まどかの願いが違っていたら……
そんなお話。

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第1話

 崩れ落ちたビル、倒れた電柱と街灯。

 割れてめくれ上がっているアスファルトに、見渡す限りの場所に溜まっている水。

 災害の後のような、崩壊した街の光景の中に二人の少女の姿がある。

 だが、少女のうちの一人は水の溜まった大地に仰向けに倒れ、もう一人はその傍らで膝をついて泣いていた。

 二人とも年齢は十代半ば、胸元に赤いリボンをあしらった淡い色をした揃いの制服を身につけている。

 倒れている少女の黒髪と胸元の赤いリボンが溜まっている水の動きにあわせて揺れているにも関わらず、彼女自身は身動ぎもしない。

 その右手の中には、卵を思わせる金属のフレームと、砕けた宝石。

 手のひらに収まる程度の大きさのそれは、完全な姿であれば非常に美しいものだっただろう。しかし、今は砕かれた無残な姿を晒すのみ。

 膝下まで浸かるほどの深さの水の中に倒れているにもかかわらず、全く身動きしないその姿は既に息絶えていることを示している。

 

「ほむらちゃん……どうして……」

 

 その傍らで赤みがかった淡い色の髪を短いツインテールにしている少女が嗚咽と共につぶやきを漏らす。

 それは息絶えた少女に対する問いかけ。決して返答があるはずのない質問のはずだった。

 

「暁美ほむらは自らの願いを遂げたんだ。未練はあったかも知れない、けれど後悔はしていなかったんじゃないかな。あくまでも、推測にしか過ぎないけれど」

 

 答える者がいないはずの問いに、答える者がいた。

 いつからそこにいたのか、少女からやや離れた位置にある瓦礫のコンクリートの塊の上に『ソレ』は静かに座っている。

 猫に似た白い体躯。だが、身体の大きさに対して尻尾はリスのように大きく、耳の付け根からは人の腕を思わせる毛の房のようなものが生えている。金色の金属の輪のようなものがその半ば辺りについていることが、その印象をより一層強めていた。

 その顔には表情と呼べるものはなく、血を思わせる赤い瞳が可愛らしいとさえ言える姿に反して、どこか不気味な印象を醸し出している。

 

「キュゥべえ……」

 

 少女はその存在の名を呼んだ。泣き腫らして赤くなった目が痛々しいが、キュゥべえはそれには何の反応も示さなかった。

 

「どういう……こと……? ほむらちゃんは、何を願ったの……?」

 

 かけられた答えの意味を理解しきれなかったのか、少女がキュゥべえに泣きそうな声で問いかける。

 わずかに間を置き、考えをまとめるかのように小さくうつむくような仕草をした後に彼は言葉を続ける。

 

「僕自身、暁美ほむらの願いが何であるのか、詳しくは知らない。彼女が契約を行ったのは、僕であって僕ではないからね。けれど、暁美ほむらは常に君が──鹿目まどかが魔法少女になることを阻止するべく動いていた。そして、彼女の魔術は時間操作。彼女自身が本来この時間軸の人間ではないことも確認している。強力な能力だから大きな制限を伴うだろうけれど時間遡行も可能だったはずだ。

 これらの情報から導かれるのは──過去の改変。自身が望む結果へとたどり着くためのやり直し」

 

 キュゥべえから淡々と語られるその内容は、鹿目まどかにとっては想像を絶するものだった。

 その言葉の裏には、望む結果にならない限り何度でもやり直すであろうことを暗に匂わせていることが容易に想像できるからだ。

 それは、どれほどの想いから生まれた能力なのか。理解は出来なくても、想像することは可能だった。

 

「それじゃ、ほむらちゃんは……」

「そう。彼女は自らの願いを遂げたんだろう。まどかは魔法少女にはならず、ワルプルギスの夜を打倒する。その為のやり直し。それが、おそらく暁美ほむらの願ったこと」

 

 涙声のまどかの問い掛けに、キュゥべえは変わらず淡々と自らの考えを告げていく。

 

「じゃあ…… なんでほむらちゃんは……! 自分で……!」

 

 心のなかの何かが壊れたかのように声を荒げ、最後まで言えぬまままどかはその場で泣き崩れた。

 暁美ほむらは鹿目まどかの目の前で黒く濁った自らのソウルジェムを砕き息絶えた。寂しそうな微笑を浮かべながら、最後に一言「ごめんね」と呟いて。

 小さな波の音と嗚咽だけが響く時間が流れる。その間、キュゥべえは無言のまままどかの姿を見つめていた。

 

「……仕方が無いよ。あのままだと暁美ほむらは魔女に成るしかなかった。仮にグリーフシードがあってソウルジェムを浄化できたとしても、彼女が魔法少女で在り続ける限り、他の時間軸の過去へと戻ってやり直しを続けることになっていたんじゃないかな」

 

 その言葉に、まどかは疑問を浮かべた。願いを遂げたのなら、それ以上続ける必要はないはずではないのか、と。

 その疑問に対するキュゥべえの返答は、彼女にとってひどく残酷なものだった。

 先程の推測で話した内容には複数の願いが含まれること。暁美ほむらの魔術が時間に関係するものである以上、高い確率でやり直しこそが彼女の願いであろうこと。そして、やり直しそれ自体が願いであった場合、結果に関係なく延々とやり直しを繰り返すことになるであろうこと。

