致命傷を負い、エリの命を手玉に取られた怒りに燃えながらも鈴は極めて冷静に悪魔の使う魔術の性質やそれによって可能なこと、そして彼女を取り戻す方法について考えていた。理性を欠くのは命の奪い合いにおいて最も避けるべきことだと理解していたからだ、しかし燃え上がる怒りと拭いきれない不安の念は確かに心の中にあった。
「あのガキはまだ死んでねえ。あのガキの言う通りに俺の魔術は「抑留魔術」この予め魔術的記号を書き込んである紙切れに槍だろうが猫だろうが封じ込めることができる。」
悪魔は呪詛を吐くでもなくこちらを睥睨し続けている鈴を嘲笑うかの如く、親指と人差し指でメモ用紙くらいのサイズの紙切れを摘むと人質の首に刃物を這わせて遊ぶようにしてユラユラと揺らした。それ以外に、悪魔はわざとらしく口角を上げているように見えた。何か隠している意図があるのでは?と鈴は思った。
先程の黒猫も自分の蹴りによって死亡した。だからエリが生きているのは妥当な線だろう。しかしエリが生きているをチラつかせる意図、その先にある目的地とは何なのか、いつどこからまた自分を死に至らしめる何かが放たれるかも分からない緊迫した空気の中であっても鈴は冷静に思考をしていた。
刹那、雲間から差し込む帯状の光のように鈴の頭に一つの論理的な可能性が過ぎった。
『悪魔は俺を危険視している、ならば俺のように冷静に確実に殺す方法を考えていると考えるのが妥当なとこだろう。つまりエリの生存を仄めかす行為はミスリードを除けば暗に「人質」というジョーカーのカードを持っていることをこちらに提示しているのではなかろうか。』
そしてその推論を前提に対策を頭の中で練る。
『紙切れが切り刻まれたり、焼かれたりした場合、中に閉じ込められているエリはどうなるのだろうか、まさかそのまま飛び出てくるということはないだろう。最悪を想定して、紙切れの紛失はエリの死を意味すると、エリの命は奴の手中にあると考えて行動しよう。いや、もっと確実な方法がある』
「黒猫やガキだけじゃあねえんだ、俺が紙の中に閉じ込められるのはよ〜。こんなこともできる……」
悪魔はエリの封入されているものと思われる紙切れを傍にあったタンスの上に置くとセロハンテープで貼り付け、固定する。
と、どこに忍び持っていたのかざっと見て数十はありそうな複数枚のメモ用紙をばら撒く、その全てに五芒星を中心に魔法陣が描かれているのを確認した。その全てが無造作に地面に落ちる。また槍のような攻撃手段を全方向から射出して自分を串刺しにしようという魂胆だろうか。剣に腕を断たれようが、槍に胸を貫かれようが自分はエリを助ける、何が出てこようが関係はない、ただ攻防の中であの紙から彼女を出す術を見つけ出す、それだけが頭の中にあった。僅かな隙にも少しでも距離を詰めんと初めの一歩を駆け出す。
「カード、オープン━━━━T031」
貼り付けたようなニヤケ面をして悪魔はそう口にする、と━━━━
鈴の右斜め前にはいつの間にか「眼球のない肌色のワニのような巨大な頭部を持つ人型の怪物」が立ってていた。その両手には黄色を基調としたアメリカの家に置いてありそうなチェーンソーが握られ、軌道の先には━━━━鈴の首。
「な━━━━」
驚愕と恐怖が混在するが頭は冷静に判断していた、このまま突っ走る。
鈴の首を仕留め損なったチェーンソーはそのまま振り下ろされ背中を抉った、猛烈な熱を伴って意識を失わんばかりの痛みが襲いかかってくるが駆けた勢いを殺さず、拳を形作った右手を怪物の腹部に叩き込む。瞬間的に繰り出したものだったので致命的な威力にはなっていなかった様子。大きな口を開けて喚声を上げているが倒れる様子はない、そのまま後ろに回り込むと丹田に力を込め左脚で地面を踏み込み、回し蹴りを放つとすぐに向き直して駆ける、と遅れて後ろでバタンと巨体の倒れる音がする。
「ッ!……カード、オープン━━━━Fs(ファースト)105!Sv(セブ)145!」
