男は悦に入った様子で微笑み、少年に拳銃を突きつけている部下へ顎をあげた。
「おい、このガキを連れて帰るぞ。そうだな、まずは、バスに湯を入れて洗う準備だ。どうにも、この混ざった臭いは、室内で耐えられそうにないからな」
「し、しかし……この子供を連れて帰れば、もしもの場合、目を付けられることになるかもしれません……それは、都合が……」
部下の反駁を男は冷たい眼光だけで諌める。まるで、鏡のように温度を感じさせない瞳は、少年すらをも怯えさせた。
男の紅い唇が割れる。
「クソガキ、お前、名前は?」
「名前は……あの……」
「なんだ、ないのかよ」
少年は首を振る。
「あるんだけど、呼ばれてたのがずっと前で……僕……」
母親だと信じていた女性からの仕打ちを思い出さない為にも、一種の記憶の混濁が起き始めているのだろう。心から忘れたい過去は、切り離せば楽になれるかもしれない。
少年は、無意識の内に、自身を守る手段として、心と身体を別々にしている。男にとっては実に好都合だ。
「なんだそれ、自分の名前すら忘れるなんざ有り得ないだろ、お前、マジで面倒な奴だな?なら、まず呼び名を決めなきゃいけねえけど、それは後回しだ、行くぞ」
踵を返した男と少年の背中が夜の闇に溶けるように消えていく。
少年はこの日から、残酷さと生きること、それが全く同じであると学んでいくこととなる。
※※※ ※※※
自身のデスクに広げられた書類を前に、ハリーは深い溜め息をついた。
目元に隈が目立ち明らかに寝不足気味、そんなときに、数百の字面と向き合うなど正気の沙汰ではない、そんな愚痴をこぼしつつ、カップの取っ手に指を差し込んで、紅茶を一口啜り、甘い香りが鼻を抜けていこうとしたタイミングで真向かいのデスクから、盛大な溜め息をつき返された。
「これで何度目だ……良いか、寝不足ってのは便利な言い訳でもなんでもなく、ただの怠惰なんだ。そもそも、お前は……」
「普段からだらしないんだから、朝くらいはキチンとするよう心懸けろ、それだけで気分は変わるもんだ、ですか?何度も何度も、同じことを口にして、よく飽きませんよね。そこは、尊敬すべき点だと思います」
「その朝から良く回る舌を引き抜かれたくなければ、黙って仕事に取りかかれ」
ジョージの不機嫌な重い声も意に介さず、ハリーは欠伸をしてから椅子に凭れて、書類の一枚を手に取った。
「代わり映えのしない書類に、代わり映えのしない景色、今日も長い一日になりそうだ……」