そんなお話。
どうして、世の中はこんなにも苦しいことに満ちているのだろう。
ずっと、ずっと疑問だった。
ほんのささやかな幸せすら、時には理不尽に奪われてしまう。
何故なのかわからないし、納得もできない。
全ての幸せが理不尽に奪われる訳では無いことも分かっているけれど、だからといってそれでいいなんて思いたくはない。
それなのに、自分に出来ることは何もなかった。
大きな飢饉が起きて、たくさんの人たちが飢えで死んでいった。戦に駆り出されて戦死した人たちは遺体はおろか、体の一部すら戻ってこなかった。大きな怪我をした人には充分な手当ても出来ず、その人は苦しみながら死んでいった。
何故、これほどに理不尽に満ちているのだろう。私たちは、静かに、ささやかな幸せを感じて生きていくことが出来ればそれで良かったのに。
何も出来ない自分に苛立ち、呪っていた。生きていれば、それでいい。そう思うには、周りに悲しみと苦しみが溢れすぎていた。
そんな晴れない思いを抱いているときだった。『彼』と出会ったのは。
真っ白な、目立つ姿の動物。それが最初の印象だった。
村の近くの森に住んでいる動物はたくさん知っているし見たこともあるけれど、『彼』の姿はこれまで一度も見たことのないものだ。
もの珍しさに惹かれて見ていると、唐突に声が聞こえた。
「……君は、僕の姿が見えるのかい?」
最初は、ただの空耳だと思った。けれど、それにしてはあまりにもはっきりと聞こえ過ぎた。
「……!?!?」
理解した瞬間、心のなかに恐怖が満ちる。
あり得ない。確かに、見た目は可愛らしい小動物かも知れないけれど、今まで一度も見たことのない姿に加え、言葉を喋る動物など魔物としか思えない。
そうして、その場に留まることに身の危険を感じて逃げ出した。
どこを通って家まで戻ったのかは覚えていない。ただ、家に着くなり母さんへの挨拶もそこそこに部屋に飛び込み、ベッドの上で頭からシーツをかぶって震えていた。
身体を投げ出した勢いで板張りの床とベッドが微かに軋みを上げたが、そんなことを気にしている余裕もない。
なんなのだろう?あれは。
白い毛並みに大きな尾、猫程度の大きさの姿だけを見れば可愛らしいとも言えるかも知れない。けれど、今まで見たことの無い不自然な姿に加え、血を思わせるような赤い瞳と、瞬き程度でほとんど変化しない表情が、全てを台無しにしている。
怖かった。得体の知れない、正体不明の存在が。
表情を動かさずにどうやっているのかは不明だけれど、言葉を話すというだけでも普通では無いのだから。
その日の夜、私は一睡もできなかった。部屋の暗がりから、あの正体の分からない白い小動物が姿を見せるのではないかという予感がして。
けれども、再びあの白い小動物の姿を見たのは、三日程経ってからの事だった。
全力で逃げた事でなかなか見つけられなかったのか、それとも偶然に再び出会っただけなのかは分からないけれど、その日からたびたび付き纏われるようになってしまった。
慣れというものは怖いもので、最初のうちこそ怖いと感じ警戒していたけれど、何日も繰り返すうちに次第に恐怖感も警戒も抱かなくなってしまったのは自分自身の事ながら呆れるしかない。
そうして接しているうちに、最初に会ったときの「姿が見えるのか」という問いかけの意味を理解した。
見えていないのだ。私以外の他の人たちに。
柵の上や足元など、明らかに人の視界に入る場所にいるにも関わらず、誰もその姿を見咎めることがない。彼自身も、さすがに踏まれたり蹴られたりするのは嫌らしく、私以外の人の足元にはあまり近づきたがらなかった。
「あなたは何が目的なの? なんで私にしかあなたの姿が見えないの?」
彼が近くにいることが当たり前になりつつあったある日、何気なくそんな質問をこぼしていた。
再び姿を見せたその日から彼はこれといって具体的な話はせず、日常の些細な話などをするだけであり、その事になにか居心地の悪さを感じたのだ。
その言葉に、彼は居住まいを正すようにしてこちらを向く。
「……君に力を貸して欲しいんだ。世界を滅びから救うために」
そうして彼の口から出てきたのは、そんな突拍子も無い内容だった。
理解が追いつかず、しばらく無言のまま立ち尽くす。その間、かなり間抜けな顔をしていただろうと思う。
短い時間ではあるけれど、その間他人に会わなかったのは幸運だったのかも知れない。
それにしても、ずいぶんと現実感のない話だと感じる。成人すらしていないただの村娘でしか無い私に、世界を救うために力を貸してほしいだなんて。そんなものは英雄譚の、物語の中だけのものであるはずなのに。
「この世界には人では及ばない力を使って災いを振り撒く者がいる」
「災いを振り撒く者?」
不穏なその内容に、私は鸚鵡返しに聞き返した。
もしもそんな存在がいるのであれば、起きなかった不幸もたくさんあるんじゃないかと思いながら。
「絶望や悪意、呪いから生まれて人々に災いを撒き散らす。それが『魔女』」
そうして始まった彼の話は、俄には信じられないものだった。
魔女という存在。そして、彼はその魔女に対抗出来る素質を持つ者を探していて、そうして見つけた素質を持つ者に事情を説明し、彼と契約を行うことで能力を引き出し魔女と戦ってもらうのだという。
もちろんただではなく、対価としてどんなものであれ願いを一つ叶えているそうだ。
「そうして生まれるのが、人々に希望をもたらし魔女を狩る者。便宜上、白魔女と呼んでいるけどね」
その言葉に、私はわずかに顔をしかめる。
当然だ。他人に不幸をもたらす存在が魔女という呼称だというのに、それと敵対して不幸を防ぐ者にも同じく魔女という呼称が入るのは気分が悪い。
「……あまりいい呼称が思いつかなくてね。だから立場の違いで黒か白か区別するような名前になってしまってるけど」
私の表情の変化に気づいたのか、白い獣は表情こそ全く変化しないものの言い訳をするかのような説明をしてくる。
その事を責めるつもりはない。気分は良くないけれど、呼び名として割りきって考えれば理解しやすいものであることも事実なのだから。
未だ怪しいことは間違いないけれど、話している内容は決して悪い事ではない。問題は、それを信用してもいいのかどうかという事。
「なんでも、って言っていたけれど、願い事に制限はないの?」
ふと浮かんだ疑問を口にしてみる。
「制限はないけど、限界はあるね。願う者の資質の大きさと、願いに対する思いの強さ。それがエントロピーを凌駕するかどうか。それによって決まってくる」
意味のよく分からない言葉がいくつかあるけれど、やはりそううまくはいかないようだ。
「それと、世界の有り様を歪めるような願いも基本的には叶えられない。それは、神の領域に至ろうという行為に等しいから」
続けて告げられた言葉に、私は新たな疑問とともに落胆を感じた。
彼の言葉が正しいのなら、私が思い描いていたものは最初から無理なのかも知れない。そう思いながらも諦めきれずに聞いていた。
「不幸や絶望のない世界、っていうのは不可能なのね……」
「そうだね。不幸や絶望のない世界は滅びと同義だ。幸運と不運は等価値で、共に存在しているから意味がある。天秤を思い浮かべてもらうと分かりやすいかな。不幸や絶望をなくすという行為は、天秤の皿を片側だけ取り払うようなものだ。その結果は……わかるだろう?」
その返答に、私はなんとなくだけれど理解した。結局は、私では何も変えることが出来ない、ということなのだろう。
その事に、私は言葉に出来ない感情が胸の中に生まれていることに気づいた。
それがなんなのかは自分でも分からない。けれど、今のままでは決して晴れることのない気持ちだということだけは理解していた。
「今はこれ以上話しても仕方がないかな。僕から強制はできないし。時間に、あまり余裕はないかも知れないけど」
話を切り上げようとするかのように、彼は立ち上がりながらそう言ってくる。
だが、後半に続けられた言葉に、私はなにか嫌な予感を感じた。
その事について問うべきかどうか、迷っている間に彼は姿を消してしまっていた。
