今回はお昼頃にももう一本、別キャラの話(千二百字程度の短いやつ)を投稿予定です。
よろしければそちらの方もご覧いただければと思います。
また、前回とセリフが違うのは例によってコンの
私の一族、ドグラムア家はそれなりに格のある貴族であり、悪魔に呪われた家系だ。
ドグラムア家には数十年に一度くらいの周期で悪魔の呪いが降りかかる。
最初に呪われたのはドグラムア家の五代目当主であったヌレド=ドグラムア。
彼は昼間は善良な領主を演じながら、夜な夜な領民を攫っては血を吸い殺していたという。
そう、悪魔に呪われた人間は人の血を吸い殺す化け物になってしまうのだ。
その凶行に気付いた弟のカワド=ドグラムアによって討たれるまで、何十人とも言われる領民が犠牲になったとか。
それからだ。
ドグラムア家に悪魔の呪いが降りかかるようになったのは。
呪われる人間に法則性は見つかっていない。
男であった事も女であった事もあった。
当主の直系である事も、傍系である事もあった。
十代で呪われた者もいれば、六十を過ぎてから呪われる者もいた。
ただ一つ、全員がドグラムア姓を名乗っていた事のみが唯一の共通点だった。
そして一度呪われてしまえばその価値観は一変する。
共に過ごしてきた家族も、最愛の伴侶も、自分の子供達ですら
過去にはその悪魔の呪いに
その人は十日で気が狂い、理性を失った目で血を求めるようになった。
多くの人から少しずつ血を貰う事で、相手を殺してしまわないようにしようとした者もいた。
しかし、少しでも口をつければ血の魅力に取りつかれ、相手が死ぬまで口を離すことが出来なかった。
自分が呪われたという事実に恐怖し、行方を
その人はしばらくして領民を襲うようになった事で発見され、ドグラムア家の私兵団によって討伐された。
人を手に掛ける事を嫌い、自ら命を絶った者もいた。
全てに共通しているのは、誰も人間に戻る事が出来なかったという事だ。
これが私の一族に残された記録。
悪魔に呪われた人間は悪魔憑きと呼ばれ、表向きには事故や病気で亡くなった事にされるのだとか。
幸いと言っていいのか、一度誰かが呪われれば次に呪われるまで数十年という猶予があった事で、ドグラムア家は現在に至るまで存続する事ができている。
「ルミナ様への信仰を疎かにすると、悪魔に呪われてしまうよ」
私が小さなころから聞かされてきた
ドグラムア家は古くから標の神であられるルミナ様を信仰している。
それ自体は何も不思議ではなく、この
だけどドグラムア家の場合は他と少し事情が異なる。
戒めの言葉でもなんでもなく、実際に呪われているのだ。
もちろんドグラムア家はこの呪いをどうにかしようと過去に様々な手段で対抗してきた。
高名な神官に悪魔祓いを請うた事もあれば、呪いを解明しようと悪魔憑きの亡骸を腑分けした事もあった。
しかしそれを嘲笑うかのように悪魔の呪いは降りかかる。
そもそも呪われる周期が長すぎて効果があったかどうかわからない。
これならきっと大丈夫だろうと、何かをする度に安心して、代替わりして恐怖の記憶が風化した頃にまた呪われる。
悪魔の呪いは人の手に余るものだと、ルミナ様に深く信仰を奉じて救っていただく他ないという、ある種の諦めの言葉だったのだ。
そして現在に至るまで、悪魔の呪いは続いている。
信仰が足りないのか、あるいは救っていただいているからこそ数十年に一度で済んでいるのか。
きっと前者なのだろう。
実際に身内が呪われたのを体験すれば、その呪いが降りかからないように真剣に祈り、願うだろう。
しかしそれを知らない、伝え聞いただけの世代は、彼らほど真剣に祈るだろうか。
記憶は記録となり、恐怖は想像の中のものとなる。
