深い森の中に取り残されたように不安だった。けれど、周囲は暗幕が張られた小部屋のように狭く、光もない。
ここがどこなのか理解しようと記憶を巡らせてみようとするが、暗闇が脳味噌ごと思考を奪う。
「おい、ガキはいいのかよ」
「ふん、放っておけば良いのさ。金持ちだと思ってた男の忘れ物なんて、アタシが世話する義理なんてないよ」
「ああ、前に言っていた奴か。五年半振りに来てみれば、子供がいるなんて思いもしなかったから、少し驚いたよ」
「そうさ、オマケにあの人種の血が流れていたなんてね!貧乏籤を引くほうがよっぽどマシだよ!」
彼は深く耳を塞いだ。
なにも、なにも考えられない。心と身体を切り離すことなど、暗晦とした空間では不可能だと悟った。音もなく、視界もなく、残されたのは感覚と声のみ、そう理解した直後、胸の奥から噴き出してきたのは、どす黒い憎しみの感情だった。
その瞬間、決意する。そうしてみると、気持ちが軽くなり、豁然として目の前が開がる。
ああ、なんだ、そうだ。そうなのだ。なにをしていたのだろう。ここまで苦しむ必要などありはしなかったんじゃないか。
彼が左手を暗黒に伸ばせば、肘が曲がった状態であるにも関わらず、掌になにかがぶつかった。
冷たくはなく、熱くもない。彼は、ただ漫然と掌をつけたまま左腕で押す。すると、僅かな光が射し込んできた。
彼は、作られた隙間に、そっ、と目を押し当てる。聞こえてきたのは、激しくベッドが軋む音。見えたのは、腰まで伸びた長い髪を持つ女性の背中が上下に揺れている様子、更に視線を下げれば、女性の股から、ベッドに沿ってまっすぐに延びた二本の足がある。
彼は、二人が何をしているのか理解はできなかった。しかし、間違いないことが一つある。この行為に耽っている時間、二人は別の世界に行っている。
「お母さん……?」
彼の呟きは、スプリングが鳴らす音に吸い込まれた。
情熱を互いにぶつけ合う二人とは対照的に、彼の心は酷く冷えきってしまう。隙間に指を差し込み、すっーー、と扉を開いていくが、二人が気付く気配はない。
やがて、クローゼットのドアが完全に開ききると、ようやく女性が振り返り、彼の姿を確認した途端、烈火の如く怒鳴り始める。だが、彼の目には、股の分泌液を垂れ流し、裸のまま怒りをぶつける母親のことがとても滑稽に映った。
何故だろう、あれほど恐ろしかった母が、どうしてこんなにも……
次の瞬間、彼の眼界は鮮やかな朱色に埋められ、鼻腔は刺すような錆の匂いに包まれた。
クローゼットの中に隠していたハサミを意識の外で右手に持っていた彼は、一度だけ感触を確かめるように握った後、背後から近付き、自身の血を吸わせた刃を、女性の白い喉仏に添えた。
吹き出す血液を両手で抑える母親を見上げる。
だらしなく垂らされたベロ、一杯に開かれた双眸、それらからは様々な感情が読み取れる。
恐怖、狼狽、殺意、怒り、嘆き、悲哀、それら全てが一つとなって彼に降り注ぐ。
「なんだ……やっぱりそうだ……」
男の悲鳴が響くよりも早く、母親の喉から引き抜いた鋏を、今度は男の喉へ倒れるように突き刺した。両手をバタつかせ、どうにか逃げようとしているみたいだが、力を失った女体のせいで、両足を動かせていない。やがて、浅い呼吸すらも聞こえなくなった頃、口から大量の血と泡を吐き出し絶命した。
無感動だった。心になにも訪れなかった。ただそこに、温かい人形があるだけだった。
彼は、返り血をそのままに部屋を出ると、夜の街へと姿を消した。
1878年、五歳を迎えた誕生日、彼は本当の母親を探すことを決意した。
どうしても書きたくて……他を無視して書き始めてまして……