戦姫絶唱シンフォギアVC 前日談 HomeFronters   作:サリッサ@無期限休止

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Chapter2 腐敗彩るこのソラで

メインブリッジに到着した一同。

 

大量の亡者がいると思われたが、しかし誰一人いなかった。すぐさま藤尭が操作を開始し、友里も続く。装置に疎い弦十郎は後ろで二人の姿を見守っていた。

 

「二人はいいオペレーターになるな…」

そしてロックされた扉を後ろ手に見る。

「問題ないと言ったろう?」

持ってきた塩の残量を確認しながら蘭堂がそう言った。道中で数回亡者と遭遇したものの、無事無力化には成功していた。しかし、実際塩だけでは正気に戻るまでは至らない。やむを得ず数か所に寝かせてきていた。

「うむ…」

弦十郎の脳裏に残してきた二人の顔がちらつく。

「無事でいてくれ…」

 

「できました!」

藤尭が声をあげる。

通信設備のロック解除が画面に映し出され、弦十郎の端末が鳴った。表示されたのは八紘の名だった。

「八紘兄貴!」

 

『弦!』

通信がつながった喜びとは他所に、八紘の声は明らかに焦っていた。その真意を問う前に、今度は友里の声が耳に飛び込んでくる。

 

「オートパイロットが解除できない?!」

「何ですって!」

緒川が駆け寄る。弦十郎も続こうとしたが、その前に八紘が割って入る。

『弦!今すぐその船から脱出しろ!』

「何があったんだ兄貴」

八紘の声には悔しさがにじみ出ていた。

『米国の独断があまりにも早すぎる。既にその機へのミサイル発射を進めているらしい。広木副大臣も奮闘してくれているが、どこまで遅らせられるかわからない!』

「どうしてだ!対応策があることを提示したんだろう?」

『ああ。しかし、明らかに彼らは何かを隠ぺいするために動いている。何が何でも領海内で撃墜するつもりだ』

「なん…だと…」

絶句する弦十郎。更に状況は悪化する。

「弦十郎さん。オートパイロットが起動しています。しかもこちらの操作を全く受け付けません!」

「…どこに向かっている?」

弦十郎の問いに、緒川に代わり、友里が険しく答えた。

 

「米国、本土です」

「糞ッ!!」

弦十郎は壁に拳を叩きつける。撃墜する名目をくれてやっているようなものだ。

 

「米国は落とす気満々。そんでカラノ自体も本土に落ちる気満々、か」

蘭堂は呑気な声をあげつつ、懐から何かを取り出した。

 

奇妙な箱だった。長方形で真っ黒く塗りつぶされている。微かに彫刻が掘られているらしいことが、遠目から判別できた。

しかし、その箱を見た途端ソレから目が離せなくなる。比喩ではなく、光を飲み込んでいるような、己すらも飲み込まれていくような錯覚。硬直しながらも、かろうじて口が動いた。

「それは」

「まぁ…お守り…みたいなもんだな」

珍しく歯切れ悪く答えながら、蘭堂は金属製の箱の表面をなぞる。正確には、箱を開けるように表面をなぞる仕草だ。

 

『弦、聞こえているか!?』

八紘の声が再び耳を叩く。頭を振り、彼は意識を通信へ戻した。

「ああ、聞こえているよ、兄貴」

『よし。絶望的だが、希望はある。先ほど桜井氏から連絡があった』

「了子君から?!」

予想外の名前の登場に、驚く弦十郎。

『ああ。どうやら他の研究者と共にテロリストらしき者たちに拘束されていたらしい。しかし、亡者騒動でテロリストたちが壊滅。今船からの脱出準備をしているとのことだ』

「藤尭!」

素早く藤尭が端末を操作する。

「ダメです!脱出ポット近くの通信が局所的にジャミングされている!しかし確かに反応があります!」

絶望的ではあるものの、しかし幾らか希望が見えてきた。

「八紘兄貴、何とか他の乗員を助けられないかやってみる。もう少しだけ頼めるか!」

『もとよりそつもりだ。死ぬなよ、弦』

 

通信を切り、机に手をつく弦十郎。一瞬の沈黙が場を支配する。弦十郎は横目でシオを見た。シオは友里の隣で、彼女の服の裾を掴んで立ち、友里を見上げていた。友里自身も、手袋越しでシオを撫でる。その手は震えていた。悩んでいる時間はない。