 

「だから、彼女は自分のソウルジェムを砕いて死を選んだ。魔女となるか、永遠に繰り返しを続けるか。この二つ以外の選択肢は、それしか無いからね」

 

 口調を変えることなく、キュゥべえは無慈悲に宣告した。

 

「そんな……」

 

 あまりにも救われないその内容に、まどかは再びほむらの亡骸にすがりついて泣き崩れる。

 すすり泣く声と、時折聞こえる小さな波の音。それだけが聞こえる時間が静かに過ぎてゆく。その間、キュゥべえは無言のまま、じっとまどかの姿を見つめていた。

 

「……ねぇ、キュゥべえ」

 

 ある程度泣いて落ち着いたのか、身体を起こしながらまどかは唐突にキュゥべえに問いかける。

 

「なんだい?」

 

 そんなまどかの様子に動揺することもなく、当たり前のようにキュゥべえは返答した。

 

「教えて。あなたは以前、こう言ったよね。わたしが魔法少女になれば、宇宙の法則さえもねじ曲げられるって。それは、本当なの?」

「もちろんさ。確かに、いくつかの事情を鑑みて伝えなかった情報があるのは事実だけど、完全な虚偽の情報を提示したことなんて一度もないよ」

 

 態度を変えることなく、しかし見る者が見れば分かる程度の僅かな喜びと思しきものを垣間見せながらの返答に、まどかは顔を俯かせ、何事かを考えるように自らの手のひらに視線を落とした。

 

「それじゃ、こういうことは出来るの?」

 

 瞬きをする程度の沈黙の後、再び彼女は問いかけた。その瞳に、ある覚悟を映しながら。

 

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 小さな水音だけが響く中、まどかとキュゥべぇは一言も言葉を発さぬまま向かい合っていた。

 両者の間には奇妙な緊迫感が張り詰めている。

 

「それがまどかの偽らざる願いであるのなら、不可能じゃない。けれど……」

 

 無感動で無表情が常であるキュゥべぇが、珍しく言葉を濁す。

 口調こそ普段と変わることは無いが、困惑しているであろう事が見て取れる。

 

「わかってる。そこに、わたしはいないんだよね? そうでないと、おかしいもの」

 

 はっきりと、覚悟を決めた者の口調でまどかは言い切った。

 そこには、恐怖も困惑も感じられない。そうであることを受け入れた、穏やかな表情で苦笑いのようなものを浮かべている。

 

「ごめんね。ほむらちゃんは、こんなこと望んでないかもしれない。けど、わたしはこのままで終わる事なんてできない。わたしだけが助かっても、意味が無いから。だから……」

 

 顔に浮かべた穏やかな笑みをそのままに、まどかはほむらの亡骸へと語りかけた。

 そのまま、思い出を語るかのようにいくつかつぶやきをこぼした後、改めてキュゥべえへと向き直る。

 

「もう、いいのかい?」

 

 確認をしてくるキュゥべえにまどかは無言のままに頷いて肯定した。

 その視線に迷いはなく、ただまっすぐにキュゥべえを見つめている。

 

「なら、改めて問わせてもらうよ。鹿目まどか、君はこれまでの事実を知ってなお、その願いに魂を差し出す覚悟があるのかい?」

 

 表情を変えぬままに、キュゥべえが問いかける。どこか愛らしさのある姿に似合わぬ壮絶な内容だが、今の彼らにとっては最も似合っている言葉でもあった。

 一瞬の間。そして、一度小さく唾を飲み込んでから、まどかは口を開いた。

 

「わたしは────」

 

 

 

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 

 ここは、どこなんだろう。

 わたしはなにをしているんだろう。

 何も見えず何も感じられないその場所で、そんな疑問だけが浮かんでは消えていく。

 気がついた当初、わたしは自分自身が誰なのかさえ思い出せなかった。気がつけば深い闇の中で何も思い出せないままにそこにいるという事実に愕然としてしまう。

 何かほんの僅かでもいい、思い出せることはないかと必死に頭をめぐらせるも、引っかかるのはとりとめもない断片的な記憶の残滓のみ。時系列も何もかもがめちゃくちゃで、似ているけれどどこか違う内容の記憶がいくつも浮かんできたり、続いているはずなのにどうしてそう繋がったのかわからない場面があったりと、とにかく混乱してしまっていた。

 それらの記憶の中で、一際強く心をかき乱すものが存在していた。桃色がかった髪の十代半ばくらいの少女。わたし自身にとってとても大切な友人のだろうか。笑っている顔、少し怒ったような顔、拗ねたような顔、泣いている顔、落ち込んでいるのか酷く沈んだ顔、そういったいくつもの表情が浮かんでくるたびに、寂しいような切ないような自分でもはっきりとわからない感情が心を締め付けてくる。