淡々と読み上げられる番号が忌々しく耳に響く。しかし、悪魔も必死な様子である。なにしろ人間が悪魔を殺しているのだ、唯神教の面々の反応を見るに悪魔からしたらそれは驚愕以外の何物でもないことは明白だろう。こうして手札を出し続けるという冷静な判断ができるだけ、凄いのかもしれないと鈴は敵を改めて値踏みする。
鈴の眼前には「矢の先端には錆の見える旧い弓矢を持ち、赤黒い染みを部分的に作っている紙袋を被った漆黒の肌をした上裸の巨体」と「鈴の腰から地面ほどの長さの刀身を持つ西洋剣を二刀流に持った額から一本角の生えた馬の頭部を持つ成人男性程の体躯の人外」が立ち塞がっていた。
「ァ━━━━━━」
巨体の被っている紙袋から湿った音が聞こえる、手に構えられた弓矢をこちらに向けるが引き切る前に裏拳で破壊する、後ろに構えている少女を人質に取られないために仕留めようと左脚を踏み込むが、何かに躓くでもなく、押されるようにして姿勢を崩し膝から崩れ落ちる。
「━━━━━━ォ」
巨体が害虫の羽音のような生理的嫌悪を覚える声を漏らす。身体に自分の体を動かすほどの力が入らない、理屈は分からないがとてもではないが動けない。地面に倒れ伏す形になるや否や肩に熱した鉄棒でも差し込まれたような爆熱の痛苦。馬頭の人外が西洋剣を深々とまだ全治していない両肩の傷跡を蒸し返すように突き立てていた。
「ガッ!!」
剣が痛みを伴い無理矢理に引き抜かれると円運動を描き、その両の切先が天蓋に向けられる。追撃が来る、次は仕留めに来るだろう冷や汗が頬を伝う。
「ぐッ!!」
咄嗟の判断で詰襟の右ポケットに手を億劫げに入れ取り出した使い捨てのライターを地面に置くと肘で全力で叩きつけ容器を破壊する。微量のガスが薄いピンク色のカーペットが敷かれた地面を濡らすのを確認すると、金属製の高級ライターでそのオイルに点火する。と、微かな炎が巨体の足の爪先まで届く、その際に三枚のメモ用紙を焼いた。
「ォ━━━━━ぎにャあああああ」
予想していた通り、巨体の目的は元より弓矢で自分を射殺すことなんかじゃなかった。その唸り声はどのような理屈か対象から力を抜くことができるのだろう、予想していなかった熱に驚き悶える巨体は唸ることをやめてしまった。
両肩が激しく痛むが体を持ち上げることがでした。巨体は鈴が立ち上がっていることに気付くや肩を大きく揺らすと再び湿った音を立てて呻き声を上げんとしている。
が仕組みが分かった以上は同じ攻撃は喰らわない、前に転がり馬頭の剣戟を間一髪で避けるとその勢いを殺さずに脚をピンと伸ばしてかかと落としを喰らわせて巨体の頭部を破壊する。ゴシャアと鈍い音がして巨体は垂直に倒れ、地面に伏す形になった。
恐れをなしたか馬頭は後ろに退くと四股を踏み、肘を曲げ二本の剣を水平に改めて構え直し体勢を整え直す。振り向いた鈴は剣の間合いに入っていたが「音速の世界」に入門していた鈴にとってそれを全て避けるのは造作の無いことであった。
無駄が多く付入る隙が簡単に見つけられる。得意げに剣を構えていたが技術は素人のそれで型とはとてもではないが素人目に見ても呼べるものではなかった、切っ先の軌道を冷静に筋肉の動きや振りから予測し全て避けると、胸から腹にかけてガラ空きになるのを鈴は見逃さなかった。追撃が来るよりも早く腹と胸に全力の連打を叩き込み横の壁まで吹き飛ばすと甲高い喚声を上げてから首を垂らし息絶えた。
悪魔の元へ駆けんと改めて前を向き直した鈴に「燃え上がる炎のような形をして、暗色(ダーク)から明色(オレンジ)へのグラデーションがかかっている鬣をたなびかせながら成人男性程の体躯の一体のライオンのような化物」が掴みかからんとしていた。『コイツは奴の呪文のようなもので召喚されていないはずだ』鈴は危機的な状況にあっても冷静に起きたことを観察、判断していた。
ガルルと音を立てて頭から噛み砕かんと飛びかかってきていた化物の顔は鼻の先にあった、その体躯とネコ科を思わせる体つきにライオンを想起したがこうして改めて顔をよく見ると「溶解した人間の顔のようなものが何重にも連なって張り付けられていて、さながら陰気臭さを感じさせる日本の魑魅魍魎」のような姿である、肉の腐ったような酷い臭いの鼻息が鈴の鼻腔を突き刺す。
