彼の目の前にいるのは、長い前髪のショートマッシュの女性だった。形の良い耳には青い小さなピアスがつけてある。白い肌に映えていた。
海空姉弟の弟であるアキの中の人と言われても、彼はてっきり男だと思っていたのでにわかには信じがたい。信じがたいが、なんとなく言葉だけでは説明しにくいと言っていた理由はそこにあるのだと推察できた。
そう試算するバーチャル宇宙人の中の人を名乗る彼を前に、せっかく足を運んでもらったのだからと相談事を口にしようとしたが、どこから話せばいいかわからず、ふと思いついた疑問を口にした。
「驚かないんですね、おれが女って事に」
彼は「ああ、まあ……」と曖昧な返事をしてから続けていった。
「多少は驚いてますよ。けど……外見と中身が伴わないなんて珍しい事じゃないですから」
どこか居心地悪そうな口調だったが、アキは少しばかり胸をなでおろした。
「それで、相談事というのは?」
彼が話題を切り替えると、アキは視線をテーブルに走らせてぽつりとこぼした。
「まー初対面の人に話すような事じゃないかもしれないんですけど……気持ち悪かったら言ってください」
「かまわないですよ」
そっすか、と小さく言って重い口を開く。
「おれ、どちらかといえば、プリキュアよりも仮面ライダーとかの方が好きだったんですよね。子供の頃」
アキはふと自身の幼少の頃を思い返した。母親からはよく、もっと女の子っぽい格好をしなさいと口を酸っぱくして言われた事も脳裏にたち込め、うんざりする。
意識的に気持ちを切り替える。
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それでなんとなく小学生の頃の友達は男が多かった。
中学生になると、どうも女友達とツルまないといけないという雰囲気を感じて、流れに従った。小学校で仲の良かった男友達も、おれから距離を置いてグループを作っていった。
別に女と遊んだりくだらない事を喋ったりするのが苦痛というわけではなかった。
けどある日アレが、まー、生理が来てから少しずつ侵食されるように変わっていった。股からとろりとした生臭い赤い血が出てきたから最初は病気かと焦った。身体もダルかったし。
家のトイレで青ざめて、場所が場所だけに親になんて説明すればいいのか悩んでるうちに、そういえばと思い出した。小学生の時に保険の授業で習った事がある。怖い病気じゃなかった気がする。
焦燥感に飲まれていたのは単純に生理という現象を忘れていたからじゃなく、おれには関係のない事だと無意識的に思っていたんだと気づいた。
すぐにネットで対処法を調べて、小遣いでタンポンを買うようになった。
そして風呂に入る前に、全裸になって洗面所の鏡を見るようになった。目や鼻、小さい肩、胸、腰つきに奇妙な違和感を覚えた。
怖いもの見たさ、というのは好奇心からくるものらしいとネットで見た。それは防衛本能の一つで、怖いものを知ることで対抗策を講じようとする働きを持つ。
だからかおれは裸のおれを眺めた。見れば見るほど違和感が膨れ上がり、気分が悪くなった。
しばらくして母親が、なぜ初潮を迎えた事を言ってくれなかったのかと問い詰めてきた。興奮が落ち着くと、小遣いでタンポンを買わせてしまった事と気づいてあげられなかったことを謝罪した。お祝いにと赤飯を食べたが、おれには初潮が全然めでたい事だとは思えなかった。誰だって股から血が出て不調になるのは嫌だろ。
子供を産める証でもあるらしいが、だったらこっちが産む覚悟を決めてから生理が来ればいいと思ったよ。当面は産まないのに定期的に不調になって苦しむなんて、人間の身体は不便だと呪いもした。
タンポンを買ってもらえるようになったのは助かったが。
ある夜、テレビで好きな俳優が「おれ」という言葉を使ってたのが、不思議と心に残った。全裸で洗面所の鏡を見ながら、おそるおそる初めての一人称を口にした。
「おれは、いったい……」
