何度、同じ時を繰り返しただろう。
何度、変わらない結末に唇を噛みしめただろう。
何度、不甲斐ない自分に絶望しかけただろう。
回数など、もう覚えていない。挫けそうになる心を叱咤し、交わした約束を支えにして進んできた。
でも、それもようやく終わる。
ワルプルギスの夜。多くの人達の絶望を喰らいし、災厄の魔女。
何度も繰り返し、その度に届かなかった。もう少しで、というところで撤退せざるをえなかった事さえ何度もある。
それでもなお諦めず、ようやく打倒するという目標にまでたどり着いた。
正直なところ、勝てたのは奇跡にも等しい。それでも、倒したという事実は揺るがない。
それは、本当に小さな偶然だった。あらゆる手段を講じても全くと言っていいほど攻撃が通らずに無為に消耗していくだけの中、たまたま迎撃されないままワルプルギスの夜の元までたどり着いていた爆弾が、周囲に破壊を撒き散らす大規模な攻撃の直後に炸裂したのだ。
最初、その爆弾の効果など無いと期待はしていなかった。だが、それまではどんな攻撃を受けようが何事もなかったかのように行動していたワルプルギスの夜が、ほんの一瞬ではあるが沈黙し動きを止めたのだ。
その光景を見て浮かんだ仮説に、全てを賭けた。
即ち、大きな攻撃の直後には僅かながらも隙ができる、ということに。
どこまで通じるかはわからない。そもそもワルプルギスの夜は、攻撃されていると認識しているかどうかさえ怪しいのだ。
事実、出現してからの行動は無差別に破壊を撒き散らすだけに過ぎず、狙って攻撃されたと感じたものは一つとして存在しない。
それでも、攻撃の範囲が広く無差別であるために、防ぐか回避するかに重点を置かなければならず、隙を見つけては散発的に攻撃をすることしか出来なかった。
そんな、先の見えない中で見つけた小さな足がかり。
成功する保証などはなく、分の悪い賭けでしかない。それでも、選んでいる余裕も時間もないのだ。そんな中では、どれだけ小さなものであろうと、可能性にすがるしか手段がなかった。
急がなければ、と焦りが大きくなる。
何故か理由は不明だが、今現在姿を見せていないキュゥべえ──インキュベーターがいつ現れるかも知れたものではない。
狡猾な奴の事、何かを企んで姿を隠しているということも十分に考えられた。
だからこそ、分の悪い賭けであろうとも、僅かな可能性に全力で賭けたのだ。
ひたすら防御と回避に専念し、小さな隙を見つけては時間停止の魔術を使い、魔力を込めた爆弾を投げつけた後に離脱、自分の魔術を解除する。
こんな時は、攻撃系の魔術を全く使えない自分が恨めしく思える。
時間遡行と時間停止に能力リソースの大半を使ってしまい、その二つ以外で使うことが出来るのは時間操作の副産物に近い空間操作と、あまり上手くない魔力強化のみ。
それ故に、戦闘では致命的に火力不足の自分がワルプルギスの夜と単独で戦うなど、無謀以外の何者でもなかった。
それでも、小さな可能性の発見が、ささやかな光明を見せてくれた。
だからこそ、覚悟を決めた。インキュベーターが姿を見せる前に、何としてでもワルプルギスの夜を倒すと。
そこからは、もはや後のことなど気にかけず、手持ちのありとあらゆる武器、兵器を魔力強化し、時間停止を駆使して全力で攻撃した。
急速な魔力の消費にソウルジェムが一気に黒く濁って行くが、その事を気にかけている時間はない。
自分が倒れるか、ワルプルギスの夜が倒れるかのデッドラン。
以前までであれば確実に負けていただろう。
だが今回は、僅かとはいえ可能性があった。
それがなければ、きっと心が折れて絶望してしまっていたのではないかと思う。
それほどにワルプルギスの夜は強大であり、倒そうとするなら本当に小さな可能性にさえも賭けなければならなかった。
その賭けに、本当に僅差で勝利をつかむことができたのは、インキュベーターがもたらすようなインスタントの奇跡ではなく、本物の奇跡だったとしか言い様がない。
何しろ、手許に残されたのは爆弾が一つ。ソウルジェムもほぼ漆黒に染まり、残されていた爆弾を使って倒せなければもはや打つ手は何も無いと諦めかけた時、唐突にワルプルギスの夜が不気味な唸り声とともにその姿を崩し、霧散していったのだ。
最初何が起きたか理解できずに呆然となり、ワルプルギスの夜の結界が消えて日が差し込んできて初めて我に返った。
結界の外の街の様子は酷い有様だった。これまでの繰り返しで何度も見たものと同様の崩壊した町並みと溢れたかのように溜まっている水。
この崩壊した街並みのどこかに、まどかがいるはずだった。
それほど遠くない場所でワルプルギスの夜との戦いを見ていたはずなのだから。
だが、自分にはもう時間がない。
手のひらの上にある卵型の宝石──ソウルジェムの輝きは、ほぼ黒く染まっている。
あとどれほどの時間保つのか、はっきりとは分からないが、半日も経たないうちに自分は魔女と化すに違いない。時折、意識に靄がかかったかのように混濁して遠のくことがあるのを自覚する。
まるで、自分の中に別の誰かが入り込んでこようとするかのように。
グリーフシードが無い今、打てる手は何も無い。
それでも、まだ倒れるわけにはいかないし、魔女と化すわけにもいかない。やらなければならないことが残っているから。
重い体を引きずり、時折混濁する意識を叱咤しながらまどかの姿を探す。
会えないままで終われない。その想いが、身体に力を与えてくれる。
「ほむら……ちゃん……?」
右手側から聞こえた小さな水音と呼び声に振り向けば、そこには泣きそうな表情で自分を見つめているまどかの姿。
それを目にした瞬間に、身体から力が抜けた。
無事であり、インキュベーターとの契約も行っていないまどかの姿を見て気が緩んだのだろう。
そのせいか、自分の中で急速に何かが崩壊していくのが感じられる。
……もう、本当に時間がない。
「まどか……。もしインキュベーターが……キュゥべえが現れて願いを叶えると言ってきても、決してその話に応じては駄目。あいつは人間を消耗品のようなものとしか認識してない。
だから、あなたは今のあなたのままでいて。それが、私の守りたかったもの……だから……!」
倒れそうになった体を支えてくれたまどかに縋りつくように訴えかけた。
もう、限界が近い。心と身体の奥底から、何かが溢れ出しそうになっている。
これ以上は、抑えられそうになかった。
「まどか……。 わたし、あなたと友達になれて良かった。できるなら、これからもあなたと一緒に笑ったり悲しんだりしたかったけれど……もう、駄目みたい」
弱々しい声で告げたその言葉に、まどかは大きく目を見開いた。
「ほむら……ちゃん? 何……言ってる……の?」
理解できないと言いたげな戸惑いの言葉に胸が痛む。
ああ、結局悲しませることになってしまった。けれど、自分の身に今起きていることを考えると、もうどうしようもない。
力のない笑みを浮かべたまま、自身のソウルジェムを手のひらの上に取り出して掲げて見せる。
「…………!」
まどかが息を飲む音が耳に聞こえてきた。
この時間軸のまどかはこの状態のソウルジェムを目にしたことはないはずだけれど、今の状態が危険なものであることはわかったらしい。
もともと澄んだ紫色の輝きを放っていたソウルジェムはほとんど黒く染まってしまっていて、僅かに紫色の輝きを残しているだけだった。
その、残された魔力を搾り出し指先に纏わせる。
「まどか。……ごめんね」
震える指先を自身のソウルジェムに当てて力を込める。
一瞬、その行為を躊躇いそうになるが、自身の死への恐怖よりも、魔女と化してまどかを殺してしまうことへの恐怖のほうが大きかった。
そして、魔力で強化された指先がソウルジェムを破壊した。
ソウルジェムがひび割れ崩れ行く中で、意識が急速に遠のいていく。
最期に見ることができたのは泣きそうな顔のまどかの姿。そして、泣かせてしまったという未練と、完全ではないものの望む結末を迎えることができたという達成感だった。
ワルプルギスの夜が倒された今、まどかが魔法少女にならなければならない理由など、今はないのだから。
ここで終わってしまう自分が情けなくも思えるけれど、これ以上はどうしようもないと諦めるしか無い。
そうして、沈みゆく意識を闇に委ねた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「…………!!!」
急速に意識が浮き上がる感覚の中、唐突に目が覚めた。
飛び込んできた光景は病院の病室。そう、まどかと出会う前まで入院していた病院の、あの病室だ。
その状況に、理解が追いつかない。
何故なら、わたしは魔女になることを避けるために自らの手で自身のソウルジェムを砕き、間違いなく死んだはず。
こうして再び過去に戻って目覚めることなどあり得ないはずなのに。
そこまで考えて、違和感があることに気がついた。
ソウルジェムがどこにもない。
これまで過去で目覚めたときには必ず手の中に握りこんでいた自身のソウルジェムが、どこにも存在していなかった。
そして、頭の中に生まれたのは「何故?」という疑問。
今置かれている状況の、何もかもがわからなかった。
理解するためには、確認して知らなければならないことがいくつもある。
そうして、わたしは再び踏み出した。
そこに何が待っているのかも知らないまま。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
何故?
