そこは日暮の泊まっていた十番の部屋だった。警察の鑑識班が証拠を集めて立ち去った今、部屋は元通り綺麗になっていた。それでも、やはり死んだ人の止まった部屋だから縁起が悪いということで、野々江は地元の神主を手配してお祓いをし、四十九日を過ぎるまで一般に開放しないことを決めていた。それまでここは開かずの間となる。
その開かずの間に、金剛と五月雨を始め、大取警部、宗助、野々江、それから比叡がいた。全員が、金剛と五月雨にここへ突然、呼び集められたのだ。
「いったい、こんなところへ皆さんを集めて何をなさるつもりです?」
野々江が戸惑いながら質問をすると、金剛は自信たっぷりな様子で腰に手を当て、
「犯人が分かったデース」
と宣言した。
「それはあなたネ! 比叡!」
「キャアアア!」
叫び声と共に、比叡は布団から跳ね起きた。
「ごめんなさい、ごめんなさいお姉様!」
そう言いながら周囲を見回す。そこは寮の自室だった。空も白んでいないのか、部屋は真っ暗だった。夏の夜の温い空気が、部屋の中へ漂っている。
夢?
比叡は額の汗を拭った。額だけではなく、全身が汗にまみれていた。心臓の鼓動が耳元で聞こえるまでに高鳴っている。
酷い悪夢だった。いや、あるいは正夢かもしれない。
布団の上で体育座りをして、膝頭に頭を埋めて呼吸を整える。
大丈夫、あれは夢だから。
落ち着き始めると、急に喉の渇きを感じた。枕元にある水差しからコップに水を注いで飲み干す。
「フゥー」
完全に落ち着いてしまうと、汗にまみれた寝間着が気持ち悪かった。比叡は寝巻を脱ぎ捨てて下着姿になると、そのまま朝の訪れを待った。
午前の仕事を終えると、比叡は宗助と共に旅館近くの、のどかな山道を散歩していた。もちろん、二人一緒に旅館を出ると怪しまれるので、それぞれ時間をずらし、別々な場所から旅館を出て、近くの地蔵がいる三叉路で落ち合った。天気はあいにくの曇り空だが、ここ二日続いた猛烈な日照りを思うと、かえって散歩日和と言えるだろう。
「大丈夫かい、比叡さん。休んだ方が………」
宗助が比叡を気遣うように言った。同じような言葉を野々江や田島からも言われたが、比叡は頑として首を横に振って、
「いいんです。仕事をしていた方が、気が紛れるし」
「そう。何、大丈夫さ。警察も昨日、金剛さんへ話を聞きに来ただけで、僕たちには興味が無さそうだし。ところで、今日の金剛さんはどんな様子だい?」
「今日は一日中宿でゆっくりしていくそうです。お姉様、実は体調が思わしくなくて、ここへ来たのも元々は静養のためだそうです。昨日は無理して暑い中、街へ行ったから、調子をまた崩されたのでしょう」
「へぇ、意外だな。あの青い髪の女の子は?」
「今日も市内へ行きました。昨日は、お姉様の捜査に振り回されたから、今日こそ観光して回るんだと息巻いてましたよ」
そう言って比叡が笑うと、宗助もホッとしたように微笑んだ。
「だったら、明日は山道の散策を提案したらどうだい。そうだ、川で釣りもいい。なんなら、母さんに行って僕たち四人で釣りとしゃれこもう。そういえば釣りなんて、復員してからやってないなぁ」
話している内に、二人はやがて神社へ続く大きな石段の前へ来た。そこは数百年前から続く大きな神社で、地元のお祭りもよくそこで開催された。そういえば、もうすぐ夏祭りの時期である。珍授荘もスポンサーになっているから、一週間ほど前に神主さんが見えて挨拶をしに来たことを思い出した。
「ついでにお参りして行こう」
宗助が比叡を手を引くと、比叡はためらいの表情を見せた。境内に足を踏み入れると、何だか罰が当たりそうな気がしたからだ。比叡がそう言うと、宗助は笑って、
