1
赤いポケモンマフィアとの大立ち回りから数日が過ぎた。ミアレシティを騒がせていた強盗事件の犯人の正体について当初メディアは競って報道していたが、周到なまでに痕跡を残していない彼らに対し、ニュースとして伝えられることが殆どないに等しく、犯人たちについて様々な憶測をしていたが、どれも信憑性に乏しく、荒唐無稽なゴシップにしかならないその話題は直ぐに大衆を飽きさせた。
一週間もすると世間の興味は大物政治家の収賄事件や有名芸能人の不倫報道などに移り変わりミアレシティを騒がせたこの事件は人知れず日常の中に埋没していった。
あれだけの事をしておきながら、何一つ痕跡が残っていないことに些か不自然さを覚えはしたものの、日々之平穏に過ごしたいアトリとしてはこれ以上ポケモンマフィアに関わるのは真平御免ではあるし、それよりも今は力を注ぐべき事がある。
授業を終わらせたアトリは一旦教員室に戻っていた。約束の時間までまだ少しある為、テストの採点などの残務処理や業務の引き継ぎ作業に取り掛かろうとしていたが、正直あまりはかどってはいない。
落ちつけ。相手も同じ人間。腹を割って話せばそれなりにやれる……、はず!
説得の為の材料は揃えさせた。決して簡単な交渉ではないが、十分な勝ち目はある。
だが、本当にこれで良いのだろうか。
「落ち着かないようね。……汗をかいているわよ」
アトリの緊張を感じ取ったトレーナーズスクールでの上司であり長でもある学長は柔和な笑顔で声をかけた。彼女の言葉にアトリはうつむき、唇を引き結んだ。
「今日、ジョゼット・ジョースターの両親を交えた面談があるんです」
「そう……、今日だったのね。……彼女の母親を話しあいの席につかせるなんて、凄いじゃない」
学長の賛辞に対し苦笑交じりに「どうも」と謙遜したが、再びその表情に暗い陰が落ちた。
「……正直、怖いです」
本心が自制心をスルリと抜けてしまい、一瞬「しまった」と思う。
気持ちを戦闘モードに切り替えていたというのに、弱音を吐いてしまうなんて。
張りつめていた糸を自分から緩めてしまうなど、有り得ない失態だ。
「体の力を抜いて、ゆっくりと深呼吸するいいわよ」
言われた通り深呼吸をする。だが、焦燥は依然と胸の内に居座っており、心を焼いていった。
「力みすぎね。そんなことでは出来る事も出来なくなってしまうわよ」
「流石に気負わずにいられる程、神経太くありませんよ。下手すれば人ひとりの人生を捻じ曲げてしまうことになりかねないんですから……」
自分の上司であり、恩人でもある老婆は柔らかな笑顔を崩さず、アトリの愚痴とも言うべき不安に耳を傾け続けた。
「彼女の夢はあまりにも身の丈に合っていません。失敗する確率の方が高い……」
「最初の一歩に関わったからって、その先に責任を感じる必要はないわ。それに人生っていうのはね、失敗しても案外なんとかなる様に出来ているのよ」
「しかし、そこから立ち直れなくなる人も少なからずいます。彼女がそうじゃないとは限らない」
現実の厳しさに屈して腐ってしまう、というのはよくあることだ。
かつてのアトリがそうであったように。
そして、その夢を追うように背中を押したのは紛れもなくアトリだ。
しかし、アトリがジョゼットの人生に責任を持ってやれるわけではない。アトリの人生はアトリのもので、ジョゼットの人生もまたジョゼットのものでしかない。
だが、それではあまりに無責任ではないだろうか。
眉間に皺を寄せて鳩尾を抑える。胃が痛い。
とんでもないプレッシャーに圧し潰されそうだ。
「夢が叶わなかったからって、今まで辿って来た道に何を見出すかは人それぞれよ。若い時は苦い思い出でしかなくても、年をとるとそれも人生を彩る大事な思い出になっていたりする」
「思い出作りじゃ意味がありません。戦って勝たなければ、報われなければ彼女は何のために頑張ったのか……」
家族に反対されながらも、1人で野生のポケモンを捕まえようとしたこと。
自分の意志がなく、流されるだけだった彼女が、ポケモントレーナーになりたいという意志を見せたこと。
そして、今――その意志を通す為に戦おうとしていること。
だけど、楽しいや好きだけでやっていけるなんて、ありえない。いくら努力したところで報われないケースなんて、この世の中腐る程転がっている。
いつか彼女はオレと同じように自分がどう頑張っても覆せない絶対的な才能の差を知るだろう。だが、同時に不完全燃焼故に断ち切りたいのに断ちきれない未練を抱える苦しみもよく知っている。正直、どうするのが正解か、わからない。
「彼女にはオレと同じ苦しみを味わってほしくない……」