わたしの心の中は、その疑問で埋め尽くされている。
ワルプルギスの夜との戦いの後、自身が魔女に堕ちることを防ぐために自害し、それで全ては終わりを告げたはずだった。
それなのに、わたしは再び時を遡りこれまでと同じように退院直前の病院のベッドの上で目を覚ました。
────ソウルジェムを持たない、普通の人間の少女として。
それだけでも疑問は尽きなかったけれど、考えても答えなど出るはずがないと諦めていた。
そして、退院。ソウルジェムのない今のわたしには、何かあっても対処するだけの力を保持していない。故に状況に流されるまま、それに従うことしかできなかった。
いや、本心では怖かったのだ。無力な一般人の少女と成り果ててしまったわたし自身が、自ら動くことが。
そうして、見滝原中学への編入。そこで再び、晴れることのない疑問が噴出することになってしましまった。
何度も繰り返した自己紹介の時間。その後の、まどかとの出会いの時。
けれど……
偶然目に入った、まどかの左手。その中指には鈍い輝きを放つ銀色の指輪。それはソウルジェムが形を変えたもの。ウィッチグラフで名前の刻まれた、契約の証。
それを見たときに、わたしは愕然とした。
内心の動揺を必死に押し隠し、何事もなかったかのなように話を続けながらも、本心では疑問と絶望感でいっぱいだった。
今、わたしが置かれている状況は、わたしが魔法少女となる以前の状況とそっくりなのだ。違いは、わたしが当時は知っているはずのない知識と経験を持ち得ていること。
なぜこんな事態になっているのか、理由はまるでわからない。わかるはずもない。
けれど、わたしはこれを認めたくない。受け入れたくない。
これでは、いままでわたしがしてきたことは一体なんだったのか。
何度繰り返しても事態の悪化を防げず、望まない結果にたどり着く。そのなかで不完全ではあるけれどようやく掴みとった結末。
ワルプルギスの夜を倒し、まどかが魔法少女と化すことを阻止する。
ようやく届いたはずの、その結末。
いや、ワルプルギスは倒すことはできても本当の意味で滅ぼすことなど不可能に近い存在かも知れないけれど、少なくとも数十年は再び顕現することはないはずなのに……
そこまで考えて、ある可能性に思い至った。
もしも、もしもだ。ワルプルギスの夜とは関係の無い理由でインキュベーターと契約を行い、その結果今の状況があるのだとしたら。
その考えを、否定することはできなかった。事実、わたしがインキュベーターの目的と魔法少女の実態を知り、その事を告げるまでの彼女は、ワルプルギスとは一切無関係の願いで契約を行っていたのだから。
その考えに、わたしは全身から力が抜けていくような虚無感を覚えていた。
もしもこの考えが正しいのだとしたら、わたしのしてきたことは本当に何だったのかわからなくなってしまう。
結局、わたしはまどかの考えを変えることはできなかったのか。それとも、そんなことは関係なく契約に踏み切るだけの何かがあったのか。それとも、わたしがしてきたことは、最初から無意味だったのか……
恐ろしい考えが次から次へと浮かんでくる。
「どうかしたの?」
不意に聞こえた疑問の声に、考えに没頭していたわたしは我に返る。
顔を上げれば、わたしの座っている席の横に、まどかと志筑仁美他、数名のクラスメイトたち。
「あ……」
とっさには言葉が出てこなかった。それ程に心が重く沈んでいたのだということをこの時になってようやく思い知らされた。
「転校してきたばっかりでわからないことや不安なことがあるのはあたりまえだよ。だから、聞きたいことがあったらなんでも聞いて!」
「今、とても暗い顔をしていましたわね。なにかお手伝いできるなら、言ってくださいまし」
まどかと志筑仁美の言葉に、周囲のクラスメイトたちも頷いている。
ああ、やっぱりまどかをはじめとして、このクラスの皆はいい人達が多いようだ。
けれど今のわたしにとって、まどかの優しい言葉はただ辛いものにしかならなかった。
何故、わたしは今ここにこうして存在しているのだろう。
まどかの優しさに触れ、改めてそう思う。
けれど、その疑問に答えは存在しない。わたしが今ここにいるという事実だけがある。
こうして生きているのにこんなことを考えるのは不謹慎かもしれないけれど、こんな気持を抱くことになるくらいならあのまま死んでしまいたかった。
わたしがこれまでしてきたことも、繰り返すたびに起きたいくつもの出来事も、何もかもが否定されたような陰鬱な気分になる。
身勝手な考えだと、自分でも思う。
時間を遡り、何度もやり直しを繰り返していた行為そのものが過去の否定なのだから、わたしがこんなことを考えるのは本来なら許されないだろう。
理屈では納得できても、やはり感情はそうもいかない。
そのうえ、今のわたしはただの無力な一人の少女に過ぎないし、知っていることを話すこともできない。
魔法少女でもない今のわたしがソウルジェムやインキュベーターに関することを話したとしても、間違いなく信じてはもらえない。むしろ怪しまれ、疑われることが目に見えている。
同じ魔法少女という立場にあった時でさえ、その認め難い内容故か信じてはもらえなかったのだ。今のわたしがそんな話を持ち出しては怪しすぎるにも程がある。
それだけ、インキュベーターが人の心の隙間にうまく取り入っていたということでもあるのだけど……
「ごめんなさい。ちょっと考え事してて……。それと、心配してくれてありがとう」
出口の見えない思考を強制的に打ち切り、声をかけてくれたクラスメイト達に返答する。
自分では見えないからはっきりとはわからないけれど、今のわたしはずいぶんとひどい表情をしているらしい。
その証拠に、志筑仁美に「暗い顔をしている」と言われてしまった。
それに、今のわたしは気持ちが沈んでいるせいか、性格が引っ込み思案だった頃に戻ってしまっているような気さえする。
考えれば考える程、気持ちが沈んでしまう。
だから、今は考えることをやめて、わたしのことを気にかけてくれた皆の気持ちに応えよう。
魔女のことも、魔法少女のことも、それにインキュベーターやワルプルギスの夜。この時間、この世界でも、それらは大きな問題であることに変わりはない。
けれど、現状では解決策がないのだから、その事について考えるのは時間を無駄にするだけかも知れない。
ならば、今は少しでも気分を変えて、心のなかに渦巻く閉塞感を払拭できるように努力しよう。そうすれば、少しは違った考えが浮かぶようになるかも知れないから。
「お昼休みに、学校の中案内するね!その時でいいから、色々お話聞かせてほしいな」
そう言って笑いかけてくるまどかの笑顔が、とても眩しかった。
これで、インキュベーターや魔女の問題が存在しないならば、きっととても幸せな時間に感じられただろう。けれど、それは叶わぬ夢でしかない。
今、私の目の前にいるまどかは、既に魔法少女としての契約を行ってしまっている。そしてその事実は、インキュベーターや魔女が変わらずに存在していることの証でもあるのだから。
この時間軸で、この世界で、わたしはどうするべきなのだろう。
結末が同じになるとは言い切れないし、違う結末になるという保証もない。
これまでの繰り返しの中でさえ、ワルプルギスの夜の現出という大きな結末は変化しなかったにしろ、それまでの過程やそれによる結果など、細かい部分での小さな差異が後々になって大きな影響を及ぼすことが多かった。
それの極め付けが、わたしがまどかに執着を持ったまま何度も時間遡行を繰り返したことによる因果の収斂。
ワルプルギスの夜を打倒する事にも執着していたから、そちらにも因果の収斂が起きていた可能性すらある。
それらの事象と、今わたしが置かれている状況は、過去を否定しやり直しを繰り返したことへの代償なのかもしれない。
ただ自虐的なだけの考えだと思えれば、どんなに良かっただろうか。
…………いけない。また考えが悪い方へと傾いている。
どうやら、わたしは自分で考えている以上に精神的にまいってしまっているらしい。
その事に溜息をつきたくなるけれど、それをすれば悪循環になるだけのように思える。
「いつまでそんな顔してんのよ、転校生! 不安なのはわからなくもないけど、そんなんじゃ楽しくないっしょ?」
いきなりかけられた声に視線を向ければ、いつの間にか美樹さやかもわたしのところに近づいてきていた。
言っていることはもっともだと思うし、元気なのも悪いことじゃない。だけど、相変わらず空気が読めないという点は同じらしい。
まどかをはじめとして、わたしの周りにいたクラスメイト達は全員、苦笑か微妙な表情を浮かべている。
発破をかけられただけで元気になれるなら、誰も苦労はしないのだけれど、ね。
そして、まどかの控えめな突っ込みに対してノリノリで突っ込み返す美樹さやか。
そのまま、わたしの目の前で掛け合いを始める二人。
半ば呆れてそれを見ていたわたしに、志筑仁美が声をかけてくる。
「ようやく、笑って下さいましたわね。先程までの硬い表情よりも、そうして笑っている方がかわいらしいですわ」
そう言って、微笑みかけられた。
その言葉に、わたしは反射的に手を頬にあててしまう。
自分が笑っている、そのことが意外だった。ずっと繰り返してきたやり直しの中で、そんな気持ちはとうに忘れ去っていると思っていたから。
わたし、まだ笑えたんだ……
ずっと忘れていた何かを突然思い出したような気分だった。
「人と話すことに、あまり慣れていないのでしょう? 最近まで入院していたのであれば、無理もありませんわね。でも、ご心配なさらずとも皆いい人達ばかりですから、もっと肩の力を抜いていただいて大丈夫ですわ」
「……ありがとう」
志筑仁美の気遣うような言葉に何故か気恥ずかしくなってしまい、やや俯きながら小さな声で礼の言葉を返す。
こんな気持になったのはいつ以来だろう。何度も繰り返したやり直しのせいかはっきりとは思い出せないけれど、もう何年も心を閉ざしていたような気さえする。
こんなささやかな幸せさえも、わたしは見えなくなってしまっていたのだろうか。そう思うと自分が今までの繰り返しの中でいかに周りに目を向けなくなっていたのかを痛感する。
ワルプルギスの夜を倒し、まどかを救う。その事を免罪符に、周りを見ているつもりになっていただけだったのだと思う。
数日のうちにこの穏やかな時間は終わりを告げると分かっていても、少しでも長くこの時間が続いて欲しいと思わずにはいられない。
今のこの瞬間こそが、本来わたしが目指したかった幸せに最も近いものだから。
たとえこの先に残酷な結末が待っているのだとしても、今この時だけはその事を忘れて、このささやかな幸せを胸に刻んでおきたい。
それが、無力な少女となってしまった今のわたしに出来る小さな努力の一つだと思うから。
ただの自己満足に過ぎないかも知れない。けれど、いつまでも悩んでいてもなにも変わらないのだからそれでも構わない。
いずれ魔女とインキュベーターと遭遇することになったとき、この想いがわたしを支えてくれると信じられる。
だから、もう一度わたしは前に踏み出そう。どんな結末になっても後悔しない、その為に。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
これから、どうするべきなのか。
学校の下校時刻になってから、わたしはずっと悩んでいた。
魔法少女ではなくなった今、直接できる事はないに等しい。けれど、このまま何もしないでいるというのも何か落ち着かない。
それはただの自己満足かもしれないけれど、何もしないままの傍観者にだけはなりたくなかった。
もう一度、インキュベーターと契約するべきだろうか……
そんな考えが脳裏をよぎる。
けれど、今の私は契約する資格を有していない可能性すらある。
仮にもう一度契約したとしても、以前のような能力は望めない。
あれは、わたしがまどかを助けることも、説得して引きとめることもできなかった強い後悔の念が生み出したものだ。
過ぎた過去を否定し、やり直すための力。
今になって改めて考えると、強力ではあるけれど随分とネガティブな能力だと思う。
自分の望んだ結末にする為に、それ以外の結末を否定する身勝手な願い。
そう考えれば、繰り返すたびに見る事のできない枷が重くなっていったのも、無理のないことだったのだと感じられる。
わたし一人の個人的な理由で、世界全体の因果律を掻き回したのだ。
そのしわ寄せは、わたし自身かわたしの願いの対象に向かってくる。
かつてインキュベーターに告げられた、まどかの因果の収斂。
それこそが、わたしが気付かないままに自分とまどかを共に追い詰めることになっていた理由。
改めて思い返してみて。まどかを魔法少女にしないという目標は正しかったのかどうか分からなくなってしまった。
なぜなら、まどかは魔法少女になっていたほうが自信に溢れ、強い心を持っていたから。
ただ、誰かの役に立ちたいと、それだけを純粋に願うことのできた娘であるからこそ、魔法少女という在り方に誇りを持っていたのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていて、周囲の雰囲気に変化があったことに気が付いた。
────クスクス……クスクスクス……────
空気が重くのしかかってくるような感覚とともに、かすかに聞こえる笑い声。
それと同時に、周囲の景色が歪むように変化する。
書き殴った落書きのような絵。かと思えば全体をわざと崩して描かれた抽象画。大きさや陰影などが変に強調された風景画など、数多くの絵がひしめく空間。
狂気のごとき絵画に埋め尽くされたその空間は、芸術家の魔女の結界。
その中を頼りなげな足取りで動き回る、単色の人影の油絵を切り抜いたかのような芸術家の魔女の使い魔。
動きは非常に遅いため怖くはない。けれど、今のわたしは対抗する術を持っていない。
それに、一体だけならばまだしも複数存在している上、魔女の結界の中ではいくら逃げ回っても逃げ切れない。
この魔女の事をある程度知ってはいても、それだけでは何の役にも立たないのだ。
「くっ……」
思わず、小さな舌打ちがこぼれる。
完全に手詰まりだった。今のわたしでは、戦うことも、ここから逃げることもできはしない。
まどかでも、巴さんでもいい。誰か戦うことのできる人が気付いて手を差し伸べてくれるまで、逃げ回るしかない。
もし使い魔に捕まるか、魔女本体に遭遇してしまうようなことがあれば、わたしは助からない。
……嫌だ。
理由は分からないけれど、わたしは今こうして生きている。まだ迷いはあるけれど、これを機会に今までとは違う一歩を踏み出そうと決めたのだ。
それなのに、こんな終わり方だけはしたくない!