「んで、俺は何をすればいい?」

先に声をあげたのは、予想外にも蘭堂だった。

「この後がフリーになった。なんでもいいぞ」

妙なことを言うが、現状、それを追求している時間はない。

 

「ああ。まず、この機は撃墜されそうになっている。そしてその猶予も長くはないだろう。藤尭」

先ほどは無意識に呼び捨てしてしまったが、呼ばれた当人は頷いた。

「脱出ポットは計三つ。内一つがアクティブになっています。設計上、残り二つに押し込めれば全員乗せることは可能です」

見れば彼の顔には恐怖がありありと見て取れた。尚もその恐怖に押し勝とうと自分を取り繕っている。その風貌は相手に不安を与えかねない仕草だが、

しかし今の弦十郎にとっては頼もしくすら感じられた。

 

「…よし」

そう言って、弦十郎は皆を見渡す。誰もが多かれ少なかれ、心の中で恐怖を感じていることだろう。それは勿論…だとしても。

 

「皆、俺の我儘に付き合ってくれるか?」

 

弦十郎の毅然とした態度に、全員が静かに頷いた。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

『こちら緒川。エリアC、確保完了しました。続いてDに移行します』

 

緒川からの通信を受け、地図を表示させる友里。そこには無数の赤い点が表示されていた。

「ドアから数メートル先に三人。更に奥に二人です!」

『痛み入ります!』

言葉と同時に【OPEN】の文字が表示され、続け様に赤い点が白に変わる。恐ろしい早業だ。

『こっちも片付いた!次はどっちだ!』

「そこから左に進んでください。先のドア前に四人です!」

弦十郎の問いに素早く答える藤尭。

「エリアAからFまで、オールクリア。すごい…」

感嘆の声をもらす友里。その服を、何かが引っ張った。

「ちょっと待ってね」

傍で佇むシオにそう声をかけると、すぐさまモニタに目を戻す。乗員を回収している緒川に近づく亡者の反応はない。友里は残りの区画に目を通した。

 

 

作戦はいたってシンプル。乗員として登録されている、自分たちとそれ以外の人間を区分け。全員を即時無力化させ、脱出ポットに運ぶ。

弦十郎と緒川が亡者の昏倒作業を行い、気絶した者を移動させるのが蘭堂。状況報告と各員の連絡を友里と藤尭が担当する形である。

迅速に、乗員全員の無力化など土台無理な話と思われたが、実働の二人の動きは凄まじかった。

 

「まさか、こんなことになるとはな」

対岸のコンソールを操作する藤尭が声をかける。彼は弦十郎の管制の傍ら、どうにかカラノの軌道を変更できないか苦心している。

 

「今更じゃない?」

そもそも二人は、これまで話す機会も少なかった。同じ研修員の一人、という程度であった。

「事件もそうだけど、現状、こういう形で作業していることがさ」

研修期間中に、前線でのオペレーティングをするなど考えるはずもない。無論、そのための訓練は受けてきた。

緊急が生じる可能性は承知の上でもあったが、最新鋭で安全な船にいる以上、正規クルーが行うはず。

だが今こうして、時間と戦いながら、戦士たちのバックアップを行っている。額にはリミットへの焦りが浮かんでいながらも、不思議と嘆きはなかった。

「案外、合っているのかもね、私たち」

「違いない」

二人は必死に各々の作業に戻る。

 

 

 

だが、殴打音がそれを遮る。

二人は同時に後方のドアを見た。再び殴打音。それも一人ではない。

「そんな!どうしてッ」

『どうした?!』

弦十郎の声が届く。

「表示されて…なかったのに」

「クソッ!話に出ていたテロリストの亡者か!」

藤尭はそう言うと机上のテーザー銃を取り上げた。友里も続く。護身用として手渡されたものだ。いくら相手が異常でも、人体には変わらない。

『蘭堂!一番近いのはお前だ!頼む!』

オープンの回線から弦十郎が叫ぶ。戦闘訓練などまだろくに受けたことのない身として、この状況はかなり危険だった。

「大丈夫よ」

傍らのシオに、そして自分に言い聞かせる。

 

 

一際大きな破壊音と共に、ついにドアが倒れ伏した。

「ヒッ!」

そこには三人、黒服を纏ったモノがいる。しかし、だが様子がおかしい。

「なん…だ?」

 

