ouroboros clepsanmia   作:月神 朧

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第2話

 

 それは、些細な思い違いでしかないはずだった。とても小さな、僅かな勘違い。けれど、そう思っていたのはわたしだけ。都合の悪い情報から無意識に目を背けてしまったわたしの逃避。そして、それがもたらした結果は、酷く残酷なものだった。

 見滝原総合病院でのお菓子の魔女との戦いは大きな問題もなく、とても順調だったのだ。

 ぬいぐるみのような姿をして身動きもほとんどしないというのに、わざと攻撃を受けて相手を油断させた上で、ファンシーなデフォルメをされた蛇のような姿の攻撃態へと脱皮をするように変態して食い殺すことを得意とする狡猾な魔女。出現時の可愛らしい姿とは裏腹なその実態に騙されて殺された魔法少女は数多い。そんな厄介な相手ゆえ、途中多少危うい場面もあったものの、以前のわたしのようなある種インチキをしてでもいない限りは戦いである以上あって当然のことなのでそれほど気にすることでもない。

 まどかも巴マミも攻撃が共に遠距離型であるせいなのか、役割分担を事前に綿密に決めて戦っていた。マスケット銃という単発型で連続攻撃に難があるけれど、拘束魔法が使える巴マミが敵の誘導及び援護を担当し、純粋魔力で威力の高い連続攻撃が可能なまどかが敵の殲滅を担当するという二人の連携で構築された方法で。他の魔女との戦いの時はもちろんそれだけではなく、まどかが後方援護を担当し、巴マミが近距離戦を行う事もあったけれど、二人とも遠距離攻撃こそが本領であるためか、近距離戦を強いられる相手の時にはかなり戦いづらそうだった。それでも戦いに勝つことが出来たのは、巴マミが曲がりなりにも近接戦闘を行う事が出来たからだと思う。マスケット銃を鈍器に見立てて殴り飛ばすという荒っぽい方法ではあったけれど。それに、普通の銃であればそんな使い方をすれば暴発の危険があるし、砲身が歪んで使い物にならなくなる危険性だって大きい。魔力で生み出した完全な使い捨てで、その動作を完全に意識下に置いて制御し、絶対に誤作動しないと確信できるからこそ可能な使い方だった。それでも、そんな使い方は応急的なものに過ぎないためか決定力に欠け、撃退できるのは戦闘能力が無いに等しいような使い魔がせいぜいで、ある程度の戦闘能力を持つ使い魔になるとダメージを与える事はほとんど出来ない有様であるし、魔女と魔獣に至っては言わずもがな。魔女の姿を発見すると同時に攻撃をして、接近される前に殲滅するのが二人のセオリーだ。もし、遠距離型の攻撃を一切受け付けない、もしくはさせてもらえないような能力を持つ魔女だったら、勝てない可能性だってある。

 魔法少女でなくなってしまった今のわたしは、自分から魔女の結界に飛び込むつもりは全く無いのだけれど、何故かわたしの周囲で魔女の出現が頻発する。そして戦闘が始まるたびに二人に守られて、何も出来ないわたしは守護の陣の中で二人の戦っている姿を見ながら歯を食いしばる事しかできなかった。

 何故、わたしはここにいるのだろう。

 何故、わたしは魔法少女ではなくなってしまったのだろう。

 何故、わたしは契約する事もできなくなってしまったのだろう。

 忘れようと思っても忘れられない疑問が、受け入れようと思っても受け入れきれない現実が、魔女との遭遇があるたびに容赦無くわたしの心を苛んでゆく。何も出来ないわたし自身が悔しくて仕方が無い。インキュベーターに気付かれないよう、不自然ではない形でわたしの知っていることを活かす方法さえ考え付かない。

 

「ほむらちゃん……?」

 

 泣きたい気持ちを抑えて俯いていると、不意にまどかの声が間近で聞こえた。あれこれと思い悩んでいるうちにお菓子の魔女と魔獣との戦いは終わっていたらしい。やや戸惑いながらも、心配そうな表情で覗き込んでくるまどかに、わたしは思わず抱きついてしまっていた。その行為に驚いたのか身体が強張るのを感じたけれど、それは一瞬のことですぐに元に戻っていた。普通ならどうしたのか即座に問い返したくなるはずの場面だというのに、まどかは何も言わずにただ受け止めてくれる。そのやさしさは嬉しいけれど、反面、心に痛みが走る。話していない、隠し事をしているという事実に、彼女を裏切っているのではないかという疑問を抱いてしまったから。わたしの勝手な妄想でしかないのかもしれないけれど、それでも、一度抱いてしまった疑問は簡単には消えてくれない。

 

「驚かせて、ごめんなさい。でも、見ている事だけしかできないのが、苦しくて……」

 

 三十秒ほどの短い時間まどかの胸にすがった後、俯きながらまどかに謝罪を入れる。それにしても、友人が目の前で戦っているのに自分は見ていることだけしか出来ないという状況がこれほどに心を痛めつけるのだとは思わなかった。何も知らなかったときはやり直したいという思いを抱くまで、自分にできることは何もないんだと諦めてしまっていたけれど、今は魔女に関する知識と何度も同じ時間を繰り返して培った戦いの経験が私の身体の中には眠っている。そのことが、私の心の痛みを余計に大きくしてしまっていた。戦い方は分かっていても、その為の力が無い。友人を戦わせて、恐らく一番戦い方を良く知っているわたしは何も出来ないというのは、もどかしいだけでなく刃物で抉るように心に痛みを走らせる。もしかしたら、以前の繰り返しで魔法少女となる事を阻止し続けていたまどかも、ここまで強いものではないかもしれないけれど、同じような思いを抱いていたのかも知れない。いくらまどかが契約するとそれで全てが終わってしまうといっても、随分と強引で手荒な方法をとっていたのだと思う。けれど、その事を後悔はしていない。あの時は話し合いでの解決なんて望める余裕はなかったのだから。たとえそれが、結果として自分自身で招いたものであったとしても。だからこそ、この苦しみを乗り越えなければわたしは前に進めない。

 

「暁美さん」

 

 俯いていたわたしに、巴マミが声をかけてくる。

 

「あなたが何を背負っているのか、私たちには分からない。でも、何もかも一人で背負い込む必要はないわ。不甲斐無いかもしれないけれど、頼ってくれるなら喜んで力を貸す。それを忘れないで」

 

 巴マミが、微笑みかけながら声をかけてくる。そこにわずかとはいえ寂しげな雰囲気が漂っているのは、わたしにまだ信用されていないと、そう思っているのかもしれない。実際に隠し事をしているし、彼女の言動の端々にその事に気付いていると思わせるものが見て取れるのが心苦しい。インキュベーターのことが無ければ、信じてもらえない事を覚悟の上で何もかも話してしまえるのだけれど、魔法少女に関連する一連の出来事は彼らがいなければ発生し得ないのだから、結局のところ同じところへと戻ってしまう。まどかと巴マミの二人がいるところに必ず付き従うように存在する彼の姿が忌々しい。

 

「今は話せないのかもしれないけど、いつか話してもいいと思えるようになったら話して欲しいな。それがどんな内容でも、私は信じるよ?」

 

 まどかの言葉に驚いて顔を向けると、彼女は見ているこちらが眩しくなるような笑顔で応えてくれた。急にすがりついたりしてしまったのだから、問いただしたい気持ちは巴マミよりもまどかの方が強いはずなのに、そんな様子は全く見られない。きっと、今はまだ話せないことなんだと、自然に考えてそう返してきたのだろう。当たり前のように返してくるまどかの言葉に、わたしは何も言えなくなってしまった。嬉しいような、心苦しいような、自分でも良く分からない気持ちに言うべき言葉が思いつかない。結局わたしは、俯いてただ頷きを返すだけで精一杯だった。

 

「すまないけれど、予測していたよりもグリーフシードの数が少ない。離れたところに飛んでいってしまった可能性があるから探してくれないかな。後で探せば良いと言うには場所が悪すぎる」

 

 三人の会話にインキュベーターが唐突に割り込んでくる。わざとやっているのかと文句をいいたくなるタイミングに少しだけ頭に血が上りかけたけれど、その言葉に含まれた意味が理解できた瞬間に血の気が引いていた。そう、ここは見滝原総合病院の敷地内だ。もしここでまた魔獣が発生するような事があれば、目も当てられない。

 魔獣のドロップするグリーフシードは以前わたしが繰り返していた時の魔女のものに比べると数が多い。けれどその代わりに一個の大きさが小さく、その分取り込める穢れの量も少なくなっている。そのくせ、穢れの量が限界を超えると一個のグリーフシードから一体の魔獣が生まれるというのだから面倒な話だと思う。こと、この部分に関してのみは魔女よりもたちが悪い。だからこそ、取りこぼしたグリーフシードを放置したままにはできない。病院のような負の感情が生まれやすい場所では特に。まどかと巴マミの連携でお菓子の魔女とその後に発生する魔獣をほぼ被害無しで倒しているというのに、後始末を間違って被害が出てしまいました、では笑えない。

 グリーフシードを直接探せるのはソウルジェムを持っているまどかと巴マミの二人だけなので、それぞれが二手に分かれる事になった。巴マミとインキュベーター、そしてまどかとわたしという組み合わせで探索を開始する。最初はわたし一人が先に帰るという話も出ていたけれど、それはわたし自身が強く拒否した。自己満足に過ぎないと理解してはいるけれど、それでもここまで関わっておきながら途中で外れてしまう事に耐えられないから。今のわたしには何もできないことも、足手まといでしかないことも理解している。それでもなお同行したいと考えたのは、何もできない自分自身を認めたくないという現実逃避なのか、それともわたし自身のまどかに対する執着なのか、それともそれ以外の何かなのか、自分でもよくわからない。まどかと巴マミの二人はソウルジェムの能力を使ってグリーフシードを探す事ができるし、インキュベーターもその思惑はともかく、グリーフシードを回収する役目がある。わたしには何もできることが無く、ここに残っている理由も無い。冷静に考えれば考えるほど、わたしがここにいる理由はわからなくなっていく。

 そんな自己嫌悪に陥っているときだった。視界の隅に、重い足取りで歩いている彼女の姿を見つけたのは。

 わたし達と同じ見滝原中学の制服に、青味がかったショートヘアの髪、普段であればバカがつくほどに明るい言動でまどかとコントまがいの事をやらかすこともある美樹さやかが、暗く沈んだ表情で歩いていた。その様子に、嫌な予感が湧き上がる。彼女がここにいるということは、ほぼ間違いなく上条恭介絡みだろう。そして、あの様子ではわたしが繰り返していた時よりも悪い結果になっているのかも知れない。