生き延びるために使い魔から逃げ出そうとして、そして気づいてしまった。
逃げようとした先のその空間に、わたしの逃げ道を塞ぐかのように現れたものに。
何もなかったはずの空間から染み出すように現れる、パリの凱旋門を思わせる姿。
そう。それこそは芸術家の魔女の本体だった。
「あ……あっ……」
その姿を見た瞬間に、わたしは身体から力が抜けていくのを感じていた。
今のわたしには戦う力もなければ、虚栄の性質を持つこの魔女を言葉で追い詰めることができるだけの芸術に関する知識もない。
魔女本体が姿を見せた時点で、詰んでしまっていた。
何も知らない少女であれば、悲鳴を上げるか、でなければ恐怖に身を竦ませてしまっていたかも知れない。
けれどわたしは、戦う力を失ったとはいえ魔女と戦っていたのだ。
身体から力が抜けたのも一時のもの。状況が絶望的なものであることは変わらないけれど、このまま諦めてしまっては助かる可能性は完全に消えてしまう。
たとえ掴み取るのが不可能に思えるほど低い可能性であったとしても、諦めなければ手が届く可能性は決してゼロにはならないのだから。
戦えないことがひどく情けなく感じもするけれど、そんなことを言っても始まらない。
今の一番大切なことは生き延びること。
幸いにも、この魔女の手下の動きは早くはない。だから、捕まらないように上手く間を駆け抜けることは不可能ではないと思う。
問題があるとすれば、今のわたしは魔法少女ではなくただの少女でしかないということ。
身体能力の強化などができない以上、わずかでもバランスを崩したりすればそれでおしまいになってしまう。
とても分の悪い賭け。でも、今はそれが必要な時。
荷物は鞄一つ。この程度なら邪魔にはならない。
よろめくような動作で歩き回る使い魔に視線を走らせ、その動きに注視する。
これまでは何の脅威でもなかった。けれど今のわたしにとっては使い魔の一体でさえも大きな脅威になって立ち塞がる。
魔女自身は直接手を出してこないタイプである点は助かっている。もしこれが直接手を出してくるタイプであったなら、こうして悠長に逃げ出すチャンスを探したりする時間など与えてもらえずに死んでいた。
近づいてくる使い魔をかわすように移動しながら、立ち位置と距離を確認する。
それを繰り返すこと数度。ようやく待っていた瞬間が訪れた。
周囲を囲むようにして歩き回る十数体の使い魔たちの間にできた、一メートルほどの隙間。そこを狙って、全力で駆け抜けた。
後ろを振り向いたりする余裕などない。捕まってしまったら、そこで終わりなのだから。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
どの程度走り続けただろうか。魔法を使うことのない元のわたしの身体は、入院していたこともあって決して体力があるわけでも運動能力が高いわけでもない。
魔力強化で能力を高めて動くことに慣れてしまったせいか、こんなときは自分の身体がひどく重く感じられる。
もどかしいけれど、ないものねだりをしても仕方がない。
結界の中にいる以上、逃げ切ることは不可能だけれど、多少は時間を稼ぐことができるくらいの距離は離れたはず、そう思って一度立ち止まり、後ろを振り返った。
「どうして……」
視界に飛び込んできたものに愕然として、無意識にそんな呟きをこぼしていた。
そこにいたものは、芸術の魔女の使い魔たち。数こそ数体と少ないけれど、ほんの二メートルほどの距離を開けて、まっすぐにこちらに向かってきていた。
この時、ひとつ重要なことをわたしは忘れていた。
ここは魔女の結界の中。すなわち、魔女の支配空間だということ。
結界内における魔女の能力のひとつとして、望む場所に使い魔を送り込むことができるというものがある。
ピンポイントで送り込むことができるわけではないようだけれど、それでも数メートル程度の誤差でしかないらしいのだ。
魔法を使えないまま魔女に襲われたことに、自分で思っているよりも大きく動揺していたらしい。こんな大事なことが考えから抜け落ちていたなんて。
自分で自分に呆れてしまう。でも、後悔している余裕はない。そんなものは後回しだ。
やはり、立ち止まらずに常に動いてるしかないのかもしれない。
けれど、もう体力が限界に近い。先程の全力疾走が思った以上に身体に負担をかけていたらしい。
せめて魔力強化だけでも使えれば……
そんな思いが脳裏をよぎるけれど、できない以上は意味のない思考でしかない。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
乱れた呼吸を落ち着ける余裕もなく、再び使い魔から距離をとろうとして……
唐突に、足から力が抜けた。
「え……?」
立ち上がろうとしても、足に力が入らない。力を入れようとしただけで、足が震えるのが分かる。
必死になっていたために気付かなかっただけで、わたしの身体はかなり疲弊してしまっていたらしい。
動けなくなったわたしに、使い魔たちがゆっくりと近づいてくる。
もう、逃げられない。それを理解したとたん、心の中に恐怖が満ちた。
魔女や使い魔が怖いわけではない。今は戦う術がないとはいえ、少し前までは嫌というほど相対してきたのだ。
それよりも、なにもできないままこんな形で終わってしまうという、目の前に突きつけられたその事実がひどく怖かった。
「あ……い……いや……」
自分でも驚くほどの弱々しい声が無意識に口からこぼれ出る。
戦う術はなく、もはや身体もまともに動かない。
戦うことも逃げることもできず、助けも来ない。
このまま死ぬしかないのだと、その事に思い至るのと同時に、わたしは拒絶の叫び声を上げていた。
「イヤァァ──────ッッ!!」
その叫びに重なるようにして響く炸裂音。
そして、わたしの目の前まで迫っていた使い魔たちは、一体残らず砕け散った。
「危ないところだったわね……。間に合ってよかったわ」
「よかった……。もう大丈夫だよ。ほむらちゃん」
その声に振り返れば、そこにいたのは黄色と桃色の魔法少女。
コルセットドレスにロングブーツ、手には装飾の施された白いマスケット銃を構えている少女、巴マミ。
桃色ベースのフリル付きフレアスカートのドレスのような服と、手には薔薇の花と枝を模した弓を構えた少女、鹿目まどか。
それは、まるでわたしが魔法少女のことを知らなかったときの最初の出会いを焼き直したかのような光景だった。
驚いているわたしに、二人は優しく微笑んでくれる。
「もう少し待ってちょうだい。決着をつけるから」
表情を引き締めての巴マミの言葉に視線を追いかければ、そこには凱旋門を思わせる姿の芸術の魔女がいた。
おそらく二人の存在と、わたしが捕まらないことを知り追いかけてきたのだろう。
「数はそれほど多くないけど、使い魔が厄介ね……」
僅かな思案の後に呟き、巴マミは自身の首に結ばれた黄色のリボンを解くと、頭上で大きく円を描くように振り回す。
それは、わたし自身も以前に何度か見た光景。
リボンは円を描きながら広がりつつ、絡みあうような複雑な軌道を描いてその場にいた使い魔全てと魔女を巻き込んで一箇所に拘束する。
「鹿目さん」
「はい!」
一言だけの短いやりとりの後、自身の武器を構える二人。
そして、拘束された魔女とその使い魔に向かって、同時に攻撃を放った。
轟音と共に放たれた黄色の輝きと、唸りを纏う桃色の光条が魔女と使い魔を貫き、爆音と共に魔力光の輝きの中に消えていった。
その光景を見て、わたしは安心していた。魔女も使い魔も倒され、終わったのだと。
けれど……
「気を抜くのは早いわ。まだ、終わってない」
「え?」
厳しい表情をしたままの巴マミの言葉に、わたしは呆けたような声を上げてしまった。
よく見てみれば、まどかも厳しい表情をしたまま巴マミと同じ方向を見つめている。
その視線の先には、たった今魔女と使い魔の姿が消えた場所。
倒せていない?そんな疑問が脳裏をよぎるけれど、それを否定するようにわたしたちが見ている前で、魔女の結界が崩れていく。
倒したのなら、結界は消えて通常空間に戻るはず。
その考えを覆して、変化したのはくすんだ灰色の背景を持つ、薄暗く重苦しい空気に満ちた空間。
その中で、地面から伸びるように姿を表す、数体の白い影。
全体のシルエットは、マントで身体を包んだ人のように見える。
けれど、その姿には不自然なほど色がなく、純白ともいえるような白さだった。
そして、その顔の半分を覆うように、僅かな虹色の輝きを発して蠢く、モザイクのようなもの。
それはわたしの知らない『何か』
「あれは……何……?」
初めて見る、未知なるものにわたしは混乱していた。
今まで何度も時を繰り返してきたけれど、あんなものと遭遇したことは一度もない。
ましてや、魔女を倒した後にあんなものが現れるなんて……
「あれは、魔獣よ」
わたしの呟きが聞こえたのだろう、巴マミが疑問に答えてくれた。
「人の悪意から生まれて、恨みや妬みといった強い負の感情を抱えた人間にとり憑くの。とり憑かれた人間は肉体も魂も飲み込まれて……魔女と化す。それは私達魔法少女も例外じゃないわ。
そして、魔女となった際に現れる性質は、元になった人間が抱えていた負の感情の影響が色濃く現れるのよ」
それは、初めて聞く内容の説明だった。これまで繰り返した中でもそんな事は一度も見たり聞いたりした覚えはない。
「魔獣に飲まれた人間はもう助からない。魔女を倒せば元となった人と魔獣を切り離せるけど、命は……ないわ」
説明を続けながらも、油断無く武器を構える。
そして、巴マミのマスケット銃が、まどかの弓が、現れた魔獣に向かってその力を解き放った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしの見ている前で、魔獣の最後の一体がもがきながら消滅していく。あとに残されたのは指の先ほどの大きさの黒い立方体状の結晶。
最初はそれがなんなのかわからなかった。けれど二人のソウルジェムから汚れを取り込んでいるのを目にして、それがわたしの知る魔女のグリーフシードと同じものなのだということを理解した。
それでも、何故このようなことになっているのか、それについてはまったくわからない。
とても良く似ているけれど、決定的に何かが異なる世界。それが一番的確な表現かもしれない。
わたしが魔法少女から普通の少女に戻ってしまった理由も、何故これまでとは異なる世界と思われる場所にいるのか、なにもかもわからないことだらけのままではあるけれど、一つだけ確実なことがある。
それは、まどかがここにいるということ。今のわたしにとって、それだけがここにいる理由と言っても過言ではない。もしもまどかがいなかったら。わたしはきっと、どうしたら良いかもわからず、やるべきことも見つけられず、廃人のような生活を送っていたかも知れない。
「もう大丈夫かしらね。キュゥべえ?」
「うん。もう魔獣どもはいないみたいだ。あとは放っておいても残った瘴気は消えていくよ」
巴マミの呼びかけに、いつの間にかわたしの右後ろ側にいたインキュベーターが答えを返す。その口調は以前と変わらない無感動、無感情のものでしかないにも関わらず、どこか懐かしいという気持ちを抱いてしまった。
確かに、彼らは必要な情報であっても聞かれなければ答えないという考えの持ち主だ。答える内容も、こちらの聞き方がきちんとしていなければどうとでもとれるような曖昧なものであることも多い。けれど、それでも黒を白と断言するような完全な虚偽の情報を提示したことだけはない。