不思議と違和感が和らいだ。その時の事は今でも覚えている。ふっ、と胸が浮くような、ウサギが短く跳ねるような、小さな高揚感があった。
格好もシャツやズボンを好んで着た。長かった髪も短くしたが、おれは自分のぱっちりとした丸い目が嫌いだったから前髪は伸ばした。そうすれば自分の目も鏡に映った身体も、男の格好をしてるおれを奇異の目で見る他人も見ずに済む。
母親は男の格好をするおれが嫌らしく、せっかくの美人さんなのに、と事あるごとに文句をつけた。
そして学校の制服が嫌になった。スカートが嫌だった。プールの授業が嫌だった。トイレが嫌だった。
おれは学校に行けなくなった。
勇気を出して理由を親に説明したが、理解は無かった。
精神がおかしいと病院に連れまわされる日々に疲れたので、望まれるまま女の子を演じて高校に戻る事にした。髪も伸ばして、私服もワンピやなんかを着る。不登校者がいきなり登校してくるのも気まずいので、学校と話し合って適当に病気だったということにした。
そんなクソみたいな学生生活の中でも趣味みたいなのはあって、美術部に入ってた。
油絵を主に、キャンパスの中に空想上の男の自分を描いて慰めていた。描いて。この頃にはもう完全に違和感の正体を理解していたけど、答えを知ったって解決する手段は知らないし、実行なんてできやしない。
男だけ描くと周りから変な目で見られるから適当に女も描く。絵が好きというより、せいぜい手で抱える程度の四角い世界の中でしか、自分らしくいられなかったからだ。
幸いにも少しばかり才があって、美大に進み、親元を離れて女の子の強制から逃れることが出来た。
大学は服装も髪型も自由でよかった。なにより他人からの干渉が少ない。おれの格好にケチをつけるやつも、高校までに比べればいないも同然だ。
おれがVtuberを知ったのは、課題をこなす際のラジオがてらにYouTubeでゲーム実況動画を漁っていた時だ。
なんとなくのイメージとして知ってはいたが、個人勢の動画を見て驚いた。犬がゲーム実況している。明らかにおっさんのボイスの幼女がおしゃべりしている。何かになりたくてもなれないやつが、なりたい自分になっていた。
やってはみたかったが、どうも機材一式そろえるのにまとまった金が無い。学費も稼がなきゃならない。そこで企業系Vtuberのリクルートはないかと調べてみると一社だけ見つかった。
まだVtuberの知名度を押し上げた一社がいるだけの黎明期なだけあってか、割とすんなりと雇い入れられた。アプリケーション開発事業社の社内ベンチャーで、雇用形態は月給制のアルバイトだった。会社としてはモデル等の素材は社内で用意できるし、とりあえず流行りに乗ってみようくらいの感じだったんだと思う。
採用通知を受け、打ち合わせ兼顔合わせのために本社へ向かう。服装に迷ったが、アルバイトだしとゆったりしたパーカーとジーンズにキャップをかぶる事にした。
オフィス街から少し外れたビルのワンフロアに通され、パーティションで区切られた一室で最終調整が行われた。
資料に目を通すと前もって説明された通り、アイドル志望の前向きで明るい姉と、見た目に反して意外としっかり者の弟という二人組Vtuberのコンセプトだった。
演ずることになる弟の空海 アキのビジュアルは、ふわふわのくせ毛の男子高校生といった感じ。
これがおれか、と胸が躍った。嗚呼、男になれるんだと。気兼ねなく男として振る舞えて、男として見られるのだと。
おれはちらと相方となる女性を盗み見る。仲良くやっていけるか不安だったが、お互い抱えているものがあったせいかすぐに打ち解けられた。
活動は特別な企画等を除き、基本的には貸与されたPCや撮影機材で自宅にて配信を行う形となった。動画作成についてはチェックが入るが、公序良俗に反した場合などを除いて、キャラコンセプトを壊さない限りは基本的に好きにしていいとの条件だった。最低でも月に5本の動画投稿と2回のライブ配信が原則となり、スパチャは一割が入ってくる。