「大丈夫だよ。別に願をかけるつもりじゃない。ただちょっと寄るだけさ。夏祭りの打ち合わせで、神主様に少し話があるんだ」
曇り空の下とはいえ、石段は新緑の中に沈んで美しかった。蝉の声が木々の間にこだまし、やがて常願寺川へ合流するであろう山から流れるせせらぎが涼しげだった。とうとう比叡は気分転換に、と石段へ一歩を踏み出した。
神社は敷地面積も大きく、本殿もそれなりの大きさだったが、石段の下からはとんとその姿を窺い知ることは出来ない。この神社を訪れるのは、何も比叡にとって初めてでは無かった。祭りの季節になれば、他の女中と共に比叡も珍授荘を代表して手伝いに行かされた。だけれど、いつもこの石段を登るとき、最後の一段を上り切った先に漠然とした希望を感じた。
しかし、この日、石段の先に比叡を待っていたものは、遠く神社の賽銭箱の隣に腰を下ろす金剛だった。
「ハーイ! 二人共!」
金剛は立ち上がって両手を振りながら、よく通る声で二人へ呼びかけた。比叡と宗助はしばし呆然としながらも、やがて気を取り直して金剛の下へ向かって行った。
「金剛さん! どうしたんです、こんなところで。体調を崩して宿で休まれているかと思いましたが」
まず宗助が質問した。
「別に体調を崩したというほどではないデース。ただちょっと疲れただけネ」
「お姉様いったい、どうしてここに?」
比叡が訊ねると、
「簡単なことデース。まず前提として、二人は付き合ってるネ?」
「ヒエッ」
比叡が顔を赤くして後退る。
「比叡は初日に『恋人は出来たか?』と聞かれて『駄目です、下手したら首になる』と答えたネ。そのことから比叡の恋人は旅館の従業員で、経営者の親族。つまりソウスケ=サン以外にはありえまセーン。また、お二人はよく午前の仕事終わりに旅館裏手の池で会っているデース」
「見、見てたんですか!」
比叡が顔を赤くして起こったように言うと、金剛は首を横に振った。
「私は見ていないデース。でも気づかないネ? 旅館二階、トイレ脇の窓からは絶妙な角度で池の方が見渡せマース。珍授荘はよく掃除が行き届いた旅館ですが、そこの窓の一部分だけ妙に綺麗だったネ。つまりよく池の方を覗く人がいるということデース。では誰が覗いているのデショー? 旅館の裏手の藪の中に池があることを知っていて、その池の鯉にソウスケ=サンがよく餌を撒いているのを知っている人間、また窓の磨かれた部分と身長の位置関係を考慮して女将のシキシマ・ノノエ=サン以外にいまセーン。では、実の母親がどうして熱心に息子の鯉の餌やりを覗くネ? そんなに息子を見守りたいなら隣に行けばいいデース。でも、やりまセーン。何故なら、秘密の恋人が隣にいつもいるからデース。ソウスケ=サンは旅館の跡取り息子、何か間違いがあってはいけまセーン。だけど面と向かっては反抗されるし、何より覗いている自分に後ろめたさも感じていマース。旅館裏手は街灯も無いので夜になると真っ暗になり、三人とも繁忙期が重なることから、時間帯は恐らく午前の仕事終わりのわずかな時間。よって逆説的に、ソウスケ=サンと比叡は午前の仕事が終わると、旅館裏手の池の前で逢引きを重ねていることが分かりマース」
「ヒッ、ヒエエエエエエ~」
金剛の推理が終わると、比叡は珍妙な悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。
「そ、そ、そんな、い、い、いったいいつから」
「正確には分かりませんが、だいぶ前からだと思いマース………」
「ヒエ~」
「落ち着いて、比叡さん。母も知っていて黙っていたということは、ある程度、君を認めているということじゃにないか」
宗助のフォローに金剛も同意して、
「その通りでデース。ま、いい機会だからこの際、三人で膝を突き合わせて話し合ってみるといいネ」