もともと感情がひどく希薄な上に価値観が根底から異なっている。本来であれば会話すらまともに成立しないかも知れない存在なのだ。そういう意味で彼らがわたし達に対して大きく譲歩していることも間違いない。価値観や感情の機微に起因する齟齬が埋められないため、それがトラブルの元になってはいるけれど。さらに、そのトラブルの結果が、わたし達にとってのみ大きなデメリットがあり、彼らにはメリットはあってもデメリットが殆ど無いことが問題をややこしくしている。
お互いの論点にもともと交わる位置が存在していないのだ。だからそういうものと割りきって受け止めるしかない。
「もう大丈夫だよ。ほむらちゃん!」
元気な声で、まどかがわたしに笑いかけてくる。それを見て、わたしの胸の奥に暖かいものが生まれた。
まどかのあんな笑顔を最後に見たのはいつだったんだろう。そんな思いが湧き上がり、不意に涙がこぼれそうになってしまった。
このまま泣いてしまっては非常に恥ずかしい。いや、魔女に襲われた後なのだから、泣いてしまっても不自然ではないかも知れないけれど、それでもこんな場所でまどかにわたしのそんな姿を見られたくはない。
そんなものはただの見栄でしかないとは分かっていても、それを素直に認めることもできなかった。
「ほむら……ちゃん……?」
急に俯いてしまったわたしを見て、まどかが戸惑いの声を上げる。しどろもどろになって、どこか支離滅裂な言葉をかけてくるその様子は以前にも見たことがあるものだ。慌てたときの様子は、ここでも変わらないらしい。
「そろそろ、いいかしら?」
まどかが落ち着くのを待って、巴マミが声をかけてきた。周りを見てみれば、すでに結界は消えて二人ともいつの間にか制服姿に戻っている。そうなれば人通りが少ない場所とはいえ、ここは街角なのだ。いつまでもこうしているわけにはいかない。誰かに見られても不審がられることはないと思うけれど、何をしているのかという程度には疑問に思われるかも知れない。通学路の途中なんて立ち止まったままで長話を続けるような場所ではないのだし。
「あ、ごめんなさい!」
まどかが、巴マミに対して謝罪する。慌てた姿を見せてしまったことに引け目を感じているのかも知れない。それほど気にするようなことでもないと思うけれど、この頃のまどかにとって巴マミは憧れの先輩であったようだから仕方ないのかも知れない、とも思う。
それからはゆっくりと歩きながら、三人で話をしながら巴マミの家に訪問した。二人ともわたしがただの一般人だと思っているため、魔女や魔獣についての説明をしてくれるということだった。
わたし自身も魔女についてはともかく、魔獣に関しては全くわからなかったため、説明を受けられるのは正直ありがたく、話を聴くことにした。もっとも、あのまま何も説明せずに開放できるようなものではないのも確かなのだけれど。人によっては一度魔女に直接襲われると、助かっても再び襲われる危険性がある人もいるし、口止めもしなければならない。誰かに話したところで信じてはもらえないだろうけれど、冗談や笑い話で済まなくなってしまったら最悪精神異常者と思われてしまうかも知れないのだ。
他愛も無い話をしながら二十分ほど歩き、巴マミの住むマンションに着く。比較的大きなマンションの最上階で、女子中学生が一人で生活するには過ぎた部屋だと以前も思ったけれど、これは確か叔父の援助によるものだと聞いた覚えがある。おそらく、彼女は親類の間で持て余されていたのではないだろうか。大きな事故で一人になってしまった思春期の少女をどのように扱えばよいか、どのように向きあえばよいかわからなかったのだろう。だから部屋の世話をし、生活に困らないだけの資金援助をして、良心の呵責を誤魔化しているのではないだろうか。もしも彼女のことを疎ましく思っていたのだとしたら、施設に放り込まれていても不思議ではないのだから。
何度も時を繰り返したせいか、自分でもずいぶんとうがった考えをしていると思うけれど、それが的外れだとも思えない。これまで繰り返した時間の大半で、彼女は人とのふれあいに飢えていた。深く付き合いたいと思っても、魔法少女という立場が踏み込むことを躊躇させていたらしい。彼女の魔女の被害から人を守りたいという思いは立派なものではあるけれど、それは同時に他者に深く関われないことへの代償行為ではないかと思う。
これまで何度か繰り返した中で見かけた彼女の部屋は、最低限の生活感しかない閑散とした部屋か、逆に女子中学生が一人で暮らしているにしては物が溢れすぎている部屋という両極端なものだった。どちらの場合でも、おそらくは孤独感からただひたすらに魔法少女としての活動に打ち込んで生活のことは最低限しか気を回していなかったか、さもなければ部屋を飾り立てて人を招いている場面を夢想することで寂しさを紛らわせていたのではないかと思う。
全てはわたしの推測にしか過ぎないけれど、わたし自身もふれあいたい相手に近づきたくても近づけない苦悩はよく知っている。わたしと彼女とで感じているものは厳密には異なっているはずではあるけれど、比較的近いものであることも事実なので、彼女自身の心情を全く理解出来ないわけでもないのだ。
「さ、入ってちょうだい。お茶を用意するから、座って待っていて」
色々と考えている間に、部屋に到着したらしい。わたし達を部屋の中へと案内すると、巴マミはまどかとわたしを残してキッチンへと行ってしまった。
リビングでまどかと二人きりになってしまった今の状況に、わたしはどういう話をしていいのかわからなかった。今のまどかにとって、わたしは何も知らない普通の少女のはずだから。だから、わたしから話しかけることができなかった。学校でのことを含めた『普通の話』は、ここに来るまでの道程でほとんど話してしまっているし、こうして他の人に聞かれる心配のない場所まで来たのは、ただのお喋りをするためじゃない。
「紅茶で良かったかしら?」
人数分のティーカップとティーポット、それにケーキの乗ったトレイを持って、巴マミがキッチンからリビングへ移動してきた。紅茶は比較的高級な品で、ケーキに至っては市販のものではなく自分で作ったものだという。紅茶の淹れ方といいケーキといい、プロには及ばないものの、中学生としては高い腕前を持っている。
「どこから話せばいいかしらね……」
ガラステーブルに紅茶とケーキを並べ、全員が腰を落ち着けたところで、巴マミが話を切り出した。その表情はどこか困ったようなもので、どう説明していいのか考えあぐねているのかも知れない。
「僕から説明するよ。魔女と魔獣、そして魔法少女の関係について」
巴マミが話しあぐねているのを見かねたのか、テーブルの隅でおとなしく座っていたインキュベーターが話し始めた。口調も表情も相変わらずで淡々としていて、他の者たち同様に私が知るままの性格のようだった。その事が安心感を与えてくれるのは皮肉なことだと思うけれど。
「魔獣や魔女が呪いを振りまく存在なら、魔法少女は希望を振りまく存在なんだ」
話の始めは、それほど大きな違いは無く、魔獣という存在が付け足された程度のもの。けれど、話が進むうちにわたしが知っている魔女の情報とはいくつもの差異があることに気が付いた。
魔獣は人の悪意から生まれ、自然に発生するのだという。そしてそれは、人の悪意から生まれた瘴気が凝り固まった存在に過ぎず、自我も個性も持たずに本能のまま行動する。その本能とは、恨みや憎しみ、劣等感などの負の感情を強く抱えた人間の魂を求めること。魔獣はそんな人間の魂を肉体ごと取り込んで、それを元に個性と能力を得て魔女に変貌する。そうして生まれた魔女は他の魔獣を取り込み、使い魔へと変化させて使役するらしい。
わたしが知る魔女の在り様とはかなり異なっている。共通するのは人の魂を糧にするというところと、使い魔が成長すればやはり魔女になるという点だけ。似ているように見えて、かなり違う。やはり、ただ過去に遡ったというわけではないらしい。
死んだはずのわたしがこうして生きていること、魔法少女ではなくなっていること、そして、魔獣という今まで無かった存在。やはりここは『似て非なる可能性の世界』なのではないだろうか。わたし自身の事といい、魔獣の事といい、そう考えなければ説明が付かなくなってしまう。何故わたしがここにいるのか、それは分からないままだけれど、それでも今おかれている状況が少しでも分かってきたのは前進だった。
「キュゥべえ、それで、彼女はどうなの?」
話が一段落ついたところで、巴マミがインキュベーターに問いかけた。何の事か一瞬理解できなかったけれど、それが魔法少女の資質についての事だと思い至った。
「うん、資質はあるね。魔女の結界の中で飲まれずに自由に動き回る事ができたみたいだし、僕の事も見えている。けど……」
不意にインキュベーターが言葉を切る。表情がほとんど変化しないので判断が難しいが、どうやらどのように答えるか言葉を選んでいるようだ。
「……資格は、ないね。彼女には、叶えたい願いを持つ人間特有の波動が感じられない。これじゃ契約は成立しないよ」
その言葉は、ある意味わたしが最も聞きたくなかったもの。契約を行う資格がないということは、今のわたしは望んでも力を手に入れることはできず無力なままだということでもある。何も知らないままだったなら、それでも良かったかも知れない。けれど、今のわたしは無知な一般人ではないのだ。それ故に無力なままだという事実は、わたしの中に安堵よりも焦燥を募らせる。何もできないという事実が、ひどくもどかしい。
「そう……残念ね。安易に人を誘うべきではない事だと分かってはいるけれど、一緒に戦う事のできる仲間になれるかもしれないと期待してしまうのはどうにもならないわ」
「マミさん……」
巴マミの自嘲気味な呟きに、まどかは悲しげな声音で彼女の名を呼ぶ。ここでわたしはまだ聞いてはいないけれど、おそらくまどかは巴マミが魔法少女となった経緯と、現在の彼女の事情を知っているのだろう。この世界でのまどかがどんな願いを対価に魔法少女となったのかは分からないけれど、以前のわたしや巴マミの願いに比べればささやかなものかも知れない。
……そういえば、わたしが魔法少女になる前の一番最初の出会いのときのまどかの願いは、目の前で交通事故にあった黒猫の命を助けて欲しい、だったわね。
まどからしい願いではあるけれど、こんな内容の願いで契約が成立してしまった事を思えば、元から高い素質を備えていたのかもしれない。そこに、知らなかった事とはいえ、わたしの複数回にわたる時間遡行の弊害である因果の積み重ねが加わったのだ。おそらく繰り返すたびに倍々ゲームのように膨れ上がっていったのだと思う。そう考えれば、何故インキュベーターがあれほどまどかに執着したのかも理解できる。そういった外部的要因が無ければ、いくら高い素質を持っていたとはいえ、標準的な魔法少女の範疇に納まっていたのだろう。結局のところ、全てはわたしが自分で招いた事態だったのだ。けれど、この世界ではどうなっているのだろう。わたし自身は魔法少女ではなくなっているし、そもそも時間遡行で戻ってきたわけでもない。それに、魔女だけではない魔獣の存在。それらを考えれば、直接的な関係の無い全く異なる世界ではないかと思う。もしそうであるのなら、因果の収斂もここではまだ起きていないと思いたい。希望的観測でしかない事も分かってはいるけれど。
「ともかく、一度魔女に襲われた以上、また襲われる可能性があるわ。鹿目さん、貴女彼女と同じクラスのようだから、学校にいる間彼女の身辺の警戒をお願いしていいかしら。校内で襲われる事はさすがに無いと思いたいけれど、万が一という事も考えておかないと、ね」
「わかりました。でも、私ほむらちゃんといろいろお話したいと思ってたから言われなくても近くにいたと思いますよ?」
