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あの海でのひと時から少し時間は流れた。夏休み真っ盛りのこの時、久々の休暇を貰った私は、学校も休み、屋敷から少し離れていつものレザーウェアで街中を闊歩していた。
スマートフォンには何の通知もない。夏休み中の課外授業だ、という話は聞いていたが、それすらも今は関係ない。普通の日本人の生活というのはどういうものなのだろう、と考え、平日にも関わらず新宿の繁華街まで一人で来てしまった。ここはどうやら、神室町というらしい。
昼からにしてはヤケに騒がしい街中、そして強面の中年男性も歩いている――そして、チンピラやら、若くしてイキがっている小僧が多い。こういう中で喧嘩を売られたりなどはしなければいいが、そうは言ってられんか。
「財布置いて消えな、兄ちゃん」
「…暑いと、頭が沸くのだな」
考えている矢先にこれだ。私に言われたのだろうから、いつも通りに応対した。相手は鉄パイプやらバグナクやらを持っているが、凶器は安っぽく、おもちゃの様なクオリティ――通販にしても、ちゃちい精度。振り被ってきた鉄パイプを掴み取れば、容赦なく顔面へと叩き込み、バグナグの刃はそれで受け止めて折り、お返しにミドルキックをお見舞いしてやった。
おお、と観衆が囃し立てる。どうやらこの街はこういう雰囲気らしい。見世物ではないから、すぐにそこを立ち去って、近くのカフェに入った。アイスコーヒーを一杯頼んで、ストローを使わずにグラスに口をつけ、こきゅ、と喉を鳴らして一口。全身に苦味が染み渡って身体が喜んでいる。
「ねぇ、あの人カッコよくない…?」
「うんうん、すごいイケメン…」
久々に、普通のストローで飲み物を飲んでいるだけなのだが、ここでも外見で判断されるのか。外にホストクラブの看板が立っていたから、よりその傾向が強いのだろう。ここに足を踏み入れた私が悪いな、と自戒をしていると、唐突にスバルから電話がかかってきた。それを取れば、何やら焦っているようで、またしても奏絡みか、と易しすぎる問題が予想できる。
『今、どこにいる⁉』
「神室町だが」
『なんでそんなとこ…!とにかく、お嬢様が大変なんだ!すぐに学校に来てくれ!』
涼月家はブラック企業も真っ青だな。用件を伝えてからすぐにスバルは電話を切った。仕方ない、と重い腰を上げ、電車に飛び乗った。
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学校につくなり、いきなり私は溜息を漏らしてしまった。私服で来た途端に教師に目をつけられ、事情を説明すればスバルに捕まり。どうやら、奏がしゃっくりをしているらしい、と。それで今は保健室に、坂町…いやジローと一緒にいるらしい。
この時点で、私は確信した。奏は、この状況を作る為に、しゃっくりという演技をしたのだ、と。スバルに何も言わず、保健室のドアをガラッと開ければ、ベッドに横たわる二つの膨らみ。顔はジロー。となると…。
「なにしてるんだ、奏。かくれんぼは趣味じゃないぞ」
「あら、じゃあ私と添い寝するにゅ?」
一発で奏の居所を見定めた私に驚きを隠せないジローだが、2年の付き合いなら匂いがわかるさ。運悪くそこにスバルも駆け込んできては、悲鳴をあげようとしたので、彼女の口を平手で抑えた。
こんなところ、他の人間に見られたらより大事だ。それを、お前の叫び声で知らせてはなるまい。パニックになるのもわかるが、事を俯瞰してみれば、そして奏の行動パターンを考えれば、お前でもわかるだろうに。
「落ち着け、スバル。やましいことをしていた様子はない」
「だ、だけど!ジローとお嬢様が…」
「アイツの悪戯だ。それで、奏。ジローと腹を割って話そうとしたと見えるが」
「あら、何でもお見通しなのね?ふふ、それだけ私に首ったけ…」
ジローは引いていた。とてつもなく。まあいい、とスバルとジローを教室に返したあと、すぐに奏に捕まり、ベッドの隣に座らされた。