それから二日程して、彼の言葉の意味を理解させられる事態に直面することになる。
始まりは、早朝に畑仕事に行った男たちが帰ってこないことだった。
家から畑までそれなりに距離があるとはいえ、毎日のように通る道だ。迷うようなところではない。
明け方に出て行って、普段であれば昼ごろには戻ってくるのだが、それが昼を過ぎても戻ってこないのだ。
何かがあったのは間違いないのだが、それが何なのかがわからない。
可能性として森から出てきた、あるいはどこかから迷い込んだ獣に襲われたのではないかと騒ぎになった。
人が多くいるところに近づいてくることなど滅多にあるわけではないけれど、それがないとは言い切れない。
そんな中だった。私の前にあの白い小動物が再び姿を見せたのは。
「予想よりも早く、潜んでいた魔女が動き出した。もうすぐ、この村にやってくる」
以前と変わらない調子で、しかしどこか焦りを含んだかのようにも聞こえる声で告げられた言葉に、私は最初何を言われているのか理解できなかった。
その言葉を理解するにしたがって、愕然としてしまう。
私は魔女と遭遇したことがあるわけではないけれど、それが何を意味するものなのかはなんとなく想像できた。
「君だけでも、逃げるんだ」
表情を強張らせて立ち竦む私に、彼がそう告げた。
けれど、それをそのまま受け入れることはできない。受け入れてしまえば、村のみんなを、家族を、見捨てて逃げることになってしまう。
「でも……!」
「こんな話を、すんなり信じてもらえると思うかい? 説得する時間なんてないんだ。こんな事になるのなら、最初から魔女が潜んでいることを警告しておくべきだったのかも知れない」
反論しようとした私の言葉をさえぎるように言われ、私は言葉を続けることができなかった。
そうだ。こんな突拍子もない話を簡単に信じてもらえるとも思えない。私だって、彼の姿が見えてこうして話すことがなければ絶対に信じないと言えるほど現実感のない話なのだから。
そのことに思い至り、私はどうするべきかわからなくなった。
逃げるべきなのかもしれない。そうは思っても、本当にそれを行動に移すのは躊躇してしまう。
魔女という存在の話を聞いただけでそれが実際にどういう存在なのか、本当の意味では理解できていなかったことが判断を誤らせた。
どうしようかと考える中、部屋の窓から急に陰りがさしたように感じられる。同時に、外から風の音や木々のざわめきといった音が消えていく。
「な、何……これ……」
窓の外を見ながら、その異様な雰囲気と光景に呆然とした言葉がこぼれる。
灰色の空に重苦しい空気、並び立つ木々は踊るように歪んだ幹を持ち黒い葉を茂らせている。
村の光景が消え、そんな異常な風景が広がっていた。気がつけば私の家もまた消えてしまっている。
見上げれば、首の長いカラスのようにも見える不気味な鳥や、遠くには頭の大きさのわりに細長い体を持つ灰色の人影など怪しげなモノ達が蠢いていた。
「魔女の結界だ……。僕達も含めて、この村は捕り込まれてしまったんだ」
こんな状況であるにもかかわらず全く調子の変わることのない彼の言葉に、腹が立つ前に私自身が冷静にさせられた。
理解の出来ない異常な事態ではあるけれど、感情的になっても何も変わらない。
魔女の結界。魔女自身が身を隠し、人を襲うために生み出す自らの領域。これに取り込まれた人間は魔女かその手下である使い魔に魂をすすられて死亡し、二度と現世に戻ることは出来ない。抜け殻となった肉体はそのまま結界の中で朽ちるか、場合によっては魔女の手下として操り人形にされてしまうことさえあるという。
話を聞いているだけでも吐き気を催すようなおぞましい話。それが行われる場が、現実に目の前に広がっている。そして、その対象は私の住む村の村人達。
近所の気のいいおじさんやおばさん達。時にはケンカもする友人たち。自分の所の畑で取れた作物を交換し合ったり、お互いの生活を支えあうこともある、家族とも呼べる村の仲間達。それが、命の危機に瀕している。
その事に思い至った瞬間、私は衝動的に白い小動物に向かって願いを口にしていた。
「私は、こんな理不尽な不幸を覆したい。それができる力があるのなら、村のみんなを助けるために使いたい」
一瞬の沈黙の後、彼から届いたのは肯定の言葉。
「契約は成立だ。君の願いはエントロピーを凌駕した」
それと同時に胸の真ん中辺りで熱いものが生まれ、それが外に出てこようとしているのが感じられる。
そのせいなのか短い時間だけれど苦痛を感じ、目を閉じて情けない叫び声をあげてしまった。
それが治まって目を開けば、目の前には手のひらに収まる程度の大きさの小さな宝石。
金属の装飾の施されたそれは、深い海のような青い輝きを放っている。
手にとってみれば、手のひらに感じられるのは石や金属の冷たい感触ではなく、ほんのりとした温もりだった。
「それが、君の願いとともに生み出された、魔力の源たるソウルジェム。さあ、解き放ってごらん。君が手に入れた、その力を」
言われるがままに、体の内側からあふれてくる力を緊張を解くようにして開放する。
瞬間、私は光に包まれた。
それは一瞬の出来事でしかなかったけれど、光が収まったときに私はみすぼらしい村娘の服ではなく、貴族が着ているような青いドレスにも似た服に変わっていた。
戸惑う私に、白い小動物からの助言が届く。
「それが君の白魔女としての姿なんだね。でも、戸惑っている時間はないんじゃないのかい?」
その言葉に、私は今の事態を思い出した。
外にいる魔女とその使い魔を倒して、村の皆を助けないと。
その想いを胸に、私はどこへともなく駆け出していた。
異形の夜、とでも言うべき魔女の結界。その中を、根拠のない予感に惹かれて。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
重苦しい空気と、灰色の空。踊り狂うように歪んだ木々。
そんな異様な光景の中、私はひたすら走っていた。
あの白い小動物との契約を行ったばかりで力の使い方も戦い方もわからないはずだけれど、ソウルジェムが教えてくれるのか、どうすれば力が使えるのかだけはいつの間にか理解している。
人が身体を動かす際に全く意識しないように、白魔女にとって魔法を使うという行為はできて当たり前のことなのかも知れない。
もちろん、ただ使えるというだけで上手く使えるかどうかとは別問題ではあるけれど。
時折さまよい歩いている使い魔たちは、こちらが近づかない限りは何もしてはこないらしい。もしかしたら他に理由があるのかも知れないけれど、それはわかるはずもない。
とにかく、相手をする必要がないのであればあえて戦う必要もない。
そうして、元凶である魔女の姿を探して走る私の前に、フラリと姿を表したものがいた。
カボチャのような頭に、木の棒を組んで作ったかのような身体。眼や口といった部分はまるでナイフを使ってくり抜いたかのように見える。
どこか虚ろな雰囲気を漂わせる、出来損ないのカカシのような使い魔が三体ほど、私の進む先に佇んでいた。
どこを見ているのかもわからず、ただぼんやりと立っているように見えるその足元に、倒れている人影がひとつ。
顔が見えないので誰かはわからない。けれど、まだ生きているのなら助けないと。
もう手遅れかも知れないとも思うけれど、それを確かめもせずに放置することもできない。
だから、私はカカシの使い魔を倒す。
初めての戦いが怖くないといえば嘘になる。だけど、それに屈してしまったら、私の想いも願いも全てが嘘になってしまうから。
不用意に近づくことはせず、距離をとって足を止めた私に、使い魔たちは興味を示さない。やはり、ある程度近づかないとこちらのことがわからないのかも知れない。
できるだけ距離を取り、刺激しないようにして対処するのは獣相手にも使われる手段だけれど、こんな化け物相手にも通じることがあるというのは意外だった。
ゆっくりと、少しづつ足を進めながらも、使い魔からは視線を外さない。そうして距離を詰めながら身体の後ろに隠した右手の中に魔力を集めていく。