「……貴方は夢が破れたからって、その道に意味がなかったと思うのかしら?」
「そんなことは……!」
否定の言葉は反射的に出た。
逃げていた自分を繋ぎとめてくれた人たちに出会えて、永遠に失くしたと思っていた夢を再び追う事が出来るようになった。
それは一歩を踏み出せたのは背中を押してくれて、手を引いてくれた人たちがいたお陰だ。これほど幸せな事はそうはないだろう。
「例えこの先プロになるという目標が叶わなかったとしても、志したことを後悔はありません」
……今までやって来たことを否定し、後悔することはその道を支えてくれた恩人たちへの裏切りだと思うから。
「そう、それが貴方の答え。自分でもそうするべきだと思ったから、貴方は袋小路に入って進む事も、戻る事も出来ない彼女の助けになりたいと思ったのでしょう。なら、自信を持って存分にやってあげなさいな」
「本当に、それでいいんでしょうか……?」
自分がそうだからといって他人がそうだとは限らない。
アトリとジョゼットは違う人間なのだから。
「いい事を2つ教えてあげましょう。人生は『出来るか、出来ないか』じゃない。『やるか、やらないか』よ」
「2つ目は?」
「大き過ぎる目標を前に途方にくれた時は、先のことじゃなくて、今やるべき事に集中するの。何故なら――」
「何故なら?」
アトリは固唾を呑んで続きを待った。
「ずっと上ばかり見上げていたら首が疲れちゃうじゃない」
「………………………………、」
思わぬ方向に落ちをつけられアトリはしばし二の句が告げられなかった。学長の顔を見つめ、それからこの冗談ともつかぬアドバイスの真意を理解して吹き出した。
この人は不思議だ。
自分はポケモンに対してはともかく、人の対する警戒心はかなり強い方だと思っている。故に人付き合いはその殆どが理詰めと打算で形成されている。
そんな自分を俯瞰してみると、本心を見せることの出来る相手が驚く程少ないことに気付く。だが、この人を前にすると、警戒の糸が緩んでしまう。彼女の柔和な雰囲気がそうさせるのか、自分が学長に気を許し過ぎているだけなのか。
「先の事を考え過ぎるのは良くないわ」
「けど、行き当たりばったりでは必ず詰みますよ」
「先を考えるというのは今を蔑ろにするという意味ではないわ。その時、その瞬間に最善を尽くす。それがきっと、なりたい自分に繋がっていくの」
そう言って学長はコロコロと笑った。
「心は決まった様ね」
「はい。お陰さまで」
気づけば不安を忘れていた。そして、再び直視してもさっきの様に胃が痛くなる事は無い。
「難しいことを考えずに貴方の正しいと思う事をやりなさい。いい結果っていうものは、きっとそういう人の所にやってくるのだから」
「はい。学長」
穏やかな声で応え、彼女とのやりとりを心に刻みつけた。
そろそろ時間だ。行かなくては。
2
両親に挟まれたジョゼット・ジョースターは緊張しながら何度も時計の方を窺った。
約束の時間の5分前。未だ先生は姿を現さない。
「待たせるのが彼の礼儀かしらね」
紅く塗られた唇からは容赦のない毒を吐きだされる。左側に座っている自分とよく似た顔の母親は苛立たしげに体を震わせ、不愉快そうに鼻を鳴らした。
一方、父の方は母と対象的に瞑想しているかの様に悠然と構えている。座っているだけで放たれる圧迫感にジョゼットは居心地が悪そうに更に身を小さくした。
「遅くなってしまい申し訳ありません」
駆けこんできた若い教師に両親は立ち上がり礼をする。ジョゼットも慌ててそれに倣った。
先生は礼で返し、慌ただしく椅子に腰をかける。
そんな彼の様子を見て、ジョゼットは安らぎを覚えた。
「お忙しい中、お時間を頂いてしまい申し訳――」
「前置きはいいわ。さっさと始めましょう。時間が勿体ないわ」
母の撥ね退ける様な態度に先生は困った様に笑った。
「とは言っても、改めて話し合う必要もないでしょうけど」
「と、いいますと?」
「以前お話しした通り、この子の進路は私共で用意します。あなたの助けなど必要ありません」
「トレーナーズスクールを辞めた後の具体的な進路は決定しているのですか?」
「ええ、既に縁談の話もいくつか。その中で良さそうなところと婚約を進めたいと思います」
「な――っ!」
思わず立ち上がりかけた私を先生は「待て」と言わんばかりに手で制した。
そのまま母を見据えていつも通りの穏やかな声で話しかける。
「なるほど。私が聞いている娘さんの進路希望とは随分と違いますね」
「ジョゼットをポケモントレーナーになんて絶対にさせません。こんな面談を行う事自体が時間の無駄よ」