 

「さやかちゃん?」

 

 怪訝そうな表情で立ち止まったわたしに気づいたまどかが同じ方向へと視線を向けて、美樹さやかの様子がおかしいことに気づいたのだろう。躊躇の見て取れる、問いかけるような呼びかけがこぼれている。

 

「まどか……それに、転校生……?」

 

 二人で近づいて声をかけると、美樹さやかもこちらに気づいたのか、呼びかけに応えてくれた。けれど、その声にはいつもの覇気がなく、表情も沈んでいるし目に輝きがない。これ以上ないほどわかりやすく落ち込んでいる。

 

「なにが……あった……の?」

 

 美樹さやかの纏うあまりにも重苦しい雰囲気に、遠慮がちにまどかが尋ねた。表情と口調から本気で心配していることは伝わってくるけれど、今の彼女に何があったのか聞くのは危ない気がする。

 

「さっきさ……恭介の所で一緒に医者の話を聞いてきたんだ……」

 

 沈んだ声で話し始めた美樹さやかの様子に一抹の不安を覚えながらも、話の内容を確認しておきたいという気持ちもあったため、彼女を止めることは出来なかった。彼女は現状ではわたしが上条恭介のことは知らないはずだということに考えを巡らせる余裕はないらしく、淡々と内容を語ってくれた。それによれば、事故によって麻痺した彼の左腕は、リハビリによって日常生活には問題がない程度までは動くようにはなるという。ただ神経が深く傷ついてしまったことで鈍っている感覚は回復せず、精密な動きをさせるには難が残るため、彼が打ち込んでいたバイオリンはどれだけ頑張っても以前のように弾けるようにはならないらしい。

 

「恭介さ、こう言ってた。どうせなら完全に動かなくなってくれたほうが諦めがついたのに、って…… 中途半端でも動くから、どうしても諦めきれなくなる、って」

 

 俯いたまま話す美樹さやかの纏う雰囲気に、話が進むにつれて暗さが増して行く。話しているうちに嘆いている上条恭介の姿を思い出してしまったのかも知れない。けれど、それはもうわたし達にどうこうできる話ではなくなっている。それは上条恭介自身が受け入れるなり振り切るなりしなければならないのだ。

 それにしても、随分ときつい話になっていると思う。上条恭介自身にとっては、生殺しにも等しい気分だろう。中途半端に残された希望は、いつだって残酷だ。本当はどれだけ努力しても届かないところにあるのに、届きそうな場所にあるように見えるからどうしても手を伸ばす事を諦められない。諦めなければならないはずなのに、もしかしたらと思わせるように誘惑する。それを振り切らなければ、取り返しの付かない事なのだと受け入れなければ前に進めなくなる。周りの人間は、手助けすることはできてもそれ以上の事はできない。最終的には本人が決断しなければならないことだから。

 

「ねえ、まどか。どうすれば魔法少女になれる?どうすれば魔法少女になって願いを叶えられる?恭介のあんな姿、見たくないよ……!」

 

 美樹さやかの目が、危険な色を帯びている。けれど、この時間軸世界のキュゥべえの話していた内容に一切の偽りがないのであれば、彼女は自分で自覚していないだけで上条恭介の腕を治したいという気持ち以外に本心は別にある。その事を自覚した上でなお、その本心を捨てでも腕を治してあげたいと思えなければ、おそらく資格は得られない。

 

「……さ……さやか……ちゃん……?」

 

 美樹さやかの様子に気圧されたのか、若干引き気味になりながらまどかが彼女に呼びかける。けれど、その声もまともに聞こえていないのか、今にも掴みかからんばかりの雰囲気を纏って詰め寄っていた。それを見て、わたしは内心で小さくため息を付く。あれではまともに話を聞いてくれそうにない。そう判断して、気は進まないけれど一度頬を叩いてやろうと近づいていった。

 美樹さやかに声をかけて、注意をこちらに向けさせようとした瞬間、まどかの様子が変わったことに気がついた。焦燥と後悔入り混じった表情。よく見ればやや青ざめてさえいる。その様子に疑問を持ったけれど、まどかの指にある指輪状態のジェムが警告するように強い輝きを放っているのを見て、その理由を理解した。

 いつの間にか足元を流れる白い霧。普通の人には見えないそれは、美樹さやかを中心に集まってきているように思える。それは魔獣が人間を狙って現れるときの前兆の一つ。この霧に包まれれば結界に取り込まれ、その中で対象となった人間は魔獣に飲まれてしまう。

 美樹さやかの様子に気を取られて、まどかもわたしも周囲の異変に気づくのが遅れてしまった。彼女を連れて、少しでも移動しなければならない。気休めにしかならないけれど、その場に留まったままでいるよりは結界に取り込まれることを多少遅らせることができると巴マミから聞いている。

 わたしが見つけた時点で魔獣の影響を受け始めていたのかどうか、それはわからないけれど、美樹さやかの暗く沈んだ気持ちが魔獣を誘ったことは間違いない。今は無理矢理にでも、彼女を連れて行かないと……

 

「ダメッ! さやかちゃんっ!!!」

 

 彼女の手を引こうと一歩踏み出した時、まどかが酷く狼狽えた声を上げた。その声に驚き、わたしは思わずまどかに視線を向けて動きを止めてしまう。

 それと、ほとんど同時だった。周囲がくすんだ灰色の空間へと変貌したのは。そして、その変化に気を逸した一瞬のうちに、美樹さやかはその足元から湧き上がるように出現した魔獣の口の中へと、その姿を消していった。最期に、何の言葉も残すこともなく。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 嘆くような表情のまま変化する事の無いはずの魔獣の表情が、愉悦に歪む。楽しげに、それでいて見ているわたし達を嘲笑うかのようにその口の端がつりあがる。そして、顔の半ばを隠すような位置で蠢いているだけだったモザイクのようなものが、頭から足元へと侵食するように広がっていく。その様子に、わたしは猛烈に嫌な予感を覚えていた。

 冷や汗が背中を流れるのを自覚しつつ、まどかと共にどう逃げるべきか思案しているわたしの目の前で、まるで見えない手にブロックを組みかえられているかのごとき動きで魔獣の姿が変化していく。そして、それは結界の様相にさえも侵食し、わたし達は多数の色をごちゃ混ぜにしたかのようないような空間の中へと取り残された。

 

「……あ……う……っ……」

 

 蠢くたびにぎらつく様な輝きを振り撒くその空間に生理的な嫌悪を催し、吐き気がする。まるでコンピュータの電子ドラッグのようなサイケデリックな雰囲気のその空間が、人の感覚とは酷くかけ離れているものなのだと思い知らされた。美しくも狂気を孕んだ、おぞましい煌き。直視し続ければ、いずれ堕ちてしまう。

 

「鹿目さん!暁美さん!」

「まどか!ほむら!」

 

 あわてて目を閉じ、直視しないようにした直後に巴マミとインキュベータの呼びかけが聞こえてきた。そして、すぐ後ろから聞こえてくる駆け足の音。恐らく結界の発現時に中に飛び込んでくることができたのだろう。巴マミのほうには焦りのようなものが感じられるが、インキュベーターは相変わらずだ。冷静でいられるという意味ではいいことかもしれないけれど、あまりに無感動すぎるそのあり方にはやはり疑問を感じてしまう。

 

「大丈夫?」

 

 気遣うように呼びかけてくる巴マミに、目を閉じたまま無言で頷く。まどかにも同様に声をかけているけれど、その返事はどこか上の空だ。

 それも無理はないと思う。あんな光景を目の前で突然見せられて、冷静なままでいられるはずもない。

 

「美樹……さん……が……」

 

 頭の中がぐらつくような不快感に話しをしようという気も起きないながらも、どうにかその言葉だけを搾り出す。その場に座り込みたくなってしまうほど、酩酊感にも似た不快な感覚が心を満たす。嘔吐感がないことだけが唯一の救いだった。目を閉じていて表情は分からないけれど、巴マミが「そう……」と小さく呟くのが聞こえてきた。悲しげな響きがありながらもはっきりとしたそれは、もうどうにもならないということを理解して認めているからだろう。

 

「護りの結界を張ったから、目を開けても大丈夫よ」

 

 巴マミの言葉に、わたしはゆっくりと目を開ける。頭の中に残る不快感に一瞬ためらってしまったけれど、結界によるものか吐き気を催すようなあの不快感に苛まれる事はなかった。見た目の不快な感じは変わらないけれど、さっきよりはずっとましだ。

 

「さやか……ちゃん……」

 

 呆然としたまどかの呟きが耳に飛び込んでくる。彼女は放心したような表情のまま、美樹さやかを飲み込んだ魔獣が姿を変えていくのを見上げていた。

 それも仕方のないことだと思う。気の置けない仲だった友人が、目の前で魔獣に飲まれたのだ。しかもその要因は魔法少女という、まどかには手が届き、美樹さやかには手が届かなかったもの。まどか自身に直接の責任があるわけではないけれど、性格上きっと思い悩んでしまうだろう。

 ゆっくりと、魔獣がその姿を変えていく。虹色の煌きが蠢きながら、その輪郭を別のものへと変化させてゆく。輝きに遮られてはっきりとした姿は認識できないけれど、うっすらと見えるその外形は確かに見覚えがあるものだった。

 鎧を纏った上半身に、魚の形をした下半身。その右腕には片刃の巨大な剣を携え、どこか吹奏楽器を連想させる台座に腰を据えている。そして、その背中に広がるマントの色は深い青。染みるようにして消えていった虹色の輝きの中から現れた、海を思わせるその色とその姿は、見間違えるはずもない、人魚の魔女のものだ。

 姿が完全に現れるのと同時に、結界の様相もまた変化していく。蠢くように変化していた輝きが消えるに従い現れたのは、中心にステージがあり、周囲を観客席が囲む劇場にもコンサートホールにも見える場所。観客席の隙間から立ち上がるようにして現れる白い影は現れたそばから虹色の輝きに包まれ、その姿を変化させてゆく。

 その光景を、わたしたち三人は何をするでもなくただ見つめていた。まどかは魔獣に飲まれてしまった友を悲しみ、巴マミは厳しい表情のまま周囲を警戒し、わたしはかつての人魚の魔女のことを思い返していた。

 美樹さやかが自らの胸の内に抱きながらも、それを決して表に出す事がなかった上条恭介への思慕。あるいは彼女自身気がついていなかったのかも知れない。その想いが上条恭介自身へと向けられたものなのか、それともヴァイオリンを弾いている上条恭介という、ある意味で偶像へと向けられたものだったのか。