どうすればいいのか、という疑問はない。
まるで昔からその方法を知っていたかのように、指を動かすかのような自然な動作で行うことができた。
そうして生み出した魔力の塊を、冬の遊びである雪玉投げの要領で使い魔の一体目がけて投げつける。
重さも実体もないそれは、音もなく使い魔の一体に接近して頭にぶつかると強い輝きを発して消滅する。
わずかによろめき、体勢を立て直そうとした使い魔は動きを止めた。
瞬きをする程度の僅かな沈黙の後、砂のように崩れ落ちて霧散する。
その一連の状況で私を敵と判断したのだろう。残る二体の使い魔が風に揺られる草のような不可解な動きで近づいてくる。
不安定な印象のその動きは、外見と相まって不気味な雰囲気を強く醸し出していた。
動きは余り早くはない。
戦いの経験などほとんどない私の目から見ても、決して強そうには見えない。むしろ、棒か何かがあれば殴り倒せるのではないかと思えるほどに遅い。
けれど、魔女のみならずこの使い魔たちも人の常識外の存在であることに変わりはない。不用意に近づくのは、やはり躊躇われてしまう。
そもそも、私は今まで武器など使ったこともない。かろうじて武器の代用になりそうなものといえば農耕器具くらいだし、使ったことのあるものといっても草刈り用の鎌かナイフくらいでしかないのだ。
だから、近寄って戦うという選択肢は最初から存在しない。故に、先程と同じように手の中に魔力の塊を産み出して、それをぶつける方法を取ることにした。
カカシの使い魔の戦い方がわからないところに不安はあるけれど、同じように離れた相手を攻撃する手段を持っていないことを祈るしかない。
不規則に身体を揺らしながら近づいてくる使い魔の一体に狙いを定める。
さっきと違って動いている分狙いづらくはあるけれど、慌てなければ外すようなことはないはずだ。
そうやって使い魔の一体を倒しているうちにもう一体にかなり近づかれてしまったけれど、これも捕まりさえしければ怖くはない。
何もせずにただ近づいてきたところを見ると、離れた相手を攻撃する手段を持ってはいないようだけれど、捕まったらどうなるかわからない。
だから、私は再び距離をとりながら手の中に魔力塊を作り出す。
私のその動きに、ぎこちない様子で追随する使い魔。
カボチャのようなあの頭でどうやって見ているのか分からないけれど、私のことが見えているのは間違いないらしい。
だからといって近づいてくる相手を待つ理由はない。私は生み出した魔力塊を使い魔に叩きつけた。
そうして使い魔は音もなく崩れ去り、静寂が戻ってくる。
新たに現れる使い魔がいないか周囲を警戒し、倒れている村人に歩み寄る。
「…………!」
生きていて欲しい。私のその願いは、彼の首筋に触れた時、呆気無く打ち砕かれた。
脈がなく、息もしていない。身体はまだ暖かいけれど、それはこれから燃え尽きる命の残り火でしかない。
思わず、唇を噛みしめる。
助けられなかった、という悔恨の思いが胸の中を満たすけれど、悲しんでいる時間はない。一刻も早く魔女を倒さなければ、犠牲者が増えていくだけなのだから。
放置していくしかないことに後ろ髪を引かれつつも、その場を離れる。
今、どれだけの人たちが生き残っているのか不安になる。もしかしたら、もう誰も生き残ってはいないんじゃないかと考えて。
間に合わず、目の前で息絶えていたあの人の姿が焦りを掻き立てる。
「早く、魔女本体を見つけないと……」
無意識に、口から呟きが漏れる。
けれど、魔女がどこにいるのかなど分からないし、探す方法があるわけでもない。しらみつぶしに探すしか方法がないことが、余計に焦りを助長していた。
そうして、どの程度の時間さまよっただろう。
時折現れる使い魔を倒しながら、あてもなく駆け回っていた。随分長い時間だったような気もするし、それほどでもないような気もする。
日の動きが見えないためか、どれだけの時間が経っているのかがよく分からない。
無駄に時間だけが流れているような気がして、焦りが大きくなっていく。
そんな時だった。何か嫌な感じのする人影と思しきモノを見かけたのは。
あちこちが擦り切れたような、黒いぼろぼろの布を体に巻きつけ、手足は使い魔と同じように、木の棒のように細長い。頭もまた使い魔と同じようなカボチャの形をしているけれど、唯一違う点は口と思われる場所の奥に青白く輝く人の頭蓋骨と思われる形のものが揺らめいていること。
そして、姿形が違うだけでなく纏っている雰囲気もまた、使い魔よりも遥かに重苦しい。
それと遭遇して、そして確信した。
こいつが魔女だ、と。
こちらを無視しているのか、それとも気にかけるまでも無いとでも思っているのか、その魔女は私が姿を見せてからも動くことなくただ棒立ちになっていた。
相手が動かないのだから今のうちに攻撃してしまえばいい。そう考えるけれど、動くことができなかった。
何故かは分からない。けれど、ひどく嫌な予感がする。
このまま戦っても、勝てないかもしれない。そんな思いが頭の中を駆け巡っていた。
震えそうになる足を無理矢理押さえつけ、魔女の姿を睨みつける。
魔女自身は、それに全く反応を示さない。それどころか、小首をかしげるような動きさえ見せていた。
祭りの時などであれば笑いを誘うであろうその動作も、今のこの惨状では薄気味の悪いその姿と相まって不快なものにしか映らない。
少しの間様子を見ていると、魔女自身はそもそも自分が何をしているのかもよく分かっていないような印象を受けた。
例えるなら、その行動は猫に近い。
本能のまま、気の向くままに行動している。わずかな時間ではあるけれど、様子を見た限りではそんな気がした。
行動だけを見れば、決して強いようには見えないかもしれない。でも、纏っている雰囲気というか、発しているものが使い魔とはまるで別物なのだ。
一刻も早く倒さなければならないけれど、下手に手を出したら間違いなく私が負ける。
ひどく、もどかしい。こうしている間にも、使い魔たちの餌食になっている村人がいてもおかしくないはずなのだから。
ひどく嫌な汗が頬を伝って流れ落ちる。
その間も、魔女は相変わらず視線をさまよわせ、首をかしげるように細かく巡らせている。
こちらに向かってくる様子はないけれど、このままでいる訳にもいかない。
二呼吸するほどの間逡巡し、覚悟を決めた。
今戦えるのは私しかいない。助けを求めることも、期待することも出来ないのだから迷うことなんてなかったのだ。
怖くないといえば嘘になる。むしろ、出来るのであればこのまま逃げ出したい、とも思う。
カカシの使い魔があっけなかった為、死ぬ事があるかもしれないという気持ちが薄れてしまっていた。
けれど、だからといって逃げ出すわけにはいかない。それをしてしまえば、私は仲間を、家族を、友人を見捨ててしまったことになる。
そんなことをして生き残っても、きっと一生後悔する事になるだろう。
それに、私は皆を救いたいと思ったからあの白い小動物と契約したのだ。逃げ出せば、自分のその気持ちさえ嘘にしてしまう。
完全に抗えないままだったなら、逃げ出しても仕方なかったと自分を無理矢理納得させることが出来たかもしれない。けれど、私は抗うための力を手に入れてしまったのだ。自分から、それを望んで。
だから、私は戦う。本心を言えば逃げたいし怖い。自分が浮かれていたことも思い知らされた。
だからこそ。自分自身を裏切るわけにはいかない。
使い魔に使った攻撃が効くかはわからない。けれど、今のところほかに方法が分からないので、同じようにやってみるしかない。
試す時間があれば、使い方を工夫したりすることも出来たかもしれないけど、今そんなことを言っても仕方がない。
魔女がこちらに興味を示さない事を利用して、今できる範囲で可能な限り魔力を集める。
使い魔に放ったものに比べて強い輝きを持っていたため、魔女が気付かないか気になったけれど、こちらを気にした様子は全くない。
