戦姫絶唱シンフォギアVC 前日談 HomeFronters 作:サリッサ@無期限休止
「
未開拓の大海へ、叫んで飛ぶ
あの鳥たちの声は
果たしてどこかの誰かの元へ
伝わり届くのだろうか
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「フンッ!!」
群がる者たちを、男の肘が吹き飛ばす。
狭い通路の中で、微かな揺れを伴いながら、激しい攻防が繰り広げられる。
「数がッ多い!」
男の足が、一層強く振り下ろされ、
轟音と共に、男の身体に力が漲る。
四方八方から現れる白目の群衆は、そんな男の様子などお構いなしだ。
「あんまり気張ると、船ぶっ壊れるぞ?」
気の抜けた声が男を諭す。
「そうも、言ってられんだろう!」
男の背中が、後方から来た三人を宙へと投げ戻す。
太平洋の海上、高度数万メートル
天空を切り裂く鉄の鳥は
死を纏いながら
かの地へと向かって
ないて飛ぶ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「遅い…」
公安所属の風鳴弦十郎。現在待ちぼうけをくらっていた。服装は職務用の黒いスーツ。トレードマークの赤い髪と同色のネクタイをし、かすかに揺れる廊下で佇んでいた。
すでに何人かが彼の前を通り過ぎたが、皆一様に早足で去っていく。
そこに遠くから足音が聞こえてきた。
「弦十郎さん?」
やってきたのは長身で整った顔立ち。見るからに好青年といった風体の男だった。
「お?緒川じゃないか!どうしたんだ、こんなところで」
緒川は弦十郎の待ち人ではなかったが、知り合いとの思わぬ再会に弦十郎の顔に笑顔がこぼれた。緒川もにこやかに返す。
「ええ。飛空艇のセキュリティ面を、内部から精査してほしいとのことで」
彼らが乗っているのは飛空艇カラノ。日本主導で作られた次世代航空機である。
「ああ、お前もその口か。俺も初飛行での、万一に備えてってことで駆り出された」
弦十郎はそう言うと自分の肩を回す。どうにも彼にはこの狭い空間は窮屈なようだった。その様子を見て緒川は苦笑する。
「で、どうだ?その手のスペシャリストとしての感想は」
「スペシャリストだなって。僕はまだまだ未熟者ですよ」
弦十郎の問いに緒川ははにかむ。
「そうですね、防犯、乗員管理システム等の設備としては、まず問題ないかと思われます」
「そうだな。俺も同意見だ。…設備としては、だが…」
弦十郎の言葉に、緒川も頷いた。
「異端技術を扱う研究施設か。その特性から、研究者も積まれている聖遺物も非公開なものが多い。となると、守るこちら側からすれば動きにくいことこの上ない…」
「ええ。万が一にも、乗員の中に内通者がいれば…」
「おー弦、久しぶりだな。老けたか?」
第三者の介入により、二人の会話は中断された。
緒川は声の主の方へ振り返り、弦十郎は驚くと共に、目元を押さえた。
そこには茶色に汚れた白衣を纏い、口元をガスマスクで覆った奇妙な男がいた。
男は飄々と歩いてくると、弦十郎の背を叩く。
「どうした。涙腺が緩む年頃だったか?」
「ハァ…お前は久々に会ってまずそれか…」
弦十郎は呆れたようにつぶやいたが、顔には旧友との再会を喜んでいるのが見て取れた。
「弦十郎さん…この方は?」
弦十郎の背を叩き続ける男を見、緒川が問うた。
「ああ、紹介しよう。俺の古い友人の、
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
時は遡り、カラノ出航、関係各位と挨拶をした後。
弦十郎は一人、まだ人の疎らな食堂にいた。
「おや、風鳴さん。お一人ですか?」
簡単なランチメニューを済ませていた頃に、一人の男性が声をかけてきた。
「エスペランザ主任」
先ほどの挨拶の中で聞いた名を呼ぶ弦十郎。男性は少しはにかんだ表情を見せた。
「主任だなんて。ベスでいいですよ。皆そう呼びますから」
「そうですか…」
ベスと名乗った男、ベラスケス・エスペランザは弦十郎の前に座った。
その手には珈琲とサンドイッチが一切れ、そして何か古めかしい本があった。
「それで足りるのですかな?」
その問いに対し、エスペランザはサンドイッチには手を触れず、眼前の大皿を指さした。
「少なくとも、あなたほど食べる人はそういませんよ。私は昔からあまり食べてこなかったので」
そう言って笑い、珈琲をすする。
「それにしても、配慮して下さって有難うございます」
「?なんのことでしょう」
唐突の感謝に、首をかしげる弦十郎。
「他の乗船員のことを考えてくれたのでしょう?」
弦十郎は頭を掻いた。
「お気付きとは…ええ、この船は研究者が乗員の七割を占めています。折角の休憩時間に、こんな不釣り合いの格好の男がいたら、何事かと恐縮する方もいるかもしれませんので…」
