1
母さんには言っていない。
失踪した父親が、一度だけ電話をかけてきたことを。
かかってきたのは地下通路入り口の事務所。何処で嗅ぎ付けてきたのか、最近勤め始めたばかりの職場だった。
内容は金の催促。そこで初めて聞いた事実は借金を父の弟であるプラターヌ博士が払ってくれる、ということ。
『あんたはそれでいのかよ?』と投げかけた問いに対してあいつは『払ってくれると言っているのだからいいんじゃないか。あいつは俺と違って金持ちだからな』と言って気にも留めていなかった。
――――嗚呼、本当に、
『それより金を持ってないか? 働いてるんだから、少しくらい都合がつくだろう?』
――――なんてクズ……ッ!
その言葉は、僅かに残っていた『肉親としての情』を捨てる理由としては十分過ぎた。
毎日借金取りに断続的に浴びせられる罵声。
大事なものを手放して泣いていた母さんの姿。
こんなクズの所為で、何もかも――!
自分の中にこいつの血が半分でも流れていると思うと、寒気がする。
オレはオレのプライドにかけて親父の様なロクデナシのクズには絶対にならない。
親が親なら子も子だなんて、絶対に言わせてなるものか。
安定した職に就いて、真っ当な生き方をするんだ。
誰に恥じることなく、胸を張って生きていけるように。
ポケモントレーナー? 才能ないからやめちまえ。
必要ないなら切り捨てろ。
表と裏を巧みに使い分けろ。
大人に、一人で何でも背負える大人になるんだ。
そして、必ず全部取り戻す。
2
「うーん。シンオウに比べてカロスの物価はちょっと高いわね」
メイスイタウンの朝市に来ていたサキは苦笑しながら一人こぼした。
「でも、物は本当にいいのよねえ」
市場に出ているどの商品も鮮度、品揃え共にシンオウ以上に充実している。
カントー地方、ジョウト地方、ホウエン地方、シンオウ地方、イッシュ地方。数ある地方の中で最も食文化への関心が高いのがこのカロス地方だ。その食文化を語ろうと思えば、分厚い論文が一つ出来上がる。
「奥さん、いかがです? ミアレシティでも出店している当店自慢の一品『ミアレガレット』!」
「あら、美味しそうね」
「今なら焼きたてが出せるよ! ――って!?!?!?!?」
店主は思わずサキを二度見した。
『まさか』という気持ち。『もしかして』という期待。
その疑問を解消すべく、固唾を飲んで、彼女に尋ねる。
「も、もしかして、まさかとは思いますが……サイホーンレーサーのサキ、選手……ですか……?」
「そうよー?」
「ッッッ!!!!!!!!!!」
まさかの肯定の言葉に店主の男は目を白黒させてダッシュであっちへバタバタ、こっちへバタバタ何かを探し出すように漁っている。そして出てくるや否やメモ帳とペンを徐にサキの前に差し出して首を垂れた。
「ファンでした! サインしてください!!」
サイホーンレーサー『サキ』。サイホーンレース発祥の地にして、メッカであるこのカロス地方に住んでいてこの名を知らない者はいない。
彼女は彗星の如く現れ、その卓越した技量でありとあらゆるタイトルを総なめにし、整ったアイドル的な容姿も相俟って圧倒的な人気を博した伝説的なレーサー。
その人気ぶりは社会現象にまでなったほどである。
一般人の男性と結婚を期に、引退してサイホーンレースの世界から姿を消すが、その神話的な存在感故に、今なお根強い人気を残している。
店主もその内の一人だった。
「あら、嬉しいわね。引退して随分経つのに私を知ってくれている人がいるなんて」
はにかみながら手帳とペンを受け取ってサインをしていく。
「はい! 自分たちの世代であなたはヒーローであり、アイドルでしたから!」
「ふふ、ありがとう。これからも贔屓にさせてもらうわ」
サインだけではなく握手にまで応じてもらえて憧れの選手を前に店主は窒息寸前だった。
「カロスに戻ってきたということは、もしかしてカムバックですか!?」
「いいえ、残念ながら。けど、アサメタウンでサイホーンレースの教室を開く予定ではあるわ」
「――ッ!! 本当ですか!? あなたにコーチしていただけるなら、是非とも家の坊主も通わせたいですね」
「お待ちしてるわ。ビシ! バシ! いきますからねー」
『おい、この先だろ!?』
『急げ、いいところ見逃すぞ!』
そのままご近所トークに花を咲かせていると、喧騒が耳に飛び込んできた。
周りを見回すと、1番道路に走っていく町の人間の姿が目に留まる。
『何かあったのだろうか』というサキと店主の疑問に答えるかのように店主の屋台に少年が駆け込んできた。
「とーちゃんとーちゃんとーちゃん!!! たいへんたいへんたいへんたいだよ!」
「コラ。お客さんの前で騒がしいぞ、ジャン! そして切るところが違う!」
「うわっと! ご、ごめんなさい」
「いいのよ。それより、変態がどうしたのか教えてくれる?」
「変態じゃなくて大変! 今、アサメの小道でセレナ姉ちゃんがバトルしてるんだよ!」
「それくらいで騒ぐな。どうせいつもみたいに圧勝だろ? このあたりであの嬢ちゃんに勝てるトレーナーはいねえからな」
「それが相手がめちゃくちゃ強くて、押されてるんだ!!」
「何ィ~~~~~ッ!?」
店主は耳を疑った。アサメタウンのセレナといえば、有名ポケモントレーナーを両親のもとで英才教育を受け、名門トレーナーズスクールを主席で卒業した才女である。
このあたりのポケモントレーナーで彼女に勝てるものはおらず、末はチャンピオンと将来を渇望されている地元のホープトレーナーだ。
その彼女が、どこの馬の骨ともわからないトレーナーに押されている。――あり得ない!
