「おい、起きろよ。エリ起きろ、倒してきたぞ」
自分のリュックを枕に眠っている少女はさっきつけられた傷ましい傷もあるし、あまりに深く安寧秩序の象徴みたいな安らかな顔で寝ていたので起こすのも悪いと思われたが、次に追っ手に来られては流石に自分とエリ二人、命の保証は全くと言ってもいいほどにないと思われたので肩を揺らし無理に起こした。
「ん……りんー?」
と口にして、寝ぼけた目で鈴を一瞥すると危機感のひとつも無く大きく欠伸をして起きると背伸び運動なんかをしている。なんか、らしくない。
「おはよう〜」
ボケ〜とした顔をしてそう言うと鈴の肩口にのしかかってきた。どこかの動物の愛情表現のようだなとか思う、が何よりも━━━━
「……なんだ随分なキャラ変じゃねえか、何の意図だ?」
温和な空気に呑まれそうになっていたが疑問を発露する。〜〜理論だの、〜〜的だのと理路整然とした口振りで難しげな固有名詞を並べていた彼女のキャラはどこに行ったのだ、と。
「キャラへん?キャラへんってなーに?」
至極自然に怪訝そうな顔をする、その顔はさっきまでの見た目に似合わぬ理性的な面を欠いたそれとは対照的で、年相応と言おうか身長は一二〇センチほど、歳にして六、七歳くらいの女の子ともはや服の役割を果たしていない布切れに包まれていることさえ除けば区別がつかないだろう。
「あくまでとぼけやがるつもりか……」
鈴は頭を掻いて深く嘆息する。が、頭にひとつの思考が過ぎり真面目な顔色になる。
「ストレスや恐怖に耐え切れずに幼児退行……なんてこともあるのか?悪魔でも……?だとしたらますますヤバいんだが……交番に届けて、ハイおしまいじゃねーんだぞッ」
「悪魔の精神様式はいつの時代も人間のそれを追う形となっておりますが故にそのケースもありますが。この子の場合は違います」
鈴は真後ろからかけられた全く聞き覚えのない声音に反応し反射的に後ろに振り返り身構える。また教会の追っ手か?
「誰だッ」
「構える必要はありません、と言っても信じてはもらえませんね。自己紹介をしましょう私は大悪魔(グレイトフル・シン)が一角『クツール・A(エア)・アパクルフォンエアテリ』と申します、忍びながらお見知り置きを頂きたくあります。」
緊張感に身を強ばらせながらも対象を観察する。紺色の燕尾服とどこのブランドか随分と先鋭的というかファンタジー性を感じる革靴に身を包んだ紳士でオールバックに整えられた白髪、肌の色は人間にしては少々白すぎる、哀毀骨立に痩せ細ったくらい病的に細い体、そして銀縁の丸眼鏡の奥に窪み深い影を落としている目元からはそれらの紳士的なイメージを一瞬にして覆すほど狂気的なまでにギラギラした金色の虹彩。金色の中でこちらを写して離さない瞳孔は爬虫類を想起させるような縦長のものになっていて、生理的に悪寒を覚える。
「大悪魔……?てめえはエリと同じ存在?なのか?」
身構えたまま鈴は要領を得ないという顔をする。
「はい、私とエリピン・S(サイファー)・ミドルネヴマフォンエウレデケーフィディーは一から説明をすると骨が折れるので端的に言いますと同僚のような関係にあります。私達大悪魔は悪魔を統べる『悪魔王 熾天使(ルシファー)』様に仕え、守護する重要な役回りの悪魔であります。」
「よく分かんねえしどうでもいいけど、どうして俺達に害意がないと言い切れるだけの理由がある。コイツは悪魔に追われてたんだぞ、同じ悪魔だからって……」
鈴はふと右脚に体温を感じて見るとエリが不安げな顔色を浮かべて自分の右脚にしがみついていた。コイツを知らないか、また警戒するだけの理由がある間柄なのか。それだけでこの男を疑うには充分すぎる。
「貴方達に危害を加える理由がない論拠としましては、私には危害を加える以外に理由があってここに参上していることにあります。私は葛上