その返しにエスペランザは満足そうにうなずいた。
「考え過ぎな気もしますが…しかし、やはりあなたは私の思った通りの人物そうだ」
今度は弦十郎が問う番だ。
「不躾ですが、ご出身はどちらで?」
「ああ、日本の船舶にどうして私が、ということですな。確かに、あなた方の上司に外の人間を毛嫌いする方がいるようだ」
弦十郎は申し訳ないといった形で一礼した。エスペランザ自身は特に気にしていない様で柔和な笑みを浮かべている。
「構いませんよ。私は中南米出身です。今は米国の研究所所属で、第四エネルギーについての研究をしております」
「第四、エネルギーですか」
あまり聞きなれぬフレーズに呟く弦十郎。
「はい。火、蒸気機関、石油に続く、第四のエネルギー。その獲得をいち早く成し遂げるために、米国政府が目を付けたのが‟聖遺物„です」
エスペランザは目を細めて言った。
「〝聖遺物„、と呼ばれるオーバーテクノロジーの持つポテンシャルは、過去の文献や実験から見ても明らか。それ一つで核融合炉数個分を凌駕するものもあると言われるほどです。特に完全と称されるものは、起動できれば無限の力を内包しているものも存在すると推察できます」
「無限の力…」
弦十郎は興味深そうに頷く。
「ここカラノは日本とパイプを持つアーネンエルベ等の物品も研究対象。聖遺物研究後進国としては、この機会を逃すわけにはいかなかったのでしょう。私を含め、数人を強引に乗員としてねじ込んだようです」
エスペランザは少し身を乗り出し、弦十郎にしか聞こえない声で続ける。
「おそらく近々米国の聖遺物研究組織が正式に発足するでしょう。今までは、私のように個個人的な研究者たちが独自に進めていくのが主流でしたが、今後はより統率あるものに整備されていくはずです」
あくまで推測ですが、と付け足して彼は姿勢を正した。明らかに内部事情を話しているにも関わらず、彼の顔にはそのような素振りは一切なかった。
「今の話、宜しかったので?」
「ええ。あなたならば、大丈夫でしょう」
そう答えていると、徐に弦十郎の携帯端末が音をたてた。端末の画面には、知り合いの女性研究員の名が表示されている。
「…失礼。どうも馴染みからの誘いの様です。この船に乗っていまして」
「左様ですか。もしや、意中の方とか?」
「いえいえ、そんなッ」
その返しに、珍しく弦十郎は焦ったような困ったような動きをした。
「ハハ。懐かしいですな。私にも愛する妻と娘がいるんです。もう長い事会っていませんが」
エスペランザはにこやかにほほ笑んだ。
「あなたとはまた会えそうだ。どうぞこの船は少々揺れますので、お気をつけて」
エスペランザに見送られ、弦十郎は指定された廊下へ向かった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ホーン」
蘭堂と紹介された男は緒川から受け取ったメモを見て声をあげる。そこには
『保守派が台頭してきておりまして、その関係で忍びであることは極力伏せねばならないのです』
と記されていた。紙切れは蘭堂の声と同時に、小さく音をたて消し飛んだ。
「万一部外者に知れたら事、か」
「ええ」
緒川は同意し、胸をなでおろす。露骨過ぎたかと思ったが、蘭堂は思った以上に追求や詮索はしてこなかった。
しかし、服裏の仕込みから自分が忍びと悟られるとは。緒川は蘭堂の観察眼に素直に感心した。
「ちなみにですが…」
緒川は出会ってからの疑問を問おうとする。
「ああ、このマスクのことか?」
なんてことは無いように、蘭堂は自身の口を覆う物を指さす。
「そもそも、コイツは聖遺物研究者で、俺たち兄弟の古い知り合いなんだ」
弦十郎が肩を組むと、蘭堂は構わず続けた。
「まぁもっぱら桜井みたいな開発じゃなく、フィールドワークと発掘専門なんだが。仕事柄、害ある所に赴くことが多くてね。別に構いはしないが、着けていないと入れないところが多い。結局、外すのが面倒でそのまま、というわけだ」
その答えに、弦十郎は頷くと同時に首を捻った。
「そういえば、思えば俺たちが初めて会った時から、していなかったか?その頃はまだ…」
「何かしら理由は言った方が良いと、お前の兄貴から助言を受けたんだ。別に虚偽ではないから構わんだろう」
正直、人物像が掴めない類の様。研究員とういう人種は少なからずこういった者がいるのだろうか。
緒川は若干引き笑いをしながらも、この奇天烈な研究員に右手を差し出した。
「改めて、宜しくお願いします。ランドウさん」
「おぅ」
互いに握手を交わす二人。
「そうだ、件の了子君を見なかったか?ここに来るように呼ばれたんだが…」
弦十郎は自分を呼び出した研究者を思い浮かべる。桜井了子。先日、急に頭角を現した天才研究者。