そう言って、二人は小さく笑いあった。その雰囲気に飲まれたというわけでもないと思うけれど、わたしも二人を見て少しだけ笑ってしまっていた。学校で笑っている事を指摘されて以来、少しずつではあるけれど心の中で何かがほぐれていっているような気がしている。それはほんの小さな変化でしかないけれど、胸の中に確かに暖かなものを思い出させてくれた。これで魔女や魔獣の問題が存在していなかったなら、どれほど幸せだっただろうか。インキュベーターはわたしが資質はあっても資格が無いと言っていたけれど、おそらくはこれもまたその理由の一つなのかも知れない。何故なら、今のわたしはほんのわずかであっても、満たされたものを感じていたから。その事が以前のような渇望を感じさせなくしているのだろうと思う。
「ありがとう。それに、ごめんなさい」
小さく礼と謝罪の言葉を呟いて二人に頭を下げる。わたしのその態度に、二人はやや不思議そうな表情を浮かべていた。
「……なんでほむらちゃんが謝るの?謝らなきゃいけないのは、むしろ私達のほうだと思うんだけど」
まどかの疑問はもっともだと思う。けれどこれは、助けてくれた事への感謝と同時に、わたしがあの場にいた事で二人に負担をかけてしまったこと、それと力になれないわたし自身の不甲斐無さゆえの事だ。
「鹿目さん、いいのよ」
巴マミの声に、そちらに視線を向けてみれば、彼女がわたしに向かって小さく微笑んでくれた。どうやらわたしの言葉の言外の意味を察してくれたらしい。その事が嬉しくもあり、寂しくもある。わたし自身の事、知っている事、全て話せたらこんな気持ちを抱かずに済んだかも知れないけれど、信じてもらうための根拠を示せない以上は仕方が無いと思うしかない。それに、下手に話してインキュベーターに余計な情報を渡す事になってしまっても厄介な事になる。
だから、もし話す時があるのなら…… ワルプルギスの夜が現れる、その時だ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしは何故、ここにいるのだろう。
答えなど存在しない疑問だと分かりきってはいるけれど、ふとした弾みで脳裏をよぎる事がなくなることは無い。魔獣の存在、魔女の在り方、そしてグリーフシード。わたしがこれまで繰り返してきた時間とは少しずつ異なるそれらは、やはりここがわたしの知るものとは異なる可能性と時間の世界なのだと示している。
何故わたしがこの世界にいるのか、その答えは分からない。おそらくこの疑問に答えが提示される事は無いのだろうと覚悟はしているけれど、分からないままというのはどうにも気持ちが悪い。
切っ掛けは、おそらくわたしが自分のソウルジェムを砕いた事。どういう理屈なのかは全く分からないし想像もできないけれど、それが原因でわたしは今この世界にいるのだと思う。チープな表現ではあるけれど、転生というのが一番近いニュアンスなのかもしれない。普通に考えるなら、馬鹿馬鹿しいと思ってしまうかも知れないけれど、わたし自身の魔法少女としての能力は時間遡行と時間停止だった。その事を思えば、この考えは決して荒唐無稽ではないだろう。限定条件があったとはいえ、充分に常識はずれの能力だったのだから。
それにしても、ソウルジェムを砕いた時点でわたしの魂は消滅したのではなかったのだろうか。それとも、ソウルジェム自体はあくまでも器に過ぎず、壊れれば魂は開放されるものなのか……。穢れきって魔女化する時には魂ごと存在が歪むというのは容易に想像できるけれど、正常な状態のソウルジェムが砕けて死んだ場合にその魂がどうなるのか、その事についてわたしは何も知らなかった。今までであれば、こんなことは疑問にも思わなかっただろう。まどかを助けたい、ただそれだけを考えて邁進していたこともそうだけれど、ソウルジェムが砕けたら死ぬ、という事実としてしか認識していなかったから。だから、ソウルジェムが砕けた後の魂自体がどうなるかなんてことは一度として考えた事は無かった。
もし、ソウルジェムが砕けた後に魂が解放されるのだとすれば、わたしはどうして今またここに戻ってきているのだろう。厳密には今まで時間を戻していた世界とは異なる世界であるようなのだけれど、目覚めた時点でソウルジェムが無かった事で、わたしの魔法少女としての能力とは無関係に発生した事態なのだと予想できる。インキュベーターに、ソウルジェムが砕けた後、魂がどうなるのかそれとなく聞いてみれば多少は推測の助けになるのかも知れない。幸いと思うのは癪だけれど、巴マミの家に招待された後も、インキュベーターは頻繁にではないけれどわたしの前に姿を表すことがある。それも、当たり前のことだと思う。今現在契約する資格がなかったとしても、資質がある以上は何かの切っ掛けで契約を可能にするだけの願いを抱く可能性はあるのだから、彼らがわたしから完全に目を離してしまうことは考えられない。喜んでいいものか、悲しむべきか、それとも怒るべきなのか、どのような感情を抱くべきかわからない複雑な気持ちではあるけれど……。後の問題は、いかにインキュベーターに不信感を抱かせずに情報を引き出すかという事だ。仮に口を滑らせてしまうような事があっても、わたしが本来はこの時間軸世界の人間ではないという事に気づかれる事は無いだろうと思う。けれど、魔法少女ですらない一般人の少女が知らないはずの情報をたとえ中途半端でも知っていると気付かれれば、間違いなくわたしの正体を探ろうとしてくる。細心の注意を払って慎重に行動しなければ、きっと激しく後悔する事になるだろう。
「キュゥべえ……だったかしら? 少し気になる事があるのだけれど、聞いてもいいかしら?」
インキュベーターから情報を聞き出すための好機は、意外と早く訪れた。巴マミの家に訪問してから二日後の学校での昼休み、屋上で事情を知る者たちだけで昼食を摂っていた際、魔法少女の契約の話題が挙がったからだ。以前のようにやり直しはきかない。どこまで情報を聞き出せるかは分からないけれど、言葉に注意して話さないと。
「何かな?」
いつものように、表情をほとんど変化させる事なく返事をしてくるインキュベーターに視線を向けながら、わたしは慎重に言葉を選んでから口を開いた。
「願いを叶える代わりに魔女と戦うための契約をする、ということだけれど、それはいつまで続くものなのかしら? 契約と呼ぶ以上はお互いに利益を分け合ってその期間を決めて行うものだと思うのだけれど。それとも、無期限契約なのかしら?」
少々困ったかのような表情を作り、できるだけ不自然ではないように言葉を選んで質問する。とはいうもののあくまでも主観的なものにしか過ぎないので、もしかしたらという不安はどうしても残ってしまう。
「それは……」
「キュゥべえ、ちょっといいかしら?」
わたしが発した問いかけに言葉を発しようとしたインキュベーターを遮ったのは、直前までまどかと話しをしながら昼食を摂っていた巴マミだった。意外なところから静止が入ったと思いながら視線を向けると、これまでわたしが見たこともないほどに厳しい雰囲気をまとって鋭い視線を投げかけてくる彼女がいた。その様子に私は内心の驚きを隠しつつも、小さく首を傾げてみせる。それを見た彼女は一度視線を下に落として何かを考えるようなしぐさをした後に再び口を開いた。
「暁美さん。貴女はそれを聞いてどうするつもりなの? 先に忠告しておくけれど、私達魔法少女は、結末はどうあれ普通の人と同じ死を迎える事はできないの。そして、それを知ってなお踏み込んでくる覚悟のある者でないと務まらないわ。今の貴女は契約に届くだけの願いは無いようだけれど、もし、どうしても叶えたい願いができたとき、貴女はその願い以外の全てをかなぐり捨てる事ができる? できないのなら、これ以上関わらない方がいいわ」
「…………!」
驚いた。巴マミの口から、こんな発言が出てくるとは思っていなかったから。けれど、彼女もそれなりに経験を積んで戦いをこなしてきた魔法少女だ。そんな彼女の心が弱いとは思っていない。以前のループで美樹さやかが魔女化し、彼女が魔女と魔法少女の真の関係を知ったときに行った凶行は、計画的なものだったのではないかと思っている。あの時の彼女は多少冷静さを欠いていたかも知れないが、決して錯乱などしていなかった。あくまでもそう見えるように演技していただけだったように思えてならない。錯乱していたにしては、あの手際は計画的過ぎるのだ。
まず、時間停止で全員を一瞬で無力化できる能力を持つわたしの不意を突いて拘束。身動きが取れなくなってしまえば時間停止の優位性など無いも同然になる。そして、その突然の出来事に気を取られている隙に佐倉杏子のソウルジェムを撃ち抜いて殺害。あの時生き残っていたメンバーでは一番のベテランであり、実際に戦う事になれば最も相性の悪いであろう相手を最初に始末する。ここで巴マミにとって唯一の誤算だったのは、まどかが即座に行動を起こしたことだろう。おそらくは何が起きたのか理解できずに行動できない、そう判断したのだ。だからこそ、巴マミはあの時錯乱したように見せながらわたしに向かって凶行を行った理由を口にしていたのだろう。まどかは何もできないか、もしくは自分のした事を理解してくれる、パートナーとして、友人として、そう信じたのだろう。けれど、まどかはその凶行を止める事を選んだ。
やっている事は無理心中と変わらなかったけれど、あの状況であれだけの判断をとっさに下せる人間の心が弱いとは思わない。凶行に及んだのは、責任感の強さと知らなかったこととはいえまどかを破滅しかない道へと引き込んでしまったという後ろめたさのためだろう。まどかの件さえなければ、美国織莉子の時のように事実を知ったとしても僅かな切っ掛けで立ち直るだけの強さは持っていたはずだ。故に、巴マミの言葉に驚きはしても、あり得ないと否定する事はない。
「そうだね。契約を行えば純粋な意味での人間とは外れた存在になってしまう。それを受け入れる覚悟が無いままに契約をしても、早々に脱落するか、魔獣に食われて魔女と化す事になるだろうね。そうなってしまうのは僕としても非常に都合が悪い。むやみに死なせるために契約するわけじゃないし、なによりももったいないからね」
巴マミの後に続いて、畳み掛けるようにインキュベーターが告げてくる。その内容にわたしは再び驚きを感じた。明言こそしてはいないけれど、彼の言葉は魔法少女が人間から外れた存在であるという点を説明している事を匂わせている。今までこのようなことは無かったけれど、魔法少女が直接魔女と化すわけではないこの世界では、インキュベーターの考え方にも差異があるということなのだろうか。それとも、これから魔法少女になるかもしれないわたしに対しての言葉だからなのか。判断材料が無いためこれ以上はわからないけれど、一つだけ理解できた事がある。それはインキュベーターが効率こそを最優先し、感情の希薄な存在である事は変わらないという事。わたしがループしていた時間軸世界での彼らに比べれば多少はマシなようではあるけれど、人の生死を扱う話題にもったいないという言葉を持ち出すあたりは、やはり彼らなのだと納得してしまう。
「人間じゃないって……」
怪訝な表情を作って、質問を投げかけてみる。これに対してどのような答えが返ってくるかで、この時間軸世界におけるインキュベーターと魔法少女の関係がどのようなものなのかを推測する手がかりになるはず。そう考えて、巴マミやインキュベーターからの反応を待ってみた。
「魔法なんていう超常の力を使う存在が、普通の人間だと思う?それに……」
「魔法を行使可能にする為に、君達の本体である魂に情報を書き込む必要があってね。一度肉体と魂のつながりを切ってしまうことになるんだ。だから、普通の人間とは少し違った存在になってしまうんだよ」