 いずれにせよ、美樹さやかは魔女に堕ちてなお自らの本心を表に出す事をしなかった。その結果が、結界内のあちこちに貼られていたポスターだったのだろう。本心を偽り、うわべの理由だけで邁進する者はいつか破綻する。それは至極当然のこと。結果が本心に直接繋がる事がないのだから。

 美樹さやかの上条恭介の左腕を治したいという想いそのものは否定するようなものじゃない。けれど、彼女の場合はその願いを叶える事で、上条恭介の気持ちを自分に向けさせたいという気持ちが根底にあるうえ、その事に全く自覚がないことが問題だった。そんな願いでは隠している本心にそぐわない結果になったとき、容易に壊れてしまう。事実、かつてのループ時の美樹さやかは、自らの本心に気付かぬまま願いを叶えて魔法少女となった結果、志筑仁美の告白とそれに対する上条恭介の答えに自暴自棄となり最後は魔女へと堕ちた。最も上条恭介がらみの問題が発生する前に魔法少女の裏側に潜む真実を知ってしまっていた事がより彼女を追い詰める事になっていたようだけれど……

 人魚の魔女の姿を見て浮かんできた苦い思いに唇を噛み締めていると、唐突に爆発音が聞こえてくる。驚いて音のしたほうに顔を向けてみれば、人魚の魔女の頭が白煙に包まれていた。それから巴マミを見てみれば、彼女は厳しい表情で白いマスケット銃を構えている。おそらくは抜き打ちに近い状態で人魚の魔女の頭を狙ったのだろう。

 

「やっぱりこの程度じゃ、効かないか……」

 

 巴マミのその呟きが聞こえたわけでもないのだろうけれど、その直後に煙の中から現れた人魚の魔女はある意思をわたし達に向けてきた。顔の中央に三つ並んだ不釣合いに大きな目。吹奏楽器を連想させるそれに、明らかな敵意をのせて。

 

「……ッ!!!」

 

 その視線を受けて、背筋に寒気が走る。その瞳に光はなく、映るのは虚ろな絶望に満たされた深い闇。そこには希望も救いもない。自身の抱える悪意を、絶望を他者に振り撒けば自らが救われるとでもいうかのように、ただただ無差別に人を襲う。そして、自らが救われる事は決してないということに気付かない。魔女とは、そんな許し難くも哀れな存在でもあった。

 

「暁美さん。すぐここから離れて。魔女の結界の外には出られなくても、このホールから出れば直接標的になる可能性は低いと思うわ。護りの結界は貴女の服を基点にしてるから、移動してもあなたを守ってくれる。だから、急いで!」

 

 新たなマスケット銃を人魚の魔女に向けたまま、振り向くことなく巴マミから逃走を促す言葉が響く。その判断は、正しいものだと思う。けれど、わたしは未だ心ここにあらずといった様子のまどかが心配だった。人魚の魔女はその手にした巨大な剣での斬撃も脅威だけれど、なによりも恐ろしいのは多数の車輪を召喚しての範囲殲滅攻撃だ。もし今その攻撃を放たれれば、まどかはなす術もなくやられてしまうかもしれない。

 

「鹿目さん、貴女もわかっているでしょう! こうなってしまったら、私たちにできることはもう一つしか無いわ!」

 

 わたしが躊躇している様子と、まどかの態度に事情を察したらしい巴マミから叱咤の声が飛ぶ。厳しくも気遣いに満ちたその言葉に応えたかのように、まどかが自身の武器である薔薇の弓を構える。同時に収束した魔力が形作る桃色の輝きを放つ光の矢は、どこか悲しげなものに感じられた。

 

「ほむらちゃん、私はもう大丈夫。だから、早く避難して」

 

 目尻に涙を溜めながらも、はっきりと言い切った彼女の言葉に、わたしは非難することを決意した。これ以上留まることは、足手まといにしかならないとわかったから。

 わたしが踵を返すと同時に、まどかの手から矢が放たれる。その時の彼女のつぶやきは、おそらくわたしにしか聞こえなかっただろう。

 

「さやかちゃん…… ごめんね」

 

 それは、何に対しての謝罪だったのかはわからない。自身が美樹さやかを追い詰めてしまったと感じていることへのものなのか、それとも魔獣から救うことが出来なかったことへのものなのか、友人だったものへ攻撃してしまうことへのものなのか。どれかかも知れないし、全てなのかもしれない。ただひとつだけ確実にわかるのは、それが決別の言葉であるということだけ。

 

──オオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォ!!!!──

 

 桃色の激しい輝きと魔女の咆哮を背に受けながら、わたしは必死にホールの端にある扉と思しきものへと走り寄っていた。たどり着いたとしても、本当にそこからホールの外へと出られるのかはわからない。もし結界として閉じた空間になっているのならば、見た目だけで開かない可能性だってある。それでも、真ん中にいるよりは端にいたほうが多少は安全であることも事実だからこの行動自体は無意味ではないけれど……

 桃色の輝きが消えるのとほぼ同時に、ホールの壁際へとたどり着く。そこから扉へと向かう一瞬の時間に魔女の方へと視線を向けてみれば、人魚の魔女はその左腕を失い、残された右腕に掴んでいる巨大な剣を振り上げていた。そして、掲げたその剣の周囲を取り囲むように現れる、無数の車輪。古風な木の馬車の車輪を思わせるそれは、人魚の魔女が剣を振り下ろす動作に応えるように、激しく回転しながら一斉に急降下して跳ね回り始めた。

 

「ッ!?」

 

 目に飛び込んで来たその光景に息をのむ。今のわたしがあんなものを受ければ、一撃で死んでしまうか、軽く見積もっても動けなくなるほどの怪我を負うのは分かりきっている。急いでこの場から脱出しなければと思い扉へと駆け寄る。そのドアノブに手を掛けるも、それは石のような冷たい感触を手に返してくる。もちろん、回したりなどはできなかった。

 悪い予想が当たってしまった事に歯噛みしながらも、どうするべきか考えを巡らせようとして、わたしはその事に気付くのが遅れてしまった。

 

「ほむら、あぶない!」

 

 いつの間にか近くに来ていたインキュベーターの警告の声。それに気付いて振り向いたとき目に飛び込んできたのは、わたしに向かってまっすぐに飛んでくる一つの車輪。

 

「きゃああああぁ!?」

 

 その光景に冷静さを失い、わたしはその場から慌てて飛び退いていた。一呼吸するにも満たないほどの時間で、飛んできた車輪が一瞬前までわたしが立っていた場所の壁にぶつかり、そしてそのまま跳ね返るとホールの中へと戻ってゆく。それを見送りつつ、驚愕に乱れた呼吸を整えながら立ち上がる。車輪は他にも多数あるのだ。ゆっくりと休んでいるような余裕なんて無い。魔法少女として戦っていた経験があったからこそかわせたけれど、魔力による身体強化ができない今のわたしがそう何度もかわせるとは思えないし、巴マミが施してくれた護りの結界も、こんな攻撃に対しては役に立たない。せいぜい使い魔の攻撃を邪魔する程度の強度しかないはずなのだから。

 

「暁美さん!?」

 

 わたしの悲鳴が聞こえたのだろう、巴マミの声が聞こえてきたけれど、彼女自身もまどかも今は暴れまわる車輪から身をかわすだけで精一杯で、こちらの手助けをしてくれるような余裕はないらしい。わたし自身は壁側に背を向けていれば、飛んできた車輪から身をかわすのは簡単ではないけれど酷く難しいわけでもない。ただしそれは、飛んできた車輪が一つだけだった場合のみ。二つ以上の車輪が飛んできた場合にかわしきれる自信は全くといっていいほど無いし、体力だってそう長くもつわけじゃない。きっと途中でかわし損ねるか、疲れて動けなくなることが目に見えている。二人が車輪を迎撃して数を減らしているけれど、ある程度数が減ると人魚の魔女は再び剣を振り上げて車輪を召喚してしまうため、いつまで経っても状況が変わらない。このままだとじり貧になるのはわかっていても、状況を打開できるような案も要素も見当たらない。

 魔女の結界の中には身を隠せるようなものが多数ある場合もあるけれど、人魚の魔女の結界に関してはそういったものが何もない。今わたし達がいる場所は中央のステージのような場所だけれど、結界内部の構成は規模の違いこそあれど劇場というよりも野球場や競技場に近いものだ。

 

「このまま、じゃ……!」

 

 焦燥が募るけれど、だからといってそれに身を委ねてしまう訳にはいかない。そんな事をすればわたし自身の身をより危険に晒すだけではなく、二人の足を引っ張ってしまう。ただでさえ他の誰かを守りながら戦うような余裕なんてない状況なのだから、ここでわたしが更に状況を悪化させるようなことをしては、完全に勝てる見込みがなくなってしまう。

 そうして、わずかではあるけれど身をかわすことから思考を逸したのがいけなかったのかも知れない。再び迫ってきた車輪から身をかわしたその先に、更に別の車輪が迫ってきていた事に気づけなかったのだから。

 体勢を崩しているわたしのところに車輪の一つがまっすぐに向かってくる。あわてて立ち上がろうとしたけれど、立ち上がった瞬間に直撃を受けてしまうタイミングだ。それでもわたしは、半ば無理矢理に体を捻ることでどうにか直撃を避けることだけは成功した。でも、壁へ衝突した轟音と共に生まれた衝撃が背中を叩く。

 

「きゃあっ!?」

 

 思わず口から悲鳴がこぼれてしまった。護りの結界のおかげか痛みはないけれど、固定されたものではないせいか衝撃などは完全に受け止めることができないらしい。紙一重で避けることは問題があると思いながら立ち上がろうとすると、左の足首から激痛が走る。どうにか声を出す事はこらえたけれど、これはまずいことになってしまった。おそらく無理に体を捻ってかわした時に、左足首を痛めてしまったらしい。少し体重をかけるだけで痛みが走るようでは、もうまともに動くこともできなくなってしまう。

 

「ほむらちゃん、大丈夫?」

 

 自分の状態に歯噛みしていると、近くでまどかの心配そうな声が聞こえてきた。その事に驚いて顔を上げれば、目の前に巴マミとまどかがわたしを守るように立っている。

 

「ごめんなさい。私の見立てが甘かったわね」

 

 一瞬だけこちらに視線を向けた後、前方を厳しい表情で警戒しながら巴マミが声をかけてくる。同様に、まどかも前を見据えていた。そして、二人の視線の先にいるのは、左腕を失った人魚の魔女。いつの間にか、車輪での攻撃は止まっている。おそらく、あれでは二人を倒せないと判断して止めたのだろう。