「家の中だけで問題が解決できていないから、このような大事になったのでしょう」
一転して声が低く冷たくなった。
これまで積極的な発言がなかった反撃にジョゼットの母は豆鉄砲を食らったような顔になる。
今だ、行け。と、眼で指示されているような気がした。
「お父様、お母様、お願いします。私、どうしてもポケモントレーナーになりたいのです」
背中を押されて今までにない程淀みのない声が出た。
「駄目に決まっているでしょうッ!!」
母は突然爆発した。今まで見た事もない剣幕にジョゼットは首を竦めて、委縮した。
「由緒正しきジョースター家の人間が、ディーオだけじゃなく貴女まで! ポケモントレーナーになりたいなどと! 恥を、恥を知りなさい!」
金切り声で詰られ一瞬怯んだが、負けじと食い下がった。
「どうして? お兄様だってポケモントレーナーとしての道を選んだじゃないですか! 何故、私は駄目なのですか!?」
「貴女に才能がないからです! 失敗すると分かっていて、その道を進ませる親が何処にいますか! いいですか、貴女が思っている程、現実は甘くは無いの。才能のない人間はどんなに血の滲むような努力をしても、天才に追いつく事は出来ない。そうして自分が夢見た華やかな舞台は自分じゃない天才の為に用意されているものでしかない事に気がつくの!」
「でも――ッ!」
「貴女は私の言う通りにしていればいいの! 立派な殿方の元に嫁いで、お家を守る。それが貴女にとって一番幸せな道なの! 何故わかってくれないの!?」
何故分かってくれないのか? 私自身の言葉、本当の気持ちはこの人にとってそんなにも価値がないのか?
顔が青ざめ、頭が真っ白になる。
負けるな。犯行しろ。反逆しろ。自分の本当の気持ちを伝えるんだ!
心の中で戦意を鼓舞しようとするが、負けてしまう。
炸裂したガラス片の様な声が、必死に立ち上がった闘志をズタズタにしていく。
完全に心が折れる刹那――
「娘さんはッ!!」
低くも鋭い声が母の声を呑み込んだ。威圧するような冷たい眼は母を威嚇している。
「娘さんには才能がない、というのは大きな間違いですよ」
「…………、どういうことかね?」
これまで何も言わなかった父が重い口を開いた。
「こちらをご覧ください」
手渡したファイルを父が見た途端、今まで感情が見えなかった彼が驚き目を見張ったのがわかった。
資料には旅の目的、自分があげるべき成果、昇進の為の試験管である各町のジムリーダーのエキスパートタイプと対策の詳細が書かれていた。
そして、短期的な目標を三カ月分。そしてそれを達成する為に自分に何が必要か。タイプのバランスを考えたチーム構成が数パターン書き込まれている。
「これは……」
父は手に取った資料を一瞥して驚き、目を丸くした。
「娘さんが作った計画書です。ポケモントレーナー、ひいてはプロになる為に何が必要かを自分で調べ上げて作成しました。ポケモン研究の権威プラターヌ博士のお墨付きです」
「本当に、これだけのものをジョゼットが……」
「確かです」
先生は落ち着きをはらって言った。それから母親は鋭い眼で先生を睨みつけていたが、父親は食い入るように資料を読み込んでいる。
「具体的な話をしましょう。
娘さんは捕獲や戦闘といった実技の成績はあまり良くはありませんが、座学に関しては他のどの生徒よりも優れています。もし、『才能がない』というのが現時点の実力を指して仰っているのであれば、些か早計ではないでしょうか。それはある程度経験を積めば十分改善可能かと。もしより高度な訓練を望むのであればプラターヌポケモン研究所への推薦状を準備させて頂きますが?」
「馬鹿な」まるで悪い冗談を聞いているかのように父は肩を竦めた。
「あの研究所はカロス地方の中でも5本の指に入る程の名門だよ。失礼を承知で言わせてもらうが、君の様な若い教師の推薦状がどれほどの効力をもつか、私には疑問だよ」
「私は所長のプラターヌ博士に対して、その……」先生は一瞬非常に苦々しげな表情を浮かべ、少し顔を背けたがすぐさま父に向き直った。
「極めて個人的なものではありますが太いパイプを持っています。その上彼女の成績であればプラターヌ博士の助手見習いとしての採用は十分に実現可能であるかと」
確かにあの名門で働く事が出来るというのはカロス地方の人間にとってエリートの証。ステータスだ。だが、――ジョゼットは自分の望む形と少しずれて来ているのを感じた。
自分がなりたいのは研究者ではなく、トレーナーなのだ。
先生の思惑が見えずに困惑している。
「折衷案として研究者としての道を推すのかい。確かに娘の性格ならポケモントレーナーよりも向いているのだろうが……」