そのことに多少ではあるけれど頭にきた。そして気が付けば、私は手の中に生み出していた魔力塊を思い切り叩き付けていた。
「────────────…………!!」
人の耳ではまともに聞き取ることの出来ない、不気味な叫びとともに魔女が吹き飛んでいく。
けれど、その攻撃が聞いた様子は無い。吹き飛ばされた後、何事も無かったかのように起き上がり、私のほうへと向かってくる姿がそれを物語っている。
それでも、身体や頭にわずかに傷が出来ているところを見ると、全く効いていないというわけでもないらしい。
それでも、まともに戦ったら勝てない気がする。
魔女がどんな攻撃をしてくるのかはまだ分からないけれど、使い魔に比べてかなり頑丈らしい。
何か弱点でもあればいいけれど……
もしそういったものが無かった場合、ナイフで木を削るように魔女の力を削いでいくしかない。
分の悪い不利な方法だけれど、それしかないのならやるしかない。
幸いにも、動きはそれほど早くないようだ。
私は即座に距離をとると、再び手の中に魔力塊を作り出す。
使い魔に対して放ったものと同程度では、恐らく効果が無い。だから逃げ回りながら手の中の魔力を高めていく。
「この……ぉっ!!」
手の中で留めておくことが難しくなるほどに魔力を高めた後、私は魔女の頭を明確に狙って魔力塊を叩きつけた。
カボチャの形の頭の奥、青白く輝きながら揺らめく頭骸骨が弱点ではないかという淡い期待を込めて。
私の意図に気付いたのか、魔女が手を前方へと伸ばす。けれど、遅い。
伸ばされた手とすれ違うようにして、私の放った魔力塊は、魔女の頭へと命中した。
「──!?」
悲鳴にも聞こえる、短い声。
けれど、その結果は魔女をよろめかせただけで倒れるような気配はない。
カボチャの頭にできた擦れたような傷を見る限り、全く効いていないというわけでもないようではあるけれど、あれではそれほど時間をかけずに回復されてしまうだろう。
そうしているうちに、私は魔女の様子が変わっていることに気がついた。
頭を上下に揺らし、身体は小刻みに震えている。そう、まるで『笑っている』かのように。
「────……────……────……!!」
意図がよくわからず、警戒しながらも様子をみている私の前で、魔女の声が徐々に大きくなり……
跳ね上げるかのような動作で顔を上に向けると同時にひときわ大きい、叫ぶような声を発した。
そして。
私と魔女を共に取り巻くように、闇が生まれた。
光を全て飲み込もうとするかのような、無明の闇が。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
魔女の叫びとともに生まれた闇は、急速にその濃さを増してゆく。
逃げ道は無い。周囲を完全に囲まれ、足元も半ば闇の中に飲み込まれている。
闇に侵された部分が広がっていくのに合わせるように、身体の感覚が消え意識が遠のく。
長いようで短いその時間の後、私の意識は闇に閉ざされた。
それからどうなっていたのかは分からない。けれど……
──……い……よ……──
かすかに聞こえたその声に、私は意識を取り戻した。
視界はいまだ暗いままだ。目を開けているのか閉じているのかすら分からなくなるような深い闇。
その中で、あちこちから聞こえるかすかな呻き声。
内容の聞き取れないその言葉を聞き取ろうと耳を澄ませて、そして愕然とした。
そこから聞こえてきたもの、それは……
──嫌だ……何故……──
──痛い!痛い!痛い!──
──誰か……お願い……──
──こんなの……そんな……──
──あ……あ……あ……──
苦しみ、恨み、妬み、錯乱した叫び声といった、数多くの人間の叫び声。
心を直接鷲掴みにされるような感覚を伴って聞こえてくる、不快な声だった。
「何よ……これ……」
掻き毟るような痛みを訴える頭に辟易としつつも、今の状況を理解しようと考えを巡らせる。
その間にも、何かを訴えるかのようなその呻き声は絶えることなく聞こえ続ける。
──痛いよう……痛いよう……──
──嫌だよう……嫌だよう……──
──何故じゃ……ワシは、ただ……──
──許せぬ……許せぬぞ……──
子供から大人、老人まで、あらゆる年代の人の恨みや憎しみ、苦しみの声が途切れることなく響いている。
それは、聞いているだけで心から力を削っていくような、深く重い怨嗟の声。
気が付けば、私は何も見えない暗闇の中で、淡く青白い輝きを纏うものたちに囲まれていた。
姿形は人に似ている。けれどその顔に表情は存在せず、身体は枯れ木のように痩せ細っている。暗く落ち窪んだ眼窩には何も映しておらず、その奥には暗い闇がわだかまるのみ。
その声を聞いて、縋るように手を伸ばしてくるその姿を見て、私は理解してしまった。これは理不尽に命を落とした人たちの未練を映しているんだと。
こちらの声は届かない、伝わらない。彼らはただ、自らの無念を向ける対象を探すだけ。
救われることが叶わないことに気づくこともなく、ただただ救われることを願う者たち。
私がただの人間であったなら、何もわからないままに彼らの中に飲み込まれてしまっていたかも知れない。けれど、私は魔女という存在を知り、それに抗うための力を手に入れている。
その事が、私の心に多少の余裕をもたらしてくれた。
それにしても、これはやはりあの魔女の仕業なのだろうか。
魔女の生み出した闇に飲まれた後、このような状況に置かれているのだからそう考えるのが妥当かもしれない。
そうであるのなら、これはあの魔女に喰われた人たちの魂なのだろうか。
それとも、喰われた人たちの悲痛な叫び声を利用して、わたしを追い詰めようとしているのか。
どちらであったとしても、吐き気を催すような話ではあるけれど。
それに、いつまでもこうしているわけにもいかない。こんな状況にいつまでも耐えられるはずも無いのだから。
気が付いてから、段々と頭痛がひどくなっている。今はまだ大丈夫そうではあるけれど、そう長く持たずに再び気を失ってしまってもおかしくない。
──誰……か……──
──嫌だ……もう……嫌だぁぁぁ……──
──何故……どうし……て……こん……な……──
──痛いよ……寒いよ……おかあ……さ……ん……──
絶え間なく聞こえてくる、苦痛を訴える呻き声。目を背けて逃げ出したくなるほどに陰惨なものではあるけれど、今の私はまともに動くことすらできなくなっている。
これが現実なのか幻のようなものなのか、それすらも分からない。おそらくそれが分からなければこの状況を打開することはできないだろうと思う。
問題なのは、私がそこまで耐えられるかどうかということ。
今の状況に気付いたときから頭痛がひどい。少し前から胸を締め付けられるような、息苦しさのようなものも覚えている。
これ以上、こんなものを見ていたくない。これ以上、向き合うことができそうにない。
「あ……ああ……ああ……」
息がつまる。何か言おうにも、言葉が出てこない。
そうしている間にも、周囲を漂う青白い人影は怨嗟とも慟哭とも取れる呻き声をあげ続けている。
どうすればいいのか、分からなくなってきた。
何かをしようにも、身体を動かせない。何をすればこの状態を抜け出せるかも分からない。
ただ、無為に時間だけが過ぎていく。
痛々しい声も、姿も、何もかもから目を背けたくなってくる。
もうこれ以上、見るのも聞くのもしたくない。逃げ出せるなら逃げ出したいと思う。
けれど、それは叶わない。
「いや……もう……嫌ぁ……」
いつの間にか、私は弱々しい泣き言を口にしていた。
自分でも気づかないうちに、心が折れかかってしまったのか、気持ちが後ろ向きになっている。
「────…………!!」
そんな、逃避に走りかけている時だった。
周りを包む暗闇の中、微かにではあるけれどどこからかあの魔女の笑い声らしき声が聞こえてきたのは。
その事に、逃避しかけていた心が引き戻される。
そうだ。魔女を倒して村の皆を助けないと……
その為に願った。その為に求めた。だから、このまま終わるわけにいかない。
ここで諦めてしまったら、私は何のために望んだ? 何のために踏み込んだ?
