『黒い炎、獄炎……本来ならば人間の世界で燃えることのない地獄の炎。人間の法則の埒外にある為、人間の意思で消化することは不可能……』
今もなお美佳の理性を蝕んでいる激しい怒りの炎。しかし、怒りが先行しての失敗は前回の任務で痛いほどに痛感しているので理性的な思考を欠くことはしない。
「んん〜〜?その跳躍力……もしかして聖人だったりするのか?念には念を入れて、『獄炎発破(バーニングアッパー)』ッ!」
クゥエルベといった悪魔の言葉を合図にしたようにゆっくりと部屋に燃え上がっていた獄炎が生物のようにその軌道を変え、美佳の跳躍の軌道上に上昇してきた。
しかし美佳は化学原理という常識を超え、自分の鼻先のすんでのところまで燃え上がってきた獄炎にものともせずロザリオを左手に強く握りながら消え入るような小さな声を宙に発する。
「━━━━第四霊装「鋼鉄装甲(メイデンアーマー)」」
「もしかしなくても丸焼け?女を殺すっていいなぁ……」
美佳は黒い炎に包まれ姿を視認できなくなった。絶望に悶え苦しみながら決して消えない地獄の炎に焼かれ声も出ない少女の苦悶の顔を想像してクゥエルベは恍惚とした顔でいる。
悪魔の暴力的な衝動が理性を蝕む、意識を残したまま長時間焼き続けてその後に死体を犯してやろうと考えていた。
復習鬼(アイツ)が知ったらさぞかし怒るだろうなと一抹の理性が注意喚起をするが、そんなものは本能の前に掻き消えてしまった。
戦闘において最も大切な要素である「慎重さ」を欠いた悪魔は脂下がった瞳で轟と音を立てて肉を焼いている獄炎を無心に見つめていた。その刹那、卵の殻が割られるようにして宙で燃焼し続けていた獄炎が真ん中から裂けて美佳が現れる。
その身は両肩部を守る、菱形で構成され幾何額のように見える赤いアーマーのようなものを起点にして獄炎を弾く白メッキ加工をされた鉄の鎧のようなもので守り固められていた。
獄炎を防ぐ術のある人間などということは、聖人でもかなりの数に限られてくるのでは無かったのか。クゥエルベは地獄での通説を目の前で否定され、驚愕の色に顔を張り詰めた。
「……もしかして、脱出?もしかしなくても俺、実力を測り間違えた……?」
「はい、全問正解。からの……鉄拳制裁━━━━」
Gに任せて地面に目掛けて落下すると美佳の顔が悪魔の鼻の先の所まで近付いていた。音を立てて彼女を獄炎から守っていたアーマーが変形し、両腕の部分に集中する。
「第四霊装、変型━━━━「鋼鉄装甲=刑罰(パニシメント)」ッ」
両腕の先端で拳上に形成された鋼鉄のアーマーは中手指節関節の辺りに複数の鋭利な先端が設けられている。その様は刑罰に用いられた『鋼鉄処女(アイアン・メイデン)』のメイデンの名を冠するに相応しい。
「もしかして、それが神の鉄……『ゴッドメタル』って奴か?」
クゥエルベは自分を抹殺せんと佇む処刑人を目にして体が強ばる。気付けば地面に尻もちをつき顔が硬直している。
「そう、もしかしなくてもそのゴッドメタルです。悪魔への殺傷能力こそ発揮しないながらも獄炎だろうが振り払う神威の物理法則が働く金属、並の悪魔なら触れただけで身体が硬直しますよ」
美佳は「もしかしなくても」を強調してそう弁当すると地面に尻もちをついて怖気付く悪魔を見下ろし嘲る。
「へ、へへ……別に殺されるわけじゃあねえんだ、怖くねえ。お前らが追ってる複数鬼の情報も吐かねえ。どうだ?人間、思い知ったか。貴様らがいくら神から加護を受けようが俺達を殺すことはできねえんだよ!」
クゥエルベは自分に言い聞かせるように叫ぶ。そうだ自分は悪魔なんだ、人間では地球が逆回転しようが殺せない。少しの間、眠りにつくだけでまた目覚めたら殺戮の限りを尽くしてやる。
「“もしかして“自分は死なないとか思ってます?そうですよね?けど、今の唯神教(こっち)には貴方達のような穢らわしい悪魔を地上から滅する手札があるんですよ。信じなくても結構です、貴方達を統括する復習鬼(ボス)を見つける為の手段は既にありますから。ご足労おかけしましたね」
普段であればそれが自分を脅すだけの虚勢だと思っていた。しかし━━━━
無関心に自分の鏡像を映している彼女の寂寥な瞳を見ていると、思わず冷や汗が浮かぶ。
「とりあえず、粉微塵になってください」
