抽象的な凹凸以外無くなったモノクロの世界で二肢が交差する━━━━
それからほぼ時を待たずして鈴は左肩部に激しい熱を伴う鋭い痛みを感じて風圧に髪をぐしゃぐしゃにされる。地面を五回もバウンドするとやっと慣性力を無くし動きが静止する。
「ガッ……ああああぁあああああ!!!!あ……あ、はぁ……ッ!!」
遅れてやってきた凄まじい痛覚に思わず蛮声を上げる。
大男は鈴よりも長い剛腕をもって自分に降りかかろうとしていた攻撃よりも早く渾身の一撃を到達させていた。その効果、絶大的。
そのあまりの痛みに意識を失いかけまた鋭敏に痛覚を感じ取る意識が戻る感覚を覚えた。
何度も浅く息を吐きながら静かに震える左肩から伸びる上腕に恐る恐る触れると火傷しそうな程に熱を帯びている。おそらく粉砕骨折しているのでは無かろうか痛みを堪えるために噛み、折れ欠けた奥歯の欠片を口の中に満杯していた血反吐と共にゴボと音を立てて吐き出す。
どういった理由で瀉血するのか理解には及ばなかったが、この損傷では無理もないと思った。
吐き気と痛みに震えながら仰向けの姿勢からなんとか中腰になり右膝に手を付き勢いをつけて立ち上がる。
「よし。まだ……やれる」
瀉血で真紅に濡れた口元を手の甲でぐいと拭うと眼前に駆け出す。
パンチ一発でこんなにも多大なダメージを与えてくる化物を相手にしたところで今更引き返すわけにはいかない。恐怖の感情か今も尚続く激しい痛みか震える左腕を忌々しく思い無理をして拳を握りしめ己を鼓舞する。
「驚きだな。殺す気で殴ったのに生きてることもだが、見ず知らずの女にここまでやれるか」
己に向かい来る敵を目にしてなお焦りの一つも顔に浮かべずに鬼と言われた大男は口にする。
「くたばれ!」
鈴は短い距離を全速で走り抜け、勢いをつけた右拳を眼前に迫る大男の顎下に投げ付けるようにして飛ばす━━━━
次に鈴の視界に入ったのはひたすらに白い空だった。
『胡蝶の夢』と言われた白い世界の真っ白な空が視界にいっぱいに広がっている。
それから思い出したように背中が強力によって捻じ曲げられるような激しい痛み。口腔と鼻腔からは再び瀉血が溢れ出る不快な感覚。
痛苦に悶えながらもある確固とした疑問、何が起きたか分からず横たわったままの姿勢で周囲を右往左往していると重機が地面を抉り取るようなけたたましい音がすると鈴の視界を大きなシルエットが遮った。
嫌な予感を覚えて反射的に右に転がる、新傷が開く痛みを押し込んで転がる、と━━━━
つい秒前まで自分がいた場所に大男の紅い剛腕が突立っている。白い地面に突立つその腕は対照的にその紅さを主張し人外の類であることを無言に訴えている。
「何がしたいんだ?てめぇは。頭イカれててもこんなことしねえよ」
大男は突き刺さった腕を力任せに抜きながら発した苛立ちを含んだおぞましい声色に思わず鳥肌を立てる。
「さっき言った通りだ、女の子を放って逃げて死ぬなんて真っ平御免だからな。どうせなら守ってから死んだ方が満足して逝ける……それだけだ」
力が入らず無様にピクピクと震えている腕を膝に突き立てなんとか立ち上がるとそう言い捨てる。
「そうか、ならお望み通りに殺してやろうじゃねえか。もっとも、女を大人しく引渡したところで生かしてやる道理はどこにもねえさな。だからてめえは死が待ち遠しく感じるくらいの苦痛を与えてぶち殺す」
鼻から荒息を吐きながら額に青筋を立て、黄色い虹彩の中の円形の瞳孔を縦長に細めという具合にこちらに今にも突き刺さりそうな鋭敏な敵意を明確に向けてくる。
「ああ、もっともこっちもタダで死ぬつもりはねえよ」
赤い布をパタパタと平めたかして闘牛を扇情するかの如く、全身についた白い砂を手で叩いて振り払う。