「いいえ。私が研究所を推す理由はそれだけではありません。研究者からポケモントレーナーに転向するケースは意外に多いのですよ。そして、ポケモン研究者として博士号をとれば職業的な潰しが効きます。ポケモントレーナーとして大成しなかったとしても、将来的に必ず役に立ってくれるでしょう」
それはポケモントレーナーだけが自分の道じゃないと、示すと同時に少しでも可能性を引き上げる為の手段である、という考えに至るのにそう時間はかからなかった。
確かに、プラターヌポケモン研究所への弟子入りはポケモンに関する見識を深める為には最高の環境だ。
「彼女は本気です。強引に抑えつけたとしても、考えを変える事は無いでしょう。いずれ必ず同じ事を繰り返しますよ」
「だったらなんですか! この子がまた今回の様な事件に巻き込まれたらどうするの! 衣食住は!? 不確定で危険な仕事に就けるなんて冗談じゃありません、子供の将来がかかっているのですよ!」
先生はしばらく何かを考える仕草を見せて「重要なのはそこですか……」と口の中だけでそう呟いた。再び両親に向き直った。
「確かに親御さんの立場からするとそうかもしれませんね。ポケモントレーナーという職業は経済的に不安定で、心身ともに危険も大きい。特にそれだけで食べていけるトレーナーと言うのは本当に一握り限り。……そこは認めます」
落ち着きを払った声で肯定した。
「……ですが、本気であることを示している相手に対して『危ないから』『食べていけないから』といった理由だけで、成果を上げる機会も与えずに問答無用で却下するのはあまりに理不尽ではないでしょうか?」
「だから無謀な挑戦でも応援してあげろって言うのですか? 転んで大怪我をすると分かっていながら!」
「傷ついて、打ちのめされても、それを覚悟の上で立ち向かう。挑むとはそういうことですよ」
「この――ッ!!」
パァン! と室内に乾いた音が響いた。
唐突に母が先生にビンタを見舞ったのだ。
「お母様、何を――ッ!」
反射的に立ち上がりかけたが、父に制された。目線で促されるまま、母の横顔を見る。酷く傷つけられた母の顔を見て愕然としてしまう。人の唇とはあんなにも震えるものなのか、と場違いな事を考えてしまった。
「夢を諦めた人には傷つく覚悟がなかったとでも……!? 好きで諦めたとでも……」
絞り出すかのような声だった。
自分には理解が及ばなかったが、先生の言葉が母の何かを刺してしまったのだと予想がついた。だが、先生は怯むどころか、更に切り込んできた。
「全力で走って、転けたら大怪我をするでしょう。けど、例えそうだとしても、彼女は温室の花じゃない。いつまでも大人が守ってやれるわけじゃないでしょう。苦しくても、辛くても自分自身の力で戦わなければいつまでも経っても生きることが辛いだけです」
「それで、もし失敗したらその代償は誰が支払うの!? あなたにその責任が負えるとでも言うの!?」
「責任なんて負えませんよ。自分の行動の責任は自分で負うべきです。そして、私は彼女が本気で自分の夢を追う事を望んでいる。なら、私は教師として、考えるうる最善のサポートで彼女の本気に応える! その覚悟がなければ、今この場に立っていません!」
母は何か言いたげに口をパクパクさせるが、言葉にならず、やがて疲れ切ったかのように椅子に持たれかけ目を覆った。
「熱意だけで何とかなる程、現実は甘くないわ……」
母は苦い声で嘯く。先生は少し悲しそうに首を左右に振った。
「しかし、これは彼女の人生です。そして貴女は親だ。彼女の将来について、口を出す権利はあっても、強要する権利はない。ジョゼット・ジョースターの人生は彼女の物だ。彼女が納得のいくものでなければならない。違いますか……ッ!?」
「……無謀な夢を追う人間は、その内どう頑張ったって越えられない壁にぶつかる。努力すれば報われる。そんなのはおとぎ話の世界だけよ……」
「ええ、知っています。そうして初めて『自分には才能がない』ということに気付いてしまう……。そうして自分自身に失望して、虚無感が自分の内側から食い荒らす地獄の様な日々を送ることになる。あれは、怖い……。うん、怖いですよね……」
被せるように言った言葉にその場にいた全員の驚いたような視線が先生に注がれた。
「貴方、まさか……」
「そのまさかですよ。……私も、かつて挫折した側の人間です」
思わぬ告白に誰もが言葉を失った。自分の憧れの存在でもあり、誰よりも強いトレーナーであると信じていた人の過去に驚愕するしかなかった。
セレナさんはその事を知っていたのだろうか。ふとそんな事を思ってしまい、胸に形容しがたい不快な痛みを感じた。
