小首を傾げたハリーに、ジョージは心の底から昇ってくる感情に突き動かされそうな衝動に駆られてしまうが、奥歯を締めて乱暴に解放すると、ハリーは落ち着いた動作で襟を正し始める。
「まあ、アンタがなにを言わんとしているかは分かってますよ。けど、僕は彼に教えたかっただけなんですよ」
苛立たしさから煙草を取り出したジョージは、吸い口を噛み潰しそうなほど力を加えている口をどうにか自制して返した。
「なにをだ」
ハリーが右手の人差し指を、ぴん、と空に伸ばす。
「この世界、時代、立場、親子、すべてに於いて、強いほうがなにかを決めるということはないってことをです。強い立場の人間になればなるほど、そういった当たり前を忘れてしまう。親は、子供を産む権利はあるが、子供は産み出される権利なんてものを持ち合わせていない、そういうことを伝えたかっただけなんですよ」
途中で止められましたけど、と付け加えたハリーの言葉に、ジョージは心底口を塞いで良かったと思った。
この男は、やはり、ズレている。
いまや、世界産業のトップに立つ国の片田舎で、そんな事を言ってしまえば、周囲から向けられる視線は冷たいものになるだろう。蒸気で走る機関、それを繋ぐ鉄道網、工場の拡大、資本主義を確立させたのは、強い立場の人間であり、それを皮肉として語るなど言語道断だ。
だが、本質から外れたハリーに惹かれる者は多く、ある種のカリスマ性を持ち合わせているのも確かなのだろう。
全くもって、厄介な男だとジョージが再び深い吐息をつく。
「お前の考えは分かるが、あまり外で言うことではないぞ」
「もっと、広く視野を持って頂ければ、わざわざ口にすることもないですがね」
「あーー、はいはい、分かった分かった、お前と話してると腹が減って仕方がないから、俺はどこかで食事にする」
ハリーがわざとらしく腹を擦る。
「良いですね。僕もまだ何も食べてないんですよ。紅茶にパン……あ、そこの路地を抜けた先に、フィッシュアンドチップスの屋台がありますよ。もうそろそろ、工場勤務の人達が起きてくる時間ですし、そちらでも良いかもしれませんね。そうそう、久しぶりにベーコンやチーズなんかも有りだとは思いませんか?もちろん、紅茶には砂糖たっぷりですからね?」
途端に口数と舌の滑りが良くなったハリーに、ジョージが別の意味で息を吐き出して言った。
「奢らない、いや、そんなことよりも、お前と食事の席に着くつもりはないからな。静かに食べたいんだ」
「イギリス人の悪い所ですよ。ハエの羽音さえ聞こえる、なんてジョークもあるんですから」
「文句ならフランスに言ってくれ」
路地へと向かって歩き出した二人の背後で、霧が風に流される。
結局、ホワイトチャペル地区ということで未解決となったこの事件が、後の世に語り継がれる一大事件への引き金となることは、まだ誰も知らない。