その勢いはとどまることを知らず、聖遺物の欠片を利用した全く新しい理論を提唱し、実証段階に入ったと話は聞いていた。
その実験も、近いうちにこの飛空艇で行われるとの噂だった。
「ああ、桜井なら別件ができた、だそうだ。振られたな、と言うべきか?ここは」
その言葉に、弦十郎は返答に困ったように頭を掻いた。
「とりあえず、渡せとよ」
そう言って蘭堂は小さな切れ端を手渡す。
「…彼女らしい」
そこには『Next Time♡』と口紅で書かれていた。
「まぁ仕方ない。折角だ。少し話でもしようじゃないか。積もる話もあるだろう」
弦十郎と蘭堂はそれぞれの近況を話し始める。どちらかと言うと、弦十郎が蘭堂の話を無理やり引き出しているような形だった。緒川は二人に軽く礼をすると、自分の仕事に戻ることにした。
その時だった。
突如、けたたましいサイレン音が船内に木霊する。
緒川と弦十郎は緊張し、あたりを見渡した。しかし、サイレン音はすぐにやんだ。
「なんだ…今のは…」
弦十郎の呟きに答えるように、館内放送が鳴った。
『只今、機材トラブルにより誤って警戒音が鳴ってしまいました。繰り返します。ただいまのサイレンは誤報です。各位、通常の職務に戻ってください』
恐らくブリッジからの連絡だろう。女性と思わしき声だった。
「誤報…とのことですが…」
「ああ、妙だな」
二人は女性のその声が、微かにしかし確かに震えていたことを、敏感に感じ取っていた。
「とりあえず、連絡を取ってみるか」
弦十郎は携帯端末を取り出し、操作を始める。蘭堂はその様子を横から覗いているらしい。
「僕は、一度ブリッジに確認してきます」
緒川はそう言うと、メインブリッジに向かうべく動き出す。何かが起き始めている。
「…」
そこへ、一人の男性がゆっくりと歩いてくる。少し苦しんでいるようでもある。
服装から、研究者の一人だろう。足取りがどうも覚束ない。
「どうかしましたか?」
緒川は訝しがりながらも、男性へ近づく。
それに気づいたからか、男の口から呻くような微かな言葉が漏れた。
「…タス…ケ……」
緒川が男の肩へ手を伸ばす。
「どうした?緒川」
その言葉は緒川の耳には届かなかった。
突如男は、呻き声と共に緒川へ片手を振りぬいた。
「ッ!!?」
虚を突かれた緒川だったが、流石の身のこなしで後方へ避ける。
「緒川!」
弦十郎が男と緒川との間へ割って入る。男は白目をむいており、だらしなく空いた口から、よだれと呻き声をもらしていた。
「なんだ…こいつは…」
「弦、とりあえず、触るなよ」
対応を考えあぐねていた弦十郎に、蘭堂は言う。弦十郎は視線を蘭堂に向けた。
「何かが身体ン中へ混ざりこんでいるらしい。死んではいないが、風体は亡者と言うべきか。原因がわかるまで接触は控えた方がいい」
「そうだな。これではまるで…」
パニック映画で登場する、ゾンビの様ではないか。動作や風体は映画などで取り上げられるものに似通っている。問題はそんなフィクションまがいが、何故眼前で起きているかだ。
「そんなの、俺は知らん。ホラ、来るぞ」
蘭堂は肩を竦め、注意を促す。亡者化した研究員が呻きながら弦十郎目掛け突撃してきた。
「仕方、ない!」
弦十郎は近くの船室のドアを強引に剥がす。異常音を無視し、それで研究員の突撃を受け止めた。尚も研究員はドア越しに腕を叩きつけてくる。弦十郎は息を整え、踏み込んだ。
「フン!!」
地面を割らんばかりの音と共に、ドア目掛け、繰り出される正拳。足先から拳へ伝導された衝撃はすさまじく、ドア諸共研究員を後方へ吹き飛ばし、廊下に叩きつけた。
「これでッ」
まだうごめいている研究員を取り押さえようと動こうとした矢先、三人の前に別の亡者たちが現れる。
「ッ!!逃げるぞッ!」
弦十郎の一声が合図になったかのように、
空中に浮かぶ研究所は、生者死者が入り混じる地獄と化した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「なんなんだ彼らは!」
食堂で会ったエスペランザが、焦燥しきったように悪態をついた。
そこにいる多くが顔に影を落とし、その問いに答える者は誰もいない。
「とりあえず、しばらくは防げるな」
弦十郎は厳重にロックされたドアを確認しながら呟いた。
「この船のドアは強固だからね。人が数人束になったところで開けられはしないよ」
エスペランザも同意し、別のドアを確認するため、離れていった。
「ただここでは外と連絡がとれませんね」
緒川は自身の携帯端末を見ながら苦々しく言う。
資材がいくつかそのままになっている格納施設に、弦十郎を含む三人と、他から逃げてきた幾人かが立て籠もっていた。