たとえ手が届かなかったとしても、見ているだけで何もしないなんてことはできなかった。
父さんや母さん、村長に近所のおじさんやおばさんたち。それに、年の近い友人たち。
村の皆の顔が浮かんでは消えていく。
皆の笑顔が大事だった。ささやかな幸せを守れるだけでよかった。それだけが願いだった。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
無駄かもしれないという考えが頭を掠めたけれど、それを無視して私は力のかぎり魔力を解き放った。
風の吹き抜けるような音と、それに遅れるように陶器の入れ物を割るような音が響く。
「…………!!」
どこか驚きを含んだかのような魔女の声が聞こえ、霧が晴れるように闇が薄れていった。
どうやら、闇もあの多くの声も、魔女の創りだした幻覚だったらしい。ただ、あまりにも生々しい声だったあたり、実際に襲った人たちの声を元にしていたのかも知れない。
術を破られたことによる反動なのか、闇が晴れてから目の前に現れた魔女は無言のまま動く様子がないけれど、私もまた魔力体力共に大きく消耗してしまっていた。
周りの光景が村のものに戻っていない以上、魔女は未だ倒れるに至っていない。動きがなくどれだけ消耗しているかもわからないこの状況は非常に不安だった。
もし様子を見ているだけで、何の痛手もなかったとしたら……
そんな不安が心に重くのしかかった。
そのまま、お互いに動きのない時間が過ぎる。
魔女になにか動きがあるようなら、疲れた体に鞭打ってでも動かなければならなかったけれど、すぐに動き出すような気配はない。
それに便乗して、私自身も体力の回復を目的に僅かながらの休息をとる。
魔女にも回復の機会を与えているかも知れないという事実は、今は考えないことにしておく。気にしていたら何もできなくなってしまう。
今のうちに、魔女の様子を確認しておくことにする。
外見上、変化しているところはないように見えた。けれど、口の奥で揺らめく青白く輝く頭骸骨が、以前よりもその輝きを弱めているように見える。
もしかしたら……
ふと浮かんだ考え。それが正しいかはわからないけれど、このままでいるくらいならその予想にすがってみるのも悪くないかも知れない。
時間をかければかけるほど、助かる人が減る。だから、私は覚悟を決めた。
魔女に気付かれないように、身体を大きく動かすことなく手の中に魔力をゆっくりと集中させる。
今まではこれを投げつけて攻撃していたけれど、あの魔女に対してそれではあまり意味が無いことはわかっている。
手の中の魔力が外に漏れないように注意しながら、今度は身体に魔力を流す。
深呼吸して力むような感覚で力を込めると、身体の中に何かが満ちるような熱を感じた。
それを少しづつ高めていく。
そうして、今できる限りの魔力強化を自分の身体に行った後、私は全力で魔女に近づいた。
「!?」
うずくまった状態から立ち上がると同時にいきなり近づかれたせいもあってか、魔女はこちらに顔を向けるだけで、それ以上何かをしようとはしなかった。
戸惑うかのようなその反応に、私は手の中の魔力をまっすぐに魔女の口に中に叩き込んだ。
そして、その中で力を解放する。
「───────────────────!!!!!!!」
声にならない声、とでも表現すればいいだろうか、木のざわめきをいくつも重ねたかのような言葉とは言い難い叫び声。
その叫びが弱くなるにつれて、魔女の口の奥にあった輝きが薄れていく。
そして、輝きが完全に消え去ると、魔女の姿は風邪に吹き散らされる煙のように崩れていった。
それに合わせるように、周りの風景もまた陽炎のように消えて元の村の光景へと戻って行く。
「はぁ……」
私は大きく息をつき、その場にへたり込む。同時に、それまで身に纏っていた青いドレスのような服は消え去り、元の村娘の姿へと戻っていた。
ふと足元に目を向けると、そこには手のひらに乗る程度の大きさの、金属の装飾品のようなもの。
それは、あの白い小動物がグリーフシードと呼んでいた、魔女の卵とでも言うべきもの。
人の絶望を溜め込み、やがて魔女となるという。
私はそれを服の中に仕舞うと、疲れた身体を引きずりながら村人の姿を探した。
けれど、村の中がやけに静かだった。
あんな事があった後なのだから、生き残っている人もきっと何が起きたのかわからず呆然としているのかも知れない。
そうして捜し歩いて時間が経つうちに、魔女の結界の中で助けられなかったあの人の遺体のところにたどり着いた。
「…………」
無残な姿に、無言で目を閉じてその人を悼む。
そうしていると、周囲から数人の話し声が聞こえてきた。
目を開けて声のする方を見てみれば、何人かの村の人達がこちらに目を向けている。
生きているその姿を見て、私は嬉しくなり、手を振りながら近づいていく。
けれど、わたしが近づいて話しかけようとすると、皆の態度がどこかよそよそしい。
「……どうしたの?」
改めて話しかけてみるけれど、態度は変わらず、どこか怯えを含んだ目で一歩後ずさる人までいた。
その態度に、私はますます混乱する。
何故そんな目で見られるのか、そんな態度を取られるのかが全くわからない。
どこか距離を置こうとしている皆に、私はただ戸惑いの顔を向け再び話しかけようとした。
その瞬間に、頭に強い衝撃を感じる。
疲れの溜まっていた身体は、突然の頭への強い衝撃に呆気無く力を失った。
倒れたときに目に飛び込んできたのは、なにか恐ろしい物を見るような目で私を見て、手首ほどの太さの棒を構える男性の姿。
それを見て、私はその棒で殴られたのだと理解した。
どうして、という呟きは声にならず、私はそのまま目の前が暗くなり、気を失った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
後頭部に感じる鈍い痛みに、朦朧としていた意識が浮かび上がる。
目が覚めると同時に感じた痛みに、その場所を手で押さえようとして、その時になってはじめて身動きが取れないように拘束されている事に気が付いた。両手両足ともに縄で縛られ、口元には布で轡がかまされているためまともに喋る事はできない。声を出すだけなら可能だけれど、呻き声にしかならない。
「~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
私が今いるところはどこかの家の納屋の中らしい。そこで、外に誰かいないかと思い、言葉にならない呻きを可能な限り張り上げる。中は暗いけれど、扉の隙間や窓から明かりが差し込んでいる事を考えれば、少なくとも夜ではないはずだ。そう思ったのだけれど、返事は返ってこないし、近くに誰かがいるような感じもしない。静寂の中、わずかに風の音と木々のざわめきが聞こえるだけ。
その異様な雰囲気に、私はひどく嫌な予感がした。何がおかしいのかはっきりとは分からないけれど、でも何かがおかしい。外の様子を見られないから確かめられない。でも、いつもとは違う雰囲気というか気配のようなものが村全体を包み込んでいるのが分かる。 何かがおかしい、何かが危険だと心の中で警鐘が鳴り響く。けれど、身動きのできない今の状態では何もできないし、もし動けたとしても、これで逃げ出したりすれば自分から疑って下さいと言い出すようなものだ。だから逃げ出すわけにはいかない。なにか誤解があったのなら、それを晴らさないと。
その為には、まず誰かと話さなければならない。それに、誰かを呼ぼうにも今の状態では騒ぐ事しかできない。無闇にそんな事をすれば印象を悪くするだけでしかないだろう。だからこそ、今は待つ事しかできないのだ。とはいうものの、このまま放置されるような事もないはずだと思う。多分……。
それにしても、何故こんな事になってしまっているのだろう。縛られた手首足首が縄に擦れる痛みを気にしながらも、そんな事を考える。あのときの私は、ただ村の皆を助けたいというだけで無我夢中だった。使い魔と魔女を倒す事だけに集中していたために周りに全くといっていいほど気を回していなかったけれど、あの魔女の結界の中で戦っている姿を誰かに見られたのだろうか。いや、それも少しおかしい。それならば確かに最初は気味悪がられるかもしれないけれど、いきなり背後から殴られるような事は無いと思う。だとしたら、私が騒動を起こした張本人だと思われている? 犠牲者の人たちも私が殺したと。そう考えるなら、私を後ろから殴り倒したあの人の、恐ろしいものを見るような目も理解できる。そうだとしたら、どうやって説明すればいいのだろう。魔女も使い魔も、倒してしまったら跡形も無く消滅する。そう。証拠になるものが一切残っていない。そして、犠牲になった人たちの遺体は残っている。