その風体が今までの感染者とは違った。妙に血走った目、口は噛み締められている。唸るような声と共に、覚束ない足取りで室内に入ってきた。

敵意。友里の背中を嫌な水滴が伝う。

 

「クッ来るな!!」

藤尭がテーザー銃を向け、撃ち放つ。先頭の男の肩に命中し、見事一人がその場で昏倒した。すぐさま次弾の装填に移る。

「効いてる!」

だが残りの二人は、迷わず友里の方へ向かってくる。

「待て!こっちだ!」

声を荒げる藤尭を無視し、ゆっくりと、しかし着実に進んでいく。

「ッ!」

友里もテーザー銃を構え、引き金を引いた。しかしあろうことか肩口を霞めて外れてしまった。低い唸り声と共に、恐怖が二人の心を鷲掴んでいく。

「この!!!」

意を決した藤尭が装填を諦め一体に飛び掛かる。上手く押し倒せたが、それでももう一体は変わらず進んでしまう。

「逃げろ!友里!!」

 

 

 

声を他所に、友里は妙に冷静になっていた。眼前の化け物が、自分を見ていない、と感じたからだ。

 

明白に威嚇行為をしている。それだけで他の感染者とは違いながら、その上自分が対象ではないらしかった。

 

 

では誰か。

 

 

「まさか…」

 

友里は背後にいる者に目をやる。確かにそうだ。化け物の目線はシオの方を向いている。

 

「友里!!!」

化け物が腕を振り上げた瞬間、考えるよりも先に友里はシオと化け物の間に身を投じていた。

 

 

「友里!!!!!」

 

 

 

 

無慈悲に振り下ろされた鉤爪が、彼女の背を切り裂いた。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

少し時間は遡る。

 

 

薄暗い部屋。

いくつかデスクが隣接し、上部の蛍光灯は点灯していない。懐中電灯の白い線だけが、内部を照らしている。

「さて、言われたものは、と」

蘭堂はその中で一つのデスクを漁っている。棚の中身をひっくり返し、何やら探し物をしているようだ。

しばしの間を置き、彼は引き出しから一枚の封筒を探り当てる。

「これか…」

中身を取り出し、目を通す。軽く頷くと卓上に置いた。その手が意図せずデスク上の写真立てに当たる。

 

「………持っていくべきか、これは?」

少し思案していた蘭堂の持つ端末が、唐突に騒がしくなる。どうやらメインブリッジに侵入者らしい。

 

『蘭堂!一番近いのはお前だ!頼む!』

聞き流していた彼だったが、弦十郎に言われ、素早く取り出したもの纏める。彼は部屋『研究スタッフルーム』を抜け、ブリッジへ走り出した。

 

「問題発生、と」

 

 

 

到着した蘭堂。残りの二人をテーザー銃によって昏倒させ、友里に近づいた。

「友里!しっかりしろ!」

藤尭が傍らで友里に声をかける。しかし当の友里自身は苦痛に顔を歪め、答えない。

『ご無事ですか?!』

「友里がやられました!」

焦りと恐怖で動揺する彼。その身の上から蘭堂が観察する。

「フンム…ナイフでも持っていたのか?鋭利なナニかで切られたようだが」

「ナイフじゃない人の爪だ!どうすればッ」

 

「爪?」

眉をひそめる蘭堂。藤尭は周辺に転がっている黒服を指さした。

「そいつらがドアを壊して、それで、銃で応戦したんだ……だけど一人だけ間に合わなくて、そしたら友里が逃げないでそいつの前に……」

混乱しながらも、説明しようと言葉を紡ぐ。

 

しかし藤尭のその言葉は、中断された。

 

隣にあの子どもが、感染源の子どもが知らず知らずのうちに立っていたからだ。

 

「ッ!!!!」

ストッパーとなっていた友里がこの状態。藤尭は子どもの動作を凝視し動けなくなった。

自分も、この子どもの形をしたナニカに触れられ、亡者になるのか。

 

 

しかし、子どもは藤尭ではなく、眼前の友里を見ている。そしてゆっくりと、手を伸ばした。

 