巴マミの苦笑交じりの言葉に続くように語られたインキュベーターの言葉は、わたしの予想したものとはやや異なっていた。まさか、魂に直接手を加えている事を明言するとは思っていなかった。という事は、巴マミもまどかも、それを知った上で契約したということなのだろうか。聞いてみたいとは思うけれど、簡単に聞いていいことではない。ましてや今のわたしは、事情を知っているだけの部外者も同然なのだ。
「私の場合は、たとえどうなろうと契約するしかなかったわ。そうしなければ、死ぬしかなかったから……」
疑問を感じている事が表情に出ていたのか、巴マミがどこか寂しげな様子で自身の契約理由を語ってくれた。けれどその内容はわたしが知っているものとほぼ変わらないもの。インキュベーターとのやり取りに微妙な差異があるという程度の違いしかなかった。もしかしたら全く別の理由になっているかもしれない、とまで考えていただけに、これは少々拍子抜けだった。でも……
「私の場合はね、ほむらちゃんは知らないはずだけど、弟がいるの。弟が事故にあって、助かるかどうかも分からない、助かってもまともに日常生活が送れないっていうくらいの大怪我をして。それで、弟が元のように元気になれるように願って契約したの」
巴マミに続くように、まどかの告げた契約理由の内容にわたしは愕然とした。なんてこと……。この時間軸世界では、黒猫のエイミーではなくまどかの弟が事故にあって死に掛けることになっていたなんて。けれど、まどかの性格なら自分の家族を救うためなら躊躇することなく契約に踏み出していたのだと思う。たとえそれが、悪魔に魂を売り渡すような契約であったとしても。それがまどかの美点でもあり、欠点でもあるけれど。
「本当に……それでよかったの?」
唇を一度かみ締めてから聞き返す。どうしても表情が険しくなってしまうのを抑えられない。
「確かにそれでまどかの弟は助かったかもしれない。でもその代わりに、まどかが普通の人であることを捨てて魔獣や魔女と戦わなければならなくなった! 何も知らない友達や家族がその事を知ったら……」
勢いと感情に任せて吐き出した言葉を最後まで言い切る前に、わたしはまどかの胸の中に抱き寄せられていた。いきなりのその出来事に、頭の中が真っ白になる。なぜまどかがそんな行動に出たのかがわからない。
「ほむらちゃんは優しいね。わかるよ、何を気にかけてくれたのか。でもね、あのままタッくんが、弟が助からずにパパとママが悲しんでる姿を見るくらいなら、これでよかったんだって思ってる。魔女と戦う事は怖いし苦しい事も多いけど、それでみんなが笑って暮らせるなら、私はそれだけで充分幸せなんだ。もし私の命をタッくんにあげる、って選択だったら本当にそれでいいのか疑問に思って躊躇したかもしれないけど、これなら私が死んだりしたわけじゃないし、事実を知ったらママはすごく怒るだろうけど、きっと最後はわかってくれるって信じてる」
言い聞かせるかのような穏やかな口調で告げられたまどかの言葉に、わたしはもう限界だった。必死に取り繕っていた仮面が剥がれ落ち、目の奥から熱いものがあふれて涙がこぼれる。突然泣き出したわたしを、まどかは何も言わずにただ受け止めてくれた。知っていることを何もかも話してしまいたい、という気持ちが湧き上がったけれど、それだけはかろうじて抑え込んだ。今のまどかなら、わたしの話す事を全て疑うことなく聞いてくれると思うけれど、インキュベーターがこの場にいるという事実がわたしを踏み止まらせてくれた。もし二人きりだったなら、わたしはきっと自分を抑えきれなかった。泣きながらなにもかも話してしまっていただろうと思う。
「でも……でも……っ……!」
気持ちを言葉にできないまま、わたしはまどかの胸にすがるようにして泣いていた。まどかはその間、子供をあやす母親のように何も言わずにただわたしを受け止めてくれた。
「……お昼休み、そろそろ終わりなんだけど声をかけづらいわね」
「こういう時、ほとんどの人は声をかけることを躊躇するよね。僕には、よくわからないけれど」
「貴方みたいにドライでいられたら気が楽なんだけどね……」
「なんのことかな?」
置いてけぼりにされた一人と一匹の会話が聞こえてきたけれど、わたしはそれを無視することにした。逃避かも知れないけれど、今はただこの温もりを感じていたいと、そう思ったから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
工事現場と闘技場を思わせる場でせわしなく動き回る鬚を生やした綿帽子を思わせる姿の使い魔たち。最初、彼らはわたしたちに興味を示さなかったけれど、奥へと進んでいった事で侵入者か迷い込んだ者だと判断したのだろう。鬚を生やし大きな目が羽に描かれているかのようなコミカライズされた蝶のように見える姿の使い魔が周囲に集まってくる。彼らは薔薇園の魔女の使い魔。美樹さやかがまどかを誘ってCDショップに行こうとした際に、同席していたわたしと、なにか用事があったのだろう、教室に尋ねてきた巴マミをまどかが誘い、四人で行くことになったのだ。その帰り道、わたしたちは薔薇園の魔女の結界に捕まってしまった。
これは、あまり良くない展開のような気がする。これまでのループで何度か戦っている相手ではあるけれど、その遭遇はほとんどがこちらから探し出して戦いに出向く追撃戦に近い形でのものがほとんどだった。今回のように偶発的な遭遇戦はほとんどない。それでも明確な弱点が存在していて、巴マミだけではなくまどかも戦えるのだから負ける事は無いだろうと思う。けれど、問題はこの後なのだ。薔薇園の魔女の後、数日以内に遭遇するであろう、お菓子の魔女。いつ、どこでどんな形で遭遇するのか、それが全く読めない。恐らく出現場所は見滝原中央総合病院とその周辺のどこかである事は間違いがないと思うけれど、病院の敷地は広い。もしもたくさんの入院患者を巻き込むような現れ方をされたら大変な事になってしまう。薔薇園の魔女は弱点は分かっているし難しい相手ではないけれど、お菓子の魔女はその攻撃方法が厄介極まりない。可愛らしい人形のような最初の姿を撃破すると、内側から蛇のような姿の第二形態が現れて不意を突く。しかも、どれだけダメージを与えようと脱皮のような行為を繰り返し再生してくる。これを完全に仕留めるには、本体なのか再生役なのかは分からないけれど第一形態と似たような姿形をしている使い魔を探し出してそれを倒さなければならない。それを倒さない限り第二形態はどれだけダメージを与えようと延々と再生し続ける。その性質そのものはこれまで出会った魔女の傾向から考えて変わってはいないと思うけれど、出現時の状況や結界内の様相などは大幅に変わってしまっている可能性が大きくなってきてしまったのだ。事実、今二人が戦っている薔薇園の魔女の結界の中は、見た目こそ大きく変わってはいないものの、以前は一部のみに固まっていただけだった薔薇の花の存在が、見渡す限りあふれ返るほどになっている。
「うわ……ぁ……」
わたしの後ろから酷く気味悪そうな声が聞こえてくる。視線を向けてみれば、顔を青ざめさせて二人の戦いの様子を見ている美樹さやかの姿が目に入った。
「大丈夫? この結界の中にいる限りは大丈夫だと思うけれど……」
やや声を潜めながら彼女に語りかけた。わたしたちは今、巴マミの用意してくれた結界の中で待機している。使い魔程度では破ることはできないけれど、あまり声を上げて見つかってしまっては面倒な事になってしまうかもしれない、そう考えて。
「転校生……あんた、平気なの? あんなの見て……」
わずかに震える口調で美樹さやかが訪ねてくる。そう聞きたくなる気持ちは分からなくもない。なにせ薔薇園の魔女はひどくグロテスクな姿をしているから。肉塊のような身体の下には無数の触手。背中には巨大な蝶の羽。そして、頭にあたるであろう部分には絡み合った薔薇の枝が塊となり無数の蔓を垂れ下がらせている。そしてそのあちこちに赤い薔薇の花を咲かせているのだから、もしこれを気持ち悪いと思わずに綺麗だなどと思う人間がいたら頭を疑ってしまう。だから彼女の気持ちも分からないわけでもないけれど、なにかこう、傷つく聞き方をされているような気がしてしまう。でも、そこは今気にするべきところじゃない。
「わたしは少し前にアレの同類に襲われた事があるのよ。だから見た目はともかくアレがどういうものかは知っているし、二人の事情も分かってるわ」
両手を握り締めながら美樹さやかの質問に答える。多少変わってしまっているところもあるとはいえ、恐らくわたしはこの場にいる誰よりも魔女のことを知っている。けれど、知っているだけで何もできない。わかってはいた事だけれど、こうして何もできない事実を突きつけられると悔しくて仕方が無い。せめて、わたしの知っていることを不自然ではない形で活かす方法があれば、と思うけれど、そんな方法が簡単に見つけられるほど世の中は甘くない。
「転校生……あんた……」
内心の葛藤を見抜かれたのか、美樹さやかが気遣わしげな声をかけてくる。でも、それも当然かもしれない。最近は以前ほど表情や感情をうまく隠す事ができなくなっている。場の空気は読まないくせに人の気持ちを読むことにはやたらと長けている彼女の前で、今のわたしが自分の気持ちを隠しとおせるはずが無い。
「それ以上、言わないで……。でないと、自分で自分のことが、許せなくなりそう、だから……」
掌に爪が食い込むほど強く手を握り締め、俯いて絞り出すような声で答えを返す。泣きたくなる気持ちを必至に押さえつけ、涙がこぼれる事が無いように耐えていた。この姿を見て、彼女がどう思ったのかは分からない。けれど、どこか雰囲気が変わったような、そんな気がした。
「そっか……」
小さな呟きが、わたしの耳に届く。それに惹かれて視線を向けてみれば、美樹さやかは小さく苦笑を浮かべていた。その事にわたしは小さく首をかしげた。彼女が何故そんな顔をするのか理由が良く分からない。
「あたし、あんたの事少し勘違いしてたみたいだ……。っと、それより、もう終わりみたいだよ。ほら」
そう言われて、彼女が指し示す方向に顔を向けてみれば、そこには巴マミのリボンで雁字搦めにされて拘束されている薔薇園の魔女と、それに向かって弓を引くまどかの姿が飛び込んできた。そして、まどかの引く弓の中に生まれた桃色の輝きを放つ光の矢が解き放たれ、魔女の姿を消し飛ばす。そして魔女の結界が崩れ、くすんだ灰色の異空間へと変化し、魔獣共が現れた。
「え? なに? なにこれ? どうなってんの!? えぇ? えええええええええ!?」
周りを見回し、美樹さやかが酷く狼狽した声を上げる。それも無理は無いとも思う。終わったと思ったらその直後に別の存在が現れたように見えるのだから、知らなければ慌てるに決まっている。わたし自身もそうだったのだから、今の彼女の狼狽振りも理解は出来る。けれど、慌てたままでいられても困ってしまう。
「落ち着いて。あいつらさえ倒せばそれで終わるから」
そう話している間にも、まどかの弓と巴マミのマスケット銃が現れた魔獣共を屠っていく。五体しかいなかったそれはものの数分もかからずに殲滅され、周囲の景色が元の場所のものへと戻る。結界に捕まった時とほとんど変わらぬ様子の周囲には人影も無く、無関係の人に目撃されたりした可能性はなさそうだった。結界の中にいる間、現実世界ではほとんど時間が流れないとはいえ、それでも数秒は流れるのだから、場所や時間帯によっては誰かに見られてしまう可能性は充分に考えられる。最も、大抵の魔女は人の多い場所で襲撃を行うような事は無く、魔女の口付けを使って狙いを定めた人間を人気の無い場所へと誘い出す事の方が多いので、よほど巡り合わせが悪くない限りそれほど神経質になる事もないのだけれど。