「来いよ」
「くっせえ……くっせえ台詞を吐きやがる人間……な。てめえ……だけは……殺すッ殺すッ殺すッぐちゃぐちゃにして殺すッ喰い殺すッッ!!」
荒息が深くなり、憤怒に顔を歪め顔中を走る皺という皺が深められる。体は何回か震えると物理法則を無視して3m程まで肥大化。
完全に鬼の姿となった大男はさっきまでの追想劇が嘘のような猛烈なスピードで3m程しか離れていないこちらに突撃してくる。
「お前が馬鹿で、本当に良かったぜ━━━━」
鈴は横に逸れるでもなく、180°回転して逃げるでもなく男と向き合い、駆ける。と━━━━
半身を90°に傾け背中を折り曲げ、後退も方向変換も捨てた大男は一心不乱に肩を揺らし突進してくる。鈴はこれを待っていたと言わんばかりに眼前まで迫っていた鬼神の大きな肩に両腕を乗せ、跳び箱の要領で背後に回り込み自由の効く両足を交差させると筋組織が圧縮、肥大化し丸太のように太く硬くなった首に絡ませる。
目的は絞殺ではない━━━━
胸ポケットから取り出した金属製のライターを何回か引くとガスが染み込んだ綿糸の先に着火させ、それを鬼神の顔面に焚き付ける━━━━
「ぐッ!!ガアアアアアアアアアア!!熱い!!熱い!!熱い!!人間如きが!!熱い!!」
当然の如く大男は眼球、粘膜が焼かれる痛みに悶え激しく抵抗する。しかし鈴は激しく前後する世界であっても、炎が自分の手に移ろうが首を絞める力を緩めない、ここで殺し切る。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!熱い!!熱い!!な……んでッなんで再生……しない!この体はなんでッ……なんで再生しないんだッ!!」
「ッ……!焼けろよッ!」
それからしばらくすると抵抗する力は緩くなった。それからまたしばらくするとズシンという音を伴って大きな振動に体を揺さぶられた。視界を下に降ろすと白い地面を黒い血が濡らし、その中で膝を突いている。
安堵か疲弊しきっていたのか力の抜けた体は肩を滑り地面に真っ逆さまに落ちる。
傷が開かないようにゆっくりと立ち上がり身構えながら
鬼の顔を覗き込むと焼け爛れた顔は原型がなく、脂肪や筋組織の焼け焦げたものと思われる黒い肉片の奥には頭蓋骨と思わしき硬質そうなものが見え隠れしている。
眼球があった部分は空洞を形作り、粘膜が完全に焼け焦げたことを意味している。
倒したのか……?一つの思考が頭を過ぎる。と同時に後ろから酷く長く無縁であったように感じる女の子の鈴のような声が耳を撫でる。
「あなた……もしかして、これ倒したの?」
ゴスロリ服に身を包んだ謎の少女は鈴のリュックサックを地面に落とすと目を丸くして顔を血に濡らした少年を見上げる。
鈴は意識を取り戻した少女を見下ろすと顔を神妙に改めて
「あぁ、なんとかな。そろそろ話してもらおうk」
「人が悪魔を殺すなんてありえないことなのに!なんであなたは……ちょっと待って、冷静に……」
言葉を遮って少女は驚愕に四苦八苦する。
非科学的な話だがその高い声は今もなお熱を持ち痛苦を刻んでいる傷に触られているようで思わず耳を塞ぎたくなる。
「まずは人の話を聞けよ……」
やれやれと嘆息すると肩を降ろし地面に座り込む。
「ん……そうね、話すと長くなるけど……長くなるけど……あれ?」
「あれ?ってなんだよ。忘れたとか言うなよ?」
少女はハハと笑う鈴から顔を逸らす。
「お、おい……」
膝を立てて半立ちの姿勢になって右腕で少女の小さな肩を掴む。
少女は鈴の方を振り返ると涙を目尻に溜めながら
「忘れちゃった……」
ハハ……と力の抜けた笑いが白い世界に遠く響くこともなく掻き消えた。