 

「壁を背にしていれば後ろからの攻撃は気にする必要がないし、貴女を守りながらでも戦えると思ってなんとかここまで来たんだけど……まずいわね」

 

 わたしの視線を問いかけるものだと思ったのだろう。巴マミが自分たちの行動の理由を話してくれた。けれど、その最後に表情が苦々しいものになる。

 

「大丈夫かい? あの様子だとあいつの次の攻撃は確実にこちらを潰しに来る」

 

 いつの間にかまたわたしの傍らに姿を表したインキュベーターが、そんな疑問を投げかける。内容は二人を心配しているものだけれど、こんな状況だというのに、表情も口調も相変わらず変化に乏しい。

 

「わかってる。……鹿目さん、悪いけれどとどめお願いね。準備ができるまでの間、私が足止めと妨害をするわ」

 

 数歩前に出て自身の周囲にマスケット銃を取り出しながら巴マミが言う。頷くまどかの顔が若干青ざめて見えるのは気のせいではないと思う。あの魔女は美樹さやかが魔獣に飲まれて変化したもの。それにとどめを刺すというのは友人を自らの手で殺すことに等しいのだから。けれど、魔女と化してしまった者を救う方法などないということもわかっているためか、その目に迷いは見られない。

 まどかが薔薇の弓を引き、桃色に輝く光の矢が生まれ出る。けれどそれを即座に放つことはなく、まどかの手の中でその輝きはゆっくりと強まっているようにも思えた。

 

「暁美さん、鹿目さんの後ろに下がっていて。決着を付けるわ。その為の準備ができるまでの間、絶対にやらせない……!」

 

 目を細めながら人魚の魔女を見据える巴マミの放った言葉は、私がこれまでに一度も聞いたことがないほどに決意に満ちたものだった。その目の奥に見える覚悟に、わたしは一瞬だけれど呆けてしまう。そんな彼女の姿など、一度も見たことがなかったから。

 そして、巴マミのマスケット銃が放つ最初の一撃を合図に、この戦いに決着を付けるための攻防が始まりを告げた。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 連続で響く炸裂音と共に、魔力の輝きが瞬く。

 黄色味のかかったその輝きは、巴マミの白いマスケット銃から放たれたもの。けれどそれは、一つとして人魚の魔女へとは届いていない。なぜなら、周囲に立つ使い魔たちの奏でるヴァイオリンの音にのせられて放たれた魔力波動が、壁の如く立ちはだかっているからだ。普段なら結界に迷い込んできた人間の魂を抜き取るための曲を奏でているというのに、そんな使い方もできるのだということは知らなかった。

 巴マミは先程からずっとマスケット銃を人魚の魔女に向かって撃っているけれど、一発たりとも届いてはいない。だというのに、彼女の表情に焦りの色はない。どちらかというと苦々しいととれる色が浮かんでいる。そう、それは面倒臭いとぼやく人間の浮かべる表情だった。こんな戦いの場面で浮かべるものとしてはいささか不釣合いだけれど、その理由は恐らくまどかにある。彼女の手の中にある桃色の光の矢は、生み出されたからゆっくりとではあるけれど確実に輝きを強めている。おそらく、そこに込められた魔力も同様に。たぶん、力を限界まで溜め込んだうえで放つ一撃。当たりさえすれば、たとえ防御されようとそれごと叩き潰す必殺の攻撃なのだろう。かつてのループ時にワルプルギスの夜に対して放った一撃に比べれば規模も威力もはるかに劣るだろうけれど、普通の魔女に対してであればそれでもお釣りがくるだろう。

 ただ、気になるのは、あんな戦い方をして二人ともソウルジェムの穢れは大丈夫なのだろうかという点。巴マミもまどかも、消費している魔力は決して少なくはないはず。もしジェムの穢れをほとんど除去してあったとしても、これではまただいぶ濁ってしまっていても不思議ではないと思う。グリーフシードの手持ちに余裕があるのなら問題はないし、出し惜しみが過ぎて敗れてしまっては本末転倒だ。戦う事のできない今のわたしがこんな事を考えても意味はないのかもしれないけれど、やっぱり考えずにはいられない。

 この時間軸世界では、ソウルジェムの穢れの蓄積が限界を超えたときどうなるのだろう。少し前にインキュベーターに問い質そうとして有耶無耶になってしまったけれど、今思い返してみればはぐらかされたような気もしてしまう。疑り深過ぎるのではないかという思いはある。あのインキュベーターは利点以外の部分についても話しているようだし、なによりこの時間軸世界では中途半端な想いの悩みでは魔法少女契約まで届かない。それがわかっていても、以前のインキュベーターのやり口が頭に焼き付いているせいで、どうしても全てを話していないのではないかという疑惑を拭うことができないのだ。疑心暗鬼なのかも知れないとも思うし、わたしが知っている奴とは別の存在だと頭の中では理解していても、姿が同じである以上気持ちが納得してくれないのだ。

 銃撃の音と炸裂音だけが何度も響き渡り、魔力の残滓が煙のようにうっすらと漂っている。巴マミと人魚の魔女の使い魔たちによる競合いはほとんど膠着状態に陥ってしまっていた。漂う魔力煙の向こう側で、人魚の魔女に何も動きが見られないことがとてつもなく不気味に思えて仕方がない。インキュベーターが言ったように、何かを仕掛けてこようとしているのは間違いないとわたしも思う。けれどその為の予備動作と思しきものすらも見受けられないのが警戒心を刺激する。

 

「埒が明かないわね、これじゃ。でも……」

 

 ややうんざりした呟きと共に、巴マミがこちらに一瞬だけ視線を向けた。その先にいるのはわたしではなく、まどかだ。その手の中で矢の輝きは最初よりも強く、大きくなっているけれど、二人の様子から考えると、まだ不十分なのかも知れない。それがどの程度の時間が掛かるものなのかわたしは知らないけれど、その様子に何か引っかかるものを感じた。巴マミの視線に、わずかだけれど戸惑いのようなものがあるように感じたのだ。まどかの表情にも焦りのような、困惑のような表情が見てとれる。もしかしたら、この攻撃は本来ならもっと早く準備が整うものなのかもしれない。だとするなら、人魚の魔女の結界に魔力の収束を阻害する効果があるのか、でなければまどかの心に動揺か躊躇いが残っているか。

 可能性として考えるなら、後者のほうが高い。まどかと美樹さやかは友人としてかなり親密な関係でもあった。その友人が、目の前で魔獣に食われてしまったのだから、わずかな時間でその事を割り切って考えるなんてできる訳がない。理屈ではわかっていて納得したつもりでも、気付いていないだけで本当は納得できていないなんてよくある話なのだから。そう、仲の良い友人のことを、大切に想う人のことをどうしても諦められない、時には狂気さえも孕みかねない激しい気持ちはわたしも良く知っている。

 

「まどか……」

 

 小さな声で呼びかけながら、わたしはまどかの両肩にそっと手を置いた。服越しにわずかだけれど強張っているのが掌に伝わってくる。

 

「ほむら……ちゃん……?」

 

 わずかな戸惑いを含んだまどかの声。その声をあえて流しつつ改めてまどかに声をかける。

 

「もう少し肩の力を抜いて。力みすぎてたら上手くいかないわ」

 

 肩の力みを指摘した後、美樹さやかの話を切り出すと、案の定まどかは肩をびくりと震わせた。やはり心のどこかで割り切れていないのだろう。赤の他人ならばまだしも、親しい友人だったのだから当たり前だ。まどかかが死ぬ世界を認められずに足掻き続けたわたしにはこんなことを言う資格は無いのかもしれないけれど、今は状況を好転させる事が最優先。このまま負けてしまっては意味が無いし周りへの被害が大きくなってしまう。だからわたしはまどかに語りかけた。美樹さやかは魔女と化してしまったけれど、その為に無関係な人々に被害を出してしまう事を彼女は決して望まないだろうと、戦いの場には似合わない穏やかな声で諭すように。かつて、あなたの破滅する姿をまどかに見せたくないと語って美樹さやかを手にかけようとした時と同じ仮面を被りながら。

 

「今ならまだ、彼女は人としての終わりを迎えられる。でも、もし一人でも手にかけてしまったらそれはできなくなる。だから……」

 

 途中で、言葉に詰まる。話を続けようとしても、どうしてもそこから先を口に出す事ができなかった。まどかほどではないけれど、わたしにとっても美樹さやかは友人なのだ。相性の良い友人とはいえなかったけれど、今になって思い返せばわたし自身の対応の失敗が招いたものだったようにも思う。少なくとも彼女は、自分が認めれば受け入れてくれる人間だった。うまくいかない事が多かったのは彼女の性格の問題だけではなくて、わたしが彼女自身を理解しようとはしていなかった事、一ヶ月という時間の制約に心のどこかで焦りを感じていた事、やり直しがきくのだからという驕った考えがどこかにあった事、考えられる要因はいくつもある。そして、これは学校でのやり取りのときにも感じられた事だけれど、わたし自身が焦りのために周りを見ようとしていなかった事。最も大きな理由はわたし自身に起因するものだった。

 

「……ありがとう。さやかちゃんのために泣いてくれて」

 

 まどかの言葉にわたしは一瞬呆然として、そして気付いた。知らず知らずのうちに涙を流していた事に。この涙が本当に美樹さやかの死を悲しんで流したものなのか、自分でもわからない。けれどこの時間軸世界でようやく結べた彼女との穏やかな関係はとても短いものだったけれど、間違いなく友人だったと断言できる。

 

「でも、ほむらちゃんの言うとおり、さやかちゃんはこのままじゃずっと苦しみ続けなくちゃいけなくなる。魔女になっちゃったさやかちゃんを助けてあげる事はもうできないけど、せめてその苦しみを私たちで終わらせてあげよう?」

 

 視線だけをわたし向けて問いかけるように語るまどかは、とても穏やかな表情を浮かべていた。その目の端に浮かぶ涙が彼女のどんな思いによるものなのかはわからないけれど、心に残っていた迷いを断ち切ったのは間違いないようだ。

 

「ちょっとおおおおぉぉぉ!?」

 

 次々とマスケット銃を持ち替えて撃ちながら、巴マミが叫び声をあげる。相変わらず人魚の魔女の使い魔が放つ魔力波動に攻撃をかき消されてしまっているようだけれど、手を休めずに攻撃してるおかげで使い魔もまた反撃をしてきてはいない。だというのに、その叫び声に含まれた焦りに惹かれるように前方へと顔を向けてみれば、人魚の魔女が残された右手に握った剣を大きく振りかぶっていた。その刃に、蒼白い輝きを湛えながら。