「……どうして……、それでも貴方はジョゼットの夢を、応援してあげられるの……?」
母は信じられないものを見る様な眼で先生を見つめ、私は息を呑んだ。
私も知りたかった。そこまで分かっていながら
投げかけた問いに対して先生は自嘲の笑みを浮かべる。
「…………それでも、私は悔しかったんですよ。不完全燃焼で終われる様な中途半端な気持ちじゃなかった。家族を養う為だと自分に言い訳して、向き合うことから逃げて、ずっと後悔し続けていた」
母は唇を噛んで先生から目を反らした。先生の言葉の一言一言が母の心に突き刺さっていくのをジョゼットは感じていた。
「けど、自分の小ささを知ったからこそ、自分がやるべき事が見えて、諦める前に出来る事がまだまだある事に気付けたんです。
そして、ごちゃごちゃ考えてばかりで、進む事も戻る事も出来なかった情けないオレを見捨てないで、支えてくれた人がいた。だからオレは、また立ち向かえた。結果、また後悔することになるかもしれない。苦渋を味わう事になるかもしれない。それでもッ、だからこそ――なりたい自分に少しでも近づきたいって気持ちは人から否定されるものなんかじゃねえッ!!」
普段穏やかな先生が荒々しい声で吠えた。感情を剥き出しにした先生に父も、母も、そしてジョゼットもただ、ただ圧倒された。
だが、だからだろうか。彼の言葉は酷く響いた。恐怖で一杯だった心に温かなものが注がれ、ゆっくりと熱が浸透していく。こんな自分の可能性を信じてくれることがただ、ただ嬉しかった。
「言葉が過ぎました。お許しを」
落ち着きを取り戻した先生は咳払いをしてそう言った。
「諦めるのは簡単です。ただ力を抜いて状況に流されてしまえばいい。でも、それをした瞬間、自分が欲しいと願ったものは永久に手に入らなくなる。欲しいものがあるなら、苦しくても、辛くても、ひたすら足掻くしかない。意志の伴わない決断は必ず泥沼に嵌るということも……かつて、自分の夢を持っていた貴女なら分かる筈です」
「私がそれを強いているとでも言いたいの?」
「親からの言葉というものは良くも悪くも子供にとって本当に重いものなんですよ……」
沈痛な表情から発せられる言葉から妙な実感が込められていた。
「…………気持ちだけで何とかなる程、現実は甘くないわ」
「その通りです。熱意や気合で何でも出来るなんて非科学的なことはいいません。ですが、八方塞がりの状況を打開するには有効な手段だと考えています」
母は俯いて唇を引き結んだ。
「……失敗した時の娘さんの気持ちを慮る貴女は優しい人なんでしょう。ですが、その優しさはジョゼットさんを見ていない様な気がするんです。そうではなく、彼女を信じて、助けになってあげてください。それが、きっと彼女の力になるはずです」
「……お母様」
「…………………、勝手にしなさい。私はもう知らないわ……」
震える声は小さい癖にいやに耳に残る。
母はこれ以上耐えきれないと言わんばかりに立ち上がり、教室を去っていった。
その小さな背中にジョゼットは痛みを覚えた。
自分の記憶の中の母はいつだって恐ろしく、絶対的なものだった。
あんなにも弱いお母様の声、聞いた事がない……。
「すまないね」
静寂の中、ポツリと放たれた父の声は水面に落ちる水滴のようだった。
「此方こそ出過ぎた事を言いました。重ねてお詫びいたします」
「…………あれは昔、ピアニストを目指していてね、指先が割れるほどの、凄まじい程の努力を重ねていたのだが、芽が出ず結局挫折してしまった。あれは夢破れた時の辛さをよく知っている。だから、ジョゼットに自分と同じ思いをしてほしくない、とよく言っていたのだよ」
「貴方は、どう考えているのですか?」
「『挫折の苦しみを味わってほしくない』その点は私も妻と同意見だ。だが、……正直わからないな。私はコレが私たちへの反発や、若者にありがちな華やかな職業への中途半端な気持ちで『ポケモントレーナーになりたい』と言っているのだと思っていたが、どうやら違うようだ」
「私、……中途半端な気持ちで言ったわけじゃありません……」
「だが、私たちにはそうは見えなかった。……いや、この言い方はずるいな。『そう見ようとしなかった』と言う方が正確かもしれない」
これは後悔、悔恨、懺悔。それらすべてを吐き出すように父は告白する。
「『こんなことなら夢なんて見なければよかった』。それが諦めた日に妻が言った言葉だ。あんな悲痛な声は、後にも先にもあのときしか聞いたことがない」
ああ、そうか。
唐突に腑に落ちる。お父様もお母様も苦しんでいたんだ。