大方の予想はつく。スバルとジローの関係が少し親密になってきている。そして、私とジローとも。呼び方が変わったのがその証拠であるし、なにより私はアイツに心を許している。始めての男の友達であるし、命の恩人であるし、な。
「スバルも恋を覚える時期かしら…?って、いっても、貴方に惚れているみたいだけど」
「お前は親か何かか。全く…。妬いているんだな」
「ええそうよ、妬いてるわよ。スバルとも混浴して、キスまでして…。そしてジローくんも貴方と仲良くなってるし」
「側から見れば、お前もジローと仲が良く見えるが?」
「確かに、それは嬉しい。けど、一番妬いてるのは、貴方とスバルが、ジローくんに懐いちゃったことなの!」
――なんで、こいつは旅館での出来事を知っているんだろう。あの時のお前は寝ていなかったか。
ぷく、と頬を膨らませる奏。久しぶりにこんな表情を見た気がして、思わずくすりと笑ってしまった。そうしていれば、ずっと可愛いのに。
「えっ?」
「どうかしたか?」
「いえ…別に…っ♡」
気のせいだろうか、少しだけ奏の言葉が跳ねる様に聞こえた。
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狼にはじめて可愛いって言われたかもしれない。条件付きがあるとはいえ、その言葉を言われて、間違いなく私の心はときめいていた。瞬間、顔が赤くなって、ドキドキして…。やだ、恥ずかしい。
彼の前では、いつもスイッチを入れなくていい。好きだ、っていうスイッチは入るけど、いつもの自分を作る私スイッチは、彼には必要なくて。そう、ありのままの自分を曝け出して、それを狼が受け止めてくれる。
私は、本当にワガママな女の子だと思う。モノは全て与えられた。それで、満たされている、っていう実感をしたことはない。彼と会うまではね。つまりは、狼は私の心も、身体も、満たしてくれる。それでいて、私は彼に何かをしてあげたくて。それは、心の底から、彼が好きで、愛していて、それをわかってほしくて。
狼に近付いてくる女の子は、皆そんな気持ちなのかもしれない。飾らない彼に、自分の心の弱さや、本当の自分を見せられる。宇佐美さんのことを、私は怖いと思っているけど、狼と彼女が話している時はそんなことがない。笑顔も言葉も、自然に出てきている様に感じられる。
人徳、っていうやつなのかしら?私は自分の弱さを誤魔化すために、人をおもちゃにしているのかもしれない。悪い癖だの、ガンだの、散々に言われているが、それを狼が受け止めていて、スバルも受け入れてくれて、ジローくんは身体一つでこなして。3人とも素敵な人。だけど、本性を出せるのは狼しか、ハルしかいない。
肩肘張らない、っていう行為が、この家に産まれた私にとって、どれほど難しいことか。スイッチを入れていた方が、外に出る時や人と会う時はラクなのだけれど、狼だけは違う。
ぎしり、とベッドが軋んで、狼が立ち上がった。今日はおやすみだったことを思い出せば、少しだけ罪悪感が生まれてしまうけど、そんなことお構いなしに彼は頭を撫でてくれた。
「気にしないで良い。君の弟なのだから」
「顔に出てた…?」
「出ていない。だが、わかるさ。弟だから、な」
穏やかな目で微笑みかける彼に、尚更胸がときめく。勝手に身体が動いて、彼に抱きついてしまうが、いつもと違って振り解こうとしない。 そのまま、何処かへ連れ去ってくれるのかしら?
「スバル」
期待していたのも束の間、扉を開けて、教室に戻らずに外で待っていたスバルに声を掛けた彼は、優しく私の手を取って、彼女へと身体を預けさせた。
「奏を頼んだぞ」
「うん。ゆっくり羽根を伸ばしておいで」
「ああ。また屋敷でな、二人とも」
ぽん、とスバルの頭に手を置いてから、ゆっくりと廊下を往く彼の背中。見つめる度、うら寂しくなる。スバルのアルトボイスが耳に入ってきても、その寂しさは埋まらぬばかりで。
「お嬢様?」
「……いえ。戻りましょうか」
少しだけ、スバルの顔も笑顔になっていた気がした。誰にでも振りまくようになったその優しさが、少し妬けてきた。
きゅ、と彼女の手を握り、気持ちを切り替える。そう、いつもの『涼月奏』を演じる為に。