「…?」

藤尭が見守る中、子どもは友里の負傷した背に触れる。

切り裂かれ、露出した背に残る痛々しい傷跡の周囲には、あの黒い変色が見て取れた。

その傷の周囲を子どもが撫でる。すると変色が、まるで吸い寄せられるように友里の背から子どもの指先へと移っていた。

「何が…?」

驚愕する藤尭を他所に、蘭堂は興味深げに眉をひそめた。

「ほう……そんな芸当もできたのか」

子どもは友里の背から変色の跡を全て取り除くと、その場にへたり込んだ。

 

 

 

「二人とも!!!!」

 

数分遅れ、息を切らしながら駆け込んできたのは弦十郎だった。

彼の目に飛び込んできたのは、倒れ伏した友里と、その隣で呆然としている藤尭。

「まさか…ッ」

「心配いらん。今さっき感染は防がれた」

「どういう意味だ?!」

答えは返ってこない。見ると、蘭堂は離れたところに無造作に置かれた感染者の身体を観察している。友里の様子も、背中の裂傷は簡易的にも処置されているらしい。

「なるほど…これが目的か…それで、爪になったわけか」

近付くと、蘭堂は何やら独り言をいっている。

「何の話だ?」

 

「変異先がわかった。グールだ」

 

蘭堂は感染者の手を取り、弦十郎に見せる。それは明らかに人間離れした鋭利な爪を有しており、友里の服の繊維と血がこびりついていた。これまでの道中で相対した亡者たちの中に、このような手を持ったものはいなかった。

「グール?」

「その前に、頼まれたもんだ。ホレ」

懐から取り出した書類を、弦十郎に渡す。一枚の封筒と、少し傷んだ写真のようだった。それを受け取った弦十郎の表情は直ぐに愕然へと変わった。

 

「まぁそういうこった。で、グールについてだったか」

蘭堂は再び黒服の人間まがいになりつつあるモノを見ながら話し始める。

 

「死者の墓を発き貪り食う者、死肉喰い。その名の通り死肉を食う、ゾンビとは似て非なる存在だ。特徴は血走った目、鉤爪。今はどうもそれだけだが、時間が経てば犬みたいな顔とゴム状の皮膚に変異するかもしれん」

「ナニかに変異するとは確かに言っていたが…人間がそこまで短期的に変容するのか?」

にわかに信じられない話だ。だが、その片鱗が正に目の前に突き付けられている。信じる他ない。

「仮にやるにしても、グールになるには年単位の時間が必要だ、が」

蘭堂は続けた。

 

「魂側もこのゾンビパウダーの影響でダメージを受けている。その状況を利用して、精神世界側に干渉する儀式でも行っているんだろうよ。だから急激な変異が起き始めたんだ。この温度設定もそれが理由か…この船を連中の住処の洞窟に再現したわけだ。

ならば感染してりゃ、もう健常者だろうが関係なくなる頃合いか」

 

最早、弦十郎を置いてきぼりに一方的に話している。もう正しく一刻の猶予もない。弦十郎は押し黙り、結論を待った。しばし間を置いて、そしてなんてことはないと言うように、彼はこう締めくくった。

 

「ゲン。もしこれを止めたいなら、船上からさっさと感染者をほっぽり出すか、どこかで行われている儀式をやめさせるしかない。でなけりゃどちらにしろ、船員漏れなく人でなくなる。

今すぐに、だ」

 

 

 

 

『弦十郎さん。こちらは皆さんと合流、脱出ポットへ移動を開始しました。残った感染者のことはお任せください』

「そうか、わかった」

弦十郎の答えを聞き、緒川はしばし押し黙った。

『ご武運を」

「…ああ」

その間は彼の性格を知っていたからか。弦十郎は微かに自嘲を込めて笑った。

 

「性分だ。わかっている」

 

眼前には、殴打の跡は残っていながらも、しっかりと機能しているドアが一つ。

深呼吸、弦十郎の操作で、ゆっくりとドアが開いた。

 

 

 

「…やぁ、ずいぶん遅かったじゃないですか」

 

「ああ、遅くなってすまない」

 

そこは数時間前まで彼らが立て籠もっていたコンテナ。しかしその様子はあれから全く異質なものになっていた。

 

方々には赤いナニかで描かれた奇妙な幾何学模様。床には一際大きな円陣が刻まれ、そこに倒れ伏した黒服たちは全く動かない。中央には不釣り合いな、レンガで組まれた井戸のような円塔体が鎮座していた。

そこに誰かが腰かけている。

 