何も分かってくれないと感情任せに反発していた自分が恥ずかしい。
良く考えれば分かった事だ。彼らだって人間だ。自分と同じように感情がある。
そしてこの人は夢破れて後悔し続けてきた母を間近で見続けてきたからこそのものだったのだろう。
だというのに、――どうして私はいつもこうなんだろう。
自分のことで一杯一杯になって周囲の人の気持ちにまで気が回らない。
そんな言葉で、こんな結末が欲しかったわけじゃない。けど、先生を責める事は出来ない。
先生は私の為に汚れ役を引き受けてくれた。こうなってしまったのは自分が不甲斐無いせいだ。初めてピカチュウを捕獲したときも、今回もこの人が傍にいてくれるだけでどんな困難も乗り越えられるような気がした。この人がいてくれたら――お母様も分かってくれるかもしれない。そう思っていた。
けど、それじゃあ駄目なんだ。
私が望むのなら、先生に頼ってばかりじゃなくて、私がお母様にちゃんと自分がどうしたいかを言わないと。言って、分かって貰いたい。そして、ちゃんと胸を張って、自分の夢を叶えたい!
例えそれが叶わなくても、自分の意志は自分で伝えないと。私はまだ、自分で何一つ貫き通せていない!
そう思った瞬間、胸の中で何かが弾けたような気がした。
気付けば既に席を立っていた。
「私、行ってきます!」
弾むような自分でも驚く程、威勢のいい声がでた。
教室を飛び出し、母を追う。階段を駆け下りて、玄関で急いで靴も履き替えもせず、追いかける。校門のところでようやく後姿を確認した。
「待って!」
呼び止めても母は足を止めてくれない。
全力疾走で息がはずみ、心臓が爆発しそうだ。それでも、
「ママ!」
顔を上げて母の手を掴んだ。
「離して……」
「離しません! 話を、お話、しを聞い……てもらえ、るまで、意地でも……!」
必死に息を整える。ママはやっとこっちに振り返ってくれた。
「…………、言っておきますが、貴方の進もうとしている道は貴方以外の沢山の人も目指しているのよ。そして、その中の殆どの人が夢破れて去っていくの……。
このままいけば、貴方は、将来後悔する事になるわ。必ずよ」
白い、白い石のような表情。覇気のない声は何よりも悲しそうだった。
自分の力が及ばず夢を諦めた人の悔しさや苦しみが今なら理解できるなんて、綺麗事は言えない。私は未だにスタートラインにさえ立ててすらいない。
きっと母の言う通り、私はこれから今まで感じていた以上に苦しむのだろう。
だけど、だとしても――
「ママ……。私はね、自分が上手くいかないのは、ずっとパパとママの所為だって思ってきたの。でも、そうじゃない。私が……。
夢を叶えるためには立ち向かう必要があって、私は今までパパとママに分かって貰う為に、本気で立ち向かう事から逃げて来たんだと思う。
ママの言う通り望まない結果になって、傷つくかもしれない。でも傷ついたっていい! それでも、私頑張りたいの!」
どんなに泣いても、苦しくてもその道を選んだのは自分だ。
それに、きっと苦しいだけじゃない。
そして、私もママもいつの間にか大前提を忘れている。
「ママは今でも、ピアノが好き?」
「――――――ッ!」
息を呑んだのがわかった。
「私はポケモンが好き。ポケモントレーナーになりたいだなんて、最初はママの言う通り、ぼんやりした憧れだったけど、ピカチュウさんと過ごして、一緒に遊んで、バトルして……」
そうやって過ごす日々が何よりも愛おしくて――
「もっとこの子の魅力を知りたい。もっと力を引き出してあげたい。私はピカチュウさんと一緒にプロになって、一番強いトレーナーになりたい! ポケモンバトルが――ううん、ポケモンが好きだから」
「その為に一生を棒に振る事になっても?」
「はい。どれだけ反対されても、この気持ちが変わる事はありません。私はポケモントレーナーになります」
「………………、許さないわ」
絞り出すような声だった。だが、それを聞いたとしても、心が委縮することはなかった。
何を言われても、もう揺るがない。
今は認めて貰えなくてもいい。頑張って、結果を出して、改めて認めてもらえばいい。
深い、深い礼をして踵を返す。その時だった。
「ジョゼット、私はまだ許していないわ!」
3
嗚呼、離れる。離れて行く。大切な私の娘。私が守ってあげないといけないのに。
もう、止められない。もう、駄目なんだ。
ディーオと違って、ジョゼットには才能がない。だから、自分の様になってほしくなくて、私の考える最善の人生を歩んでほしかった。
小石をどけて、綺麗に舗装して、決して怪我をしない様に大切に、大切に育ててきたつもりだ。
でも、何処で間違えたのだろうか?