手で宙を舞う虫を掴み取る人間のようにして鈴の頭にかぶりつこうとしていた化物は鈴が刹那の間に眼前から姿を消したことに目を丸くし左右を見渡している、と腹部に激しい熱を感じると大量の喀血を地面に吹きこぼす。
化物の腹部に鈴の全身の力を集中した正面からの殴打が決まり、腹部に大きな凹みを作った。生死は定かではないが、白目を剥き血泡を吹き地面に倒れている様子ではしばらく再起不能であろう。
「なんで悪魔を殺せるのか知らんがよぉ〜〜こいつで終わりだぜ!カード、オープン━━━━Ds(デストロイ)85ッ!」
悪魔が汗をかきながら、自分の中では約束されているであろう勝利に顔は歪めている。
鈴と悪魔の間に挟まれる形で配置されていた一際大きな一枚のカードが激しく輝き出す━━━━
刹那、部屋中に禍々しい瘴気が立ち込める。空気は埃っぽくてカビ臭い臭いが立ち込めていて、それでいてそこにいる者に等しく強い不安感を与える。鈴と少女は胃を激しく掴まれるような不快感と確実に訪れるであろう恐怖へのを覚えた。
━━━━気付けば、鈴と悪魔に挟まれて五メートルほどのところにそれはいた。
つば広の真っ黒な帽子を被った全裸の男。闇をも飲み込むほどに暗黒なその肌色と腐食してまるで服を纏っているかのように見える欠けている体の節々から一瞬、全裸ではなくピッタリとしたサイズのドレスコードを着ているように見えた。
鈴はその男を直感的に「ヤバい」と確信した、玉の汗が額に浮かぶ。彼を構成している全てから何か不吉なイメージが感じ取れる。
「コイツは「腐食」の属性を持つ「サノス」という悪魔でなァ……組織でもNO.3なんだがよォ〜〜理性もないし、あまりにも危険なんで普段は俺が封印してんのよ、このカードを出すってことはリスクを負ってまで確実にお前を殺すっていう意思表示だぜ……」
と哀毀骨立とした顔付きで言った悪魔は次の瞬間に勢いよく喀血を吐く。蓄積されていたダメージが今になって器官に致命傷を及ぼしたということではなかろう、おそらくこの新しく召喚された腐食の悪魔が世界を侵食している影響だろう。
あの鬼の作った「胡蝶の世界」を抜け出た後に家でエリから聞いた何気ないと思われた言葉を反芻する。
『中位以上の悪魔は自分の世界を創ることができるっていうのは言ったよね、ただ気を付けてほしいのが「属性」を持つ悪魔は「性質」を世界に表すことができるということ。例えば「獄炎」を属性に持つ悪魔が世界を創ったんだったら人の身では消すことができない地獄にしかない炎を条件の下でだけど実際にこの世に顕在させられるの、さっき戦った唯神教の人間が何百といるのに未だに地上から悪魔を根絶できていないのはきっとそういう悪魔が猛威を奮っているから。もし、交戦することになったら逃げることを前提に冷静に考えて対処するように。分かった?』
エリの言葉から推察するにおそらくあのサノスという悪魔は腐食の名の通り、展開した空間を腐食することができる。そう生物の呼吸器官でさえも。
事態は一変し最悪の状況下となった。しかし、いつの間にか、再起不能になった巨体の悪魔から部屋全体に燃え広がっていた炎は鈴に二つの恩恵を齎した。
一つ目は鈴が図っていたもの。
悪魔に次いで鈴が血反吐を吐き出すと意識が朦朧としてくる、喉と肺がとても熱い、今もなお腐食の属性を吸い込んだ呼吸器官は微粒子レベルで分解されているのだろう。
本気で死を覚悟していた鈴の耳に突如、部屋に耳を劈く高音のベルが鳴り響く。絶望に深く影を落とした顔に光が差し込める。
「気付いてっか?ていうかまだ生きてるかよ……これは、スプリンクラーの作動音……だぜ。てめーら悪魔は現代社会の常識に疎いのか?」
「スプリンクラー?水が吹き出すアレだろう?映画で見たことがある、それがなんだというんだ。お前達は俺の命の引き換えに死ぬ……んだ、今更何をしても無駄なんじゃあねーのか?」
息せき切りながらも自信ありげな顔で語る鈴に悪魔は怪訝そうな顔をする。