早い話が、実感が持てなかったのだ。
ルミナ様への信仰を疎かにしたつもりは無いけれど、全霊を持って信仰を奉じたかと言われると頷けなかった。
最初は何かの間違いだと思った。
単なる錯覚、気の迷いだと。
私が幼いころから仕えてくれているメイドを、美味しそうだと思ってしまったのは。
それは
自分が人間ではない何かに変わっていく事に恐怖し、私は誰にも知られないように家の書庫を漁った。
あの
ただの脅かしの為の嘘であれば、実際に呪われる筈なんて無いのだからと。
もしかしたらそこに呪いを解く方法が書かれているんじゃないかと。
そしてみつかったのは最初に話した記録。
それはただ、私を絶望に落とすだけの結果に終わった。
悪魔憑きとなった者で助かった者は誰一人いないという事実。
私はこの時初めて、心の底からルミナ様に祈ったのだった。
我ながら馬鹿げた話だ。
普段からルミナ様を信仰していると言いながら、神に縋るしか無くなってようやくこれとは。
そんな自分を嘲笑いながら部屋に戻り、夜を待って窓から飛び出した。
本能的に理解していた。
今の私には、夜の大空を飛ぶ翼を広げられると。
遠のく我が家を振り返ることもせずに翼を羽ばたかせる。
もう戻る事は無いと思いながら、ひたすら遠くを目指した。
このまま居てはきっと私は誰かを殺してしまう。
私は、怖くなって逃げだしたのだ。
自ら命を絶つことは、怖くてできなかった。
それからどれだけ経ったのだろう。
一瞬だったのかもしれないし、長い間だったかもしれない。
口の中に広がる極上の美味で、私は理性を取り戻した。
駄目だと思いつつも口はそれを取り込むのを止めず、喉はそれを飲み続ける。
今まで口にした事のない味だったけど、これが人間の血であると確信があった。
同時に理解した。
私は人を殺してしまったんだって。
それを理解したとたん、霞がかっていた思考が澄み渡り、目の前の光景を理解する。
そこには小さな酒杯を持った男性と、人間サイズのミシロキツネが立っていた。
え?
周囲に私が血を吸い殺したであろう亡骸は無く、もしかして今のは空腹のあまりに見た夢だったのか。
良かった。私は人を殺してはいなかったんだ。
そう安心したところで私は自分の状態に意識が向いた。
私は今、長い布のようなもので全身を縛られ吊るされていると。
「え? え? 私、どうなってるの? 貴方はだれ?」
状況がさっぱり分からない。
何で私、縛られているの?
「門前にて倒れている貴方を見かけてね。何事かと思って近づいたらいきなり跳びかかってくるものだから拘束させてもらったよ。その分だと、もう大丈夫みたいだね」
彼の言っている意味を理解するのに少し時間を要した。
わ……私、人を襲ってたぁ!!
なんて事は無い。
ただ相手が強者だったから殺せなかっただけで、さっきのは夢でも何でもなかったのだ。
「ご、ごめんなさい」
結果的に何もなかったとはいえ、襲ったのはきっと事実なのだ。
拘束を解かれた私は、彼に謝罪する。
「気にせずとも構わないよ。私にとって、あれはじゃれ合い程度でしかないからね」
そんな私に、彼は何でもない風に言った。
「そうそう、私が誰かだったね。私はこの異界たるマヨイガに住むもの、キツネツキ。そちらの世界では異界神と呼ばれているよ」
その言葉を理解する事を、私の頭は一瞬だけ拒んだ。
彼は今、何といった?
それはルミナ様にも劣らない力を持つという、ルミナ様の神託によって広まった神様の名前。
キツネツキ神には人のように二本足で歩く動物の眷属がいるそうだ。
そして側には
……という事は、この方は本当に異界神キツネツキ様!?
わ……私、神様を襲ってたぁ!!!