「それにしても……アレ、一体なんなの? あんなバケモノが本当にいるなんて、自分の目で見た今でも信じられないんだけど……」
結界が消えるなり、美樹さやかが問いかけてくる。ほとんどの人間は魔女の存在を認識できないまま死ぬ事になるし、認識できた人間も助かる者はほぼいないので、こういう反応をされるのも当たり前のことではあるのだけれど……。
「あれは『魔女』さ。自らが生み出した結界に隠れて、誰にも気付かれずに人間に襲い掛かる存在。唯一対抗できるのは、マミやまどかのように魔法を得た魔法少女だけなんだ」
「うひゃあ!?」
足元から突然聞こえてきた声に、美樹さやかが素っ頓狂な声を上げる。普通ならありえない体験をして神経質になっているであろうところへ、死角から前触れもなしに話しかけられれば驚いて当たり前だ。視線を向ければ、インキュベーターが首を傾げるような動作と共に彼女を見上げていた。感情の機微を理解しない彼ららしい行動だと思う。少しでも理解できるなら、あんな話しかけ方はしないはずだから。
それからはわたしの時と同様、美樹さやかにも魔法少女と魔女、及び願い事に関する説明を行った。上条恭介の件があるからか、美樹さやかは願い事を叶えるという話に食いついてきたけれど、インキュベーター曰く「資質はあっても資格は無い」状態だという。淡々とした口調のため分かりにくかったけれど、その理由がわたしとは異なるらしい事を匂わせていた。
「……仕方ないわ。こればっかりはどうにもならないもの」
見ていてはっきりと分かるほど落ち込んだ美樹さやかに、巴マミが声をかけている。下手な慰めは無意味だと思ったのか、諭すような口調の短い言葉だった。そこに同情の色は見えない。感情を押し殺して、ただ事実を伝えようとするかのようにも見えた。
巴マミの言葉に、美樹さやかは大きく溜息をつくと「そっか……」と小さくつぶやく。諦めがついていないのかどこかどんよりとした雰囲気を漂わせたままだったけれど、少なくともそれ以上追求しては来なかった。
「さあ、もう帰りましょう。明日もあるんだから、これ以上ここにいても仕方ないわ」
あまり大きはない声でつぶやかれた巴マミの言葉は、日が暮れ始めていた街角で思いの外大きく聞こえた。まだ人の喧騒が消えるには早すぎる時間だけれど、沈み気味になっていたわたしたちの間の雰囲気がそう思わせたのかも知れない。美樹さやかにとっては残念な結果かも知れないけれど、彼女が魔法少女になれないというのは良い事だったのではないかと思う。ただ、彼女が魔法少女になれなかった理由について、インキュベーターに問いただしてみるべきか。素直に答えてくれるとも思えないけれど、彼女が契約できなかった理由が分かれば、今のわたしが契約できない理由を知る手がかりになるかもしれないから。知ったところでどうにもならない可能性もあるけれど、知らないまま悶々としてるよりはいいだろうと思う。そう考えて、みんなと別れる際にインキュベーターに聞きたい事があるからと声をかけ、自宅で話すことにした。幸いと言っていいかは分からないけれど、今のわたしは魔法少女ではない事もあって、ワルプルギスの夜に関連する情報はインターネットからかき集めた程度のデータがパソコンの中に入っているだけでしかない。以前は時間停止を駆使して、現実での一日に満たない時間で無茶とも言える範囲から膨大な量の資料を集める事が出来ていたけれど、今のわたしではそんな事は出来ない。でも、そのおかげでパソコンの電源を入れない限り中身は見られないため、安心してインキュベーターを家まで招く事が出来るというのは皮肉な話だ。
やや古めのアパートの二階、その一番奥にある部屋に入って電気を点けると、他の準備もそこそこにわたしはインキュベーターと向き合った。
「何を聞きたいのか予測はつくけれど、君の望む答えである保証は無いよ?」
相変わらず変化の乏しい表情と淡々とした口調で告げてくるインキュベーターに対して苛立ちを覚えながらも、わたしは表情を厳しいものにして、抑え気味の声で問いかけた。
「わたしと美樹さやかが資質はあるけれど資格が無いと言っていたわよね? もし、その理由が分かるなら教えて欲しいのだけれど?」
「幾つか事例があって、それからの推測になるけどね。それでもいいのかな?」
「かまわないわ」
なんでもないことのようにさらりと言ってくるインキュベーターに対し、わたしも即座に答えを返す。それを確認したのか、インキュベーターは小さく顔を揺らすように頷いた用に見える動作をすると、再び語り始めた。
「美樹さやかの場合、おそらく理由は比較的簡単だ。彼女は知人の──他者の為に願いを叶えようとした。多分だけれど、彼女は打算を抱えていたんじゃないのかな。『本音と建前』だっけ? この国の言葉。誰かの願いを叶える事によって、それによる何かしらの見返りをを求めていたのだとすれば、結局それは自分自身の為の願いと変わらない。その矛盾を抱えている限り、純粋な願いにはならないから契約は成立しない」
インキュベーターの説明を聞いて、わたしはやや呆れた気持ちになっていた。多少変わっている部分もあるとはいえ、本質的なところでは全くといっていいほど同じらしい。けれどこれならば、美樹さやかが魔法少女になってしまう可能性は非常に低いだろう。
「けれど、暁美ほむら。君に関しては正直僕にも分からない。他に知っている範囲で資質を持ちながら契約できなかった事例だと、現状にある程度満足してしまっていて願いにあまり強い執着を持っていなかった場合か、さもなければ一度何かを諦めてしまった事がある場合かな。君の場合は、どうなんだろうね?」
「………………」
小動物のような仕草をしながら問いかけてくるインキュベーターに、わたしは答えを返さなかった。そんなわたしの姿を少しの間見ていたソイツは「話が終わったなら、僕は帰らせてもらうよ」と言い残してその姿を消した。
それを見送りながら、わたしはこの時間軸世界では美樹さやかは魔法少女にならずに済みそうだと考えていた。いや、考えてしまった。一つ大切な情報を見落としている事に気付かないまま。
それは、都合の悪い情報から目を背けようとした、わたしの逃避だったのかもしれない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
湧き上がる黒雲と鳴り響く雷鳴、そして吹き荒れる暴風がその場を蹂躙してゆく。
その場にとどまる事が出来ぬほど荒れ狂う風が、木々を家屋を薙ぎ倒し、逃げ惑う村人達を巻き込んで暴虐の限りを尽くす。その中心に在るのは、空中に浮く巨大な歯車から逆さにぶら下がる青いドレスを纏った女性の姿のように見える異形。それは人のものではなく、無機質な人形を思わせる。その顔には目も鼻も無く、白い布に塗料で描かれたかのように見える赤い唇だけが、笑っているかのように歪んでいた。人であれば足のあるべき場所には歯車に直接繋がる軸が見えており、人形じみたその姿をより不気味なものに見せている。
──アハハハハハッ! アハハッ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!──
吹き荒れる暴風に紛れて哄笑が響き渡る。それは自らを卑下するかのようにも、自分以外の全てを嘲るかのようにも聞こえる笑い。けれどそれは誰の耳にも聞こえる事は無く、その姿は誰の目にも見えない。村人達にとっては突然発生した嵐にしか見えないのだ。木々が薙ぎ倒され、家屋が潰れていく。そのさなかに人々の悲鳴と怒号が聞こえ、それもまた風に吹き散らされて消えていく。
──アハハハハハハハッ! ア────ッハハハッ! アハハハハハハハハハハッ!──
もしもその光景を見ることが出来る者がいたなら、それは悪夢以外のなにものでもなかっただろう。全てを蹂躙し、その中心で笑う存在は人の身ではどうする事もできない存在なのだから。
それは周囲には何も興味が無いとでも言うように、笑い声を響かせながらただ移動する。漂うかのようにゆっくりと移動しながらも気紛れに進路を変え、そこにこれといった目的のようなものは感じられない。見る事のできる者がいたならただ思うがままに動いているような印象を受けただろう。その姿は命を奪い、破壊し、蹂躙しながらも自らを笑う孤独な狂宴。己のしたことを正しく受け止めてもらえずに絶望に飲まれた少女の成れの果て。
やがて、目的無く動き回っていたその異形は移動を止め、一際大きく笑い声を上げた。
──ア────ッハハハハハハッ! アハハッ! アハハハハハハハハハハハハッ!──
その笑い声が大きく響き渡るにつれて、吹き荒れる風もまた勢いを増しながら彼女を中心に渦巻いていく。倒壊した家屋の残骸、薙ぎ倒された木々、押し潰された人々の身体。土砂を含む、その場にあるありとあらゆるものが暴風に巻き上げられて宙を舞う。それは地獄に等しい光景。何者であろうと抗う事の出来ない災厄を振り撒く魔女の姿だった。
やがてその周囲に黒い何かが現れる。黒雲と暴風に巻き上げられた土砂によって夕暮れのごとき暗さの中、なおも黒く見える闇色の塊。無数に現れた人の頭ほどの大きさであろうそれは、風の影響を全く受けることなく魔女の周囲へと集まっていき、触れると同時に溶けるように消えていく。その黒い塊は蹂躙され命を奪われた者たちの恐怖や絶望といった負の感情。それを食らい、魔女の笑い声が更に大きくなり、暴風もまた強くなっていく。
──アハハハハハハハッ! アハハハハハハッ! アハハハハハハハハハハハハッ!──
哄笑は半日近くにわたって響き続け、そして唐突に消えうせた。同時に暴風もまたその勢いを失い、巻き上げられていたものたちが支えを失い落下する。魔女の姿が薄れるように消えていくのに合わせるように空に渦巻いていた黒雲も霧散して消え去り、青空が戻っていた。その下に広がる光景は、瓦礫や土砂が混然となった荒れ果てた場所。そこにあったはずの村は跡形も無く、そこに生活していた人々もまた、その生命を留めた者は存在しない。見渡す限りの荒れ果てた大地の姿だけがその身を晒していた。そして、荒野へと変わってしまった場所のあちらこちらに散乱する、黒い立方体状の結晶。昼の強い陽光の下にあってなお輝きを映す事の無い漆黒のそれは、息を潜めるかのようにただ静かにその場に鎮座していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
生暖かい風が吹き抜け、それと共に霧が流れてくる。低い位置から湧き上がるように流れてきた霧に紛れるように、無数の異形が行進していた。象に似たその姿は本来在り得ぬような原色の肌をしており、サーカスのような多数の装飾が纏われている。周囲には全く興味が無いらしく、行進する事だけが役目だというようにただそれだけを行い続けていた。
その異形の行進をすり抜けるようにして歩を進める少女が一人。年齢は十代半ば程だろうか。黒髪に胸元に赤いリボンをあしらった制服を身に纏い、まっすぐに歩いていく。その歩みに迷いは見られない。もしその顔を見る者がいれば、歳に似合わぬ覚悟を決めた表情に戸惑っただろう。鉄仮面ともいえるほど冷たい印象でありながらも、瞳の奥には強い光が輝いている。それはとても十代半ばの少女が浮かべるようなものではない。けれど誰一人おらず異形が行進を続ける中、その流れに逆らうように歩を進める少女は、そこにいるという事実それだけで、一般人ではないということを示していた。
静かに歩を進めていた少女が足を止める。そして視線を上へと移動させていった。
その視線の先、何も無かったはずの上空に現れたのは、空中に浮く巨大な歯車から逆さに吊り下がるような姿の、青いドレスを着た女性に見えるモノ。顔には目も鼻も無く、唇だけが嘲笑うかのような歪んだ形に描かれたヒトガタ。ドレスのスカートの間に見える隙間には足は無く、歯車とヒトガタを繋ぐ軸だけが見えていた。