「あ、相手はどこの誰だ!?」
「わ、わからないよ! この辺では見かけない奴だったもん!」
「流れ者か? こんな田舎にどうして――ってサキさん、荷物置きっぱなし!」
走る。走る。走る。
隣の家に住むポケモントレーナーを目指す女の子の名前。
プラターヌから聞いていた息子の他の4人の子供たち。
そして、大人の都合で振り回された末に雁字搦めになって、自身の夢にピリオドを打ってしまったアトリ。
何かが変わるかもしれない。何かが変えられるのかもしれない。
胸にわだかまった微かな期待。希望的観測かもしれない。
だけど、それでも――!
たった一人の息子に、死んだように生きてほしくはない。
それだけを想い、アサメの小道に走った。
3
サナ。トロバ。ティエルノ。
そして、集まり始めていたギャラリーもこの不思議な昂揚感に包まれていた。
ムックルと相対するのは災いポケモンと呼ばれていたアブソル。
アトリは人差し指でこめかみを軽く叩いた。ムックルの得意とするのはそのスピードと多彩な空中機動で相手を翻弄する奇襲、撹乱戦法。当然、戦略パターンもそれに準じたものが多い。
対するアブソルは素早さこそないものの、高い打撃力と未来予知にも似た第六感から相手の動きを先読みし、こちらの一手、二手先の対応が出来るムックルの天敵。
気持ちを切り替えるように浅い呼吸を一つする。
弱気を見せるな。不安はポケモンに伝わる……。
迷うな。トレーナーが迷えばポケモンも迷う。
「真正面からの殴り合いがご所望か。ならよォ!!」
相手の土俵で勝負するな。クレバーで強かに、立ち回れよ!
このバトルの主導権を握るのはセレナじゃない。このオレだ!
「お前のスピードでぶっちぎれッ!」
ムックルは羽を大きく広げ、大きく旋回する。アブソルとムックルの大きさ比は4:1。その体格差を生かして前後上下左右、縦横無尽に空を駆ける。
アブソルはその攪乱に一切反応せず、ただ静かに――何かを待っているかのように。
背後をとり、攻撃に転じようとした一瞬をめがけて、アブソルの『不意打ち』が決まる。
「ムックル!」
直撃をうけてムックルは目を回す。墜落する前にモンスターボールに戻した。
「ありがとな。――後出しジャンケンしている気分だな、チクショウめ」
「私の切り札よ。そう簡単には倒させはしないからね」
セレナの自信満々な顔とアブソルの踏ん反り返ったドヤ顔が見事にシンクロする。
腹立つなあの顔……。あのアブソル、ぜってえ性別オスだろ。
と、いう思考を片隅に置いといて、次に出すポケモンのことを考える。
今、アトリの手持ちは3匹。
まず昨日捕まえた隻眼のハッサムはアトリの手に余るので除外。
特性『日照り』によるブーストで手持ちの中で圧倒的火力を持つロコン。
決定力は劣るが手持ちの中でも最もタフで守りに長けているメリープ。
この面子の中であのアブソル相手に勝てる可能性があるとすれば――
「――メリープ!」
モフモフ自慢の電気羊メリープはバチバチと羊毛が弾けている。
張り切っているのか、いつもより余計に弾けまくっている。
「意外ね。あなたの切り札はあのロコンかと思っていたわ」
「確かにオレの手持ちのエースはロコンだ。けどな、エースを出すことが必ずしも最適とは限らない」
「ファアアア!」と、メリープは円らな瞳を細めて闘志を燃やしているのが、伝わってくる。
はやく指示よこせって? お前もやる気満々だな!