どうしよう……。身動きできず声も出せない状態の私は、心の中だけで頭を抱えた。魔女の事を説明しても信じてもらえるとも思えないし、私が殺したのだと思われているようなら、まともに話を聞いてくれるかも分からない。あれこれと考えてはみるものの、証拠になるものが何もないというのが問題で、結局行き詰ってしまう。グリーフシードやソウルジェムを、とも考えたけれど、何も知らない人にとっては装飾品のようにしか見えないと思うのでこれも解決策にはなりえない。
そうして考えをめぐらせている内に、丸一日の時間が経ってしまった。とにかく、何もないというのが一番痛い。魔女の身体の一部でも残っていれば全面的には信じてもらえないにしても、話し合う余地はあったはずなのだ。とはいえ、このままだと私は咎人として官憲に突き出されてしまうことが充分に考えられる。それは一番考えたくない結末だった。いわれの無い罪で裁かれるなんて御免被りたいし、魔女の件にしても今回だけで終わりとも限らない。
けれど、身動きもできず話す事もまともにできない。なによりも、こちらの動きに気付いてくれる場所に人がいないらしい。考えながらも小屋の外の音に聞き耳を立てていたけれど、遠くのかすかな話し声や風の音は聞こえても、近くで話をしているような音や足音は聞こえない。それはつまり、私が入れられているこの小屋に近づく人はいないという事を示している。あの白い小動物も姿を現さない。私が殴り倒されるのを見て逃げ出してしまったのかもしれないけれど、あの小さな身体ではそれを責める訳にもいかない。できる事が何も無い状態である以上、誰かが来るなりするまで待っているしかできないのかもしれない。
そうして待ち続けて、私の入れられている小屋に人が来たのは、気がついてから二日ほど経ってからのことだった。その間、食事はおろか水さえも飲ませてもらえず、当然ながら下のものも垂れ流しにするしかなかったので、そのときはひどい有様になっていた。空腹感で身体に力が入らず、口の中も乾燥して唾液がねっとりと絡みつくようになってしまいひどく気持ち悪い。さらに、垂れ流した汚物の異臭と、それに伴う皮膚のかぶれが下半身を苛む。なによりも意識がぼんやりとしてきていて、自分が今どういう状態にあるのかなどどうでもよくなり始めていたのだ。
異臭を放ち、力なくよろめくような歩き方をする私を、数歩ほど後ろから手に持った棒で責め立てるように叩く二人の男たち。彼らの顔には嫌悪感と畏怖と怒りが交じり合った複雑な表情が浮かんでいる。そして、自分達が今行っている行為に対しては何の疑問も抱いてはいないようだった。その事がひどく苦しい。彼ら自身に責められるべき理由は無い。あくまでも被害を受けた側であり、その事がこのような行為に走らせている主な原因であろう事は私にもわかる。けれど、つい先日まで親しく話したり笑いあったりしていた隣人からこのような仕打ちを受けるのは悲しいしひどく辛い。
私の衰弱した身体は抗うだけの余裕はなく、心もまた疲弊しているせいか考えが纏まらない。疑問が浮かんでも、それに対して納得のいく答えを出そうなどといった思考が働かず、考える事自体を放棄してしまっているような状態だった。だからだろうか。私自身が今受けている仕打ちに対して、どこか他人事のように思ってしまっているのは。痛みはあるし、これが理不尽なことだということも認識している。それなのに、私はそれを現実ではないと思い込もうとしていた。それが逃避であることは分かっていても、その思いは止まらない。心の何処かで「裏切られた」と考えていることに、私は気づいていなかった。
小屋の外に連れ出され、嬲るような行為を受ける私の周りに少しづつ村人が集まってくる。普段あまり顔を合わせることのなかった人、逆に毎日のように顔を合わせ、時には笑い合ったりもした知人。そして、数人の友人たち。皆一様に蔑むような視線を向けてくる。喪章を付けている人たちは魔女とその使い魔によって家族の誰かを奪われてしまったのだろう。彼らは皆、怒りを湛えた目で非難するような強い視線を向けてくる。
私はそれらの視線が向けられる中、虚ろな目をしてぼんやりとしていることしかできなかった。何故そんな視線を向けられるのかわからない。けれど、消耗した身体と朦朧としかけている意識が、思考をその先に進めることを許さない。抗う事を忘れてしまったかのように、私はただされるがままになっていた。
「……して……よ……」
重苦しい呟きが私の耳に届く。はっきりと聞き取れなかったそれに惹かれるように顔を向けると、そこには喪章をつけた一人の若い女性が立っていた。年のころは二十代半ばくらいだろうか。栗色の髪を長く伸ばしたその女性は、私も知っている人だ。でも、この人には確か生まれたばかりの娘さんがいたはず……
「返してよ……あの人とあの子を……返して……よぉ……」
耐え切れなくなったかのように涙を溢れさせ、泣き崩れる彼女。私は、その姿よりも言葉に衝撃を受けた。そう、彼女が喪章を付けていた理由は旦那さんと娘さんを喪ったから。そういう事が起きるかも知れないという可能性は覚悟していた。けれど、実際に目にしたときに受ける衝撃は想像していたものよりもずっと大きいものだった。そして、彼女を気遣う者たちが時々私に向ける、怒りと憎しみの篭った視線。それが、私の疲弊した心に追い討ちをかけるように責め立てる。
違う、私じゃない。そう否定したくても、立っているのもやっとというほどに衰弱した身体は言葉を発するための力を出す事は無く、後ろ向きになった気持ちはその言葉を良しとしなかった。否定して弁解しても、どうせ信じてはもらえない。ここまで受けてきた仕打ちが、気持ちが前向きになる事を拒ませて、その考えを振り払うことができなかったから。
呆然としている私の前で泣き崩れていたその女性は、やがてその場にいた人のひとりに連れられて帰っていった。泣き腫らした目に力なくうなだれたその姿は、誰が見ても痛々しいものに映るだろう。連れられて去っていく彼女を見送る皆の目には気遣いの色が浮かんでいたけれど、ひとたび私の方に振り向けば、その眼に浮かぶのは非難の色。
違う! 私じゃない。だから、そんな目で私を見ないで! 心のなかのその叫びは言葉にならず、ただ自身の心を削り取る。その思いが強くなればなるほどに、皆の非難の視線が強い痛みを伴って心に突き刺さった。
「……う…………い…………」
ようやく搾り出したその声は、喉の渇きに遮られて言葉とならず、ただ掠れた小さな声が漏れ出たようにしか聞こえなかった。
違う、こんなはずじゃない。私はただ、皆を助けたかっただけなのに。言葉にならぬ思いはただ虚しく意識の片隅へと消えていく。どこで間違えたのか、それすらもわからないままに心の中を無力感が満たしていき、私はその場で膝を折り蹲った。周りの人達がなにか言っているのが聞こえてくるけれど、それが非難するものだと分かっても、内容がどんなものなのかはわからない。聞こえないわけではないけれど、その内容を理解することを心が拒んでいた。
胸の奥で、締め付けるような痛みが生まれる。それと共に呼吸が苦しくなってゆき。ひどく重く感じられるようになる。息を吸って吐く、普段なら気にかけることもなく当たり前のようにできるその行為に今残っている力を全て注がなければならない。そうしなければまともに息を吸うこともできなくなっていた。
「……か…………は…………」
口からこぼれたのは弱々しい声。言葉というほどのものではなく、息が漏れ出しただけと言ってもいいような意味のない音。けれど、今の私はそれだけでも精一杯の状態だった。不安と無力感と、注がれる視線。全てが気力を削いでいく。そんななかで、全てがどうでも良くなってきてしまっていた。
私は、何がしたかったんだろう……。どうして、こんなことになってしまったんだろう……。どうして、皆は私を責めるんだろう……。いくつもの疑問が浮かんでは消えていく。答えるものはいない。考えることもできなくなってゆく。それらはただの雑念となり、虚しく流れ去る。
「うぐっ……!?」