まだ立ち直れていない比叡を他所に、宗助は不思議そうな顔で、
「しかし金剛さん。さっきも言いましたが、どうしてまたこんなところにいるんです?」
「あなたたちを待っていたデース」
「待っていたって、どうして僕たちがここに来ることが分かったんです?」
「ふむ、一般的に世を忍ぶカップルと言うものは、統計的に三日続けて同じ場所を逢引き場所に選びまセーン。またその際には、六十パーセント以上がパートナーとの散歩を選ぶデース。何故なら一カ所に留まる場合と比べて人目につきにくく、言い訳もしやすいからデース。旅館の周囲にはいくつか山道がありマスガ、この山道が一番、気が大きく生えていて人目につきにくいネ。そして今日は気温は低いが、湿度が少し高いデース。ちょうど道を歩いていて疲労してくるのが、この辺りデース。ということは、お二人はこの神社で一休みする可能性が高いと言えマース」
「はぁ」
宗助が金剛の推理力に唖然としていると、金剛は舌を出して、
「というのは冗談デース。女将のノノエ=サンが、ソウスケ=サンにこの神社へ言伝を頼んだということを聞いたので、別な道から先回りしたネ。おかげでクタクタだよ」
「ああ、それで顔色が少し悪いんですね」
宗助が苦笑して言うと、金剛も笑って頷いた。
「さて、金剛さん。私たちに何か用ですか?」
「イエス、ヒグラシ=サンが死んだと思われる八時五十分から、九時二十分までどこにいたのかを教えてくだサーイ」
金剛の言葉に宗助は再び苦笑して、
「金剛さん、警察の話によれば日暮さんは九時から九時二十分の間に殺されたのでは? 確かあなたは、その直前に日暮さんを見ていらっしゃるはずです」
「ああ、それはうっかりしていたデース。どうもそのときは酷い酔い方をしてたマシタ。富山のお酒がおいしくてネー」
一見和やかに語り合う二人を、比叡は内心、戦々恐々とした気持ちで見つめていた。
死亡推定時刻の間違いはわざとだ。お姉様はカマをかけようとしている。
そう思った比叡は、下手なことは言うまいと、質問が来るまでひたすら聞き役に徹することにした。
「警察の話によれば、あなたは九時から九時二十分の間、旅館の裏手で煙草を吸っていたと言ったそうネ?」
「はい。証明するものはいませんが………」
「その前はどちらに?」
「事務室の方で伝票の整理をしていました」
「イエス、そしてそのあと二階へ上がった。当時、受付をしていたイノウエ=サンという女中が証言していマース。ソウスケ=サン、どうして二階へ?」
「母の後を追ったのですよ。実はあのとき、日暮さんと母との間で何か相談事があったらしくて。でも、母はそそっかしい人で、ビールを仕入れたときの伝票を持って上がってしまったんです。それを追いかけたのですよ」
「ノノエ=サンも同じことを仰っていたデース。あなたが二階へ上がる少し前に、やはり受付のイノウエ=サンが見ていマース。ところがヒグラシ=サンが泥酔して暴れまっている音を聞いて、時間を置くために引き返したと言ってたデース」
「ええ、日暮さんの酒癖の悪さは昔からでしてね」
宗助は苦笑する。一方で、実はあのとき野々江が近くまで来ていたと知って、比叡は何だか冷や汗が出てきた。
「そこであなたは廊下でノノエ=サンとすれ違った。ノノエ=サンはヒグラシ=サンが暴れているようなので、比叡の様子を見に行って欲しいと頼んだ。そしてあなたはヒグラシ=サンの部屋に入ったネ。それは何時ごろデース?」
「多分、八時五十分前でしょう。僕は日暮さんを部屋の中で介抱し、比叡が坂田さんのお母様を一階へ下ろして、比叡と入れ替わりに部屋を露天風呂の方の階段から出て、旅館の裏手に回って少し煙草を吸いました。それで九時五分ごろにまた仕事へ戻ったんです。僕の姿は、母も井上さんも見ていますよ」