少しケチ臭い気もするし編集もこちらに丸投げだったが、おれからしてみればそんな事はどうでもよかった。
かくして社内ベンチャー、Actuary Onが運営するVtuber「海空姉弟」始動した。
アキを演じている間だけ、おれは昔からまとわりついてくる違和感を忘れられた。編集はクソ面倒だったけど、他のVtuberとのコラボも楽しかった。アキくん、と呼ばれることが嬉しかった。
アナリティクスを見るに、まだVtuber黎明期において絶対数の少なかった女性ファンを多く取り込んでいることがわかった。これも嬉しかった。おれを男として見ている女性がいるということだから。
けど、いま登録者数15万人越えの海空姉弟として認知されてるのは、アイドル願望のあるメンヘラ気味の姉と、それを応援する頼りない弟の二人組。当初のキャラコンセプトである、アイドル志望の前向きで明るい姉と、見た目に反して意外としっかり者の弟というコンセプトは真逆だ。
人気がぼちぼち出だした頃にやった、エイプリルフールネタとしてのキャラ崩壊がウケたのが原因だ。その動画の再生回数は群を抜き、普段はノータッチの運営の目に留まった。
試しにその方向でもう一回やってみようと言われ、あれよあれよと今に至る。
なよなよしたアキを演じるのが苦痛だった。責任者のプロジェクトマネージャーに相談したけど、それが人気を博していると言われて聞く耳もない。初期からのファンに申し訳なかった。
逆らって雰囲気や口調を戻すとチェックを通らず、しばらくして台本が渡されるようになった。
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ま、大体こんな感じです、とアキは短くため息をついて言った。
「見ました? ゾンビゲーやってる時のおれ。怖くって目つむって銃撃ってるのがウケたやつ。直前でナツさんがやってるの見てるのに、そこまで怖いわけねーっつの。台本ですよ、台本」
ふてぶてしく浅く腰掛けなおして、俯きながらつまらなそうに続ける。
「プロマネが得意顔で書いたやつですよ。あんなの、アキじゃないし、おれでもない」
「初期と変わったな、とは思いましたよ」
「ですよね!」
とアキは彼の意見に食いついたが、すぐに気を落とした。
「でもまーあれがウケてるんだから。慈善事業じゃない、仕事だからと言われるとなんとも……」
「どうして、きみにとってそんなにも重大な話をわたしに?」
「きっかけは羨ましかったからですかね」
「羨ましい?」
「人間は滅んだほうがいいだとか、素の自分というか、憎しみをそのままネットという社会に言えて」
反射的に彼の視線がアキを向く、アキもまた伏していた視線を彼にやっていた。
「あれは、別に……どうしてそう思った」
「勘というか、おれがそうだからですかね。人間なんて滅んじまえって思った事は山ほどありますよ。もっと素を出したいし、だから近い感じがしたってか……違いました?」
そんなことは、と言葉を濁しつつも、彼はなんとなくアキと馬が合った理由がわかった。
「だから相談しようと思って。トランスジェンダーを打ち明けた理由もそんなとこです、もうちょっと複雑なんですけど。キモがられても、どーせ会わないし。仕事の事は親に内緒だし、そんな仲いい友達いないし」
一通り吐き出して満足したのか、アキは背伸びをして言った。
「そんな折に宇宙民謡見てたら、ついぽろっとツイートしちゃって。その節はすみません」
ああ、と彼は記憶を手繰り寄せる。外見と内面が必ずしも一致するわけではないだとか、宇宙的リテラシーだとか。
「気にしないでください……登録者数も少し増えましたし」
お互いに小さく鼻で笑う。
「何か飲み物買ってきますよ」
と彼が席を立つと、アキが「あーいやおれがおれが」というどこでもあるようなやり取りをして。結果的に相談に乗ってもらったアキがコーヒーを二杯買ってきた。