 彼女だけではなく、他にも数人の記憶がわたしの心にもやもやとしたものを残しながら浮かんでは消えていく。ブロンドよりの髪をいわゆる縦ロールヘアにしている少女。型によっては貴族趣味などと揶揄される事もある髪型だけれど、後ろで分けた髪で控えめにロールを整えている事と本人の落ち着いた雰囲気があって似合っている。青味がかった髪をショートヘアにしている少女とはあまり良い関係ではなかったのか厳しい表情だったり、不機嫌そうな表情であったりする記憶が多い。さらに、赤味がかった髪をポニーテールにしている少女とはどういった関係であったのかよく分からない。睨み合っていたり、かと思えば笑いかけられていたり、とにかく統一性がない。

 他にも何人かの記憶が浮かんではいたけれど、わたしの中で最も大きな部分を占めていたのはこの四人に関わるものだった。親友? 唯の友人? 喧嘩友達? 悪友? どれも当てはまるようで、何かが違う気がする。もう少しで大切な何かを思い出せそうな気がするけれど、そこがどうしても届かない。それがとてももどかしくて、わたしは必死になって思い出そうとしてしまっていた。

 

『やれやれ……一度落ち着いて、それからゆっくりと思い返したほうがいい。そんなに心を乱していたら余計にわからなくなるだけだよ。暁美ほむら』

 

 何の前触れもなく、突然に伝わってくる意思。平坦で抑揚の少ないその言葉は、生き物というよりもコンピューターのような機械の印象が強い。そこまで考えて、ふと気付いた。今伝わってきた言葉は、最後になんと言っていた?

 

『暁美……ほむら……?』

『そう。君の名前だ。……まだ思い出せていないのかい?』

 

 ほんのわずかだけれど、伝わってきた意思の中に呆れのようなものが感じられる。神経を逆撫でされている気がするけれど、未だに思い出せていないのは事実なので反論できない。それよりも、今は自分の名前に意識を向ける。確かに、聞き覚えのある気がする。懐かしいような、心に引っ掛かるものを感じるのは確かなのだけれど、それ以上のものが出てこない。自分自身に問題があるのか、それ以外の原因なのか、記憶が酷く曖昧な今のわたしでは判断がつけられない。

 

『……仕方がないな。これでどうだい?』

 

 突然わたしの意識の中に映像が生まれる。映し出されたのは白い小さな影。猫のような体躯にリスを思わせる大きな尻尾。けれどその耳のすぐ下からは、腕を思わせる触手のようなものが生えていた。白いその身体は、それだけを見ればとても綺麗だったかも知れないけれど、真っ赤な瞳と無表情なその顔が不気味な雰囲気を醸し出している。

 その姿を認識して、ほぼ同時にわきあがってきた感情にわたしは酷く戸惑ってしまった。この感情は、怒り?憎しみ?ともかく、酷く激しい感情が心の中をかき乱す。これほどに心乱されるのは何か理由があるはずなのだけれど、それがどうしても出てこない。さっきからずっと引っかかっているなにかは確かに存在するのだけれど、それがあと少しというところで浮かんでこないのだ。

 

『イン……キュ…………ベーター……?』

 

 途切れ途切れだけれど、意識の中をよぎった一つの単語。それを認識するのと同時に、まるで水道の蛇口をひねったかのように無数の記憶が浮かび上がってきた。

 

『…………!!!!!!』

 

 そのあまりの唐突さにわたしは混乱して言葉にならない悲鳴を上げてしまい、ごちゃごちゃになっている記憶を整理するのにしばらくの時間が必要になってしまった。それにしても、ここで気がついた後、時々浮かんでくる記憶の断片を見ていて最初にも疑問に思ったけれど、いくつもの記憶が重複しているし矛盾を孕んでいる。いや、もともとわたしは魔法少女として契約したときに時間遡行の魔法を得て何度も繰り返しを行ってきた。だから同じ場面でも状況や関わった人物が違う場合の記憶が複数あること自体はおかしくはない。けれど……

 何故、わたしがワルプルギスの夜の目の前で穢れを限界以上に溜めて魔女化してしまう記憶まであるのだろう。これが実際に起きた事であるのなら、今ここにいるわたしは何なのだろうか。いや、体の感覚が無いも同然だという事を考えると、すでにわたしは死んでいるのだろうか。でも完全に死んでしまったなら、こんなふうに考える事もできないはずだけれど……

 

『半分正解、半分間違い、かな』

 

 わたしが思い浮かべた疑問に、正体不明の意思は良く分からない言葉を返してきた。半分、というのはどういうことなのだろう。もしかして、生きているのでも死んでいるのでもない?そんな状態など本当にあるのだろうか。

 疑問を抱いたまま何も答えずにいると、意思もまた沈黙してしまった。意識して考えを出さなくても思考を読めると思ったのだけれど、違うのだろうか。それともなにか条件があるのか……

 

『……君の願いに僕を巻き込んでおいて、面倒事を全部押し付ける気かい? かまわないけれど、応えてあげないのかな』

 

 意思は突然、わたし以外の誰かへ問いかけるような事を言い出した。この意思の元がここの支配者というか管理者ではないのだろうか。敬ったりするような気配は全く感じられないけれど、内容は上位者へと呼びかけるものに間違いない。出てくるのがどんな存在なのかはわからないけれど、気になる言葉あった。『願いに巻き込んだ』という部分が非常に引っかかる。そんな言葉が出てくるということは、やはり元は魔法少女だったのだろうか。疑問がわいてくるけれど、このままでは知る術などないのだ。

 