「ふむ、やはりそうデスカ」
金剛は納得したように頷いた。傍から聞いている比叡にとっても、完璧な筋書きだ。
「比叡さん、仮に僕が犯人だとしても、どうやって五分で日暮さんを殺して、あの体を階段まで運べるんです? ちょっと無理がありませんかね?」
「まぁ、一人では無理ネ」
頭をかきながら金剛が言った。一人では無理、その言葉に比叡もそして宗助もドキリとしたに違いない。
「一人? あなたまさか、僕と比叡さんが共犯だっておっしゃるんですか?」
動揺を隠すためか、ひどく怒った様子で宗助が言うと、金剛は慌てて、
「ソ、ソーリー、まぁ、そういう可能性もあるという話デース。ああ、話はこれで終わりデース。私は旅館へ帰るデース」
金剛は立ちあがって、それから右手の人差し指を立てて、
「ああ、もう一つだけ質問がありマース」」
「何です?」
落ち着いた様子で宗助が言った。
「結局、伝票は女将さんから受け取れマシタカー?」
すると宗助は困ったように笑って腕を組んだ。
「それが、何故かどこを探しても無いんですよ。母もどこで失くしたか思い出せないらしくて、困ったものです」
「なるほどデース」
金剛はそう言って去っていった。残された比叡と金剛は、気が付くとお互いの手と手を固く握りあっていた。
五月雨が帰ってきたのは午後五時頃だった。金剛が部屋で本を読みながらくつろいでいると、
「ただいま帰りました!」
と、勢いよく襖を開けて入って来た。五月雨はすっかり真っ赤になって日焼けしていた。手には衣服の入ったかごが下げられている。市内へ行くついでに、衣服のクリーニングも頼んだのだ。
「いったいどうしたネ五月雨。すっかり日焼けしているデース」
旅館の近くは曇り空だったが、市街地の方は今日も快晴だったようだ。五月雨は照れた様子で、
「ええ、実はまず護国神社へお参りに行って、お守りを買った後で、市内の甘味を食べ歩いちゃいました。それでですね、ふふふ、護国神社のそばを流れている川あるじゃないですか、あれ神通川って言うんですって!」
「はぁ………」
「それでお昼を食べ終わって、神通川沿いに北へ歩いていくと、海水浴場があるじゃないですか。それで私、水着を買って泳いできたんです。すると溺れている子供が五人くらいいたので助けてあげました」
「それはいいとして、頼んだものはどうネ?」
「もちろんそれもバッチリですよ~。洗濯物をクリーニングに出した後、ちゃあんと図書館へ行って調べましたから」
五月雨は荷物を置いて手帳を取り出した。
「この旅館の前の経営者である敷島宗一………つまり、今の女将さんである敷島野々江さんの旦那さんであり、宗助さんのお父様ですね。この人は一九三九年に失踪しています五月九日と、七月七日、それから十一月八日に新聞広告を出しています」
「ふむふむ」
「そのあと、また日暮―――じゃない、北島さんのお宅を訪問して日暮さんの部屋を調べました」
「それでどうだったネ?」
「ありましたよ」
そう言って五月雨は鞄から小汚いノートのようなものを取り出した。
「でかしたデース」
五月雨からノートを受け取り、金剛はパラパラをそれを捲った。
「それでは、五月雨に次の指示を出しマース。明日は手分けしてこの旅館から無くなった栓抜きを探すデース!」
「あ、それはちょっと無理かもしれません」
「ん? どうしてデース?」
「いやぁ、何せ子供を五人も助けたので、消防署から表彰状を貰うことになりまして………」
「シーット! そんなものキャンセルするデース!」
「そういうわけにも行きませんよ。新聞記者さんとかも来るんだし」
「キーッ!」
思わず金剛は頭をかきむしるのだった。