 

『!?』

 

 その光景に、二人揃って言葉を失った。直前までしんみりとしていたけれど、それにかまけすぎて攻撃のタイミングを逸してしまったらしい。戦いのさなかである事を一瞬であっても忘れてしまった自分自身を悔いながらも、わたしはまどかに対して頷いて見せた。それに応えるように、まどかの手の中にある桃色の輝きが一際大きなものへと変化していく。でも、これでは間に合わない。人魚の魔女は既にその剣を振り下ろそうとしている。接近してこない点から考えても、おそらくは斬撃を飛ばすタイプのもの、そしてわたし達全員をまとめて薙ぎ倒せるだけの威力がある可能性が高い。でなければこの場面で使ってくる事など考えられない。そして、まどかの弓が放たれるよりもわずかに早く、人魚の魔女の剣が振り下ろされた。

 それは蒼白い輝きを伴う暴風にも等しい魔力の奔流。まどかと巴マミの二人はともかく、今は生身の人間であるわたしがまともに受ければひとたまりもないだろう。そう諦めかけていた。まどかも巴マミも、遠距離攻撃型のためか広範囲を守る手段を持っていない。わたしが知る限りでも、広い範囲を守る事のできる手段を持っていたのは佐倉杏子ただ一人だった。わずかに遅れて放たれたまどかの攻撃が人魚の魔女を貫いている光景は目に入っていたけれど、一度放たれてしまった攻撃は止まらない。右腕に握られていた剣の剣閃に沿うように放たれた斬撃は、何かを行おうとしていた巴マミを掠めるようにして、まっすぐにわたし達に向かって飛んでくる。まどかの最初の一撃が意図したものであったのかはわからないけれど、あわてて第二射を用意しようとしていたところから、人魚の魔女の攻撃を迎撃しようとしたのかもしれない。

 

「……っ!」

 

 今のわたしにはアレを防ぐ手段も回避する手段もない。魔力による身体強化だけでも可能なら、まだまどかを抱えてとっさにかわす事もできたかも知れないけれど、それはかなわないこと。魔法も使えず、身体能力も一般人にすぎないが故に、わたしの中に残された記憶と経験がもう間に合わないと冷徹に告げてくる。

 

「しまっ……!?」

 

 巴マミの焦った後悔の声が聞こえてきたのとほとんど同時だった。右側から何かがぶつかってくる衝撃と、「ったく……」というぶっきらぼうな呟きが聞こえたのは。そのまま宙に持ち上げられる感覚と、ほんのわずかに遅れて衝撃と共に轟音が鳴り響く。一秒でも遅ければ、まどかもわたしもあの攻撃に飲み込まれていたのは間違いない。けれど、今はそれよりもわたし達を助けてくれた存在により大きな驚きを感じていた。赤い胸元の開いたノースリーブのドレスコートにロングブーツ。長い赤味がかった髪をポニーテールにしているその少女は、八重歯を覗かせてどこか猛獣を思わせるような獰猛な印象の笑みを浮かべている。

 

「あなたは……」

 

 思わず、口から呟きがこぼれる。けれど、彼女はそこに含まれたわたしの驚きに気付かなかったのか、着地した後に視線を一瞬だけこちらに向けると、わたし達から手を離した後にそのまま巴マミに歩み寄った。

 

「佐倉……さん……?」

 

 呆然としたその呟きが、彼女の驚きを物語っている。けれど、呆けている場合ではないと気付いたのだろう。すぐに表情を引き締め、再びマスケット銃を生成する。

 

「普段なら他人のシマで戦いの最中に乗り込んだりしないんだけどさ。流石に病院で続けて魔女が出やがったら無視もできないから来てみれば…… ずいぶんとらしくないじゃないか」

「……話は後よ」

 

 どこか小馬鹿にしたような響きのある佐倉杏子の物言いに対して、巴マミは返答せずに魔獣の掃討を促した。まどかによって人魚の魔女が倒されたために結界の形が崩れ始めている。結界内部の光景と残された使い魔たちの姿が溶けるように消えていき、くすんだ白い空間へと変わる直前に見えたのは、コンサートホールの中央に一体だけ佇む使い魔の姿。それは他の使い魔のようにヴァイオリンを奏でることもなく、ただ一人で孤独に佇んでいる。けれど、それが見えたのも一瞬のこと。崩れて消えていく光景に飲み込まれ、最後は何も無い空間へと変化する。

 

「さやかちゃん!?」

 

 突然、まどかが悲鳴のような声を上げた。その視線を追いかけてみれば、横たわる美樹さやかの姿と、それを取り囲むように出現した十体を超える魔獣の姿。

 

「美樹さんっ!?」

 

 思わず、わたしも声を上げてしまう。全く身動きせず、青ざめたその顔は生きているなどとはとても言えないはずだけれど、もしかしたらという気持ちがわいてくることを抑えられない。何もできず、駆け寄ることすら許されない今の自分が情けないけれど、こればかりはどうしようもない。下手に前に出れば、わたしが魔獣の餌食になるだけなのだから。

 轟く銃撃の音と共に黄色い輝きが数体の魔獣を消し飛ばす。わずかに遅れるように、まどかも弓を放ち、残された魔獣たちはまどかと巴マミの手によって掃討された。

 ゆっくりと、周囲の光景が変化を始める。そしてそれに合わせるかのように、駆け寄ったわたし達の目の前で美樹さやかの肉体は、砂が崩れるかのように崩壊してゆく。

 

「これ……は……」

 

 その光景にわたしは無意識に呟きをこぼしていた。そして、目の前で起きていることを信じたくない自分がいることを自覚する。

 

「それが、魔獣に飲まれた人の末路よ…… 大抵は魔女を倒しても肉体が原形を残したままなんて事ないんだけれど、魔女に変じてから倒されるまでの時間が短かったから、綺麗なまま残ってたのね」

 

 巴マミの説明を兼ねたその言葉は、心に酷く強烈な痛みを残して流れていった。喉の奥から苦々しいものがこみ上げてくる。どうにもならないことだとわかっているけれど、だからこそ悔しくて仕方がない。出会ったその時にもう少し早く気がついていれば、もしかしたら助けられたかもしれない。仮定の話は意味が無いとわかっていても、その考えをどうしても振り払えない。

 

「さやかちゃん…… ごめんね、助けてあげられなくて。もう少し早く気付いてたら、助けてあげられたかも知れないのに……」

 

 あふれる涙を拭うこともなく、まどかは崩れて消えてゆく美樹さやかの肉体へと語りかけていた。意味のないことだと理解しているはずだけれど、だからといってなにもしないままというのは納得できないのだ。そして、後悔しているのは私も同じ。

 

「……もう少し早く行動を起こしていれば、助けられたかも知れない。だから、許して欲しいなんて言わない。こうなってしまった責任の一端は、わたしにもあるはずだから」

 

 俯いたまま、小さな声で語りかける。ここにいる美樹さやかは魂のない抜け殻で、今目の前でその形を失いつつある。だから、今のわたしの行動は意味のないただの自己満足。そうわかっていても、謝罪しないという選択肢は最初から存在していない。

 

「おい……あいつら……」

「ええ。彼女たちは友人だったのよ…… そして、美樹さんと、もう一人の暁美さんはどちらも候補者だった……」

 

 すぐ後ろから聞こえてくる会話が少し気になるけれど、今はそれについてどうこう言うような気分でもない。まどかと二人、無言のままでその姿を失ってゆく美樹さやかに黙祷を捧げる。魔獣に飲まれて魔女と化した者の魂がどうなるのかはわからない。けれど、こんな最期を迎えてしまった彼女が、せめて安らかに眠れることを願わずにはいられない。

 

「さよなら、さやかちゃん……」

 

 まどかの別れのつぶやきとともに、美樹さやかの身体は着ていた服も含めて全て砂のように崩れ去り、消え去る結界に呼応するように光の粒子となって散り消えていく。そして完全に結界が消えて元の病院の場所へと戻った時、そこに美樹さやかは存在しない。事実を知るわたし達も、その事を誰にも話せないし、話した所で信じてもらえるような内容でもない。これから彼女は行方不明者として処理されることになるだろうけれど、その事について聞かれても、わたし達は全て知らぬ存ぜぬで押し通さなければならない。

 

「……ッ」

 

 白くなるほどに手を握りしめ、唇を噛み締めながら声を出すことを堪える。そうしなければまどかと一緒に声を上げて泣いてしまいそうだった。わたしは自分で考えていた以上に、美樹さやかを友として受け入れていたらしい。その事に今になって気づくだなんて、自分のことながら呆れてしまう。

 ふと、肩に触れられた感触に顔を上げれば、巴マミがまどかとわたしの肩に手を置いて小さく笑みを浮かべていた。それが引き金になったのか、まどかは巴マミの胸にすがりつき堪えるようなすすり泣きを始めてしまった。

 

「うあ……あ……ひぅ……ひぐっ…………」

 

 すがりついてきたまどかを胸に抱きながら、彼女はなにも言わなかった。慰めるでもなく、ただまどかのしたいようにさせている、そんな印象だったけれど、そこに横槍が入る。

 

「……先に他の場所に移動したほうが良くないか? 人間が少ない場所とはいえ病院の一角なんだから、誰に見られるかわかんないぞ」

 

 それまでなにも言わずにこちらを見ているだけだった佐倉杏子がそんなことを言う。空気を読んでいないかのようなタイミングではあるけれど、内容は正論だ。そして、その言葉を聞き終えた瞬間に、まどかが巴マミの胸から飛び離れ、頬を赤くしながら涙を拭う。

 

「確かに、いつまでもここでこうしているわけにもいかないわね。一度私の家にでも行きましょうか」

 

 巴マミのその言葉に従い、わたし達は見滝原総合病院を後にした。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 前を歩く巴マミと佐倉杏子の二人に視線を向けると、互いにいがみ合いながらもそこには険悪な雰囲気のないじゃれあいのような光景が飛び込んできた。どちらも気付いていないようだけれど、それは仲の良い姉妹の喧嘩のようにも見えて、どこか微笑ましいものに映る。隣を歩くまどかも笑いをこらえているのがわかる。