「クライマックスだ、一緒に熱くなろうぜッ! 挨拶代わりの――」
「アブソル『不意打ち』!」
「――コットンガード!!」
メリープのもっさりしたモコモコがさらにモフモフになって決まり損なった不意打ちの衝撃を吸収してしまう。
「『挨拶代わり』っていったら普通仕掛けてくるものじゃない?」
「そんな法則オレは知らん! ――10万ボルト!」
メリープの繰り出す十万ボルトをアブソルはお得意の先読みで危なげなく躱していく。
「回避に専念、迂闊に攻撃しないで。メリープの『静電気』で動きを封じられるわよ!」
攻撃に転ずるのは確実に仕留めるとき。と、アブソルには伝わっていた。
メリープの特性『静電気』。あの誰もが『触りたい!』『飛び込みたい!』と切望させるあの見事なモフモフは大量の電気を含んでおり、うかつに触ると痺れて動けなくなってしまう。
加えてセレナのアブソルには近接距離での直接攻撃以外に相手にダメージを与える術を持っていない。今は我慢のときだ。
「まだまだァ、10万ボルト!」
前進しながら連続して放つメリープの電撃は回避に専念したアブソルにかすりもしない。
一見すれば、破れかぶれで放っている攻撃。だが、その攻撃の裏に、アトリは何かを狙っている。
――10万ボルトでアブソルを誘導していることには気づいているわよ。アトリの狙いはあのポイント。あそこなら両脇の木が邪魔で回避ルートが2パターンまで絞り込まれる。ならその筋書きにあえて乗ってあげようじゃない!
アトリの思考をトレースしたセレナは勝利への確信を得て笑う。
あえてアブソルに指示を出さずに状況を静観。慎重にタイミングを計る。
そして、アブソルがアトリの狙いのポイントに立つ。
メリープの位置はアブソルの真正面。彼我の距離は約3メートル。
「10万ボルト!」
「辻斬り!」
――どんな強力な攻撃でも、受ける覚悟で受ければ、
「一度くらいは受けられるわ!」
「ヤバッ――コットンガード!」
ダメージ覚悟で突っ込んでくるアブソル。メリープはアトリの指示通り綿で身を包み、守りを固める。だが、セレナはそれすらも計算にいれていた。
「狙いはそっちじゃないわ」
アブソルはメリープを覆っているコットンガードのクッションを爪と角で引き裂いていく。
「これで、メリープは無防備ね」
10万ボルトはその威力故に技の発動までにほんの僅かなタイムラグが生じる。適切な距離ならば、それを補って余りあるコントロールと威力を発揮できるが、この距離ならば出す前に詰め切れる。
「チャージの時間は与えない!」
振りかぶったアブソルが放つ辻斬りがメリープに迫る。
その瞬間――メリープはあえて、一歩前に踏み出した。
最高速度に達する前にアブソルとメリープが激突。力負けしながらもメリープは決して後ろに下がりはしなかった。
「ゼロ距離なら!!」
メリープの10万ボルトをアブソルは右へ半歩移動してさらに一撃加える。更に左の爪でメリープを斬りつける。最早独壇場であった。
畳みかけるアブソルの攻撃が迫る。
いくらメリープがタフとはいえ、アブソルの攻撃を一方的に受けて立っていられるはずがない。誰もがセレナの勝利を疑わなかった。
次の瞬間、アブソルの動きがピタリと止まる。
「そんな、どうして――!?」
一方的に殴られていたメリープの眼は狙いを澄ますように、しっかりとアブソルを見据えている。状態異常『マヒ』。キーワードはアトリが最初に言った『挨拶代わり』。
アトリがその言葉を口にしたら相手の隙を見て『電磁波』を放つようにあらかじめ言われていた。派手に10万ボルトを連発したのは攻撃一辺倒の単純な攻めを相手に印象付ける為。
アブソルの動きが止まるのが先か、メリープが倒れるのが先か。そして、賭けに勝てたのは自分が傷つくにも関わらず、トレーナーのアトリに判断を預けてくれたメリープの信頼と根性があってこそ。
――ありがとう。トレーナーとして、お前たちを誇りに思う。
メリープのダメージは浅くはない。
だから、すべての力を振り絞って。
最後のバトルで全力を尽くせる相手になってくれたセレナとアブソル――そして、出会って、支えられてきた全ての人とポケモン達に感謝を込めて――最後の一撃の指示を出す。
「決めろォ!」――イエッサー!