一息つくと、それで結局と彼が切り出す。
「それで結局、辞めてしまうんですか」
「ぶっちゃけ編集がキツイんですよね、求められるハードルが高すぎて。演技なんかもスゲーダメ出しされるし……星神ってV知ってます?」
「名前だけは。編集は外部か社員がやってるのかと」
「それくらいのクオリティあるでしょ? 大変なんですよ、ホント。で、星神は
「わたしは不自然に思った事はないですけど」
「ですよね。気取りたいだけなんですよ、業界人を」
不満への当てつけのように、アキは残った氷を音を立てて噛み砕いた。
「ナツさんにこの事は?」
「このままだと続けられないってのは言ってあります。おれが辞めるのも仕方ないって感じです。あの人もかなり抵抗あるみたいですけど、彼女の抱えてる問題におれが口を出すのも……事務所の方は聞く耳持たずで。これから会社に掛け合いに行って、ダメならもう、かな」
「残念ですね」
「そういってもらえると、嬉しいです」
少しはみかみながらアキは言った。
「アキじゃなくなるのは残念ですけど、またVはやるんで。モデルはサンプルでも人気出せる人が目の前にいるわけですし」
しみじみと、Vtuberという仮想空間でしか自分でいられないアキは言った。アキにとってのリアルは現実には無いのだ、と彼は思った。
Vtuberをやる明確な理由はそこにある。Vというアバターでいる時だけ、視聴者という他者からのディスプレイ越しの視線、コメントという言語を含め、向けられたそれが対男性である限り、アキもまた他者に向けて男性でいられる。その双方向的な環境こそがアキにとってのリアルであり、おそらく唯一の居場所なのだ。
彼はアキの隣の席に置いてあるトートバッグに視線をやった。今日会社に向かう予定という事は、契約書の類もそこに入っているのだろうか。
「それだけ嫌な目にあっても、まだVtuberをするんですか」
「まあ、おれの居場所がキャンパスに縮小されるよりはマシじゃないですか」
そうですか、と彼はスマホを取り出した。
「電話番号教えときますから、もしマズかったり、話したいことがあったら連絡ください」
「え? あーいいんですか。でもまあ辞めるって事がすでに最悪にマズい事なんで、それ以上は無いですよ。今さら上からの指示の路線変更をなんとかできるなんてことは……」
「わたしは外部の人間ですから無理ですし、向こうも仕事ですからね」
「そっすよねー」
わずかに期待の色に染まった口調のアキが、トーンを落としてスマホを操作しながら言った。
「でも良かったですよ。宇宙人さんが真面目な人で」
彼は飲みさしたコーヒーを持つ手を一瞬止め、残りを一口で煽る。
「面談時は出来たら録音しといた方がいいですよ」
「その辺は一応の用意はあります。今日はありがとうございました。おかげでだいぶスッキリしました」
昼時が近づき、フードコートには人が多くなってきた。蕎麦だかうどんだかハンバーガーだかの空腹を誘う匂いが濃く漂いだす。
ちょうどいい時間なので二人は別れ、彼は喫煙スペースで一服した。
別れ際にアキはこれからも宇宙人さんと呼べばいいのかと尋ねた。それはつまり、おれは本名でもいいですという意味を含んでいた。
ある程度の信頼関係が構築された証拠でもあったが、彼はその提案を蹴った。
もう加護も切れる頃だろうし、と吸殻を捨てる。最悪の事態にはなりたくなかった。
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その晩、彼のスマホにアキから連絡があった。
『あ、宇宙人さん?』
というアキの声はわずかに震えていた。呼吸を整えるように一息ついて続けた。
『なんか、おれ、アキを辞めるってことが最悪だと思ってたんですけど』
彼はレトルトを解凍する電子レンジの前で慎重になった。
「はい」
『プロマネが言うには、Actuary On辞めたらVtuberできないみたいです、おれ』