 見滝原総合病院を出てから、わたし達は巴マミの家に向かっていた。今回の事、これからの事、いくつも話さなければならないことがあるから。

 佐倉杏子は最初、見滝原総合病院を出るなりどこかに行こうとした。それを引きとめ質問をしたのは他ならぬ巴マミ自身だった。魔女と魔獣の対応に関しての意見の食い違いからあまり仲が良くないと言われることも多いけれど、その実この二人は良く似ていると思う。結局のところ見ている範囲が違うだけで考え方そのものはそれほどかけ離れてはいないのだ。詳しい経緯は知らないけれど、佐倉杏子が魔法少女になったばかりの頃、巴マミに師事していたことがあると聞いている。父親の一件があるまでは、二人の関係は良好だったのではないだろうか。巴マミの行動方針は、方向性の違いこそあれ佐倉杏子の父親と同じ信念に基づくものだ。二人の出会いの形がどんなものであったのかはわからないけれど、憧れや敬愛の念があって教えを乞うたのだとしてもおかしくはない。近接戦闘主体で幻惑系魔法を使う佐倉杏子と遠距離戦闘主体で拘束系魔法を使う巴マミはきっと良いコンビだったのだろう。戦闘スタイルと能力のバランスもそうだけれど、当時の二人は同じ信念で肩を並べて戦っていただろうから。

 不意に、前を歩く二人の喧嘩の声が途切れる。思考を中断して再び視線を向けてみれば、そこには不貞腐れたような表情であらぬ方向に顔を向けている佐倉杏子と、呆れたような困ったような微妙な表情の巴マミがいた。それを見て、わたしは自分の感じていた事が間違いではないと判断した。

 父親と家族を含めた他者のために奇跡を願い、結果として自分自身のためだけにその力を振るうようになった佐倉杏子。

 自分自身の命を繋ぐために奇跡を願い、その罪悪感から他者を救う事のためにその力を振るうようになった巴マミ。

 やはりこの二人は、互いが互いを映し出す鏡のような関係だ。余計なお節介かもしれないけれど、きちんと和解できればきっと良い友人に戻れるのではないかと思う。対人関係でいくつも失敗してきたわたしが言えたことではないのだろうけれど……

 

「……?」

 

 巴マミの住むマンションに近づいたとき、視界の隅に何か黒いものが映った気がして、何気なくその方向を見て、そして目に飛び込んできた光景にわたしは絶句した。場所は見滝原中央公園のあたりだろうか。その上空に浮かぶ、巨大な黒い立方体。それが何であるのかは考えなくてもわかる。

 

「ほむらちゃん……?」

 

 急に足を止めて呆けているわたしに気付いたのかまどかが声をかけてくる。けれど、見ている光景に衝撃を受けているわたしはその事に気付かなかった。返事を返さないわたしを疑問に思い、視線を追いかけたまどかも言葉を失う。見滝原上空に巨大なグリーフシードが浮かんでいる光景は、それほどに衝撃的なものだった。

 

「なんだ……ありゃ……?」

「なに……あれは……」

 

 わたし達の様子に気がついた巴マミと佐倉杏子の二人も同様に驚愕している。今ここにいる四人全員が、自身の目で見ている光景が何であるのかの理解が追いついていなかった。誰も見たことがないのだ、このような現象は。

 

「……キュゥべえ?」

 

 巴マミが表情をひきつらせながらインキュベーターに疑問の声を投げる。けれど、その返事は即座には返ってこなかった。

 

「すまない。僕もあんなものははじめて見るから答えられない。調べてみる必要があるだろうけれど……」

 

 普段なら淡々としながらも澱みなく答えてくるインキュベーターが、歯切れの悪い答えを返してくる。表情こそ変化しないものの、その声にはわずかに困惑があるようにも聞こえる。おそらくは彼にとっても予想外の出来事なのかもしれない。

 それにしても、あの巨大なグリーフシードは一体なんなのだろう。もしあれが魔獣として孵化すれば、どれほどの被害が出るか。考えただけで背中に冷たい汗が流れる。周りを見てみれば、他の皆もわたしとあまり変わらない心境のようだ。巴マミと佐倉杏子は顔をひきつらせながら冷や汗をかいているし、まどかは未だに立ち尽くしている。インキュベーターも巨大なグリーフシードから視線を外そうとしない。ここには、あれの危険性を理解できない者は一人もいないのだ。だからこそ、誰一人としてすぐには行動に移せなかった。

 

「……こうしてても仕方がないわ。不用意に近づくのは危険でしょうけど、遠くから見てるだけじゃ何もわからないし、様子を見ながら少しずつ近づいてみましょう」

 

 巴マミが行動の提案を出してくる。内容は消極的なものだけれど、これは仕方がないだろう。放置するわけにはいかず、だからといって不用意に近づけばなにが起きるかわからないのだから、情報収集のためにも様子を見ながら近づくという判断になって当たり前だ。もちろん、すぐ近くまで接近できたとしても触れたりなどするわけにはいかない。

 日の暮れはじめた街の空に浮かぶ巨大なグリーフシード。誰の目にも見えるようなものであったなら今頃は大騒ぎになっていてもおかしくはなかったと思う。現状で見えているのは、おそらくわたし達だけではないだろうか。もしかしたら他にも見えている人間がいるかもしれないけれど、いたとしても事情を一切知らないのだから、見えていてもその事を口にしようとはしないだろう。他の人達に信じてもらえるはずもないし、しつこく口にすれば病院に連れて行かれることになるのが目に見えているのだから。

 

「しっかし……なんだよ、ありゃ」

 

 佐倉杏子が口にした疑問は、この場にいる全員の疑問でもある。だからこそ調べようとしているのだ。彼女自身も返事がないことなど承知の上でのことのはず。何かしら喋っていないと不安で仕方がないのだろう。

 

「わからないけれど、あれをそのまま放置したら大変な事が起きるのは間違いないわ。それと、どれだけ近くまでいけたとしても、絶対に触れたりしてはダメ。近づいている途中に何か動きがあったら即座に撤収。いい?」

 

 佐倉杏子に応えつつ、巴マミが行動方針の確認をしてくる。わたしもまどかもその内容に異論はない。佐倉杏子は巴マミが場を仕切っている事が気に入らないのか不機嫌そうな表情をしていたけれど、内容自体に文句はないらしく、小さな声で「……ああ」とだけ言って黙ってしまった。

 わたしが一緒に行くことに関しては反対されると思ったけれど、意外なことに何も言われなかった。巴マミに関しては説得は無理だと諦めたのかもしれないけれど、佐倉杏子が何も言わない事が不思議だった。足手まといだのお荷物だのと言われる事を半ば以上覚悟していただけに、肩透かしを食らってしまった。ただ、何も思うところがないというわけではないらしく、時折こちらに視線を投げてきているのがわかる。多少気にはなるけれど、おそらく互いに納得できる話などできないだろうからこれでいいのかもしれない。もしかしたら巴マミが同じような事を考えて佐倉杏子に釘を刺したのかも知れないけれど。

 おしゃべりをしながら歩いているように見せて、迂回しつつ近づいていく。空が完全に暗くなれば、この巨大なグリーフシードはほぼ見えなくなってしまうだろう。街の明かりや星が見えなくなるから、そこにあることがわからなくなるようなことはないけれど、全容を把握するのは難しくなる。短い時間では期待できないとは思うけれど、ほんのわずかでも何かしらの情報が得られれば御の字だろう。

 

「それにしても……なぜ急に、それもあんなに大きなグリーフシードが現れたんでしょうか……?」

 

 不安に瞳を揺らしながら、まどかがポツリとつぶやいた。誰に対しての問いかけなのかわからないけれど、口調から巴マミへのものではないかと推測する。そして、それは巴マミ自身も同じ考えであったらしい。

 

「わからないわ……キュゥべえもあんなのは見たことがないみたいだし……」

「グリーフシードじゃなくて魔獣が原因なら似たような現象はあるんだけどね。ただ、それが発生するほどあの公園は瘴気が濃い場所じゃないし、いくつもの偶然が重ならないと発生しないような稀なものだ。関連は薄いと思う」

 

 インキュベーターの発言に多少引っかかるものを感じるけれど、今は追求している場合ではない。何もわからないならわからないですぐにここから離れなければならないのだ。むしろ何も起きて欲しくないとさえ思っている。それだと進展が何もないけれど、何の準備もないままに危険を冒す必要がなくなるのだ。どちらにも一長一短があるし、状況によっては悠長な事は言っていられなくなってしまうだろうけれど、まどか達にはできるだけ危険は冒して欲しくないし、わたしも冒したくはない。

 何も知らないまま生活している町の風景の中、巨大な黒い物体が浮遊している光景は酷く現実離れした歪なものに見える。それでいて何も起きていない今の状況は、嵐の前の静けさなのだろう。もし状況が動く事になったとき、それは酷く大きなものとなるのかもしれない。

 

「これは……」

 

 先導するように歩いていた巴マミが立ち止まる。上げられた声には驚きとも戸惑いともとれるものが混じっていた。その事を疑問に思い、わたしは考えていた事を一時棚上げして前方に視線を向ける。

 

「……!」

 

 そうして目に飛び込んできたものに、わたし自身も声を上げる事こそしなかったものの、それが何かを理解する事を頭が拒否して思考が停止するのを自覚していた。

 

「げ……」

「なに……これ……」

 

 まどかも佐倉杏子もわたしと同じような心境なのか、あからさまに顔をひきつらせている。インキュベーターは相変わらず表情に変化がないうえに無言のままなのでわかりにくいが、普段であればそれなりに動かしている尻尾が止まっているあたり、彼なりの驚きを感じているのかもしれない。

 それに気付いたのは偶然の産物だった。日が暮れ始めていたことはわたし達にとって幸運だったのかもしれない。何故なら、夕焼けに染まり始めた太陽がグリーフシードの影に差し掛かったときに透けるように抜けてくるわずかな陽光に気がついたからだ。それを目にした事を疑問に思い、目を凝らして前方で浮遊する巨大なグリーフシードを観察して、その実態を全員が把握したのだ。

 目の前まで行けば嫌でも気付いていただろうけれど、ある程度距離があるうちに気付けたのは僥倖だったと思う。もし目の前まで接近した状態で何かしらの動きがあれば、きっと撤退する余裕なんて無いまま襲われて終わっていたかもしれないのだから。

 差し込んでくる夕陽にその身を晒しながら鎮座する巨大なグリーフシード。それは単一の物体ではなく、夥しい数が寄り集まって一つの巨大な物体に見えている代物だった。それは数十や数百などという数ではなく、少なく見積もっても数千、もしかしたら数万にも及ぶかもしれない。もしこれが一斉に魔獣として孵化するような事があれば、などと考えると背筋を冷たいものが流れ落ちていく。