先ほどのエスペランザ、そして研究員ではないであろう若者が数人、角に集まって座っていた。
その内の男女一組が、徐に弦十郎たちのところへやってきた。
「あの…警備の方…でしょうか」
「まぁ…似たような者か…君たちは?」
弦十郎に問うた女性は整った利発的な顔立ちに、不安の色が浮かんでいた。隣にいた男性の方が答える。
「僕は藤尭朔也、こっちは友里あおいといいます。僕らは、ここのスタッフ配属候補として研修のため乗船していたのですが…」
どうも正式なスタッフではなかったらしい。
「研修のために船内を担当の先輩に案内していただいている時に、サイレンが鳴って。先輩に一時避難するようにと言われ、他のみんなとここに」
見ると同じ服装をした若者たちは、艦内の気温もあってか肩を寄せ合っている。皆一様に不安を隠しきれていない様子だった。弦十郎は改めて二人に向き直った。
「ありがとう。俺は風鳴弦十郎、こっちは緒川慎次、伴成蘭堂だ」
隣に立つ緒川はにこやかに二人に挨拶をし、蘭堂は座り込んだまま、自身の端末と睨めっこをしながら素っ気なく片手をあげた。
「ここまで大変だったろう。安心してくれ、ここは俺たちが必ず何とかしてみせる。二人は他の研修生のケアを頼みたい」
弦十郎の真摯な態度に、二人は幾らか安心したのか、頷くと仲間たちの元に戻っていった。
「で、どうだ?」
弦十郎は他の者に聞こえないよう、蘭堂に問う。
蘭堂はマスクの位置を直しながら立ち上がり、肩を竦めて答えた。
「再度調べたが、ああいった事象を引き起しそうな物品は、少なくとも正式にはない。共有されず秘密裏に運び込まれたか、あるいは」
「関係外から持ち込まれた、か」
緒川も一層険しい顔になる。少なくとも、人為的な何かが関わっていることは明らかであった。
「早く、外部と連絡を取らないと」
「ああ。問題は、おそらくメインブリッジの方は使えない可能性が高いということ…」
「だろうな、あのアナウンス以降、この状況下で一向に音沙汰がない」
蘭堂の言葉に、緒川も頷く。言葉通り、船内の異常事態にも関わらず、何の放送も流れてこない。侵入者がいようがいまいが、メインブリッジは常に人が多い場所。あの亡者たちが押し寄せたことは容易に想像できた。三人は端末で地図を開き、通信可能な場所を探す。
「しかし、妙に冷えるな…」
弦十郎は天井の空調機を訝し気に見上げた。
「それは、メインブリッジの調整機構が機能していないからかと」
振り向くと、先ほどの男性、藤尭が立っている。
「君は…どうしたんだ?」
「ケアの方は友里に任せてきました。彼女は気配りとか得意そうなんですが、僕は苦手なので…」
少しばつが悪そうに笑うと、弦十郎の端末の地図をのぞき込む。
「おそらく、ここなら設備を弄れば通信ができます」
そういって指さしたのは、調理室と隣接した食堂であった。
「乗船前に無理言って、幾つか資料を見せてもらったんです。メインブリッジとの配線都合からか、ここに外部通信設備用のモジュールが通っていました。事が起きたのは昼過ぎ。おそらく食堂には後片付けのための人員しかいなかったと考えると…」
弦十郎はまじまじと藤尭を見た。彼は船内図、外敵の可能性、ゾンビ化していた場合の危険等を把握し、打開策を提示してみせたのだ。思わぬ助っ人に、弦十郎は奮い立つ。
「…よし!ありがとう!その手で行こう。君…藤尭君は機械操作の方はできるか?」
「学校や図書館で調べた程度、ですが」
一瞬顔が引きつったものの、藤尭が答えた、時だった。
「あ…子どもが…」
呟いたのは友里とは別の女性研修生だ。友里のお陰か、落ち着きを取り戻した一人で、丁度弦十郎たちから離れた側のドアモニタを見ている。
言葉に気が付いたのは近くにいた友里と、緒川くらいだった。
「どうしたの?」
友里の問いに女性はモニタを指さす。そこにはたったひとり、ドアの前に立っている子どもの姿があった。
「子ども?」
友里は眉を顰めた。この船、カラノに齢幾ばくかの子どもを乗せることなどあるのだろうか。しかし、友里の不審を他所に、むしろ正気を取り戻していたからこそ、女性はドアへ駆け寄った。
「待って!」
友里の制止を聞かず、女性はドアの開閉スイッチへと手を伸ばす。その時点でやっと弦十郎も気が付いた。
「何をしている!」
女性はドアを開ける。そこにはモニタ通り、子どもが立っていた。
見た目は浅黒く、病衣のようなものを纏っている。一瞬緒川と弦十郎は駆け出そうとしたが、そうはしなかった。
その子どもが異様な風体をしながらも、ゾンビとは明確に違うように思えたからだ。
「だって子どもが!」
「わからないわ!一旦閉めて!」
女性が友里と口論するのを見、子どもは首をかしげる。目は焦点があっているし、異常に呻いたり攻撃をしてくる素振りもない。ここまでの道中で、このようなゾンビはいなかった。もしかすると、本当に逃げてきた子どもなのかもしれない。