 

 

「本当に遅くなってすまない。エスペランザ主任」

 

 

 

呼ばれた男、ベラスケス・エスペランザは、一冊の本を携え、立ち上がり

 

 

 

 

歪で悍ましい笑みを浮かべた。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「ベスでいいといったのに…ま、いいか」

 

そう言って笑う彼の様子は、これまで会話していた男と同一人物だとは思えないほど、かけ離れた姿だった。

対している弦十郎の表情は一層険しくなる。

 

「あ、そうだ。コレ、食べます?」

そう言って立ち上がった彼のもう片方の手には、一切れのサンドイッチが。

「どうにも最近、普通の食欲がなくて。コーヒーくらいしか喉を通らないんですよ」

尚も沈黙する弦十郎を見、エスペランザはつまらなそうに、それを放り捨てた。

 

「どうしてだ、エスペランザ主任」

弦十郎は静かに問いただす。手には、蘭堂に手渡された封筒と写真を握っている。

そちらに気づいたエスペランザは、少し表情を変えた。

「目は、通されましたか?」

頷く弦十郎。

 

 

「……ありふれた、この世界ではありふれた話ですよ」

素っ気なく肩を竦め、自嘲気味に話し始めた。

「あなたに食堂で話したことはおおかた事実です。しかし、その道中が血なまぐさかっただけでね」

真っ赤に染められた世界で、エスペランザは懐かしい日々を思い出しながら言葉を紡いだ。

 

「私の故郷は小国で、過去の大戦期、敗残兵が頼りにしてきた歴史がありましてね。その際持ち込まれた土産物。‟聖遺物„の研究。それが私の一家の生業でした」

その声音は少し出会った頃のものに戻っている。しかしだからこそ、この異常な現場と相まって歪さを醸し出していた。

「調べれば調べるほど面白い。正しく埒外の類です。現代の方法では逆立ちしたって作ることはできない。人類の未来を明るく照らせる術。私も父と同じように、研究に生涯を捧げるつもりでした」

 

そこで彼の言葉に怒気がこもる。

「しかし、引き継いだ父の研究が、彼らの目にとまってしまった。私は家族を、妻と娘を人質として、彼らに奪われた」

額からは汗が現れ、やや錯乱したようにまくしたてる。

「無我夢中でした。妻と娘と再び会うために。何とかしなくては…何とか連中の納得する成果を出さなくては!あれほど幸福を感じていた研究も、何時しか、ただただ辛いモノとなっていた」

 

「それで…これか」

弦十郎は封筒を見る。

「そう…あの日、研究所に籠っていた私の元に、その通知書と棺桶が届けられました。……交通事故、だったと。まだ幼いのに、惜しいことだと……白々しく…彼らはッッ!」

 

エスペランザは激昂し、近くの黒服の肉体を踏みつけた。

「頭が割れるかと思いましたよ!コイツ等への怒りと憎しみで!!……しかし私には手段がなかった。何もできない、ただの無力な愚か者だった!!!」

何度も何度も、黒服の亡骸を踏みつけた。

 

 

しかし、手に持っていた本を目にした瞬間にその動きが止まる。その顔は徐々に先ほどの禍々しさを取り戻し始めていた。

「だがそこに、欧州からあの方がやってこられた。あの方は私の知らない技術を幾つも持っていた。その中には、焚書されたはずのものもありました。私たちの土地に古より伝わっていたであろう、神の召還方法すらも!」

エスペランザの頬が高揚していく。

 

「これこそ天命だ!憎き外敵から我らのモノを取り戻す!そのためならば、もはや何を犠牲にしても厭わない!!!」

本の表紙を愛おしそうになぞる。

「従順な研究員を演じ、そしてこの機に乗り込んだ。足りなかったパーツを補充し、アレを原体として起こし!!この船を、死者が徘徊する洞窟に模して完成させた!!!」

 

研究者の声は狂気をはらみ、コンテナに描かれた惨状が、もはや彼が戻れないことを示していた。しかし、それでも、弦十郎は言わずにはいられない。

「今からでも遅くない。エスペランザ主任、投降するんだ。この機は…」

「撃墜目前なのだろう?知っているさ」

優和な面影は最早ない。引きつった笑顔でエスペランザは続ける。

「間もなくだ。間もなく召還は完了する。そうすれば、常闇に住まう魔神はこの世に解き放たれ、そして夜と共に世界を蹂躙し尽くすだろう。確かにそれを見られないのは残念だが…」