 

「………………ねぇ、キュゥべえ?」

「悪いけど、さすがにこれは僕たちの処理能力の限界を超えてる。それに少しずつ処理しようにも下手に手を出して刺激するとなにが起きるかわからないから迂闊な事もできない」

 

 重く長い沈黙の後に発した巴マミの問いかけに、インキュベーターは即座に否定の言葉をもって応対した。おそらく理屈の上では絶対に不可能というわけではないのだろうけれど、それを実行するためには世界中に散らばっている個体全てをこの場に呼び集めなければならないのだろう。現実的に考えれば実行不可能であるだろうし、可能だとしても準備ができるのを待っている時間的な余裕が無い可能性も高い。

 

「けどよ、このままにしとくわけにも……」

 

 抗議の声を上げようとした佐倉杏子の言葉が尻すぼみに消えていく。おそらくは何もいい案が浮かばなかったのだ。そして、この場にいる誰もが同じ事を考えて、結局何も思い浮かばないまま沈黙している。何か行動しようにも不確定要素が多くてリスクが高すぎるうえ、なにか動きがあった場合には、ほぼ間違いなく状況が悪化する事が容易に想像できる。貨物コンテナに匹敵する大きさの巨大なグリーフシードが、実際には多数のグリーフシードが寄り集まったものであるという事実は、酷く重いものとしてわたし達の中にのしかかっていた。

 

「……え?」

 

 全員が言葉も無く立ちすくむ中、唐突にまどかが呟きをこぼした。それは疑問と戸惑いを含んだ、困惑の声。

 

「まどか?」

 

 様子のおかしいまどかに呼びかけるも、こちらの声が聞こえていないのか反応を示さない。わたしだけではなく他の皆がその様子に怪訝な表情を向ける中、まどかは視線をさまよわせながら両耳をふさぐかのように頭を抱えてよろめいていた。顔を青ざめさせて肩を震わせているその姿は、わたしたちにはわからない何かが起きている事を示している。けれどまどかにはわたし達とは別の光景が見えていて、こちらの声も聞こえていない事が伺える。

 

「鹿目さん!しっかりして、鹿目さん!」

 

 巴マミが肩をつかんで呼びかけるものの何も反応を示さない。俯いたまま戸惑いの声をこぼし続けている様子から考えてもそれがまともな事ではないとわかる。何が見えて、聞こえているのかまではわたし達からはわからないけれど、よほど凄惨な光景が見えているのか、まどかは泣き出しそうな表情で取り乱していた。

 

「何……これ……そんな……駄目……駄目えええぇぇッ!!」

 

 何かを止めようとするかのような声が絶叫に変わる。その姿はあまりに痛々しく、直視する事をためらわせるほどのものだ。まどかに見えているものが見えていないわたし達にはそれがどれほどのものなのかわからない。そんなまどかの様子を見ながら、わたしは泣きたくなるのを必死になってこらえていた。

 まただ。戦う事ができないのなら、それ以外のところで少しでも助けになることがあればと思っていたけれど、見ていることしかできないことのほうが多い。今だってそうだ。まどかが苦しんでいるのに、助ける事も原因を突き止めることもできない。手を握ったり抱きしめてあげる事はできるけれど、今のまどかには届かないような気がする。それでも、そのぬくもりが何かの切っ掛けになれば状況が変わるかも知れない。気休めにもならないかもしれないし、ただの自己満足に過ぎないかもしれない。それでも、何も行動を起こさずに見ているだけなんてできないのだ。

 

「まどかっ!」

 

 わたしは取り乱しているまどかに近づくと、強い調子で呼びかけながら思い切り抱きしめた。けれど、予想していた通り反応はない。わずかでも身を強張らせるようなことがあれば少しは気が楽になったかもしれないけれど、そのことを嘆いても意味は無い。

 突然のわたしの行動に、巴マミも佐倉杏子も若干引いている。二人にどう説明しようかという考えが脳裏をよぎるのと同時に、何かに引かれるように意識が遠のいて行くのを自覚する。

 身体の感覚が曖昧になり、見ている光景の現実感が薄れていく。視界が白く塗りつぶされ、上下の感覚さえも曖昧なものになる。それは立ちくらみをおこしたときの自覚症状に良く似ていた。そして、それに抗う事もできないままにわたしの意識は闇に閉ざされる。疑問も不安も、何もかも飲み込んで。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 気がついて、一番最初に目に飛び込んできたのは酷く凄惨な光景だった。

 数人の男性が、縄で拘束された少女一人を相手に暴行を加えている。中には腕の太さほどもある棒を構えている者さえいた。

 暴行を受けている少女には、別段おかしなところは見受けられない。平凡なごく普通の少女にしか見えなかった。少女は耐えるように蹲り背中を丸めているけれど、意識があるのかどうか怪しい感じがする。胸が多少上下している様子から生きてはいるのだろうけれど、このままでは殴り殺されても不思議ではない。

 そこまで考えて、違和感に気付く。周りの景色も、目の前にいる人たちの服装もどう見ても現代のものには見えない。どれほど昔かまでははっきりとはわからないけれど、中世のヨーロッパあたりの農民のものではないだろうかと思う。衝撃の強すぎる光景に気付くのが遅れてしまったけれど、これは夢のようなものらしい。とはいうものの、これが普通の夢であるはずが無いとも思う。

 わたしはあの不可解なグリーフシードの集合体がが現れた公園にまどかや巴マミたちといたはずなのだ。けれど、まどかの様子がおかしいことに気づいてその身体に腕を回してからの記憶がない。意識が遠のいていったところまでは覚えているけれど、そこからこんな光景を見せられているのだから、状況的に無関係だとも思えない。

 考えている間にも目の前の状況は止まらずに動いていき、少女は木で組まれた台座の上に縛り付けられてしまった。その足元に細かい樹の枝や藁の束が重ねられていくのを見て、それが何を意味するものかにも気づく。

 あれは、火炙りだ。拘束された者を晒し者にして焼き殺す残酷な処刑法。それが村人の手で行われているということは、これは魔女狩りの光景なのだろうか。キリスト教の異端審問によって行われたと勘違いされることの多い魔女狩りだけれど、その実態は当事者の村人による私刑がほとんどだったらしい。理解出来ない技とそれを使う人間に恐怖を覚え、魔女のレッテルを貼って排除することで安心しようとする。今も昔も、人間の内面はそれほど大きくは変わっていない。

 幾人もの村人達の前で火をかけられ燃え盛る炎の中で、少女は最初何かを訴えようとでもする素振りを見せていたけれど、やがてそれすらも諦めたのか俯いて動かなくなってしまった。焼かれる熱さも痛みも感じなくなってしまったのか、服も燃え始めているというのに気にした素振りさえ見せなくなってしまったのだ。熱気のせいでまともに呼吸もできてはいないはずなのだから、すでに息絶えてしまっていてもおかしくは無い。目の前で起きている出来事が夢のようなものに過ぎず、実際に目の前で行われているわけではないと理解しながらも、見ていることしかできないという状態が酷くもどかしい。そう、現在進行形でおきている事態ではないとしても、過去に起きた悲劇の一つである可能性は高いのだから。

 燃え落ちる少女の服の間から、何かが彼女の足元に転がり落ちた。完全に見ていることしかできない代わりに、何をしようと一切干渉することの無い今の状況を利用して近づいてみる。熱さを感じる事は無いけれど、それでも燃えている炎の中を覗き込むのは躊躇われた。それに、奥まで覗き込まなくてもかろうじて落ちたものを判別する事もできた。

 そこにあったのは寄り添うようにして転がっているソウルジェムとグリーフシード。ソウルジェムはもともと青い輝きを発していたのだろうけれど、それは今急速に濁りを溜めている。こんな状況では無理もないだろう。

 グリーフシードは黒い結晶体状のものではなく、金属の装飾が施されたかのような、ソウルジェムから変化するわたしの良く知るモノ。魔法少女が魔女へと堕ちる際に変化する、おぞましいモノ。二つ並んだそれは、内部に濁りを、闇を、急速に湛え始めている。

 これはもう、保たない──

 そんな考えが脳裏をよぎったときだった。わたしの耳にその声が飛び込んできたのは。

 

「……ぁ……は…………」

 

 それまで聞こえていた、録音されたかのような実感のない声や音とは異なる、生々しい感情のこもった声。それは目の前の、すでに息絶えてしまったと思っていた少女の口からこぼれている。まともに呼吸もできず声を発する事もできなくなっているのかほとんど言葉にすらなってはいなかったけれど、それは笑い声にしか聞こえなかった。俯いていて表情は見えなかったけれど、肩がかすかに揺れているように見えるのは気のせいだろうか。そんな疑問を抱きながら何気なく村人達のいる方向へと視線を向ける。そして、そこに渦巻いているものに恐怖した。そこにいる人達が浮かべている表情は、理解できないものに対する恐怖だけではなく、それが今受けている仕打ちを当然のものとして受け止め、その姿に溜飲を下げている嘲笑と侮蔑の色。その事実に、当時の村人達はおそらく気付いていない。村に害をなすものを打倒したという程度の認識しか持っておらず、意識しないまま心が悪意に塗りつぶされていることにも気付いていない。

 それは自衛の行動であると同時に、人間の持つ最も醜い面の一つでもある。人の心は虚ろいやすくほんのわずかな切っ掛けでも揺れ動くもろいものだ。

 詳しい状況はわからないけれど、村の人間のなかに魔女に襲われている者がいたのだろう。そして、火刑にされている少女が魔法少女の力を使ってそれを撃退した。けれどどういった経緯かは不明ながらその事を村の者に知られ、魔女と思われてしまった。

 おそらくはそんなものなのだろう。何も知らない、冷静に物事を見ることができない状況の人間の目から見れば、魔女も魔法少女もたいした違いがあるようには見えないだろうから。事実、使う力の性質が真逆なだけで基を同一とする存在である事は事実であるのだし、その認識は間違ってもいないのだろうけれど。

 そうしているうちに少女の青いソウルジェムは臨界を迎え、形を変えながらもう一つのグリーフシードと共に闇を吐き出す。わたしはそれを酷く冷静なまま見つめていた。見ていることだけしかできない、動画のようなものでしかないと考えていた事が大きいけれど、そんな自分自身に驚いてもいた。