「あれだ」
子どもが手を伸ばすのと、弦十郎の耳に蘭堂の言葉が飛び込んできたのは同時だった。
「弦、あれが元凶だ」
次の瞬間、女性の悲鳴が破裂した。
友里は近くで動けず呆然とし、藤尭はあまりの声に腰を抜かしている。女性は子どもが触れた自らの腕を掴んで強烈な声をあげている。
動いたのは弦十郎、ではなく蘭堂の方だった。
蘭堂は素早く手袋をはめると子どもの頭を鷲掴み、誰もいないところへ放り投げる。そして女性の手首をつかむと、全員から一定の距離のところまで引きずり運んだ。
「一体…何がッ」
唖然としながらも瞬時にドアを閉めた緒川が問う。尚も叫ぶ女性を足で押さえつけ、蘭堂は生身で触れないようにしながら診断を始めた。
「…やはり接触感染。一種のウィルス…とも言えるか」
「それなら…早く止めないと…」
その場で固まっていたエスペランザが意を決したようにつぶやき、持っていたロープを差し出す。
蘭堂とエスペランザに口と身動きを封じられ、女性はもがき唸るしかなくなった。
女性の手首には子どもに掴まれた形の黒い変色が見て取れた。
「元凶っていうのは」
「十中八九ソレが感染の元だ」
蘭堂は続いて子どもに近づく。放り投げられた子どもは座り込んだまま蘭堂を見た。
「フンム…なるほど。ゾンビパウダーの亜種か…機材があればもう少し正確に判断できるがねぇ」
「ゾン…ビ?」
映画やアニメでしか聞かないワードの登場に、ほとんどかは呆気にとられる。
「あー映画とかで出てくるような、死者が薬品で~とかとは違うぞ。ああいうのは演出の都合で生まれた産物だ」
手袋の上から子どもの手に触れつつ、蘭堂は続ける。
「所説はあるが、まぁざっくりと、伝承のゾンビを説明するとだな。まずゾンビパウダー、対象を仮死状態にする薬物を盛り家族に埋葬させる。酸欠で脳がいい具合にダメージ受けた頃に蘇生薬で復活。自意識を失い忠実な生きる屍が完成ってものだが…」
彼の職を知る幾人は真剣に聞いていた。
「これはそのゾンビパウダーをアレンジしているようだ。伝承通りのテロドトキシンより、毒性は低い。身体はまだ生きた人間のままだ」
「致死性は低いということ?」
エスペランザが一歩引いたところから聞く。
「本来なら人間が一飲みで即死レベルの代物だぞ。知らないのか?えーっと…」
返す手で問われたエスペランザは額に汗を滲ませつつ答える。
「エスペランザだ。申し訳ない…専攻がエネルギーなもので…」
「そうかい」
興味ないといった素振りで蘭堂は続けた。
「身体は現状生きていても、身体を変異させる毒に変わりはない。
このままの状態を放置していれば、確実に脳は壊死し、体中の細胞を変容させるだろう。配合まではわからんから何とも言えんが…伝承通りのゾンビか、はたまたフィクション通りの動く死体か、少なくとも人間じゃないナニカに変貌するさ」
そこで弦十郎が口を挟む。
「ちょっと待て。じゃあ今どうして彼女や、外の者たちは動いているんだ?」
件の女性は未だにもがいている。その様子を一瞥し、蘭堂は回答した。
「それがこのゾンビパウダーを亜種足らしめている点の一つだ。精神…いや、脳といった方が受け入れやすいのか。脳からの命令が、特定の行動しかしないようにフィルターをかけられているとイメージすればいい。そのおかげでこの様。どうしてそのように調合したのかは…」
蘭堂は立ち上がり、白衣の裾を払った。
「経過観察するか、作った輩に聞くしかない。とどのつまり、だ。こいつに感染した人間は、現状ゾンビのように動きながら、そしてゾンビかナニかに変異するよう仕向けられているってこった」
「そんなことが…」
絶句する他者をしり目に、大きく伸びをする。彼の一連の行為には緊迫感といったものが感じられなかった。
「メディカルチェックを受けた上で乗っている以上、乗員は健常者ばかり。直ぐに毒にやられることもないだろう。結論、邪魔ではあるが、触られなければ、しばらくはほっといてもいい。あとは…」
今度は子どもに向き直る。子どもは眼前に蘭堂を見、女性の時と同じように手を伸ばし始めた。
「やはり鼓動が…ということは、成程そういうことか」
子どもの手を煩わしそうにはたき付け、蘭堂は興味深そうに眉をひそめた。
「そういうこと…とは?」
エスペランザが蘭堂に問う。
蘭堂は、その問いに、極めて滑稽そうに答えた。
「コレは、死体だ」
首をかしげる子どものような存在を、そう断言した。
「…その子が…死者、だと言うのか…?」
眼前で、無邪気に手を伸ばすこの存在が。弦十郎にもあまりに突拍子もないことで、思わず言葉が漏れた。