『まあ、仕方ないね。今の君には酷な事だろうからね』

 

 悩むわたしをよそに、意思は独り言のように言葉を紡ぐ。それはまるで、わたしには認識できない誰かと会話をしているようにも聞こえる。相手が誰であるのかは想像もつかないけれど、意思の言葉遣いやまとう雰囲気には『ヤツ』に通じるものがある。条件を満たした少女を破滅へと誘う白い悪魔。魔法少女の契約施行者兼支援者という立場をとりながら、その実魔女を育成しその絶望が生み出すエネルギーを回収する者。宇宙の存続という目的のためだけに、わたし達人間はおろか自分達さえもそのための道具だと認識している節がある。目的自体は理解できても、その考え方や価値観は理解する事などできそうもない。

 意思のまとう雰囲気といい、どこか無機質な印象を受ける口調といい、まるであのインキュベーターのようだった。

 

『いったい……何のこと……?』

『まだ思い出していないのかな? 友達なんじゃなかったのかい。それとも……未だに目をそらしているだけなのかな』

 

 わたしが抱いた疑念が伝わったのか、意志から問いかけるような言葉が聞こえてくる。その内容に、わたしの中で燻っていた不安と恐怖が膨れ上がってくるのを自覚した。聞いてはいけないと勘が激しく警鐘を鳴らしてくる。おそらくは肉体が存在しないはずだというのに息苦しさを感じるのは、その感覚を引きずっているのと同時にそれだけ混乱しているからなのだろう。音など存在しない空間であるはずなのに、どこか重苦しい雰囲気をまとった沈黙としか呼べないものがその場を支配する。

 

『まさ……か……』

 

 もうこれ以上、目を背けることはできなかった。最も認めたくない、考えたくない、けれどこれまでの経験から確信に近い予感のする可能性が浮かんでくる。

 

『君の考えているとおりだよ。鹿目まどかが僕と契約して、その結果として僕たちは今ここにいる』

 

 それから語られた話を、わたしは呆然としたまま聞いていた。まどかが、過去現在未来すべての時間の中に存在する魔法少女を、魔女となる前にその魂を自らの手で救い上げることを願ったということ。その際にインキュベーターを共に歩むものとして願いの中に組み込んだこと。その結果、まどかたちは神に近い存在にまで昇華してしまったこと。それが可能だったのはわたしが時間遡行を繰り返した影響で因果の収斂が起きていたからであること。

 さらには、あらゆる可能性の時間軸に対して干渉する願いであったが故に、本来であれば無関係だったはずの時間軸にまで干渉してしまったこと。その膨大な因果は、まどかを人間という存在に留めておくにはあまりにも重過ぎるものであったこと。

 わたしが考えることもしなかった内容の話が次々と語られていく。

 

『そん……な……』

 

 それは、わたしが最も認めたくない結末の一つに近いものだった。ワルプルギスの夜を倒したとしても、まどかが魔法少女となってしまっては、人間として生きていく事ができないのでは意味が無い。たとえそれがわたしの個人的な押し付けだったのだとしても、魔法少女としての生が幸せなものになるとはどうしても思えなかったし、インキュベーターにいいように利用されているという事も納得できない。まどかに対しての因果の収斂はワルプルギスの夜との戦いに出る前にインキュベーターから話を聞いていたから驚きはなかったけれど、まさか魔法少女どころか死ですら生温いといえるような状況に自分から飛び込んでいくなんて想像もしていなかった。

 

『どう……して……』

 

 それ以上、何も考えが浮かんでこない。思考するという行為を無意識にやめてしまうほどの衝撃が、わたしの心を打ちのめす。

 

『僕たちも今の存在となって初めて理解した事だけどね、全ての始まりは君にあるんだ』

『わたし……に……?』

 

 言葉の意味が良く分からない。鈍っている思考では理解するどころか意味を把握する事さえも困難だったのだから。けれど、それで良かったのかもしれない。この後告げられた言葉は、冷静なままで聞いていたらわたしの心に取り返しのつかない傷を負わせてもおかしくはないものだったから。

 

『そう。君がまどかとの出会いのやり直しを願い、手に入れた時間操作の魔法。それこそが原点であり、君自身とまどか、そしてワルプルギスの夜を因果の特異点へと変質させたモノだ』

 

 その意味に、わたしは今度こそ言葉を失ってしまっていた。ぼんやりとした思考で明確な意味を汲み取れない今の状態でも、そこに含まれるものには嫌でも気付く。そしてそれは、わたしのしてきたことの全てを否定するもの。わたしが魔法少女のままであれば、今この瞬間に魔女と化していてもおかしくはないほどだった。

 わたしのしてきたことは、最初から全てが無駄だったのだろうか。そんな考えが浮かんでくる。それを察知したのか、インキュベーターのものと思われる意思は『君のしてきたことは無意味だったけど無駄ではないよ。不本意な結果だったとしてもね』などと言われたけれど、それこそわたしにとっては何の慰めにさえもならない。全てが無駄だったと、そう断じられたのだから。自身の全てを犠牲にしてでも成し遂げたいと思った目的が、その思いを抱いたその時から全てが無意味だったとしたら、わたしはただの道化にしか過ぎないではないか。

 

『なによ……それ…………』

 