電撃が直撃して、崩れ落ちたアブソル。
モンスターボールに戻すセレナ。
「ありがとう、ございました……」
――会えて、良かった……。
彼女と彼女のポケモン達に深く深く礼をした。
万雷の拍手の中、駆け寄ってきたセレナが差し出してきた手を、アトリは強く握った。
「最後にいい試合をさせてもらった。これでオレもピリオドを打てる……」
「本当に、トレーナーを引退するの……?」
「……ああ。オレの人生は、もうオレだけのものじゃない。だから、もういいんだ……」
僅かな後悔や未練はあるが、全力を尽くせた。
だから、この気持ちに蓋を出来る。セレナにタスキを託すことができる。
子供のころは、自分は何でも出来ると信じていた。
根拠はない。ただ、目の前には果てしない未来が広がっていて、毎日がキラキラしていた。
恐れはなかった。信じて、努力すれば、不可能なんてない。
どんな夢でも叶えられる。自分達にはそれだけの力がある。
そう信じていた。事実、厩舎で働きながら通っていたシンオウのトレーナーズスクールでは座学・実技共に常に主席を維持していて、その辺のトレーナー相手のバトルなら連戦連勝だった。自分とポケモンなら何処までも行ける。本気でチャンピオンを志し始めた直後だった。
父親がトバリのスロットで借金を作り蒸発した。母が経営していたサイホーン厩舎を妙な宗教団体の様な連中に地上げされて失い、オレは働きながらもますます研究にのめり込んだ。絶対にポケモントレーナーとして大成する。そして、厩舎を取り戻す。
それだけを目標に気が遠くなるほど、戦略パターンを練り込み続けた。
だが、オレが研究を重ねれば重ねるほど、比例して黒星が増えていく。如何すればいいか分からず、焦りと焦燥だけが心を焼いていく。そんな毎日の中――オレはポケモンを初めて3ヶ月にも満たない年下の女の子にオレは惨敗した。
彼女はオレが長年研究し続けてきた必勝パターンを悉く覆し、圧倒的な力の差を見せつけてきた。
8歳の頃から5年間。必死に研究を続けてきた。タイプ相性、各ポケモンに応じた戦略パターン、それによって立てられる対策への対策。対策の対策の対策に対する対策。螺旋のように続く思考を止めることなく、必死に進み続けてきた。
相手に対する侮りはあった。
自分に対する自惚れもあった。
だが、そんなものでは覆い隠せないほどの、絶対的な才能の差があった。
世の中には天才という評価では生温いほどの怪物が存在していたのだ。
それと同時にチャンピオンやプロになるのはこういう人間なのだと知る。
実力の履き違えがあまりに滑稽で、恥ずかしさで逃げ出したくなった。
心が折れた音がはっきりと聞こえた。
そのころからだ。
自分の中で天井が見えてしまったのは。
それを振り切るために努力して、成長すればすると同時にその天井は自身に迫ってくる。
焦燥。葛藤。才能。限界。――抜け出せない袋小路。そして諦観。
自分の才能に見切りを付けるには十分だった。
ある人は負け犬と言って嘲笑した。
ある人は仕方ないよねと言って哀れんだ。
ある人は悔し涙を目に一杯溜め込んで嘘つきと罵った。
それから三年間、これといって目標も働いて金を稼ぐだけの毎日が続いていた。
そんなときだ。父の弟であるプラターヌ博士が「カロス地方へ来ないか」と誘ってくれたのは。父の縁者である叔父さんへの複雑な感情はあったが、オレはこの提案に賛成した。もう、シンオウ地方には、もういたくなかった。
けど、これでよかったのだと思う。
情けなく逃げだした先で、こんなにも熱い勝負をさせてくれた。
だから、これでよかった。
でも、
「ああ、クソ……」
目頭が熱くなる。
もういいはずなのに――
諦められるはずなのに――
――どうして、『次』を考えちまうんだ……?
走ったって必ず目的地に辿りつけるわけじゃない。
成功するのなんて、才能と運を併せ持ったほんの一握りにすぎない。
それでも、溢れ出るこの衝動――諦めたくない……ッ!
モンスターボールの中にいるこの最高の仲間達と共に、どこまでも、どこまでも走っていきたい。だが、それは我が儘なのだ。
オレにはチャンピオンになれるだけの才能はないのだから。
泣くつもりなんてなかったのに、一筋だけ頬を伝った涙を慌てて拭う。
涙を悟られないよう、後ろを向く。
これから夢を追う彼女に「頑張れよ。応援してる」と。
それだけ言って人垣をかき分けてアサメタウンへと足を進めていった。