鈴、貴方に報告義務に則って貴方が「そこにいる大悪魔の近衛(このえ)となったこと」を伝えに来たのです。失礼、ボディーガードという呼び方の方が親しみがありましたかね?」
「近衛……?ボディーガード……?なんのことだ?俺はそんなのになった覚えはねえけど」
日常動作の中のごく自然な怪訝そうな顔を大悪魔クツールと名乗る男に向ける。
「貴方の意思は関係ありません。エリピンが貴方がエリと呼ぶその少女が貴方を近衛に選んだのです。拒否する術はありません、もうお気付きのことでしょう。その尋常じゃない回復能力、人間離れした膂力、既に貴方は人間の枠外の存在となっているのです、それらは死ぬまで貴方に付いて回ります。もっとも、その類を見ない回復能力の高さでは死ぬことも満足にできないでしょうが」
「あんたの言うことは信用できねえけど、頷けるところもあったんで聞いておくがいいか?」
震えるエリを手の動作でで後ろに誘導しクツールとの間を詰める。
「どうぞどうぞ、それも私の義務ですから」
クツールは手を水平にやると口角を歪めてニヤリと笑う形になる、信用ならない奴だ。
「まず一つ目だ、単刀直入に言うと近衛ってのはなんなんだ?拒否する術がないとは?二つ目、この人を凌駕した身体能力の原理はなんだ?心臓があった部分をごっそりと抉り取られた俺は死んでたはずだぜ、まるで悪魔みたいじゃねーかよ、そして最後におめーは「類を見ない回復能力の高さ」と言ったが、近衛ってのは交代制か何かなのか?他にも俺のようになった人間がいるのか?」
駆け足になりながらも聞きたいことは言葉にできた。男は楽しそうに薄く笑い、肩を揺らすと中指で光を反射し白く耀く丸眼鏡の山を押して位置を調整する。
「単刀直入に言いますと近衛というのは彼女を指します契約者より悪魔の力を譲受された人間のことを指します、否定する術がないというのは契約主の死がイコール貴方の死と繋がるからです。二つ目、人間を超越したその身体能力は先程も述べました通り契約者より絶えず流動される大地のエレメンツのエネルギーの賜物であります。貴方の仰る通りに貴方は心臓を破壊され“確かに一度死んでいます“。それでも生きていられるのは契約主から今もなお送られ続けている大悪魔の凄まじい生命エネルギーによって既に死んだその体を動かされているからなのです。」
流れるように常識の埒外にある情報、受け入れるのに難儀する自分の現実が述べられていく。それに対してどんな顔をすればいいのだろうか、絶望するでも諦めるでもなく、今はただ真面目な顔でクツールの次の言葉を待っていた。
「最後の質問ですが、今までも彼女の近衛となった者はいますがその全てが私を含む大悪魔の役目でした。人間では彼女から流動される絶大なエレメンツを御し得ないのと、彼女が心を開かないためです。つまり貴方は前例を見ない人間初の近衛となったのです、祝福しましょう。それにしてももっと動揺すると思ったのですが、流石はエリピンが見込んだだけありますな。既に近衛としての貫禄がヒシヒシと伝わってきますよ」
質問に答え終わるとクツールは眼鏡の山を中指で押して位置を調整すると鈴の右脚から顔の片側だけを出して警戒心を剥き出しに自分を見ているエリに視線を向けると「ヒヒ」と笑う。
エリはそれが怖かったのか目尻に涙を貯めて嗚咽を漏らしているので頭を撫でてやる。さっきまでのエリだったら「自然な流れでボディータッチしようっていうの?気持ち悪いロリコンね!」とか言って手を叩いてきそうなものなので少し寂しくあった。
「まあ、俺は死ぬ覚悟でアイツに挑んだんだ。今更後悔しようとも思わないし、コイツを責めようとも思わない、それだったら最初から助けてねーよ。それと忘れてたがよ“エリが記憶を失った理由は精神的ショックとは別にある“って言ってたがそれはなんだ?」