いつからかディーオも、ジョゼットは私に心の底から笑いかけてくれることがなくなってしまった。
嫌われてもいい。子供たちが幸せになってくれさえすれば、私は何も要らなかった。
だけど、ディーオは家を飛び出し、今度はジョゼットまでも私の傍から離れようとしていく。私と同じ苦しみを味わってほしくないのに、娘は自分から茨の道に近づいていく。
挫折するのを分かっていながら、どうして黙って見ていられようか。
「ママは今でも、ピアノが好き?」
ぶつけられた質問に思わず怯んだ。
コンクールで失敗すれば内臓が引っくり返る程悔しくて、上手く演奏できて、沢山の拍手を貰えると飛び上りたくなるほど嬉しくて――――そんな気持ちにさせてくれるピアノを、自分は確かに愛していた。いや、今でも愛している。
…………………………そうだ。本当は心の何処かで分かっていた。
自分のしている事は、ジョゼットの為になっていない。
『彼女は温室の花じゃない。いつまでも大人が守ってやれるわけじゃないでしょう。苦しくても、辛くても自分自身の力で戦わなければいつまでも経っても生きることが辛いだけです』
本当に、腹立たしい程にその通りよね……。
無傷で最善の道を生きていけるのなら良かった。
けど、そんなものは何処にもない。躓いて、転んで、泣いて、挫けて、傷だらけになって――――それでも起き上がって、前に進む。自分がかつてそうしたように、ジョゼットもそうしていくのだろう。
「私はまだゆるしていないわ……」
「許して。ママ……」
目頭が熱くなり、決壊した。
本当に愚かしい。自分はただ、自分のエゴを娘に押し付けていただけで、彼女の本当に願った事を見ようとはしなかった。
直視したら、その眩しさで目が潰れてしまいそうで……、妬ましくて……。
だから、彼女を支配しようとした。本当に度し難い……。
最愛の娘に縋る様にしがみついた。
「ママ、ごめんなさい……。私は悪い娘です……」
「いいえ、いいえ。貴女を苦しめていたのは私の方……。ジョゼット、愚かなママを許して……」
「うん……。うん……」
ジョゼットも同じ様に背中に手を回す。
喜びが胸を満たし、2人は並んで眩しい光の中にいた。
4
教室の窓から様子を窺っていたアトリは安堵の息を吐いた。
「なんとかなりましたか……」
他人の家の事情に口を挟むのは本当にハードルが高い。
これだけ胃が痛むのは久しぶりだ。出来れば今後こういう事は謹んで遠慮させてもらいたい。
「ジョゼットは成功すると思うかね?」
「そればかりは蓋を開けてみなければ分かりません。ですが、失敗することを否定的に捉えないでください。失敗したとしても、案外なんとかなるものですよ。
仮になりたいものになれなかったとしても、そこで終わりじゃありません。
道は続いていて、必ず違う道があるんですから」
『挫折』とは限界ではない。オレは挫折する事によって、時間はかかったが、自分が次にやるべき事を見出した。挫折は次のステップに進むための壁だ。壁を叩き壊す力がなければ、回り道をしてもいいし、梯子を使って登ってもいい。
そうやって皆、次のステップに進んでいくのだろう。
そして、オレが今やるべき事は――――ジョゼットの父親に向き直り、思いっきり頭を下げた。
「重ねてお詫びします。本ッ当に! 申し訳ありませんでしたッ!」
人様の家の事情に土足で踏み込み過ぎたことへの謝罪である。
こんなに出しゃばるつもりは無かった。ポケモン研究所の見習い研究員としての進路を用意し、スマートかつソフトに説き伏せるともりだったというのに。
あの母親に反抗したくなったのは、完全に自分の我儘だ。そして、その我儘が拗れさせてしまった。何故オレは、こんな風にしか出来ないのだろうか。
嗚呼、穴があったら入りたい……。
「……娘は随分と君を信頼している様だ」
「えっと、恐縮です」
目一杯の謝罪はさらっと流され突然話が飛んだことに困惑を隠せない。
「これからも娘が迷った時は力になってやってくれないか」
「……え、ええ。全力を尽くします」
あれ? これ許してもらえる流れ?