心の中で絶叫しながら、私が知る中で一番の謝罪の姿勢を取る。
生殺与奪の権利さえ相手に差し出し、その覚悟をもって許しを請う。
そしてそれは
当然、この姿勢で許しを請うという事はそれだけの事をしているという事。
死構えと呼ばれるこの姿勢で謝罪した人は、ほとんどが殺されてしまうらしい。
その代わり、その覚悟に免じて
神を害するという罪。
普通であれば人間が神を害す事など出来ないのだけど、伝承に謳われるそれは本人のみならず一族郎党にも及ぶ神罰が下されている。
雷に打たれるといった直接的なものもあれば、近しい者たちが次々と不運や病によって命を落とすような間接的なものもある。
規模の大きいものでは、幾年にも及ぶ不作をもたらすといった国中を巻き込むほどの神罰もあったらしい。
きっと今、私の顔は恐ろしく青くなっているだろう。
「キツネツキ様、先ほどの無礼をお許しください」
死ぬのは怖い。
でもそれ以上に私のせいで家族やドグラムア家に仕えている人たちを神罰に巻き込むのが怖かった。
死構えにて謝罪の言葉を口にする。
せめてその罪は私一人に
「その謝罪を受け入れましょう。貴方の行いを許します」
……え?
ゆる……されたの?
目を開けるとそこにはほほ笑むキツネツキ様の姿。
それは最初から何でもない事だったというように。
その不敬は大した罪ではないというように。
実際にキツネツキ様にとっては子供がじゃれてくる程度のものであったとしても、血に飢えていた私には害意も殺意もあった筈なのに。
気付くと私は
胸に両手を当て、感謝の気持ちを表す。
「ありがとう、ございます」
ああ、その御慈悲に感謝いたします。
「あなた、薬籠をお持ちしました*1」
しばらくすると、籠のような物を持った小柄な狐人族の女性がやって来た。
ずいぶんと幼く見えるけど、キツネツキ神の呼び方からしてこの方が奥方様なのだろうか。
「ありがとう、メグリヒモク」
おそらくメグリヒモクというのが奥方様の名前なのだろう。
キツネツキ様もそうだけど、あまり聞きなれない響きの名前だ。
「ふむ、大きな怪我は無いようだけど、擦り傷なんかが多いね」
言われて自分の体を見てみれば、擦り傷や引っ搔いたような跡が多々見られる。
そういえばここまでの逃避行で人目を避けていた事もあって、狭い場所に身を潜めたり枝に体を打ち付けたりした事もあった。
きっとその時についた傷だろう。
ついでに言えば昨日ぐらいから空腹でふらつき、何度か倒れたのでその時かもしれない。
「まず先に怪我を治してしまおう。メグリヒモクよ」
その呼びかけにメグリヒモク様が薬籠の中から小瓶のようなものを取り出すと、中から霧が立ち込めてくる。
その霧は意志を持っているかのように私の体に纏わりつくと、みるみる内に傷が治っていった。
そういえばキツネツキ神は試練を乗り越えた者に神器を授けてくださる神でもあるのだとか。
きっとあの小瓶も、そんな神器の一つなのだろう。
傷を癒していただいた事に私が感謝の言葉を捧げると、キツネツキ様はとんでもない事を口にされた。
「せっかくここにたどり着いたんだ。屋敷に来るといい。歓迎しよう」
良く見ればここは門の前で、中には見たこともない様式ながら立派な屋敷が見える。
キツネツキ様が招いてくださっているという事は、そこはキツネツキ様のお屋敷な訳で。
え? …………えええええええええ!?
何故かキツネツキ様のお屋敷にお邪魔させていただく事になった。
キツネツキ様のお屋敷という事は、ここはキツネツキ神の神域であり神座という事で……
そして以前見た神託によって作られた劇によれば、
そんな場所を──神域という選ばれた一握りの者達だけが入る事が許される神聖な場所を──キツネツキ神を信仰していた訳でもない私が歩いている。
一度は恐れ多いと辞退したものの、結局は押し切られてしまった。
履物を脱がなければならないなどの慣れない規則に戸惑いながらも、テンコ様というキツネツキ様の眷属に案内されてとある一室にたどり着く。
そこで低い机を挟んでキツネツキ様と座って対面する事になった。
最初から座る事を想定してある為か、床が何かの草を編んで作られていて普通の床よりも座り心地がいい。
自己紹介から初め、何故私があの場所で倒れていたのかを簡単に説明していく。
もっとも、私自身どうやってここまでたどり着いたのかは覚えていなかったので、何を思い何をしていたかが説明の中心となった。
一通り話し終えると、メグリヒモク様が木製のトレーに何かを乗せてやってくる。
「食事の用意をさせておいた。せっかくだし、食べていくといい」
私の前に置かれた大きめのお皿の上には、焼いた卵で包まれた何かの料理が載っている。
これは、もしやキツネツキ神からルミナ様に伝えられたという異界の料理『オムライス』では?