唐突に、背中に痛みを感じた。おそらくは棒で背中を叩くか突くかされたのだろう。その痛みが意識を呼び覚ましてくれたけれど、それも一瞬のこと。気力を失った心には霞がかかり、考えることを放棄する。蹲ってしまった私を立たせようとしているのか、何度か背中に痛みを感じたけれど、それすらもどうでもよくなっていた。
壊れかけた心で、背中の痛みを他人事のように感じながら考えを呼び起こそうとする。
私、なにしてたんだっけ。私、何をしたかったんだっけ。どうして、こんなことになってるんだっけ。どうして、こんな目に遭ってるんだっけ。なんで、殴られてるんだっけ。なんで、責められなくちゃならないんだっけ…………
まとまらない思考は、支離滅裂に疑問を浮かべては答えを見出すこともなく消えてゆく。
もう……いいや…………
動こうとしない私に業を煮やしたのか、足音が近づいてくるのを感じながら、私は完全に考えることを放棄した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
手足を材木に縛り付けられ、身動きのできないように拘束される。自らの身体に対して行われるその行いを、私はぼんやりとしたまま他人事のように受け入れていた。自分が何をしようとしていたのか、何がしたかったのか。そんなことはもうどうでもよかった。何故こんな目にあっているのか、何故責められなければならないのか。それを考えようという気ももはやなかった。何もかも、ほとんど諦めてしまっていたのだ。
私に声をかけてくる人は一人もいない。ほとんどの人は一瞥しただけで何も言わずに立ち去ってしまう。その視線に、侮蔑の色を湛えながら。普段通りであったなら泣き出してしまいそうになるほど衝撃を受けていたと思う。いや、泣くという行為ができたかどうかさえ怪しかったかもしれない。大切だと思っていたものが、知らない間に外見はそのままでゴミ同然のものに摩り替わっていた事に気付かされたかのような喪失感が胸の中を満たしている。
もう、疑問を思い浮かべる事もない。答えなど出てこないし、出たところでこの状況を変えられるとも思えない。もう何もかもが、どうでもよくなってしまった。私は何かを間違っていたのだろうか。それともただ自分にとって都合の良いように考えていただけだったのか。微かに浮かんでくる疑問さえも、ほぼ何もしないままに考えの外へと放棄する。目の前で起きていることも、自分の身に起きている事も、それ以外のあらゆるもの全てに対しての感心を失って無感動になっている事を自覚しても、それ以上の事を考えようという気も起きなくなっていた。
なすがまま、されるがままに抗う事をせず、私は自分の身にされている事を虚ろな目で見続ける。それが何を意味するのか、どんな意味を持つ行為なのかすら考える事をしないまま、死んだように身を任せ、やがて私は地面に突き立てられた丸太の下に組まれた台に立った状態で縛り付けられた。それが何を意味するものか、何をするためのものなのかは分かっているけれど、それでもなお声を出そうとさえも思えなかった。
普段集会等を行う村の広場に、晒し者のように縛り上げられた私の周りに、村の人たちが集まってくる。その瞳に映るのは、怒り、憎しみ、恨み、嫌悪、その他の負の感情。それらが全て私に向けられている。その事に対して、私は何も思わない。何も感じない。正確に言うのなら、私は自分に向けられるもの全てを拒絶していた。何故こんな事になったのか、何が理由でこうなったのか、思い当たる事が無く、理解できないままだったから。
縛られた手の痛みがぼんやりとした意識を苛み、縛り付けられた丸太が、その場に座り込む事を許さない。そんな私の姿を見ていた村人の中から、何かを投げつけてくる人がいた。頭に小さな痛みを感じた後、私の足元に子供の握りこぶしよりも一回りほど小さな石が転がり落ちる。けれど、項垂れていた頭に当たったであろうそれを見ても、私は何も思わなかった。村の人たちにも、私自身にも諦めかけてしまっていた。そして、それを切っ掛けにしたのだろう、回りの村人達の中から私に対して石を投げつける人が出始める。指先ほどの小さなものから握りこぶしほどはあろうかという大きなものまで、少しずつその数が増えていく。服の上から身体に当たったものはそれほど痛みも無く問題にならないが、頭に当たったものは尖った部分が皮膚に傷をつけ、血が流れ出す。それでも、投石行為は収まるどころか少しずつ激しさを増してゆく。石が当たる度に痛みが走り、時折無意識に呻き声が口から漏れた。
「……ッ……」
けれど、その呻き声も石を投げている人たちには届かない。そして、石だけではなく罵声が投げかけられ始めた。それらは村の人たちの怒りであり憎しみであり悲しみであり、全ては行き場を失った各々の感情。ぶつける先を探していた鬱屈とした思いなのだ。
「どうして! どうしてなのよ!?」
疑問を投げかける声が聞こえてくるけれど、それに答えようという気持ちは全くわいてこない。ただ、ああ何か言っているなとしか感じなかった。その事に業を煮やしたのか、男性の一人が怒鳴りつけてくる。
「何とか言ったらどうなんだよ! この人殺しッ!!」
その言葉が切っ掛けになったのか、集まっていた村人からも次々に罵声が飛び始める。それは全て、私を糾弾する言葉。どういう経緯によるものかは分からないけれど、魔女によって行われた惨劇は、全て私がした事だと思われてしまっているらしい。普通なら、必死になって否定しているところなのだろうけれど、それをしようとさえ思わない。俯いたまま身動ぎしようとすら考えられないほどに心が疲弊していた。
怒鳴りつけてなお何も答えようともしない私に我慢できなくなったのか、周囲からの罵声やなじる声が酷くなる。そんな中で一つの罵声が、無感動だった私の心を刺激した。
「魔術で悪行を働く黒魔女め……っ! いつからすり替わってやがった!!」
黒魔女という呼び名と、すり替わっていたという言葉。それを聞いたとき、ようやく私の中にあった疑問の一つに答えが与えられた気がした。今の私は本人ではなく、魔女が化けた誰かだと思われているのだろう。どこで見られていたのかは分からないけれど、姿が変わっていた私と、生き残った村の人たちと再会したときの私、両方を見た人が誤解してしまったのかもしれない。この惨劇を引き起こしたのは私だと。どこで、誰に、どういった経緯で見られたのかは全く分からないけれど、それが理由で村の人たちがこうなってしまったのなら、私にはもうどうしようもないのかもしれない。
何かを考える事さえ億劫になりつつある気持ちに諦めそうになりながらも無理矢理に顔を起こしてみれば、いつの間にか私が拘束されている場所の周囲には藁や木の枝が積まれはじめていた。家畜の飼料に使うような藁の束、薪を切り出した時に出た細枝の束、そんなものが私の周りに積み上げられていく。数日前までは親しかったはずの、今は怒りや憎しみの目で私を見る村人たちの手で。それが何を意味するものなのかなんて、考えなくてもわかる。
「……が…………じゃ……い…………」
その事に、諦めていたはずの心に戦慄を感じて無理矢理に口から言葉を搾り出そうとした。何もかも投げ出したつもりでいたけれど、結局私は死にたくないと思っていたらしい。だからきっと、きちんと話をすればわかってもらえると信じる気持ちも残っていたのだろう。でも、私の口からこぼれたのは乾いてしゃがれきった、言葉ともいえないような小さな声。意味を成さず、聞き取る事もできないほど小さなその声は、罵声が飛び交う中当然のように無視された。
そして、いつの間に来たのかは分からなかったけれど、燃え盛る松明を手にした一人の男性が私の拘束されている場所へと近づいてきて、台の下とその周囲に積み上げられた藁と細枝の束に投込んで火をかけた。熱気とむせかえるような煙と共に炎が燃え上がる。乾燥して燃えもうやすくなっていた藁の束が最初に焼け、その勢いで細枝の束にも燃え移る。その中で、私は何もかもを諦めていた。死んだりはしたくなかったけれど、私一人が死んで村の人達の気が晴れるのなら、このまま諍いの火種を残したままにしておくよりは良かったのかもしれない、そう思いながら。
けれど、燃え上がった炎が服に燃え移り、その熱気と身体を焼かれる激痛の中で、私は見てしまった。炎の中で苦痛に悶える私を見る村人達の顔。そこに浮かぶのは怒りでも哀れみでもなく、『ざまあみろ』とでも言いたげな嘲笑の色。それを見たとき、私の中で最後まで信じようとしていたもの、縋りたかったものが壊れた。
──なんで、皆そんな顔してるの?