彼女の宙に掻き消える小さな声、そして円運動を描きながら振り下ろされる純白の圧砕機を最後にクゥエルベの感覚は、意識は無へと忘却された。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━鈴は三メートル程の距離を挟み、肉の腐る臭いが充満した学舎の一室でサノスという悪魔と対峙していた。
焼身死体のようにボロボロになった、細くて黒い枯木を思わせる体躯。そして絶えず発せられている禍々しい瘴気は黒い煙となって燻っている。
「━━━━ォ」
駆けるこちらを眼下にくぐもった声を漏らす、光を反射しない真っ黒なつば広帽子の下では青白い虹彩が真っ直ぐこちらを見て、妖しく光っていた。
怖気付いている場合ではない、早くに仕留めなければまた腐食の因子をばら撒かれて自分のみならずエリや無関係の修道女達までもが死に至る。理性では分かっているけれど、本能が悪魔に近付くことを拒んでいる。死を象徴する化身、死神というのが実在するのならばこんな雰囲気だろうと思う。
見られているだけで首に刃物を這わされているような緊張感、法外の住民が目をギラつかせている夜の暗黒街を一人歩いているような不安を覚える。
しかし、自分一人の犠牲で済む可能性があるのなら━━━━
鈴の中にその思考が浮かぶが先か、悪魔の鼻先で立ち止まり、丹田に力を込める。悪魔の暴力的なまでの激しいエネルギーが傷も完治していない体を走ると傷が開く痛み。
痛みに思わず呻くが全身に根を張った力は抜けない、自分の体と自分の体を生かしている悪魔のエネルギーは別個のものだと感じた。
「は━━━━ァ!」
腐食因子に一番に触れ、分解されかけていた喉から出た声は哀毀骨立とした危篤の病人の声のようにか細かったが円運動を画いた渾身の右アッパーは悪魔の顎先を破壊した感覚。ゴシャと音を立てて顎先にめり込んでいく感覚があった。
しかしその音源を見るや否や、自分の右手が悪魔の顎に腐食(く)われていることに気付く。痛覚を感じる神経から骨身まで高速で分解されるので痛みはなかった。驚きに眦を見開くと思い出したように喀血する。
もう、腐食の結界が張られているのか……と、鈴は絶望感に打ちひしがれ諦念を覚えかける。
しかし、守ると決めたからもう退けない。毛頭退く気など鈴には無かった。
一歩後ろに後退すると腰を低く構え、回し蹴りの構え。腐食し切る前に急所を破壊する、その目は悪魔の左胸だけを映していた。だから、予想外の出来事に対応できなかった。
「手痛くやられてるみたいね……擁護が必要みたいね」
破壊されドアの役割を果たしていない大穴から剣呑な雰囲気の走る部屋に似合わないキャサリンと言ったか薄い水色の寝巻き姿の淑女が一歩踏み入れるのをエリは見ていた。
「『反撃(カウンター)』……」
キャサリンは指一本動かさずに、目を瞑ってそう呟いただけだった。
その光景を見届けていたエリは確実に、彼女のその言葉を合図にしたように悪魔から発せられていた黒い瘴気が立ち消えたのを視認した。
「━━━━らァ!」
キャサリンの声は鈴の唸り声のような低い喚声の元に掻き消える。悪魔の左胸を捉えた左脚は音速の円運動を描き急所を抉り、黒い体躯に風穴を開ける。
「オ、オ━━━━━ォ…………」
全身から黒い鮮血を吹き出すと悪魔は地面に倒れ伏した。
「━━━━やっ……たのか?」
極度の緊張感に張り付いていたので予想外の自体に鈴は脱力し、地面に尻餅をつく。
と、ギィという軋む音の跡に鈴の音のような落ち着き払った声が聞こえてくる。
「おめでとう、もっとも私の助力が無かったら左脚が腐れ落ちちゃってたぞ〜〜」
「アンタは確か……キャサリンっていう」
突然の来訪者に驚くがそれを顔に出す気力もなく、アドレナリンが切れたのか喉を中心に全身が痛み鈴は顔を歪め、地面に血痰を吐く。
「そう、キャサリン。キャサリン=アルヴェイン、唯神教日本支部の第四階位よ。これから作戦会議だから、よろしくね」
そう笑顔で言い放った彼女は、鈴の中の静かな淑女という印象を一瞬で打ち壊した。
「よ……よろしく」
鈴は自分の元に伸ばされた手を取り、その温かさに驚く。そうして柄にもなく赤面している自分を恥ずかしく思い鈴は顔を伏せた。
『助力……って、あの悪魔の強力な腐食を無効化してのか?やっぱり悪魔だの神だのに関わっている人間は底が知れねーな』
鈴は彼女の親しみの湧く笑顔と安心感を与える暖かい声音に信頼を覚えると同時に、いつ敵に回るとも分からない人間の底の知れない能力の高さに複雑な気持ちでいた。