そう言った次の瞬間、クツールから圧力のような物が感じられるようになる。都合の悪いことを聞いてしまったか?と不安になると反射的に身構えていた。右脚にかかる力も一層強くなる。
しかしクツールは真っ直ぐに結んでいた口を開くと「ヒヒ」と高らかに笑い、述べた。
「それに関しては“予めセッティングされていた術式が彼女の記憶能力に作用した“としか言えません。私達には私達の都合があります故にご了承頂きたい。それと記憶喪失と言いましても彼女が失った記憶は経験記憶という経験に基づいた体験の記憶と一部の知識だけで、自分がどういった人生を送ってきなのかこそ知らねども知識記憶として大悪魔やそれに類する知識の記憶は覚えています。そして術式発動間近の記憶も覚えています。理由は分からないが鬼に追われていてそれを貴方に助けられたこと。またしてもやってきた唯神教に襲われ酷い目に遭ったこと。そして貴方が自分をまたしても助けてくれたこと〜〜くらいですかね?まあ詳しいところは彼女から聞いてください。私も忙しいのでね、それでは」
クツールは背中を折り曲げ深くお辞儀をすると「では」と言い180°回転する。奴がどこから現れどこに帰っていくのかは知らないが、鈴には聞いておかなければならないことがまだあった。
「オイ、待てよ。てめぇは仲間のエリ傷ましく虐げられるのを何もせずに傍観してたってのか?コイツが俺に会うまでにどんな人生を送ってきたのかも全部忘れたままでいいってのか?一緒に生きてきたコイツに対して哀れむことがなかったのかよ?」
鈴は何をされるとも分からない得体の知れない存在に対して怒りを露にする。エリはどうしたらいいのか分からないのだろう二人の間でしどろもどろしている。
クツールは首だけこちらに傾けると怪訝そうな顔をしてから浅く笑い、言った。
「それが彼女の為であり、私達の掲げる目標に必要なものですから、それでは。簡単に死なないように願っていますよ。唯神教や一部の悪魔は彼女をよく思っていない、近いうちにまた衝突があるでしょう、それに私も次に会うときは貴方に牙を剥くことになるかもしれませんし悪魔を殺せる貴方が相手となってはその時の私も手を抜くことはしないでしょう、未来が不確定である以上はその線も否定しきれません。我々の世界も最近、騒がしいですしね。それではご達者で。葛上 鈴、貴方という不確定要素がこの世界をどう変えていくのか楽しみにしていますよ」
言い終えて、クツールは右腕を天に向けると中指で親指を弾きパチンと音を鳴らす。
次の瞬間、真っ白なこの世界からクツールの姿はどこにもいない、完全に消えていた。
彼の言っていた言葉が頭を反芻する。
『それに私も次に会うときは貴方に牙を剥くことになるかもしれませんし悪魔を殺せる貴方が相手となってはその時の私も手を抜くことはしないでしょう、未来が不確定である以上はその線も否定しきれません。』
あんな未知数の相手を前に自分はどう戦えばいいのだろうか、いくら考えても何も浮かばない。
考えても答えが出ないしそれが対策にもならないのなら考えるだけ無駄というものだ、今は目の前の問題に頭を向けよう。マスター、エリを連れて帰ったらなんて言うだろうな。
「……帰るか」
後ろでクツールが発した圧に気圧され未だにプルプルと震えていたエリを正面から抱きかかえると無責任にもとりとめのない言葉をかける。
「大丈夫、アイツが襲ってきても俺がぶっ飛ばしてやっからよ。」
しばらく呆気に取られた顔をしていたがエリの目尻に涙が溜まる。
「……うん!」
こうして葛上 鈴の灰色の日常に一輪の蓮の花、希望が添えられたのだった。
第一章、完。