同様にキツネツキ神から伝えられたという菓子『カステラ』・我が国の伝統料理『キャオシリブ』と並んでルミナ様が神託で好物と明言され、我が国に広められたという経緯がある。
とはいえ卵はともかくソースに使う果実や米という穀物が一部の地方でしか作られていない事もあって、多くの場合は豆などを使った代替料理だそうだ。
それなりに贅沢を知っている私でも本物のオムライスを食べたことは無い。
途端に、私のお腹がぐーと鳴った。
そういえば逃避行では果実などで飢えを凌いではいたけれど、なるべく人のいる所から離れるのに必死になって満足に食事が出来たことなんてなかった事を思い出す。
恐れ多くとも既にここまで来ておいて食事に手を付けないのもいかがなものかと、自分に言い訳をしながら共に置かれていたナイフとスプーンを手に取った。
鮮やかな卵の黄色と、それにかけられた紅いソースの対比が食欲を刺激する。
卵の匂いを楽しみながらフォークで切れ目を入れれば、中から顔を出すのはもう一つの赤。
小さめに刻まれたキノコや野菜が混ぜ込まれた穀物が、未知の味への想像を掻き立てる。
まずは卵の部分から。
ソースのかかっていないところをフォークで切り分け、口に運ぶ。
しっかりと火を通しながらふわっとしていてトロトロな食感を残した卵は、しっかりとしたコクがあって今まで私が食べていた卵とは別物に感じる味だ。
次にソースをつけて食べてみる。
果実のもつ独特な風味を濃縮して造られたソースは、その濃い味で自らを主張しながらも卵の味わいを邪魔しない絶妙な加減で味の変化をもたらしている。
スプーンを穀物の方に移してすくい上げれば、中から小さな野菜たちが顔を出す。
一口味わうと先ほどのソースで味付けされた淡白な穀物の中にある野菜の甘味とキノコの旨味が調和し、シャキっとした野菜の食感やキノコの持つ弾力がふんわりとした穀物にアクセントを加え、見事なコントラストを描いている。
卵と穀物、そのどちらもが単体で十分な御馳走だ。
それを今度は同時にいただく。
特に濃い味付けをされた穀物を卵が優しく包み込み、それを更にソースが引き立てる。
何度も味が入れ替わり、まるでいくつもの料理を続けて食べているかのようだ。
それでいて、最後にはすべてが混じり合い一つの味にたどり着く。
貴族の令嬢として相応に良い食事をしてきた筈の自分の記憶にも、これほどの料理は食べた事が無い。
これが異界の料理『オムライス』。
ルミナ様ですら
神々の為の食事と言われても納得できるこれを口に出来た幸運を噛みしめる。
時折付け合わせの野菜にフォークを伸ばしながら、私は最後の一片までオムライスを味わい尽くすのだった。
「さて、食事は楽しんでもらえたかな?」
オムライスの余韻に浸っていた私を、キツネツキ様の声が引き戻す。
「はい、とても美味しかったです」
幾つもの賛辞が浮かんでくるも、結局はこの言葉に尽きる。
如何なる賛美の句も、この美味を表現するには足りないと思わせるような食事だった。
「それじゃぁ、今後の話をしよう」
その一言で、気を引き締める。
既に帰る場所もない私にとって、これからの身の振り方は考えなければならない。
「私は君に二つの道を示す事が出来る。一つは悪魔憑きとして生きる道。悪魔憑きは人間より力が強く、様々な術を使え、遥かに長い寿命を持ち、老いる事が無い」
確かに悪魔憑きとなった私は人間の時とは比べられないほどに力が強くなり、空を飛ぶ翼を出したりなどの不思議な力が使えるようになっていた。
そうでなければ私のような一人で屋敷の外に出た事もない小娘が、ここにたどり着くまで生き延びるなんて事は出来なかったはずだ。
でもそれは……
「血を欲するあまり人間を傷つけ殺める事を嫌っているようだから、誰も傷つけることなく血を生み出すことが出来る神器をあげよう」
そんな事、当然分かっていると言わんばかりに告げられる言葉。
そこにあった衝撃の一言。
神器を……授けて下さるのですか?