その割に父親の目が笑っていない事が気になったが。
「ところでその首筋の傷は大丈夫かね?」
「え、ええ。ちょっと、虫に刺されまして……」
セレナに嚙まれた首筋の傷を大きめの絆創膏で隠していた。
肉体的ダメージと精神的ダメージ。両方狙ってきたわけか。
あやつめ、やりおるわ!
しかし、向こうはその気がないだろうとはいえ、意中の相手につけられたキスマークだ。男としては満更ではなかった。
「そうかね……。ところで、話は変わるが、もし信頼されていることを逆手にとって年端もいかない娘に手を出すロリコン淫行教師は父として制裁を加えるべきだろうが、どう思うかね?」
「天地神明にかけて、相手は娘さんではありませんです、はいッ!」
なんだよジョゼット、超愛されてるじゃん!!
5
そんなやりとりを影から伺う者がいた。
アトリが『学長』と呼び、慕うこの老婆はホロキャスターの通信スイッチを入れた。それほど間を空けずに赤いフードを被った人物が姿を現す。
『私を呼び出したということは嬉しい報告をしてくれるのでしょうね?』
獲物を値踏みするような視線にさらされ『学長』は震えあがった。
報告を上げようとするが、『学長』は口の中が渇いていたのか、声がかすれた。
「……はい、大幹部様。貴方様の指示通りに事は運んでいます」
『それは重畳。貴方はそのまま対象の信頼を得る事に努めなさい』
「はい。……しかし大幹部様、重ねてお尋ねしますが、あの少年は本当に我々にとって必要な存在なのでしょうか? この3カ月彼を監視してきましたが、あの若者の秩序を重んじる気質は我々と相容れるものでは――」
『彼は強いわ。そして、心の奥底に怒りが燻り続けている。父親への、自分の境遇への、世界への激しい怒りが。今の彼がこの世界の本当の姿に気付けば、必ず私たちの誘いに乗るでしょう』
「…………そうだといいのですが」
『私の計画に異論でも?』
「いいえ! いいえ、滅相もございません」
滑らかな声は毒の様だった。
『学長』は震えあがり、即座に頭を垂れた。
自分よりも遥かに年下ではあるが、彼女を怒らせてはならない。それは自身が所属する組織において暗黙の了解ともなっている。怒らせたが最期、その人物は生きたまま体を焼かれる苦痛を味わい尽くす事になるだろう。
「決して異議を唱えている訳ではございません。お許しを」
『……まあ、いいでしょう。別命を降すまで、引き続き対象との信頼関係を構築しなさい』
「はい、大幹部様」
『学長』が応え終わる頃にはホロは既に消えていた。
6
通信を切った大幹部は妖艶な笑みを浮かべた。
『あの少年は本当に我々にとって必要な存在なのでしょうか?』
その質問の稚拙さが、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて滑稽に思えてくる。
必要に決まっている。…………ただし、組織にではなく自分に、ではあるが。
怒りの申し子である彼ならば、破壊の繭『Y』を目覚めさせるキーとなりえるだろう。
彼の出番は今ある全ての物を焼き払い、破壊し尽くした後だ。
極悪非道な『フレア団』を打ち倒した若き英雄。万人受けするプロパガンダとしては十分すぎる。
堕落しきった世界をあるべき姿へ作りかえる。そして、美しく生まれ変わった世界を支配するのは――――その為に。
「必ず貴方を手に入れる」
獰猛な笑みは闇の中へ深く、深く溶けていった。
またまた評価をくださった方々、本当にありがとうございました。
おかげさまで3/8のランキングに載るという快挙を遂げさせていただきました。
感無量です。支えてくださった皆様、心から感謝いたします。