 力のない言葉しか出てこないけれど、鈍っていた思考がショックを多少やわらげてくれたのか自暴自棄になる直前でどうにか踏みとどまる事ができた。けれど、もうなにもかもが取り返しのつかないところまで来てしまっているらしい。だから、そこから少しでも意識をそらそうとしてしまったのだと思う。

 

『それで、わたしが今ここにいる理由は何?何も無いのなら、このまま眠らせて頂戴。もう死んだはずだし、やることもなくなってしまったわ』

 

 投げやりな思考が浮かんでくる。取り乱す事こそしなくてすんだけれど、何かをしようなんて考えはすでにない。今のわたしは死んでいるも同然だし、やってきた事は何の意味もないことだったと知ってしまった。なら、もうこのまま死んでしまうのがいいような気さえする。ただでさえ、何も見えず何も感じられないような闇の中で意識だけがあるのは苦痛以外の何者でもない。今はインキュベーターのものと思しき意識が語りかけてくるからそれほど気にならないけれど、もしこのまま何も無かったなら、わたしは遠くないうちに壊れてしまっていたはずだ。それとも、人の魂とは死んだ後このようにして壊れて消えていくものなのだろうか……

 

『僕としてはそれでも良かったんだけど、そうもいかなくてね。特例になるけど、君には戻ってもらう事になる。全て忘れてもらった上で、今までとは別の時間軸に、ね』

『…………!!』

 

 いきなり告げられたその内容に、わたしは酷く心を掻き乱された。もし現実であったなら、相手を反射的に殴ってしまっていたかもしれないと思うほどの激しい感情。一度死んで、その上で今までしてきたことが無意味なものだったと知らされて、そのまま死ぬ事さえ許されずに記憶を奪われて生かされる?

 なんだそれは。わたしの最期のささやかな願いさえも叶わないという事なのか。

 そんな気持ちを抱いている事が言葉として伝わってしまったのだろう。彼は後始末だよと、最初から変化のない淡々とした口調に感じられる内容で応えてきた。

 

『君が何も知らないまま生きているという事実が必要なんだ。それがない限り、因果の特異点となったことの影響が、程度の差こそあるけど他の無数に存在する時間軸にも及んでしまうからね』

 

 返ってきた答えはわたしにさらに追い討ちをかけるようなもの。やり直しを願ったという事実が残り続ける限り、本来であれば全く違う筋道を辿るはずだった別の可能性の時間軸にまで影響を与えてしまうという。繰り返される悲劇、破壊され蹂躙される街、荒れた空に響き渡る嘲笑ともとれる笑い声、寂しげに微笑むまどかの顔。たとえここでわたしが死んだとしても、やり直しを願ったという事実が残り続ける限り他のいくつもの時間軸世界に影響してあれらが繰り返されるかもしれない……?

 その考えには、再びインキュベータと思しき意思が、ワルプルギスの夜がわたしの願いに縛られて、いくつもの時間軸世界で討伐不可能な存在として顕現してしまうのだと語られた。それを断ち切るためには、わたしが何も知らない少女のままでこれまで繰り返してきた時間である一ヶ月を過ごして乗り越えなくてはならないらしい。

 

『未来を知っている、ただそれだけで因果はその影響を受けて引きずられる。だから、君の魔法少女と魔女に関する全ての記憶は残すわけにはいかないんだ』

 

 魔法少女の事も、魔女の事も、なによりもまどかの事も、忘れてしまう……?

 

『嫌ッ! そんなのは嫌よッ!!!』

 

 あまりな内容に、わたしは即座に反論しようとした。けれど、その後が続かない。なぜなら、薄々とではあるけれど気付いてしまったから。わたしが知っているというそれ自体が一番の問題であるらしいという事に。

 

『これ以上は話しても無意味だ。だから、さよならだ』

 

 静かに、そして冷徹にそれを告げられると同時に、意識の中に何かが進入してくるのが感じられた。眠気と目眩に同時に襲われたかのような、不快な感覚。無理矢理に塗り潰されるかのように失われてゆく、いくつもの思い出。

 巴マミやまどか達と語り合った思い出。何度も繰り返した一ヶ月の中で得られた、魔法少女や魔女に関する数多くの情報。何度も挑みながらも結局届かなかった苦い記憶。良いものも悪いものも全てを含めて暁美ほむらを形作っていた記憶がなかった事にされていく。

 

『嫌! 嫌ぁッ! やめて!! やめてええぇぇぇぇっっっ!!』

 

 抵抗らしい事は何もできないままに意識に靄がかかったかのように思考が鈍り、消えていく記憶が心を冷たく凍らせていく。

 

『まど……か……ぁ……』

 

 自分がこれからどうなるかわからない恐怖の中、浮かんできたまどかの寂しげな笑顔を最後に、意識が完全に闇の中へと飲み込まれていった。

 

 

 

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 

 何かが足りない。

 何かが違う。

 そんな気持ちを抱き始めたのは、いつからだっただろう。

 病院に入院している間は、そんなことは考えなかった。より正確に言うなら、考えている余裕なんてなかったということになるはずだけれど。

 お医者様はよほど運が悪くなければ失敗なんてしないから大丈夫と言ってくれたけれど、絶対に成功するなんて保証はどこにもないし、もし万が一失敗するようなことがあれば、わたしは一生ベッドから離れる事ができなくなる。もしかしたら、手術の後そのまま目が覚めないかもしれないという不安がずっと頭から離れなかった。だから、手術の後最初に目が覚めたときは嬉しかった。手術の結果よりも、生きていて目覚める事ができたという事に喜びを感じていた。