「火を消すために水が吹き出す……だろ?まだ、わかんねえ……かよ、炎を掻き消すくらいの水が吹き出したらてめーが広げた紙は台無しになっちまうんじゃねーのか?「封入されている無機物は紙と一緒に消滅すること」とそれとは違い「生物は紙から飛び出してくること」はもう分かってんだよ、その紙をグズグズにして……エリを助けだす……てめえとあの悪魔をぶっ殺すのはその次だぜ」
「ぐ……ガハッ!ハッハハ……まさか、そこまで計算ずくだったとは、な俺が恐れるのはぶちギレることじゃなく、理性的に対処法を編み出されることだったみたい……だな」
鈴は苦し紛れに血を吐きながら笑う悪魔を睥睨するとヘッと笑ってみせる。やっとこ一矢報いることができたと心はこんな絶望的な状況下にあっても満足感に満たされていた。
「そろそろ、エリが戻って……来る」
腐食が粘膜にまで進んでいるのか、鈴は鼻腔に切られるような痛みを覚えると鼻から血を垂らす。
「あのガキが復活したところで、勝てるとは思えねえけど……な。この学舎にいるヤツ全員を殺すつもりでいるから……なァ〜〜コイツは本気(マジ)によォ〜〜」
サノスに最も近いところにいる悪魔は立っていることもままならないのかフラフラと左右に揺れると壁に手を付くと、ゆっくりと膝から崩れ落ちると地面に大量の喀血を吐き出す。悪魔が人間と同じ体構造をしているのか分からないが、人間でいうところの肺が腐敗し機能しなくなり、酸欠に陥っているのではなかろうか?と鈴は推察する。
「鈴!これはどういう状況!?」
ギィと軋む音がしてから視界の右奥手に守ると誓った少女がいた。
「アイツが……召喚した、悪魔が……腐食の属性で、体が腐……る。どうしたら……いい」
鈴も悪魔と同様に酸欠で意識が朦朧として立つこともままならなくなってきた。回らない頭でちぐはぐながらもエリに状況を伝えると彼女に後ろに行くように手で合図をする。
「属性の顕界は時間経過による地球意思からの抑止がかかるまで止められないの。鈴、あなた自身の回復力を信じるしかないわ」
埃っぽい空気に目を細めながら彼女はそう言った。
二つ目の恩恵は静かに、だが確かに鈴の元へと与えられた。
「ヒヒ……最後は、神頼みかよ。皮肉だなァ〜」
ゼェーゼェーと苦しみ悶えながら地面に倒れ伏した悪魔は最後の悪あがきとばかりに鈴に笑いかけてみせる。
「へっ、ちげーな。火事場の馬鹿力って奴で耐えてやん……よ。神なんか端から……信じてねー」
鈴は全身から力が抜けるのを感じる。が、それ以上に後ろにいるエリや金髪少女が無事であることを願っていた。
「鈴……心做しか空気が綺麗になってない?なんだか息苦しくなくなった気がするわ」
エリの言葉が散漫した意識の中、確実に響く。
言われて、大きく息を吸い込んでみると腐敗し損傷した喉がヒリヒリ痛む感覚こそあれど凄まじい熱や咳き込むような腐敗臭は薄まっていた。
「まさ……か、スプリンクラーのお陰で?」
意識が明瞭になっていくと思慮が及ぶ。スプリンクラーの水飛沫が人間の呼吸器官に入り込んでいた腐食の分子を空気中から地面に流したのではなかろうか、と推測する。
そう気付くや否や、哀毀骨立としていた顔に光が灯り、体に力が漲ってくる。
「立てる……まだ、やれる……」
溢れ出る気持ちを言葉にして自分を鼓舞すると俄然、力が出てきて。膝をつきながらだが鈴は再び立ち上がった。
「ヘッ……至近距離で奴の腐食の因子を受けて回復できる……のかよ、お前、悪魔の俺よりも、人間離れ、していやがる……」
悪魔はその言葉を最後に事切れてしまったのか全身に綻びが出現してそこから鮮血が飛ぶ。
「鈴!勝ったね!やったね!」
「やっぱり日本の平々凡々な男子高校生はすごいデース!」
後ろから感嘆の声が聞こえるが、手前の問題こそ解決すれど。根本的な問題の解決には一歩も及んでいない。
「まだ……だ、まだアイツが、残ってる……」
鈴は言ってから、頭の両横を叩いて耳から入り込んだ水を出すと眼前に立ち塞がるサノスという名の悪魔を睥睨した。
スプリンクラーの水の排出が切れ、最後の雫を振り絞ったのをタイミングに鈴は駆けた。