──私は、助けられるなら助けたかった、それだけなのに
──私は、私だよ。他の誰でも、ないよ……
──誰も、私を信じてくれないの? 助けようとは思ってくれないの?
──それじゃ、私がした事って、なんだったの……?
心の奥底からどす黒いものが溢れてくる。普段であれば酷く気持ち悪いものとして忌避していたであろうその感情は、信じたかったものを失って空虚なものとなった私の心を容易に塗り潰してゆく。ただ助けたいと、それだけを願ったはずなのに、返ってきたものは非難と罵倒、そして……嘲笑。そして皆は、私を私として見ていない。まるで、舞台の上で一人、意味も無く踊り続ける道化のような、そんな光景を幻視したような気がした。
炎の熱気も、焼かれる痛みも今はほとんど感じない。熱気にやられて呼吸もほとんどできなくなっているけれど、不思議と息苦しさは感じなかった。苦痛をほとんど感じなくなっているあたり、私はもう死んでいてもおかしくない状態なのだろう。死ぬ間際の人間は、苦痛を感じる余裕さえも残っていないらしいから。
そうして諦めかけたとき、焼け焦げた服の隙間から、何かが足元に落ちた事に気がついた。それは二個の金属の装飾を施された石。それぞれ形の違うそれは、私自身のソウルジェムと、夜の魔女のグリーフシード。服の中にしまっていたそれが、焼け落ちるときに共に落ちたのだろう。もともとは青く美しい輝きを放っていた私のソウルジェムはどす黒い輝きに染まり、ひび割れかけている。グリーフシードもまた黒い輝きを湛え、まるで歓喜するかのように明滅している。炎にあぶられほとんど物を見ることもできなくなっているはずの視界の中、何故かそれだけははっきりと見えたように思えていた。
「……ぁ…………っ…………」
口から微かに息が漏れ出す。もはや呼吸を吐くことも吸うこともできない中、残された最後の息。それが吐き出され、私は意識が闇に飲まれる事を自覚した。炎に焼かれてまともに呼吸もできず、目もほとんど見えない中で残った感情。それは、絶望だった。
私はただ村の仲間を助けたいだけだったのに、どういう経緯かは分からないけれど、魔女の起こした惨劇が私の手によるものだと誤解され、火炙りにされて処刑される。そこに、私が願った、望んだ、皆の笑顔は存在しなかった。悲痛な思いをぶつけられる中、私は惨劇を起こした張本人として吊るし上げられた。本人達はそう思っていないかもしれないけれど、私にとってはそうとしか思えない。
信じていた人達に見放され、裏切られて、私は何もかもを諦めた。信じる事もない、信じられる事もなくなったこんな世の中なんて、全ての人たちと一緒に壊れちゃえ。それが、私が最期に考えていた事。
『────────────────…………!!』
闇に閉ざされて薄れ行く意識の中、どこかからあの夜の魔女の笑い声が聞こえたような気がしていた。それは戦っていたときに聞いたような何かを鼓舞するようなものではなく、惨めな最期を迎える私を嘲笑っているかのようだった。
「……ぁ……は…………」
幻聴かも知れないそれを聞いたとき、私は無性におかしくなった。息をすることも声を出すこともままならなくなっているにも関わらず、声を上げて笑いたい気持ちが湧き上がる。もう長くはない、いつ死んでも不思議ではない状態だというのに、その気持ちを抑えることも出来なかった。そして、自分が馬鹿だったと思い至る。そう、魔女の存在を証明できなかった時点で、こうなる可能性はあり得たのだ。その事に気づかなかった私自身の愚かさと、わかりやすい犯人を仕立ててでも不安の捌け口がなければ安心できない人間の業の深さに今更ながらに気づいたから。その事に、もう笑うことしか出来なかった。何もかもが手遅れで、できることはもはや何もない。それがどこか滑稽な馬鹿馬鹿しいことのように思えた。
炎が勢いを増す。もう痛みも感じなければ音も殆ど聞こえない。かろうじてぼんやりと見えていた目も、それを最後に見えなくなった。そうして、意識が急速に遠のいていくのがわかる。ああ、本当にもう終わりなんだと、そう思った。
私のしたことは本当に良かったのだろうか。その疑問を最後に、私の意識は、心の奥から沸き上がってくる『何か』と共に、闇の中に飲み込まれた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
燃え盛る炎の中、一人の少女の姿が焼け崩れていく。それで、全ては終りとなるはずだった。少なくとも、その場に集まった村人たちはそう考えていた。けれど、少女の姿が炎の中に消えるのとほぼ同時に、空に暗雲が立ち込め始める。それは急速に渦を巻くように流れ始めると、雷鳴と強風を伴いその場にいた村人と村全体に襲いかかった。突然のことに呆然としていた村人たちも、その異常な事態に声を上げて逃げ惑っていく。その村人たちを嘲笑うかのように、強風は村の建物を潰し木々をなぎ倒して全てを蹂躙していった。
ある村人は倒壊した建物の下敷きになり押しつぶされた。
ある村人は強風になぎ倒された木をかわしきれず叩き潰された。
ある村人は強風に煽られよろめいた時に足を滑らせて水路に頭から転げ落ちた。
そんな惨劇が巻き起こる中、うずまく強風の中心に位置していたのは少女が焼き殺された場所。強風に破壊されることなく残っていた焼け跡から、僅かな燃え残りの炎を吹き散らしてどす黒いものが吹き上がっていく。それは風の影響を受けることなく空中にわだかまり、蠢きながらその姿を変えていく。
『…………ハハ………………ハ……ハ…………ハ……ハハ…………!』
やがて、強風にまじるようにして、甲高い哄笑の声が響いてくる。それは最初強風の中で途切れ途切れに聞こえ始め、わだかまるものの変化が顕になるにつれてはっきりとした声として響きわたってゆく。
『アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!』
強風の音さえも押しのけるようにはっきりとした哄笑の声が響き渡るのと同時に、蠢いていたどす黒いものの中から巨大なものが姿を表す。
青いドレスとヴェールを身に纏った女性の姿に、足に当たる部分にはゆっくりと回転する巨大な歯車。それが逆立ちをするかのように上下逆さまの姿で、空中を漂っている。その顔には目も鼻もなく、真っ赤な唇だけが響き渡る哄笑を象徴しているかのように歪められていた。やがて、その周囲に一つ、また一つとどす黒い塊の何かが集まってくる。それらは現れたものに触れると同時に、溶けるようにその中へと消えていく。
それは、後の世において「ワルプルギスの夜」の名で呼ばれることとなる巨大な魔女の誕生の瞬間だった。彼女はこれから何度か、世界のどこかに現れてはその場にいたものを蹂躙し破壊し、全てが終われば何処へともなく去ってゆく。
そのたびに彼女は、抗おうとした少女たちの、蹂躙されて命を散らしたものたちの魂と、無念や怨嗟といった負の感情を穢れとして取り込んでいくことになる。そうして、抗うことのできない最強の魔女へと変貌したのだ。
一人の少女が願ったささやかな救済は、小さなすれ違いと誤解から彼女自身を追い詰め、悲嘆と諦観の末に絶望と呪いを振りまく道化へと堕としていた。世界をさまよい、姿を現せばその場の全てを破壊し蹂躙する最悪の魔女として。