 

 

 

「ならば、それまでに止める!!」

 

言うが早いか、弦十郎は前へ出る。緒川と同じグローブを纏った拳を構え、一気に距離を詰める。目標は目前、しかしエスペランザは逃げない。

「ダメだよ」

倒れていた黒服の亡者たちが動く。彼が操っているのか。

「ッ!!」

幾人かを正拳で吹き飛ばす。しかしその行く手は、僅かに狂った科学者へは届かない。

「もしや君は、彼らが生きているかもと、手を緩めているのかい?だったら安心したまえ。皆、私がちゃんと殺した死人だ。手加減する必要はないよ。まぁその分、私も操りやすくなっている訳だが」

他の黒服も次々に起きあがり、エスペランザを守護するように立ちふさがる。

「生前散々、私たちの人生を弄んだツケだ。最後くらい、私が好き勝手使っても、文句は言うまい」

 

エスペランザはポケットからプラスチックの小瓶を出すと、それを弦十郎の足元に投げた。

「…これは」

「解毒剤だよ」

エスペランザは自身の手を指さしながら言う。先ほど分かれた際にあった痣は跡形もない。

「いくら専門外とは言え、私もただの狂った無能ではないさ。解毒剤ぐらい作っている。それを飲めば、少なくとも感染の心配なく戦えるよ?」

 

弦十郎は小瓶を拾い上げると、ゆっくりと、しかし一切躊躇することなく、自身のポケットにしまった。

そして無言のまま、四肢に力を籠める。

 

「ああ、そうだとも。君は私の思った通り、そういう人間だ」

触れぬよう加減をして、立ち回らねばならない。吹き飛んだ亡者たちは、すぐに立ち上がり押し寄せる。他の研究員たちとは違う。真の歩く死体となり果てたからだろうか。これを一体一体封じるには、眼前の大群は厄介過ぎた。

「可哀そうに。もしここで生き延びたとしても、君は死ぬまでその性によって、何もかもを取り零していたのだろう。まぁ、どちらにしろ、

 

全部ここで、おしまいだ」

 

 

死体の群衆の中で、エスペランザは両手を高々と掲げる。

さながら、神を讃えるように、優美な旋律を仕切るコンダクターのように。

 

 

 

「少しの時間だが、存分に余命を踊り楽しみたまえ」

 

 

 

 

 

この機には、まだ彼らが、彼女が乗っている。立ち止まるわけにはいかない。せめて、

 

 

 

 

「時間は……稼ぐ!!!!!」

 

 

 

 

決死と定めて踏み締めた轟音と、亡者たちの咆哮が衝突した。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「ふーむ、こいつぁ覆りそうもないな」

 

弦十郎とエスペランザの問答を聞きながら、蘭堂はつぶやいた。

「蘭堂さんッ!手伝ってくださいよ!」

藤尭が必死に台車へ乗員たちを乗せている。各廊下や部屋に横たわる昏倒させた者たちだ。

「ここからッポッドまでッ運ばなきゃいけないんですからッ」

藤尭は数人を寝かせた終えた台車を、やっとの思いで押していく。脱出ポッドに集まっていた者たちと通話し、何とか全員を連れ出すために手分けして運んでいる最中だ。

「うむ」

しかし、そんな火急の状態でも、蘭堂は通信の向こうに興味があるようだ。片手をあげ、生返事で答えた。その様子に、ため息をつく。

 

「まぁ…とりあえず、お前は…有難うな」

そう言って、傍らへ目線を落とす。そこにはあの、感染源たる子ども、シオがいた。今は藤尭を手伝い台車を押している。

「急に、動くようになったな…」

意識不明の友里はポッドの方へ預けてきた。シオも、友里の傍を離れずポッドに残ると彼は考えていた。しかし、予想に反し、何故か藤尭について回るようになっていた。

「でも…」

いくら協力的であろうと、触れば感染することに変わりはない。先ほどの恐怖も脳裏から消えたわけではないのだ。そんな藤尭をわかっているのだろうか、子どもは台車の移動以外には手を貸してこなかった。

 

 