「ああ、よく見ろ。呼吸もなく、心臓の拍動もない。というか、暫定ゾンビパウダーが身体から染み出ている時点で到底人とは言えまい。触ってみるか?なかなかに冷たいぞ」
確かに注視してみれば、子どものような形をしたそれは、肩の上下など呼吸をしている素振りが一切ない。
「身体を動かしているのは別の呪法だな。死体に毒素を排出するように作り変えた後か、もしくは前かで、どっかの誰かの魂を付与させたのか…」
蘭堂は手袋に付着した粉末を楽しそうに眺めた。
「人を凶行に走らせ、次第に変異させる毒素。それを子どもの死体に入れて動く伝染兵器に仕立て上げるとは。本当に人間は面白いことを試すものだよ」
愉快と嘲笑が混じったような笑い声が、虚しく木霊する。疑うまでもなく、どこかの誰かが、この幼い肉体を用いて、おぞましい実験をしたと理解した。
「空気…感染とかは…」
その膠着した空気を破ったのは、別の研修生だった。
その言葉は、その場のほぼ全てを戦慄させるのに十分すぎるものだった。
「さあね」
蘭堂は答える。
「今のところ接触での感染しか確認できていないだけであって、それ以外がどうだかは現時点ではわからん。まぁ」
マスク越しにもわかる異様な笑顔を浮かべつつ、蘭堂は研修生を見た。
「あるとしたら、もう全員仕舞だな」
聞くが早いか、研修員たちが一斉にドアへと駆け出した。
「待って!」
ドア前で止めようとした友里を突き飛ばし、研修生たちはドアから逃げ出す。
しかし、ドアの先の廊下の角。先ほどの悲鳴を聞きつけたであろう亡者たちが現れた。
「みんな!」
友里に駆け寄る藤尭。連れ戻そうと動き出した弦十郎よりも、エスペランザがドアを閉める方が早かった。
「何をする!」
「もう彼らは助からない!!」
既にドアの先から悲鳴が聞こえる。彼は尚もドアの向こうへ行こうとエスペランザを押しのけた。
「やめとけやめとけ」
蘭堂は子どもから離れあくびをかく。そこへ詰め寄る緒川。
「あなたは!何てことを!」
「聞かれたから俺の見解を言っただけだぞ?」
詫びいれるわけでもなく、むしろ怪訝な顔を緒川に向ける。
「…やめろ、緒川」
思わず振るいかけた拳を、弦十郎が止める。
「しかし!」
緒川の代わりに弦十郎が蘭堂の胸倉を掴んだ。その顔には怒りと、そして後悔も見て取れる。
「…解決方法は」
その態度にも意を介さない。緒川は出会った時の異質さを再度感じる。
人を狂わせる毒を話したこの男自体が、ひどく人間から外れた者であるように思えた。
「さっきも言ったが、毒性は低い。この場で解毒剤が作れれば多少変異が進行していても人間に戻せるだろう。人間元来の可塑性は高いからな」
蘭堂と弦十郎はしばし無言で見合う。弦十郎はため息をつくと、蘭堂を離し、かわりに残った者に目を移した。
一様に不安が再発している。自分が打開しなければならない、改めて弦十郎は心に決めた。
「こいつの性格を知っていたのに、止めなかった俺の落ち度でもある。だがこいつは嘘をつく男じゃない。打開の可能性があると言った以上、それは必ずある。ここは一旦別の場所へ避難しよう」
緒川は頷き、いち早く反対のドアの警戒に向かう。友里は藤尭に手を貸してもらい立ち上がった。二人とも意を決したような表情だ。
しかし、一人だけ思い詰めたような表情をしている。エスペランザだ。彼は先ほど閉めたドアから動こうとしなかった。ドアからは何かが叩く音が聞こえ、次第に大きくなっているようだった。
「エスペランザ主任、早く」
「いや、私は残るよ」
エスペランザは肩を竦め、隅に置いてあった資材を漁る。
「彼らをこうしたのは私だ。その責任はとるよ」
そうして未だ叩かれるドアに、なけなしのバリケードを築き始める。手伝うため近付こうとした弦十郎を、彼は止めた。
「解決策を早く見つけてくれ。そうすれば…」
見ればエスペランザの額にはびっしりと脂汗が張り付き、手首に薄っすらと黒い跡が見える。険しい表情をした後、弦十郎は踵を返した。
「…必ず助けるッ」
弦十郎たちを横目で見送り、エスペランザはバリケードを支える手に力を込めた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「で、何で連れてきたんだ?」
ゾンビたちの追跡を振り切り、ついに目的の食堂までやってきた弦十郎たち。
「すみません…」
そこにはあの浅黒い子どもの姿もあった。連れてきたのは友里だ。
子どもは手袋をはめた友里の手を握り、じっと彼女を見上げている。
「どうしたものか…」
一応、先ほどの女性研修者の同様の兆候は見込めなかった。件の女性も、蘭堂が経過観察のためと、台車に乗せて連れてきている。
「いいんじゃないか?どちらにしろ、あの部屋で会った以上、連れてこようがこまいが大きな差はないさ」
