテンパっているアトリの胃を締め上げる。
硬直している時間があまりにも長いので、被害妄想なのだが店員がプライスレスな笑顔のまま青筋を浮かべているような気がした。
あわやこのまま胃に穴が空いてしまうのを待つばかりか、と思っていたところ助けは後ろからやってきた。
「炎タイプ、電気タイプ、飛行タイプのポフレを1つずつ。アイスコーヒーにキッシュを一つ。コーヒーのサイズはどうするんだい?」
「え? あ、ええっと……一番小さいやつで」
「それじゃあサイズはショートで。ボクはドラゴンタイプと電気タイプのブレンドポフレを。あとはオレンフラペチーノを」
テンパっていたアトリの代わりに注文を済ませてくれた青年はサイドへと促す。青年に従うままアトリは移動した。
「えーっと、ありがとうございます。助かりました」
「気にすることはないよ。君のポケモンが君を助けてほしいと言ってきたから、それに応えたまだよ」
緑の髪の青年は早口で言ってから穏やかに笑った。
男とは思えないような美貌。
心の底まで見透かされそうな澄んだ眼差し。
身を翻した際になびく長髪は不思議な気品の様なものが感じられる。
何故だろう。彼を目の前にすると頭が高いような気がしてくるのは。
彼がもつこの威光。おそらく只者ではない。
「ボクはN。アトリ、キミの様にポケモンに愛情を持って向き合っている人を待っていたんだ」
これがフワ・アトリとNとの出会いであった。
後にアトリは思う。この邂逅が、自分の人生の転機だったのではないか、と。
3
「ハリマロン、つるのムチ!」
セレナの指示とほぼ同時に居合の様なムチの一撃が相手のウリムーを打ち据える。
氷タイプと地面タイプのウリムーに草タイプの攻撃は効果抜群。一撃でウリムーの意識を刈り取っていった。
「ああ、ウリムー!」
男の子は気絶したウリムーをモンスターボールに戻して項垂れた。
「むむむ。なかなかやりますね! 次はアチシが相手です!」
次に控えていた女の子はそう言ってすかさずポニータを繰り出す。
炎タイプは草タイプに効果抜群。セオリーに忠実な良手ではある。しかし、
「『転がる』!」
ハリマロンはものともしない。岩タイプの技で粉砕する。高速で転がり抜けたハリマロンはスリップしながら残心をとる。
その佇まいはまさしく『いぶし銀』と呼ぶにふさわしかった。
本来コンパスの長く、脚力の強いポニータはハリマロンよりも足の速いポケモンではあるが、レベル差で大きく水をあけている。彼我の戦力差は歴然だ。
「まだやる?」
事実上の降伏勧告にストレート負けでの5人抜きを食らった子供たちは両手を上げた。
ノースサイドストリートの路地裏。ポケモン強盗の現場の調査に乗り出そうとしたところ、ここを秘密基地にしている彼らに「ここに入りたければ僕たちを倒してみろ」とバトルを挑まれたのである。
「目と目があったらポケモンバトル。スタンダードだけどね、いきなりすぎるわよ」
問答無用でポケモンを繰り出してけしかけられたらレベルの差があっても手加減する余裕すらない。おかげで彼らの手持ちポケモンはボコボコである。
「知り合い同士ならそれでもいいかもしれないけど、知らない人とバトルするときは必ず、トレーナーズカードを提示して合意したことを確認するのがマナーよ」
「「「「「……………………」」」」」
仕草でトレーナーカードの提示を求めると5人全員が気まずそうに眼を逸らした。
「…………、まさかあなた達無免許じゃないでしょうね?」
「……チガイマスヨ」
「トレーナーズカードを見せなさい」
「ごめんなさい、全員無資格です!」
少年たちの体感温度が3度ほど下がった。
「…………今すぐそこに正座しなさい」
「え? あの……下は石畳だよ?」
「そうね。だから?」
「座ったらすごく痛いよ?」
「そうね。きっと痛いわね」
「…………あ、あの」
「正座」
「……………………はい」
問答無用で石畳の上に正座させられる。
腕を組んで仁王立ちのセレナの眼は明らかに据わっていた。
声を荒げはしないが、静かに激怒している。緊張感のない言い方をするなら激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームである。
「いい? ポケモンは近すぎて忘れられがちだけど接し方が難しいのよ。炎ポケモンの扱いを間違えれば大火傷を負し、電気タイプは感電。氷タイプは迂闊に手を出すと凍傷になる。それを無視して取り返しのつかないことになった人やポケモンだっていっぱいいる。
の。それなのにまともな知識を持ち合わせていないのにポケモンバトル? ふざけないで」
彼女の言葉に5人はぐうの音も出ない。
セレナの怒りは何も大げさなことではない。
協会は免許のない人間が人間はポケモンを持つことを原則的に禁止されている。
彼女の言った通りポケモンへの接し方を誤り死亡するという事故も報告されているし、無免許でポケモンバトルを行い、ポケモンを死亡させるケースだってある。
だからこそ、トレーナーズカードを持たない人間がポケモンを持つ場合、親名義にして届け出をだし、責任の所在を明らかにする。その上で協会が『危険が少ない』と判断したポケモンでないと持つことを許可されない。
ポケモンバトルなどご法度である。
自分の身を守るため、そして手持ちのポケモンのためにも、ポケモンへの適切な接し方を知っておかねばならない。
これはポケモントレーナーが必ず刻んでおかなければならない心構えだ。
ポケモンの命を預かるポケモントレーナーになるとはそういう事なのだ。
「今後一切免許を持たない状態でポケモンバトルをしないで」
「何も知らない癖に……!」
「なんですって?」
「ちょっと、マコン……!」
少女が嗜めようと声をかけるが、マコンと呼ばれた少年はセレナに反抗的な視線を投げつけた。
「私が何をわかっていないって言うの?」
「……僕たちだって無免許でポケモンバトルをすることくらいわかってる。でも、仕方ないんだ!」
しゃがれた声でマコンは叫ぶ。動機を言い訳に自身を正当化している様な言葉だが、彼からは如何しようもない焦燥が感じられる。
セレナは目を閉じて思案する。動機が行動を正当化するわけではない。
彼らのやっている行為はセレナには絶対に許容できないし、許容するべきではない。
それなのに、
「……何があったのか話してくれるかしら?」
水を向けてしまうのは甘さなのだろうか。
正論は正しい。だが、世界は正論だけで回っているわけではない。
マコンは乱暴に涙を拭って、少しずつ事の経緯を話し始めた。