 それから、術後の経過観察とリハビリをする毎日が過ぎ、退院の日程が決まってからだった。何か大事な事を忘れているような気がしたのは。

 けれど、いくら思い返してみてもそれらしい事例はないし、そもそもあるはずもない。わたしはずっと、病院の中から出てはいなかったのだから。何故そんな気がしたのか、理由もわからないまま迎えた退院日、おめでとう、と言って送り出してくれた先生や看護士の人たちの気持ちは嬉しいのに、それを冷たく見ているような気さえする。

 どうして、どうしてこんな気持ちになるんだろう。理由もわからないままお世話になった人たちの心遣いを無碍にしているようで酷く気持ちが悪い。まるで、自分が自分じゃないみたい……

 

「どうかしたかい?」

 

 わたしの表情に気がついたのか、主治医だった先生が声をかけてくる。どんな表情をしているか自分ではわからないけれど、きっとかなり複雑な表情をしているのだと思う。普通なら元気になって退院するというのは喜ばしい事であるはずだから。

 

「いえ、退院できるのは嬉しいんですが、少し寂しいな、とも思って……」

 

 とっさに出てきた言い訳だったけれど、これは本心だった。特に、わたしの世話を焼いてくれた看護士の人たちと会えなくなるのは悲しかった。友達らしい友達もいない、病気のせいで外に出ることもほとんどできなかったわたしにとって、両親と同じくらいの時間を一緒に過ごした人たちであったから。

 

「ありがと。でもちゃんと学校に通えるようになったんだから、ちゃんとお友達作ってね?」

 

 わたしが病院内で特定の人たちとしか接した事がないせいか、そんな心配をしてくれた。わたし自身も、それが不安で仕方がない。友達どころか、同年代の知らない相手と話すことも怖いとさえ思っているから、学校に行くこと自体気が引けてしまう。なにより、しばらく前から自覚していた違和感が、その思いに拍車をかけていた。

 

「はい……」

 

 俯き気味になりながら小さな声で返事をする。でも、正直なところ不安でたまらない。これからのことも、わたしの中にあるよくわからない違和感の事も。

 先生や看護士の人たちにはばれていたのかも知れないけれど、その場はどうにかやり過ごした。

 けれど、家に帰ってから学校に行くまでの一週間、やっぱり理由の分からない焦燥がわたしの心を苛み続ける。行かないと、止めないと、そんな想いが湧いてくる。けれど、何故そんな思いを抱くのか、思い当たるような事は何も無い。さらには学校でも同じような理由の分からない想いに悩まされた。転校初日に教室の前で待っている間に聞こえてきた担任の早乙女先生の愚痴のような長話に既視感を覚えたり、教室に入ると自分でも分からない誰かを探そうとしてしまったり、誰かも分からないのにいないと感じたり……

 自分の気持ちのはずなのに、理由も分からず理解もできない。まるで自分の知らないもう一人の自分がいるかのような気持ちの悪い感覚。目で見た認識に対して、思考と感情が一致しない。見えないもう一人の自分が同時に存在していて、心だけがいつの間にか割り込んでくるという表現が一番近いのだろうか。自分で自分がわからなくなってくる。

 自己紹介も自分が何を言ったのか良く覚えていない。もともと何を話したらいいのか良く分からなかったので自分の名前と簡単な挨拶くらいしか話していないだろうと思うけれど、その事すらろくに覚えていないという事実に自分の事ながら呆れてしまう。いくら慣れない環境と状況で極度に緊張していたのだとしても、自分の話したことさえまともに覚えていられないなんて思わなかった。

 そして、気がついてみれば、わたしはいつの間にか着席していて、休み時間になろうとしている。いくら良く分からない悩み事があるとはいえ、わたしは一体何をやっているんだろう……

 

「どしたの? 転校生」

 

 いきなりかけられた声に顔を上げると、そこには二人のクラスメイトがいた。自分のよく分からない状況について考えるあまり、周りがまったく見えていなかったらしい。

 

「え……と……その……」

 

 突然話しかけられて、どうするべきか対応に困ってしまった。入院生活が長かったせいもあって、人と話すこと自体に慣れていないし、同年代の人たちがどんなことをよく話題にするのか、そんなことさえも知らない。通信教育と病院の検査を受けているとき以外はインターネットを見ていることが多かったから雑多な知識は無駄に持っているけれど、それだってただ知っているだけでしかない。

 

「さやかさん、彼女はずっと病気で入院していたんですから、学校のような場にも同年代の人と話すことにも慣れていないのですから、急かしてはダメですよ」

 

 私に最初に声をかけてきた、青味がかったショートヘアの女の子に対して、緑味がかった髪を緩いウェーブロングにしている少女が嗜めている。どう話していいのか分からなかったわたしにはありがたかったけれど、このまま何も話さないというわけにもいかない。

 

「あ……ありが……とう……」

 