姿が現れるのと同時に、直下一帯にあった建物が破壊されて中に浮き上がる。小さな建物はおろか、巨大なビルでさえも半ばから折れ曲がるようにして破壊されて浮き上がる。重量を無視して巨大なものがいくつも浮遊するその光景は、あまりにも現実離れしたものにしか見えなかった。
唐突に、歯車が激しいを音を発する。大きさの違うものが三つ重なる形になっていたそれの軸が伸縮し、ぶつかり合ったのだ。それがまるでなにかの合図ででもあったかのように、直後に周囲に漂う無数のものたちが炎に包まれる。そして──
──アハハハハハッ! アハハハッ! アハハハハハハハハハハッ! アハハハハッ──
酷く耳障りな、嘲るかのような哄笑が響き渡った。
それを見上げる少女の表情が厳しいものへと変化する。そして、小さな呟きと同時に少女は光に包まれた。その光が消えたとき、少女の服装は別のものへと変化しており、盾のようなものが現れている。服装そのものは、制服という印象に変化は無いものの、比較的明るい色だったものが黒と灰色主体のものに変化していた。
「今度こそ……!!」
追い詰められたかのような悲痛なつぶやきと共に、少女の周囲に多数の兵器が現れる。ロケットランチャーに迫撃砲など、少女が使用するにはあまりにも似合わない、物騒すぎる物の数々だった。さらに、それだけでは飽き足らず、戦いの場のあちこちに艦対艦ミサイルに夥しい量のクレイモア対人地雷等、街一つ潰してもなおおつりがくるであろう尋常ではない量の兵器群を用意していた。だというのに、少女の表情には陰りが残る。まるで、やりすぎに感じるほどの準備をしているにもかかわらず、それでも届かないかもしれないという不安を映しているかのようだった。
わずかな逡巡を見せた後に、少女が行動を開始する。左腕の盾のようなものから微かな機械音が響き、それが停止すると同時に少女以外の全てのものの動きが停止した。それは時間停止の魔術。己自身を時の流れの外に置く事で、その影響を受けない行動を可能とする術。
停止した時の中で、少女は異形に向かってロケットランチャーを撃ち放つ。放たれた弾頭は少女の手から離れると同時に再び時の流れの影響下へと戻され、空中で静止した。その間にも、少女は次々とロケットランチャーを持ち替えては撃ち放っていく。やがて、数十発と用意されていた全ての弾頭が放たれ、停止した時の中で空中に静止したそれは、異形を囲むように展開されている。その状態を確認した少女の左腕の盾のようなものから、再び機械の動作音が響く。音が消えて時が再び動き出すと、展開されていた弾頭が一斉に異形へと殺到していった。普通の相手であれば、これだけで終わっていただろう。けれど、爆炎が荒れ狂い、爆音が響き渡る中から黒煙を押しのけて現れた異形には傷らしい傷はほとんどつけられていなかった。
──アハハハハハハハッ! アハハハッ! ア────ッハハハハハハハハハハッ!──
意に介していないかのように、異形はただ哄笑を響かせる。事実、煙の煤による汚れらしきもの以外、傷と思しきものは見受けられない。少女にとってその姿は、そんなものは意味が無いと嘲笑われているようにも感じられた。
「くっ…………!」
少女は悔しげに歯を噛み締める。その顔に浮かぶのは焦燥の色。淡い期待さえも打ち砕かれ、悪い予想が当たってしまった事による危機感と、やはり駄目かも知れないという諦観じみた感情の入り混じった複雑な表情だった。だというのに、少女は後に退くという事をしない。見えない何かに突き動かされるように、少女はさらに立ち向かう。
迫撃砲による時間差を駆使した波状攻撃に始まり、燃料を満載したタンクローリーによる特攻、ハープーンミサイルによる攻撃の後、クレイモア対人地雷による迎撃等、一人の少女が扱うにはありえないほどの大火力をもって攻め立てた。だというのに。空を焦がす炎と黒煙の吹き上がる中から姿を現した異形は、多少傷つき汚れてはいるものの、何事も無かったかのように哄笑を響かせ続ける。
──アハハハッ! アハハハハハハハハハッ! アハハハッ! アハハハハハハッ!──
少女は一瞬唖然とはしたものの、すぐに表情を引き締めた。効果は薄くとも、攻撃が全く通らないわけではない事を見て取ったからだ。けれど、その事が少女の判断を誤らせた。いけるかも知れないという半端な希望を抱いてしまった事が、心に大きな隙を生んでいる事に気がつかなかったから。
どこからともなく爆薬を大量に取り出し、異形の隙を見つけては叩き付ける。その攻撃が効いている様子は見受けられない。だというのに、意地になったかのように時間停止を繰り返しては、取り出した爆弾を投げつけ続けた。
だから、だろうか。少女は己の限界を踏み越えてしまったことに、最後まで気がつくことが出来なかったのだ。
「……あ…………」
無意識にこぼれたかのようなつぶやきと共に、少女は自身の左手の甲に視線を向けた。そこにあるものは、菱形の石。魔法少女の魔力の源にして、自身の魂であり命そのものたるソウルジェム。澄んだ紫色の輝きを発していたはずのそれは、完全な漆黒へと染まってしまっていた。それが意味するもの──『魔女堕ち』
「……あ……ああ……あ……あああ…………」
自身に起きたことを認めたくないとでもいうように首を振りながら、ソウルジェムを指の先で擦り上げる。黒く染まってしまったそれを磨き落とそうとするかのようなその行為は、何の意味もなさなかった。
脱力したかのように、少女はその場にくずおれる。涙を浮かべ、恐怖に表情をひきつらせるその姿は、彼女がまだ歳若い少女である事を表していた。
「嫌……そんな……」
泣きながら弱々しいつぶやきをこぼして、少女はこれから自らの身に起きるであろうことを必死に否定しようとする。けれど、現実は彼女に対して無慈悲に宣告を下した。
「……嫌……こんなの…………嫌ぁ……ぁ……ぁあ……ああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!!!」
少女のつぶやきは、途中から絶叫へと変化する。それと同時に、彼女の左手の甲にあるソウルジェムがひび割れ、中から漆黒の煙のようなものが噴き出した。それは力を失い、もの言わぬ骸と化した少女の上空で一瞬だけわだかまった後、近くで哄笑を続ける異形の中へと吸い込まれるように消えていく。
──アハハハッ! アハハッ! ア──ッハハハハハハハハッ! アハハハハハッ!──
抗う者がいなくなった空に、異形の哄笑だけが響き渡る。そして、荒れ狂う暴風が街を、人を、その場に存在した全てのものを蹂躙した。そうして、全てが終わりを迎えると、異形の姿は空中に溶けるように消えていく。やがて、異形の姿が完全に消え去ると、それまでの荒れた天気が嘘のように、晴天の青空が広がっていた。けれど、その下に広がる光景は、破壊され荒れ果てた廃墟の姿。生きて動くものの姿が確認できない、死の世界。
死の静寂に支配された世界の中、瓦礫の上や間に黒い何かが存在していた。強い陽光の下においてその輝きを映すことなく、完全な漆黒にその身を染めた立方体状の結晶体。近くで見なければその形状すら認識できないと思われるほどに完全な闇の色に染まっている。
もし、それを目にするものがいれば、非常に明るい中で輪郭がはっきりしないことがあるというその矛盾に不気味なものを感じていただろう。瓦礫に埋め尽くされた場所であるとはいえ、それが無数に散らばっている光景は、非常に不気味なものだった。
それらは何かを待ち続けるかのように、ただ静かにその身を晒している。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
微かな風の吹く音と、小さな水音。瓦礫と化してしまった場においては不釣合いな穏やかな音だが、それを否定するかのように奇妙な緊張感が張り詰めていた。
「……本当にそれは、どうにもならないことなの?」
赤みがかった髪をツインテールにしている少女が、目の前にいる白い奇妙な小動物に話しかける。何気ない日常のひとコマであったのなら、それは微笑ましい光景に見えたかも知れない。けれど少女の真剣な表情と、瓦礫の山と化した周囲の無残な有様がその異常性を際立たせている。
「そうだね。希望と絶望は表裏一体。どちらも存在しているからこそ、それぞれに意味がある。コインの裏表の関係に例えるとわかりやすいかな。この二つは切り離して考えることはできない。もし、どちらか一方がなくなるような事態があれば、残された方は本来の意味を失い、そこにあって当たり前の、ただ存在するだけの概念に成り下がることになるだろうね」
少女の問い掛けに答えたのは、その目の前にいた白い小動物だった。猫のような体躯とその体に不釣合いなリスを思わせ大きな尾と、耳から垂れ下がる毛の房のようなものが特徴的なその存在は、感情を感じさせない平坦な声と変化しない表情をもって、少女の問いに冷酷に返答した。少女のほうでもある程度は予想した答えだったのだろう、一瞬表情を濁らせるものの、即座に表情を引き締めて再び問いかける。
「でも、あなたは前に言ったよね。わたしが魔法少女になれば宇宙の法則さえねじ曲げられるって。それでも、何も変えることができないって言うの?」
ある種の確信を持って、少女は再び白い小動物に問いかけた。けれどその問いは、ある程度予想できるものでもあったのだろう。言葉をまとめるようなわずかな沈黙の後、白い小動物ははっきりと言い切った。
「不可能ではないだろうね。でも、それはおそらく君の望んでいる形になることはない」
「どういう……こと?」
返答の内容に、少女は戸惑いを含んだ疑問の声を上げた。自分でも、これならという確信があったのかも知れない。けれど、それをあっさりと肯定され、その上で結果には保証がないと否定された。その意味を理解しきれなかったのだろう。
「僕はさっきコインの表裏に例えたけれど、これを表だけが見えるように形を変えることはできる。でも、その場合裏は見えなくなるだけでなくなったわけじゃない。裏を潰せば必然的に表も潰される。だから、もし君が過去現在未来すべての可能性に存在する魔女だけを消して魔法少女を残すことを願ったとしても、その場合は魔女ではない別の『ナニカ』が生まれてくる。推測でしかないけれど、ほぼ確実だ」
冷徹に告げられた事実に、少女は脱力したようにその場に座り込んだ。青ざめて愕然とした表情が、彼女の心が受けた衝撃の大きさを物語っている。
「そんな……それじゃ……」
小さなつぶやきをこぼすも、それ以上は何も話す気が起きないのか、少女はそのまま俯いてしまった。やがて、小さな嗚咽と共に彼女の目から涙がこぼれる。通常の感性の持ち主であれば、慰めるなり同情するなりしたのかも知れない、けれど彼女の目の前にいる白い小動物は、それまでと全く変わらぬ様子で少女のことを見上げていた。
「彼女の死は、決して無駄ではないよ。君の視点で見れば、不遇な死なのかもしれない。けれど、彼女の遺してくれたエネルギーが、この惑星も含む宇宙全ての存続に役立ってくれる。それじゃ不満なのかい?」
少女はその言葉に対して答えを返すことなく、俯いたまま何かに耐えるように肩を震わせている。その様子を見ながらも、やはり白い小動物は態度を変えることは無い。変化を見せる事の無い表情のまま、待っているかのようにただ静かに座っていた。
「……私、は…………」
小さなつぶやきと共に、少女は聞き耳を立てなければ分からないほどに小さくかすれた声で何かを語った。
その言葉が終わりを告げるのと同時に、少女は桃色の輝きに包まれる。その光は加速度的に強さを増していき、すべては白光の中へと飲み込まれた。