エリは筆舌に尽くし難い阿鼻叫喚の苦痛に悶え涙と鼻血を垂らしながらも、もはやどこに向かうでもない体を引きずっている。損壊した右肩部から下は再生もままならず赤黒いヒルのようなものが伸びていて、左脚は尻から完全に消失して絶え間なく血を白い地面に流している。
「力量(パワー)の方は語るに及ばずという具合でしたが、耐久力と治癒力は掛け値なしの化け物のそれですね。早く封印されちゃってください」
口元を手で抑えていかにも女の子という風な笑い方をすると、すぐさま不快そうな顔色をして両手に構えられた十字の鈍器で横腹を殴り、50cmほど空中に上げると横に転がって3mは飛ぶ、血飛沫が飛ぶのをさも嫌そうな顔をして睥睨すると少女は間を置かずにエリの元に跳び全体重を掛けて十字架の先端部分で腰と両腿の接合部を思い切り粉砕する。
「━━━━━━━━ッ!!!」
喉が枯れてもはや声にすらならない沈痛げな慟哭を上げる、遠くに聞こえる自分の叫びに猟銃で弱点を撃たれた野生の動物を想起する。右腕も左脚も失い、だがそれでも死ぬことはなく目的もなく僅かに残された力で後ろから迫る恐怖から逃れるために這っている自分は動物と比較するのも烏滸がましいとすら思った。痛みに泣き叫ぶことすらできないのに卑下する余裕は残っているのか、と自分の不死性がいかに他の寿命を持つ生物と考え方を違えさせているように感じる。
どれくらい這ったことだろうか。
通常、人間に悪魔を殺すことはできないので悪魔を目の敵にしている唯神教は「封印」という手段を取って地上から目につく悪魔を淘汰しようとしている。しかし、大悪魔ほどの存在となると封印も容易にできるものではない「主に仇なす魔のものを封じること」のできる『退魔石(シール・ストーン)』の地上に存在する最高位のものに封じ込めるのにも条件として単純な肉体の破壊にのみならず、精神的な屈服・諦念を要される。おまけにこの少女の持っているシール・ストーンは中位級(ミドルフォン)の悪魔の封印を想定されているため、大悪魔に分類されるエリを封印するには分不相応極まりない。
もっとも、エリがこの抵抗を無意味と感じてしまえたらとっくに封印され事態は終着していた話である。逆説的に言ってしまえばまだエリは諦めていなかった。
自分を己が身を呈して生かしてくれた少年の姿が頭を過ぎると「諦める」ことは彼の死を低いところで固定化するような気がしてならないのだった。
「あんなに弱いのに、まだ封印されないんですか。ミンチにすれば話は変わりますかね?」
少女は飽きたという具合で欠伸なんかをしている。
「それとも、私の読み以上の級位の悪魔なのか……それならこんな三下の退魔石じゃ話になりませんよね」
後ろを向いて少女を睥睨すると薄く口元だけざ笑っていた、その死神のような寂寥な表情に悪寒が走る。そしてなによりもこれ以上の退魔石を出されたらまずいかもしれない、使命感を負って生きていた顔に焦りの色が浮かび上がり、無意識に回復を早める。
「図星……でしたかね?」
死刑宣告のように重々しく少女の笑いの混じった声が何度も頭の中で反芻する。
「もう、諦めてしまってもいいのではないだろうか」そんな思考が一瞬だが確かに頭を過ぎる。
自分が上位の石でも封印できないとなるときっと応援が来るだろう。何の為に逃げていたのかももう分からない。だけど……そうしたら何の為に彼は死んだのか、分からない。
鈴のことが頭を過ぎると、まるで裏打ちしたかのように見覚えのあるシルエットが視界に入る。
黒い詰襟の少年は地面に伏したままピクリとも動かない。凝視すると抉られた左胸部を始点として流血した血が地面を伝い今もなおその赤を広げている。
予想はしていたし、むしろ期待値を高めて裏切られた時の落差を恐れてあえて信じていなかった彼の死。
しかし、いざそれを眼前にすると予測していたものを遥かに超えたショックに打ちひしがれる。