 自分でも聞き取りにくいだろうなと自覚があるほどの消え入りそうな声でどもり気味に礼を言う。こんなので大丈夫なのかそれさえも分からないけれど、学校の持つ場の雰囲気に飲まれ気味の上、面識のない相手ではこれが精一杯だった。その事がどう映ったのか分からないけれど、さやかと呼ばれた青味がかった髪の少女が微妙な表情を浮かべた。笑い顔と困り顔が混ざっているかのような表現のしにくい表情。でも、それも一瞬の事。すぐに表情を切り替えて苦笑いを浮かべると改めて話しかけてくる。

 

「あー、ごめんごめん。わたし達は転校生の名前知ってても、そっちは私達の名前知らないんだもんね。自己紹介するよ、私、美樹さやか。で、そっちが志筑仁美」

 

 青味がかったショートヘアの少女──美樹さやかが苦笑いとともに自分と隣の緑がかった緩いウェーブロングの少女──志筑仁美の紹介をしてくれる。そんな美樹さやかの行動には慣れているのか、話す機会を奪われたはずの志筑仁美は穏やかな笑みを浮かべて私のほうに視線を向けてきた。

 

「何か悩み事ですか? 席についてからずっと心ここにあらずといった様子で気になっていたんですけれど……」

 

 あまり多くの人と触れ合った経験はないけれど、志筑仁美のかけてくれた言葉はわたしの事を気遣ってくれていると分かる内容だった。今日初めて顔を合わせたばかりだというのに、気遣ってくれる彼女達の好意が素直に嬉しいと思う。

 

「それは……」

 

 話してもいいのかどうか、とても困ってしまった。信じてもらえないほど荒唐無稽な話ではないのかもしれないけれど、気のせいだといわれればそれ以上の説明も反論もできない。もし話して呆れられたりでもすれば、わたしはどうする事もできなくなってしまうかもしれない。それでも、一人でこのまま悩み続けるよりはいいのかもしれない。だから、思い切って話してみることにした。

 

「え……と、聞いて……くれる? かなり変な話……だけど……」

「学校が終わってから、帰り道で歩きながらでもいいかな? 休憩時間だと短いし、落ち着いて話せないでしょ?」

 

 美樹さんの言葉に、わたしは頷く。周囲を見れば休憩時間が終わりに近づいているのか、教室に戻ってくるクラスメイト達の姿が見受けられる。あとどの程度の時間が残っているのかわからないけれど、確かにこれでは半端なところで話を切る事になるかもしれないし、周りが気になって話しにくい。

 

「次の授業で今日は終了ですし、帰りにお話聞かせて下さいね」

 

 志筑さんの言葉を合図に、席に戻っていく二人。今ここで話してしまえたほうが勢いに任せて突き進めたかもしれないけれど、話を中断しなければならなかったら、再開するときにまた最初から話さなければならなかったかもしれない。

 そうして、その日の最後の授業の後、帰り道を歩きながら少しづつ二人に話していった。退院する少し前から自分でも原因のわからない喪失感があること。学校に来て、それがさらに強くなった事。教室に初めて入るのと同時に、自分でも知らない誰かを探してしまっていた事。口下手で少しどもりながらも、わたしはここまで感じて悩んでいた事を二人に説明した。上手く伝わったかどうかはわからない。緊張していて混乱していたんじゃないかと言われたら、そのほうが説得力があるような気もする。

 正直、怖い。真面目に聞いてもらえなくて当たり前のような話だとも思う。それでも、わたしの事を気にかけて声をかけてきてくれた二人を信じたいと、そう思った。

 

「う~ん……?」

「…………」

 

 話を聞いてくれた二人は、どこか困惑した表情で考え込んでいる。やっぱり、おかしいと思われたんじゃないかという不安が心の中に広がっていく。それが表情に出ていたのか、二人は表情を苦笑いのようなものに変化させた。

 

「なんというか、おかしなこともあるもんだね~……」

 

 美樹さやかのその呟きを引き継ぐかのように、志筑仁美が言葉を紡ぐ。

 

「私たちも人数が足りないような気がしてましたからね。ただ、暁美さんが感じていたものとは違って、一緒に登校できる友人が他にいないことが寂しいという意味合いが強かったので、ただの偶然なんでしょうけれど」

 

 そう言って、二人揃ってもう一度苦笑いを浮かべる。その様子を、わたしは呆けたように見つめる事しかできなかった。こんなふうに真面目に話を聞いてもらえるなんて、始めから期待していなかったから。冗談と思われるか、夢や気のせいだと言われてもおかしくなかったのだから。その事を二人に告げると、わたしに冗談が言えるとは思えないし、気のせいにしてはかなり深刻に悩んでいたみたいだったから茶化したりしようなんて気は全くなかったと言ってくれた。

 

「ありがとう…… 信じて……くれて……」

 

 笑われてもおかしくなかったであろう話を真面目に聞いてくれた二人に、俯きながら小さな声でお礼を言う。なぜかとても恥ずかしいと思い、顔を上げることができなかった。

 そこから話は住んでいる場所や通学路の話になり、わたしの通学路がちょうど二人のものと半分以上重なっていた事で、途中にある見滝原親水公園で朝待ち合わせて一緒に登校しようという話になった。友人をうまく作れるか不安だったわたしにとって、コレはとても嬉しい話であったけれど、会って一日しか経っていないわたしにどうしてここまでしてくれるのかと思う。