 噴き出した闇が形をとり始める前から、上空には暗雲が生まれて突風が吹き始める。それは焼かれてる少女がいる場所を中心に流れるように渦を巻き、生まれた暴風は周囲にあるもの全てを薙ぎ払う。異常に気付いて逃げ出した村人達も、周囲にある家屋や生い茂る木々など、ありとあらゆるものを蹂躙して破壊する。少女のいた場所から噴き出した闇は暴風の動きに合わせるように膨れ上がり、ゆっくりとあるものの姿を形作ってゆく。

 巨大な歯車と、そこから吊り下がるような形の青いドレスを纏った出来の悪いヒトガタ。その顔には目も鼻も無く、歪に描かれた口だけがある。

 それはわたしが知る姿と比べてかなり小さなものではあったけれど、間違いなく同じもの。かつて魔法少女だった者達の残滓たる影を道化の使い魔として従えながらも、自らが道化だと気付かぬままに踊り続ける逆しまの魔女。

 目の前の光景に驚き、呆然と立ち尽くす中、笑い声がこだまする。自分自身をも含めた全てを嘲笑うかのような狂笑の声。それを最後に、わたしの意識は唐突に闇の中へと閉ざされていた。

 

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

 

 ぼんやりとした意識の中、闇が晴れ思考が覚醒する。

 

「……ん……! あ……さ……!」

 

 まだ完全は目が覚めていないせいか、わたしに呼びかける声が聞こえるものの、その内容までは聞き取れない。この声は、巴マミだろうか?佐倉杏子以外には彼女しか無事な人間はいなかったのだから間違いはないはずだけれど、その声にはどこか必死な響きがある。命に関わるような怪我をしたわけでもないのだから、そこまで悲壮な声を出さなくてもいいのではないかと疑問に思うほどだ。

 

「ん……っ……」

 

 いつまでも倒れたままでいるわけにもいかないので、今気がついたかのように振舞って身体を起こす。実際には少し前に気がついていていたけれど、意識がはっきりしていない部分もあったのでこれでも間違ってはいないはず。

 

「よかった、気がついたのね」

 

 泣きそうな表情で巴マミが問いかけてくるけれど、今はそれを気にしている場合ではない。

 

「……まどかは?」

 

 わたしの問いかけにつられるように巴マミが視線を向けた先を見れば、まどかが目に涙を溢れさせながら呆然とへたり込んでいた。声も無く、涙を拭う事さえもしないその様子は、悲しみの折り合いをつけられずに身動きの取れなくなっている人間の様子そのものだ。わたしが意識を失う前の様子を考えても、同じように酷い光景を見ることになっていたのかもしれない。その内容が同じものではない可能性もあるけれど……

 

「ほむら……ちゃん……?」

 

 わたしの問いかけの声が聞こえたのか、恐る恐るという雰囲気でわたしの名前を呼びながらまどかがこちらに視線を向けてきた。その問いかけに応えるように小さく首を傾げて見せると、突然彼女はわたしに抱きついてくる。

 

「え……ちょ……!?」

 

 しがみついてわたしの名前を何度も呼びながら泣きじゃくるまどかは、幼い子供がはぐれた親とようやく出会えた時のような雰囲気を漂わせていた。でも、これほど取り乱すなんてただ事ではない、と思う。期間は短いかもしれないけれど、曲がりなりにも魔法少女として魔獣や魔女と戦い抜いてきた経験があるはずなのだから、よほどの事が無い限りここまで心乱すことは考えにくい。

 可能性があるとすれば、正体不明のグリーフシードの集合体に近づいたときに起きた、あの発作のようなもの。あの時のまどかは実際に見えているはずの景色とは違う何かを見ている様子だった。だからこそわたしと同じように何か見たのかもしれないと思ったけれど、この様子だととても聞きにくい。

 結局、まどかが平静を問い戻したのは十分ほどたってからのことで、巴マミが一度なだめながら声をかけようとしたけれど、泣きじゃくっているまどかの様子にやはりためらってしまったのか、困り顔をしながらわたしに視線だけで謝ってきた。

 

「……まどか…………」

「ほむらちゃん……生きてるよね? ……ここにいる……よね……?」

 

 目を真っ赤に泣き腫らして愚図りながらわたしの問いかけに答えるまどかの様子は、本当に小さな子供のようで、酷く弱弱しく見える。一体何を見ればこうまで取り乱したりするのか気になるけれど、焦って聞いてはまたまどかの心を乱すことになってしまうかもしれない。じれったいけれど少しずつ聞き出していくのが一番だと判断する。

 

「大丈夫。わたしは生きてるし、ここにいる。まどかが何を見たのかわたしにはわからないけれど、なにもないから安心して」

 

 まどかが何を見たのかはわからないけれど、わたしと同様にろくなものじゃない可能性が高い。目を合わせたときの反応からして、わたしが死ぬ場面でも見たのだろう。どういう経緯を経た場面なのかはわからなくても、それが相当に心を抉るものであった事は想像に難くない。

 わたしがそこにいることを確かめるかのように腕や背中に手を這わせるまどかをそのままに、わたしは自身が見た光景を思い返していた。いつの時代かまではわからないけれど、おそらくは数百年前。ヨーロッパ辺りでのことなのだろう。そして、最後に見たあの姿。大きさこそ全く違ってはいたけれど、青いドレスと歯車の姿は間違いなくワルプルギスの夜のもの。あれはおそらく、ワルプルギスの夜が生まれたその時のものなのだろう。

 そこまで考えて、一つの疑問が頭をよぎる。それは、なぜわたしなのだろうかということ。魔法少女に対して反応したのであれば、対象はまどかと巴マミ、それに佐倉杏子の三人であったはず。けれど実際に影響と思われるものを受けたのはまどかとわたしの二人だった。それに、わたしが見た映像の中に出てきたグリーフシードはこの時間軸世界のものではなく、わたしがここにくる前の時間軸世界のもの。なにか理由がありそうだけれど、それを推測できるほどの情報は何も無い。ただ、わたしがここにくる前の時間軸世界と何か関連がありそうだという、それだけのことしかわからない。

 

「鹿目さん、暁美さん、一体何があったの? 一体何を見たの? 話せる範囲でいいから教えてくれないかしら」

 

 巴マミ自身は何も見ていないようで、わたし達に何を見たのか聞いてきた。まどかの様子を気にかけたのか、全て話すように言って来ないあたりが彼女の性格を現している。わたし自身は話すことに抵抗は無いけれど、まどかは大丈夫だろうか。無理に話をさせてまた泣かれては後味が悪いし、きちんと話が出来ないようであれば意味が無い。それに、わたしの見たものはそのまま話すわけにはいかない内容も混じっている。もしそのまま話そうとすれば、わたしの抱える事情も全て話さなければならないだろう。他にも、どこまで信じてもらえるかわからないという問題も残っている。

 

「……不安そうね。話すべきなのか、それとも信じてもらえるか疑問に思っているのかはわからないけど、今はどんなものであれ情報が必要よ。内容がどんなに荒唐無稽でも構わない、話してもらわないと進めないわ」

 

 どこか言い聞かせるような口調で巴マミが話しかけてくる。それにしても、考えている事を表情に出してしまっていたのだろうか。でなければ不安そうなどという言葉が出てくるはずが無い。以前のわたしであれば考えられないけれど、今はこれはこれで悪くないのかもしれないなどと考えている自分がいることも自覚している。

 

「今のところは何もなさそうだし、話を続けるならファミレスにでもいかないか? こんなところじゃ落ち着いて話もできないだろ」

 

 佐倉杏子が移動を提案してくる。確かに彼女の言うとおり、暗くなり始めた公園で目の前に危ういものがある状態では話に集中できないというのは事実だと思う。けれど、それで移動先に食事をする場所を出すあたりは彼女らしいと言うべきなのだろう。でも……

 

「場所を移動するのは賛成だけれど、あなたが食事したいだけなんでしょ? 移動先がファミレスである必要はないものね」

 

 苦笑しながら巴マミが佐倉杏子に話しかける。不貞腐れたようなぶすっとした表情で「……悪いかよ」と呟くと、佐倉杏子は視線をそらしてしまった。口調こそ乱暴だけれど、顔が僅かに赤くなっているあたり、照れているのだろうか。世話好きなくせにそれを素直に表に出せない彼女らしい反応ではあるけれど。

 

「暁美ほむら」

 

 唐突に聞こえたインキュベーターからの呼びかけに、わたしは肩を震わせて驚いてしまった。目の前のどこかほのぼのとした雰囲気を醸し出していた光景に気が緩んでしまっていたらしい。あわてて声の聞こえて来た方向に目を向けてみれば、そこにはインキュベーターがわたしをまっすぐに見つめている。

 

「……キュゥべえ?」

 

 まどかが驚いたように彼に問いかける。それだけではなく、巴マミも佐倉杏子も同様にインキュベーターに視線を向けていた。

 表情がほとんど変化しない事も、口調が淡々としてる事も今までと変わらない。けれど、その様子というか、纏っている雰囲気が今までとは違っている。酷く重要な話をしようとする時の息がつまるような空気、というのが一番近いかもしれない。酷く似合わない光景に、わたしがめまいがするような気さえしていた。

 

「君やまどかが見たものと同じかはわからないけれど、僕にも少しだけ見えたものがあった。だから、君に聞きたい」

「わたしに……?」

 

 話の流れがよくわからない。インキュベーターにも何かが見えたということはわかる。けれど、そこから何故わたしに話を聞きたいということにつながるのだろう。

 心当たりが全く無かったわけじゃない。けれどこの時のわたしは無意識にその事を考えないように頭の中から排除していた。あって欲しくない、考えたくない可能性だったから。

 

「そう。僕たちが知らない、けれど君だけが知っていて隠している、すべての事を」

 

 その言葉を聞いた瞬間、わたしは頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた気がした。誰にも話していないはずの、わたしだけが知っている事。今まで一度もインキュベーターの前では言葉に出した事は無い。それを、何故知っているのだろう。

 勝手に思考を読まれた可能性は考えられない。彼らは自分の思考情報を相手に強制的に送りつける事は出来ても、伝える意思の無い思考を勝手に読む能力は有していないのだから。それは何度も繰り返してきた時間の中で確認しているし、もしそんな能力があるのなら、繰り返しの最初に接触した瞬間にわたしの事を全て把握されてしまっていただろう。

「暁美ほむらであって暁美ほむらではない君が知る、見滝原でありながら見滝原ではない場所の情報。推測でしかないけれど、鍵はそこにある」

 その言葉と共に、一斉に向けられる全員の視線。戸惑いと疑惑の込められたそれに、わたしはこれ以上隠すのは無理だと判断した。

 そうして、わたしは全てを語った。かつて繰り返した時の中で経験した事の顛末を

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