━━━━右腕と左脚が不完全ながらも二足歩行が可能なレベルに再生する。
芋虫のように這っていたのが嘘かのように駆け出すとエリは泣いていた。冷たくなった少年の亡骸を抱いて。
自分が何で追われていたのかも分からなくなった、何を信じて何を疑えばいいか分からないこの世界で唯一自分に向き合ってくれた信じてくれた少年が死んでしまっている。
心臓ごと抉り取られたのだろう、ポッカリと空いてしまった左胸から今もなおゆっくりと垂れているドロドロとした血に服が濡れるのも構わず亡骸に抱きつく。先程までの彼のものとは思えない冷たい体温で無言の答えが返ってきた。
「私……私が無力なばかりに……頼ってしまって……ごめんなさい…………ほんと……に……ほんとうに、ごめんなさい。あなたみたいな素晴らしい人間は、普通に……普通に生きててほしかった」
しかし現実は不条理に泣き崩れ、感傷することすら許されない。規則的に地面を踏む靴音が血濡れの現実に嫌でも引き戻していく。
「そうですよ。あなたが頼ったばかりに彼は死んでしまったんです、あなたが殺したようなものですよ。ほんとに報われない、彼は報われることはない、悪魔を庇うなんて悪行を積んだことだし来世はゴミ虫かなんかでしょうね」
クスクスと笑う少女は感情を押し殺した顔をすると冷徹な声でこう述べた。
「あなたのことを庇って死んだんですよォ?名前も知らないこの男は。ほんっとにどうかしてる、なんだってこんな醜女(しこめ)を庇って自分の命を投げ売るのか本当に不理解。あまりにも時間を食わせるものだから人間相手に霊装を解放しちゃいましたよ、苦しむ間もなく逝けたのはまあ救いですかね?」
どこまでも救われない少年だ。なんだって自分を悪魔から庇って、教会の人間から庇って死んでしまったのだろう。もしまた話す機会があったのならたっぷりと問い詰めてやりたいと思った、そしてもう少し自分の為に生きてほしいとも思った。
それがありえないifの話だと嫌でも分からせられて澎湃と涙が流れ出てきて彼の冷たくなり青ざめた頬を濡らした。
「コイツ細切れミンチにしたら生きる気力……削がれますかね?神器(ノモス)・展開(オープン)第二霊装『圧砕(クラッシュ)』━━━━」
少女がそう唱えると天に高く掲げた十字架の両端が対象を押し潰し粉々にするハンマー状に変化した。
それがエリに振り下ろされんとするその刹那、鈴の抉られた左胸部から鮮血が飛び散りエリと鈴両者の頬を赤く染めた。
「な━━━━」
少女の顔が驚愕の色に染まる。ハンマー状の神器は天を向いたまま停止している。
もう一度、鮮血が跳ねる。と、左胸部が抉れて露出した赤黒い肋骨の奥で蠢くピンク色の、血に濡れた青筋の走った肉片をエリと少女の二人は確かに確認した。
「鈴、生き」
エリの反射的に出た言葉を遮る喚声。
「お前も━━━━化物(ばけもの)かあああああああ!!!!」
損傷した耳に痛む喚声と同時に鈍器がどう見ても避けられない速度で鈴諸共圧殺せんと振り下ろされるのを確認したその刹那、体が浮く感覚。
タン、と地面を柔軟性に富んだ材質の靴が踏みしめる音。
第二霊装「圧砕」により白い地面は破砕音を立てて激しく粉塵を立てる、周囲は砂煙で真っ白。けど確かにある自分を抱き抱える暖かい感覚。規則的に脈打つ鼓動音のようなもの。
「鈴……あなたは……」
何度泣いたことだろうか目の周りが既に赤く染まっているにも関わらず目じりに涙が溜まる。しかしそれは筆舌に狼する痛苦からくるものでも、絶望からくる感傷の意に打たれたものでもない、喜びの涙。
「「生きててほしい」って確かに聞いたぜ。死ぬ覚悟で立って、そして絶対に生きて帰ろうな」
エリはまるで日を置いてから見るかのような新鮮さをもって少年のあの笑顔を再び目にした。
「普通に生きててほしいって言ったのよ馬鹿」
涙ぐんで霞む視界の中で少年は確かに生きて、そっちに笑い返すのを確認した。