 

「なに言ってんの。こうして話してるんだからもう友達でしょ。細かい事は気にしない気にしない」

 

 ためらいながら気になっていたことを聞いたわたしに、最初キョトンとした表情を浮かべたあと笑いながら美樹さやかはそう言ってくれた。言葉こそ口にしなかったけれど、笑みを浮かべてこちらを見ていた志筑仁美も同じような事を思っていたのかもしれない。

 じんわりと、胸の中に暖かいものが広がっていく。病院にいたときには感じる事のなかったその温もりに、目尻が熱くなる。頬を流れ落ちるものの感触に気付いて初めて、自分が泣いているのだと言う事を自覚した。

 

「ちょっ!? どうしたの」

 

 慌てたように美樹さやかが声をかけてくる。志筑仁美は「あらあら」と言いながらも、おもしろいものを見る目で美樹さやかに視線を向けていた。出会って間もないわたしを友達だと言ってくれた事が嬉しくて無意識に涙を流してしまっていたけれど、何かまずい事をしてしまったのだろうか。

 

「さやかさ~ん? 何も知らない女の子を泣かせてはいけませんよ?」

「いやいやいやいや!? あたしはただ普通に話してただけだって! 誤解を招きそうな言い方しないで!?」

 

 なぜかコントのようなやり取りを始める二人の様子をみて、自然と笑みが浮かんでくる。その様子に気付いたのだろう、二人はそれまでのやり取りをやめて話しかけてきた。

 

「お、ようやく笑ったね」

「事情が事情ですから人と話すのに慣れていないのは仕方ないのですし、少しづつ慣らしていきましょう。私たちがお手伝いいたしますわ」

 

 その言葉に、わたしはようやく二人が気を遣ってくれていたのだと気がついた。人と話すことに慣れていないわたしが、学校で孤立したりする事がないように心配してくれたのだろう。何故わたしの事を気にかけてくれるのか、理由は分からないけれど、自分からどう動いたらいいのかわからない今のわたしには、二人の気持ちが嬉しかった。

 正体不明の喪失感と焦燥感のことがどうしても頭から離れないわたしがその事を口にすると、二人ともそれについては気にしないほうがいいと言ってくれた。

 

「考えても答えなんて出ないだろうから、あんまり気にしないのが一番だと思うよ」

「そうですわね。答えが出ないと分かっている問題を考え続けても、結局進展する事はないんですから、割り切ってしまった方が気が楽になりますわ」

 

 そう言い切る二人を、わたしは強いなと思う。嫌な事やよく分からない事があるといつまでもうじうじと悩んでしまうことが多いわたしとは全く違う。二人とも言葉遣いや振る舞いは全く違うし、性格や考え方も違っているように思う。それなのに、その大本にある価値観のようなものはとてもよく似ているのかもしれない。だからこそ、友人として今までうまくやってこられたのだろう。その輪の中に、本当にわたしが入ってもいいのだろうか。

 再び悪い方向へと考えが傾き始めたそのとき、右肩に手を置かれた。それに驚いて顔を向ければ、美樹さやかが鞄を持っていない左手をわたしの右肩に置いている。多少俯き気味になっていたせいか、彼女が回りこんで寄ってきた事に気付かなかったらしい。

 

「それじゃ、行こうか」

 

 展開についていけなくなりかけていたわたしは、そのままCDショップからファーストフード店へと連れまわされた。その間も、止めたりする事もなく笑みを浮かべたままついてきていた志筑仁美も共犯なのだろう。きっとわたしの見えないところで、二人で打ち合わせた結果がこの行動なのだ。驚きはしたけれど決して不快ではない。

 大騒ぎをした美樹さやかを志筑仁美が静かに嗜める。そんな二人のやり取りを見て笑っているうちに、わたしの悩んでいた事が酷くくだらないもののように思えてきてしまった。

 いつまでも悩んでいるよりは、こういうのもいいのかもしれない。まだ上手く話せないかもしれないけれど、二人の間に入っていこうと思って足を踏み出した。

 

『…………』

「え?」

 

 耳元で誰かの声が聞こえた気がして、思わず声を出してしまった。内容は聞き取れなかったけれど、懐かしさを感じる良く知った誰かの声のような気がする。そんなわたしの様子に気がついたのか、二人がどうしたのかと訪ねてくるけれど、わたしは言葉を濁して気のせいだと思うとだけ言っておいた。二人にも言われたけれど、今はあれこれと悩んでも仕方がない。退院して、新しい生活に踏み出したのだ。不慣れなことやよく分からない事もまだまだ多いけれど、こんなわたしを気にかけてくれる人たちもいる。なら、少しでも早く慣れて溶け込めるように頑張ればいい。それが、二人の気持ちに応えることにもなるだろうと思う。

 それに、病気で不自由な生活を強いられてきたからこそわかる。なんでもないような他愛もない日常こそが、一番幸せな時間なんだって。

 不安が消えたわけじゃない。独りぼっちになったらどうしようと怖くなることだってある。でも、手を差し伸べてくれた人たちがいた。ただそれだけで、こんなにも周りが明るく見えるんだとはじめて知った。

 


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