その女性の状況を観察しつつ、蘭堂が言う。もう叫ぶような行為はせず、縛られているがゆえにただ呻くばかりだ。弦十郎は頭を掻きむしり、ため息をついた。
「その子がウィルスの元だとしても、その子に罪があるわけではない、か」
真に糾弾すべき存在は別にいる。
弦十郎は近くを見渡し、誰が置いていったのか、調理服とキッチンバサミを差し出した。
「しかし、君まで毒牙にかかる必要はない。必ず直接触れないこと。何かあれば必ず報告すること、いいね」
友里は頷くと、受け取ったそれを子どもが被れるように切り始めた。
「弦十郎さん!」
緒川に呼ばれ、弦十郎は藤尭と作業している彼の元へやってくる。藤尭が狭い空間に身を押し込み、中の配電盤などを弄っているらしい。
「思ったよりも面倒なところにありましたが…これ…でッ!」
そう言うと、有線接続した携帯端末に反応があった。目論見はどうも成功したらしい。
「やった!つながりました!これでイケます!」
藤尭と緒川の奮闘をねぎらい、弦十郎は受け取った端末に目を落とす。
「…どうしました?」
緒川が尋ねる中、弦十郎はしばし考えあぐねる。少し悩んだ末、この状況下も含め、最も信頼できる男の番号を呼び出した。
『弦!無事だったか!!』
連絡の相手は彼の兄、風鳴八紘。情報官である彼ならば、この状況についても取りこぼしているはずがない。弦十郎は端的に現状を報告し、兄に問う。
「そっちはどうなっている」
弟の問いかけに、彼は明らかに険しい表情を浮かべた。
『最悪、と言って差し支えない。カラノは連絡を絶ったまま、真っ直ぐ米国本土、国防総本部に向かって飛んでいるらしい。少なくとも、あと数時間で上空に侵入する計算だ』
「米国に…?」
弦十郎は眉を顰める。この事件の主犯は一体何を企んでいるのか。
『この状況下で、彼らは自国防衛のために即時撃墜を求めて来ている。こちらも多数の貴重な聖遺物と人員を乗せているため、簡単に強硬手段には出ない。しかし、対応の遅れが外交問題に直結する以上、長くはもたない…それに』
そこで端末が音をたてる。やはりか、とこの介入を弦十郎は予見していた。
『儚きかな』
その言葉と共に映し出されたのは、風鳴機関現当主にして、二人の父親、風鳴訃堂。
彼の顔を見、身が強張るのを感じた。
『異敵に占領され、これ以上の不覚を取るのならば、速やかに撃墜せよ』
「しかしッ!それでは乗員たちの命が!」
当然のようにそう言い放った父親に、弦十郎は言いすがる。
『何を迷う必要がある。乗っ取られた挙句、聖遺物までも米国政府にくれてやるつもりか?愚行にも程がある。防人の血を引く者ならば、為すべきことはわかっているだろう!』
防人として、これまで国を数多の存在から守ってきた彼であれば、当然の言葉だった。領海内で撃墜された場合、必ずそのサルベージ権を主張するであろうことは容易に想像がつく。それでも、弦十郎は引き下がれない。
「人命よりも、モノを優先せよ、と…」
『是非に及ばず』
弦十郎は拳を叩きつける。ここに残っている者たちの仲間を、見捨てろと。眼前の男は簡単に言い切った。
押し黙る八紘と弦十郎。
「まぁ、さっさと落とすのが最善手だわな」
そこへ蘭堂が首を突っ込んできた。顛末を見ると、彼の顔が笑顔に歪んだ。
「…よう訃堂、サン。敬称で呼ぶべきだな、ここは。久しぶり」
『ッ!!!貴様…ぬけぬけとッ』
訃堂は明らかに憎悪に満ちた目で画面先の蘭堂を睨みつけた。普段の父を知る息子二人でもたじろぐ、その鬼の形相を見てなお、蘭堂は飄々としている。過去、二人の間に一体何があったというのか。
「解毒方法確立のための機材も時間も人員もない。海上にいるうちに処理しなけりゃ、いずれ世界中に蔓延するかもわからない。手遅れになる前に、機体を大海に堕とす。至極妥当な判断だ」
それでいいのか、弦十郎は改めて自問自答する。
確かにこの機だけの問題ではない。下手を打てばそれこそ全世界の危機に発展するかもしれない。
そして機内にいる自分たちならば、飛空艇を落とし、その最悪を回避することができる。
自分たちだけであれば、今からでも脱出することも簡単かもしれない。
余計なリスクもない正論、最適解であろう。
「………」
しかし、しかし、それでいいのか。若かりし彼では、決断を下すことはできない。父の正しさに屈服しそうになりながらも、
それでも、彼の根底にあるモノがその‟正義„を頑なに良しとしなかった。
『決断しろ弦十郎、風鳴の血が流れているのならば!!!』
「どうしたの?」
悩み喘ぐ弦十郎の耳に、女性の声が届いた。
振り向く。
そこには友里がいる。しかし先ほどまで手をつないでいた子どもは、どこか。
壁際だ。大きめに調整された調理服を被り、壁を背に預けて立っている。
どうやら子どもの方から逃げたらしい。
逃げた?