だけど、そんな衝撃も、次の言葉の前にはさざ波でしかなかった。
「もう一つは人間として生きる道。望むのなら、君を人間に戻してあげよう。再び悪魔憑きになる事が無いように、不幸を乗り越える為の神器をあげよう」
え?
今、キツネツキ様は何といわれた?
私を……人間に戻す?
私は……人間に戻れるの?
「どちらを選んでも、望めば家まで送ってあげよう。知り合いのいない、遠き地へ向かうのもいい」
続く言葉が、上手く耳に入って来ない。
「人間に戻って家族の元に帰るか、悪魔憑きとして新たな土地で生きていくか、もちろん悪魔憑きのまま家族の元に戻るという選択肢もある」
逸る心を抑えながら、キツネツキ様の言葉を聞き漏らすまいと思考を回す。
「君は、どうしたい?」
その返答は決まっている筈だった。
だけど、言葉が出ない。
心が落ち着かない。
思考が纏まらない。
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「何かな?」
ようやく出た言葉は、最後に心に引っかかっていた
「キツネツキ様は試練を乗り越えた者に神器を授けてくださる神と聞き及んでいます。しかし、私には何の試練も与えられていません。それなのに何故、そうまでしてくださるのですか」
私が信仰していた神はルミナ様だ。
キツネツキ神はルミナ様とは親しい間柄だと言われてはいるものの、私はキツネツキ神に信仰を捧げた事は無い。
まして許されたとはいえ私はキツネツキ様を襲っているのだ。
それなのに何故。
聞く必要のない
何か企みがあるのなら答えてくれる筈もない。
疑ってはならない好意だったのかもしれない。
理由なんてない、ただの気まぐれかもしれない。
それでも、私は
これは、私が受け取っても良い物なのかと。
差し出されたものの強大さに、人の身で成しえぬ奇跡をさらりとやってのける神の力に、私は怖気づいたのだ。
「確かに私からは試練を課していない。だけど私が試練を課すのは
フェルドナ神は慈愛・勇気・知恵の三つの試練を乗り越えられたそうだ。
では、私はどうだっただろうか。
私はただ、逃げてきただけだ。
「君は悪魔憑きとなり、激しい吸血衝動に苛さいなまれながらも誰一人傷つけずに私の元へたどり着いた。それをもって、君が試練を乗り越えたと認めるよ」
見事だ、よく頑張ったなと言われた気がした。
悪魔憑きになったその日から、私は私が怖かった。
いつか私が私でなくなって、誰かを傷つけてしまうのが。
だから家を飛び出した。
私は、逃げ出したのだ。
だけど、キツネツキ様はそうは取られなかった。
悪魔の
それは誰も傷つけない選択をした、勇気とやさしさなのだと。
甘美な誘惑を振り切り、自分の元に辿り着いたのだと。
その意志は、神の試練を越えるに値するものだったと。
そう言われた気がした。
「悪魔憑きとして生きるのなら黒い鞘の短剣を手に取るといい。人間として生きるのなら白い鞘の短剣を取るといい」
テンコ様が二本の短剣を私の前に置く。
気のせいだったのかもしれない。
弱い心が生み出した、都合のよい妄想だったのかもしれない。
それでも私は、キツネツキ様の言葉に救われていた。
迷いなく白い鞘の短剣を手に取る。
羽のように軽く、手に馴染む。
まるで短刀から持ち主と認められたように。
「人として生きることを選んだんだね。では、少しの間だけ目を閉じて」
言われるままに、目を閉じる。
すると、少しだけ風が舞った気がした。
「うん、もう目を開けていいよ」
時間にして二十も数え終わらない程度。
それだけで、私の体には変化が生じていた。
舌で触れてみても牙は無い。
掌を思いっきり握り込んでも大した力は出ない。
その背から翼を広げることも出来ない。
私は、人間に戻っていた。