「蘭堂、あれは…」
無意識に隣にいる友人を呼ぶ。蘭堂自身、その様子に見入っていた。眉を顰め、じっと。
「どうしたの?」
優しく声をかけている友里のことではない。別の何かを、‟恐れている„かのような反応だった。
「ん?」
蘭堂が二人の方へ、そして子どもが避けている方へと向かっていく。視線の先は、何の変哲もない調味料の棚らしい。弦十郎は、その様子を固唾を飲んで見守っていた。
「何か…あるのか?」
「……ッハ!なるほど!!」
しばし無言で漁っていた蘭堂だったが、突然声をあげる。
「確かに確かに、そりゃそうか、その可能性は失念していた」
そう笑いながら取り出したのは、白い結晶の入った小瓶だった。
「…塩?」
何のことはない。今の時代、どの家庭にでも等しくある素朴なものが、
現状最良の切り札となった瞬間だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
冷気漂う船内を、亡者たちは闊歩する。数は四人。一様にだらしなく口を開け、今にも倒れそうな足取りで、しかしまるで何かを探しているかのようだ。
飛空艇カラノは、感染者の巣窟と言って過言はなかった。ほぼすべての人間が、もはや人間を外れかけている。
「…」
一体の亡者の足元で音が鳴る。近くの亡者がそこへ目を向けるように顔を落とした。
「!」
そう、彼らを除いては。
「失礼します」
微かに言った男の手刀が、亡者の背部を捉える。周りいた亡者は倒れ伏す同類を、そしてそれを行った男の方を向いた。
「どうも」
緒川慎次は極めて冷静に、しかし大胆に動き出す。
向かってくる亡者の腕をすべて紙一重で避ける。彼にとって常人の、しかも正気を失っている者たちの手など、脅威ではない。踊るように避ける様は、むしろ誘っているかのようだ。
「しかし、罪もない方たちに手をあげるのはッ」
瞬間、亡者たちの前から、緒川が消える。対象を失った者たちの凶手が、虚しく空を切った。
「気が引けますね」
背面からの衝撃。亡者に意識があれば、何が起きたかわからず、唐突背後に出現した緒川の顔を見る間もなく昏倒していただろう。だが、
「ッ!」
彼らは人間からずれている。倒れ伏す亡者たちの内一体だけが、そのウィルスを纏った腕を振りぬいた。正確に、緒川の顔目掛けて、
「おっと」
その掌が緒川を捉えることはなかった。受けたのは厚手のタクティカルグローブ。相手の勢いを殺さず脇を通り抜け、無防備になった背中目掛け、彼の手刀と甲が短く音をたてた。
「…僕もまだまだ、ですね」
緒川は動きを封じた四人を見下ろしながら、苦笑を漏らした。
「おわったかー?」
廊下の曲がり角から、素っ頓狂な声がかけられた。
「ちょっとッ!」
そして女性の声と、何やら取り押さえようとする数人の物音がする。
「ええ。終わりましたよ。大丈夫です」
緒川の発言に、角から台車を押す蘭堂が現れる。
「ん。ご苦労ご苦労」
「どんどん前に行こうとしないでくださいよ!」
蘭堂に続いて、藤尭、子どもを連れた友里が現れる。
「こいつが打ち損じることはないだろうさ。縮こまっていても仕方ない。だろう?」
「縮こまりたいくらいの寒さではありますけどね」
皮肉めいた笑顔を浮かべながら、緒川は言った。
「それにしても、緒川さんお強いですね!待っているように言われてから数秒で四人も動けなくしてしまうなんて」
倒れ伏す亡者を見、友里が感嘆の声をあげる。
「でも様子を見てはいけないって…どういうことですか?」
藤尭の質問に緒川はぎこちなく笑うしかなかった。
「んじゃ、さっさと済ますぞ」
そう言って蘭堂は、亡者の横にしゃがみ込む。
「それにしても、まさか塩で対処できるとは…」
処置を見、緒川はつぶやく。台車に積んだ大量の塩を亡者の口に入れながら、蘭堂は笑った。
「応急処置としては、な。ゾンビの呪いを解く方法で、塩を大量に飲ませて行う儀式は確かにある。
まぁ…ここまで効果覿面だと笑えてくるものだが」
あの後、子どもが極端に塩を避けていることを改めて確認。
そして伝承の通り女性研修員に塩を服用させたところ、血色が良くなり、異形化の進行が納まっていた。
「ある意味、その子…シオを連れてきたのはいい判断だったな」
藤尭がそう声をかけると、友里は傍らで縮こまっている子どもを見た。
「にしても、呼び名がシオって、ブラックジョークすぎないか?」
「いいんだよ」
そう言って手を振る蘭堂。
「それくらいがちょうどいいだろう?」
対処法が判明したため、ある程度不安は和らいでいた。しかし、そんな会話をしながらも、緊迫感はぬぐえない。一同は艦の制御を取り戻すため、メインブリッジへ急いでいた。
「まぁ、言っておくならば、感情移入は推奨しない。最初に言ったがそいつはどう転んでも死人。お前らとは相いれない存在だ」
何ともなしに言った蘭堂の言葉に、友里の顔が少し陰る。
友里が手を取っている以上、子どもは反抗したり無遠慮に触れてこようとすることはなく、手袋越しに繋がった友里に従順だった。
「ともかく、まずは米国への対応、話はそれからだ」
しんがりを務める弦十郎は、先ほどの会話を思い出していた。
「八紘兄貴。ここでのことを両政府に伝えてくれ。対応が可能で、それを順次開始する。だから俺たちに時間をくれと」
『愚か者!対応策がなんだというのだ。現状が打開される保障もない。
やつらがそれで納得することなどないと、貴様とてわかっているだろう!』
確かに、ここにある分の塩で足りるかも、そして米国がそんな絵空事を信じるとも思えない。弦十郎は答えられない。
しかし、八紘は静かにうなずいた。
『わかった。広木副防衛大臣にも話してみよう。あの人ならば、私以上に時間を稼いでくれるかもしれない』
「恩に着る」
兄の心強い答えに、深く感謝する。しかし、父は違った。
『貴様まだその甘さを捨てられぬか!その甘さのせいで、護るべきものを見落とすなど愚の骨頂!』
「だとしても!!」
不思議と無意識に、その言葉が飛び出していた。
八紘も、そして傍で聞いている誰もが口を噤む中、
弦十郎は静かに続けた。
「俺が守りたいのは、人の命だ」
あの時の言葉を再度呟きながら、そして一人の女性を思い浮かべながら、
弦十郎は改めて強く、拳を握った。