「悪魔との繋がりを断った。これでもう、悪魔の呪いが降りかかる事は無い」
「ありがとうございます」
両手を胸に当て、可能な限り頭を下げて最大限の感謝を示す。
「では、これからどうする?」
キツネツキ様の
答えは決まっていた。
「私は、家に帰ります」
認めてもらえたからこそ応えたかった。
肯定して下さったからこそ胸を張りたかった。
例えそれが、そうあって欲しいという願望だったのかも知れなくても。
私は誰一人傷付けることなく悪魔の呪いを乗り越えたのだと。
自分の選んだ道を誇っていいのだと。
他ならぬ私自身に言いたかった。
その選択に、キツネツキ様は満足そうに頷かれたのだった。
テンコ様とは別の、メンレイキと呼ばれたミシロキツネに連れられて、屋敷の門を抜ける。
メンレイキ様の持つ見慣れない形の明かりが、夜道を明るく照らす。
少しの間歩き続けると、だんだんと辺りの様子が変わって来た。
それに加えて、道の先が明るくなっているのが見える。
気が付けば、朝日が昇っていた。
目を離したつもりは無いのに、メンレイキ様の姿もない。
そして目の前には見覚えのある門があった。
あれは、見間違う筈もない我が家の門。
もう二度と戻れないと思っていた我が家に、私は帰って来たんだ。
ゆっくりと門が開いていく。
その先にいたのは現ドグラムア家の当主、お父様だった。
何人もの使用人を引き連れ、お母さまや私の兄弟の姿も見える。
「お父様、私はっ」
「エルラ、よくぞ帰ってきてくれた」
突然姿を消しておいて何を言えばいいのかと口ごもった私に、お父様は駆け寄ってきて私を抱きしめる。
「お前が居なくなったあの夜、ルミナ様から神託が下された。お前はドグラムアの一族から悪魔の呪いを解くためにキツネツキ神の元へ向かったのだと」
ルミナ様がそのような事を。
信仰が足りないのだと思っていた。
だから悪魔に呪われたのだと思っていた。
でも、違った。
ルミナ様はきちんと見ていてくださった。
私がキツネツキ神の元に辿り着いたのは偶然じゃなかった。
ルミナ様が導いてくださっていたのだ。
「キツネツキ神に認められ、悪魔の呪いを解くことが出来ればお前は帰ってくると告げられた。だがそれは、認められなければお前は永遠に帰ってくることは無いという事ではないか。私はお前を信じて待つ事しかできなかった」
その時はきっと、知らないどこかで飢え死んでいたことだろう。
もしくは理性を失い、生き血を求める化け物として討伐されていたか。
二度とこの家に戻る事は無かったのは間違いない。
「そして今日の夜明け前、新たな神託が下された。日の出とともに、お前が帰ってくると。悪魔の呪いは解かれ、二度と呪われる者は現れないと、そうおっしゃられた」
私の呪いを解いてくださったあの時、断ち切られた悪魔との繋がりは、私のものだけではなかった。
今後悪魔に呪われる者が出ないよう、ドグラムアの一族との繋がりを断ち切ってくださっていたのだ。
そしてお父様たちは日の出とともに戻るという私を迎えに来てくれた。
「よくぞ無事帰ってきてくれた。愛しい、自慢の我が子よ」
気が付けば、私の目から一筋の涙が流れていた。
「おかえり、エルラ」
「ただいま、お父様」
マヨイガ食事ブースト全開!
ちなみに敬称として様と神が混在していますが、今話では「神様の名前」を言っている場合は「神」、それ以外の場合は「様」となっているので表記ゆれではありません。
例外的にルミナ神の場合は常時「様」となっていて、これはエルラ嬢がルミナ神を信仰しているため、常に向き合っている状態にあると解釈して使い分けているためです。
初期プロットと随分構成が変わってしまった話でした。
最初はもうちょっと軽い話だったんですが。
キャラが動き出している証拠と、前向きに捉えるべきですかね。