「しかし…妙だ」

今度は蘭堂の方から声がする。

「そうッですかッ」

構っている猶予もない。藤尭のそのような口振りに、意を介さず続ける。

「何故主犯は、ゾンビからグールになるような、まどろっこしい手順を使ったんだ?」

小首をかしげ、虚空を見つめながら蘭堂は言う。

「目的はグール化のはずだ。ただ変質させるのであれば、こんな方法を使わずとも、やりようはあるはずだ…でも、しなかった………」

そう呟き押し黙っていた彼は、いきなり顔をあげた。別の可能性に行きついたように。

 

「…できなかった……違う、知らなかった?」

 

「どういうッことですッ?」

たまらず藤尭が問う。蘭堂は、答えているのか独り言を言っているのか、半端な形で続ける。

「そもそも、主犯の意図が現状のグール化ではなかった、としたら?」

声音は次第に確信をはらんでいく。

「主犯は歩く死人を作ろうとして、何を勘違いしたのかグール化を引き起こし、しかもそのことに今でも気付いていない…とすれば、この儀式本来の目指すものは……」

突然膝を叩く。音に軽く驚く藤尭を他所に、彼は笑った。

 

 

「そうか。コイツ、騙されたんだ」

そうして、通信越しの弦十郎に向かい、言い放った。

「弦、もう少し生きていたいなら、主犯を止めろ。おそらくそいつの本来の目的は、船内をリビングデッドで満たし、死界を再現することだ。

だのにグールを生んでしまっている。その一連の儀式は、根本からそいつの意図から外れている」

 

彼自身は、謎が解けて晴れやかな気分であったろう。

しかし、状況は当事者のコントロールからも外れ、最厄に向かっていることを示唆していた。

 

 

「法螺を吹き込まれたんだろうさ。今まさに呼ばれようとするモノは、到底扱える代物じゃない。そいつの願ったアステカの冥界の神でもない。

 

もっと不気味で厄介な、食人鬼の神だ」

 

 

 

 

「クッ!」

未だ群がる亡者たち。蘭堂の通信に答えている暇も、あるわけがない。

「そら!急がないと何も出来ずに命が尽きるぞ!」

狂気に笑うエスペランザにたどり着くのは容易でなく、弦十郎は焦りを募らせていた。

「それでもッ!!」

両者捨て身というにふさわしい攻防。それでも彼の猛進は止まらない。

「ッ!!」

地を踏みしめ得た力は肘先に集約され、群がる幾人かを再度弾き飛ばす。掴みかかる亡者の腕を返す手でいなし、そのがら空きの腹部目掛け蹴りを打ち込んだ。

 

 

 

「まだだ!!!」

 

 

 

あともう少し。彼の手がついにエスペランザに

 

 

 

 

 

届かない。

 

 

 

 

 

 

「時は満ちた!

 

 

 

さぁ来い!そしてヤツラを食い尽くせ!!夜の金属!!!!」

 

 

 

 

 

 

そして、空間が裂けた。

 

 

 

 

 

 

そうとしか表現できない現象を体感した瞬間、弦十郎は壁に叩きつけられた。

得体のしれない異臭と冷気が、大気を凌辱する。激しい頭痛に襲われ、彼でなければ即意識を手放していただろう。

しかし、弦十郎は折れない。その身体を強烈な重圧の中、強引に引き上げる。

 

 

否、引き上げてしまった。強靭な精神力でもたげた、その目に飛び込んだのは

 

 

 

 

凡そ、人の世ではありえざる光景だった。

 

 

 

 

影が、闇が、眩い光を携えてそこに居る。

実体を持つはずのない得体のしれないナニかが、絶えずその長い体をゆっくりと、まるで炎の揺らめきのごとく揺蕩いながら、天井を異様な音をたてて這いずっていた。

彼の額からこぼれた汗が、冷却されそのままに凍り付いてしまったのか。それほどまでに強烈な風と共に、目が釘付けになる。禍々しくも神々しい、だが光を見続けることはできなかった。生存本能で顔を背けるも、瞼の裏側で、あの芋虫のような、竜のようなモノが蠢いている情景が離れない。脳をその冷風と埒外でもって喰いつくされていく感覚に、弦十郎は頭を抱え、そして

 

 

 

『弦十郎くん!!!』

 

 

 

誰かの力強い声が、彼の意識を呼び戻す。判別こそできなかったが、倒れ伏しそうになった体を持ち直させるには十分だった。

時空を超えた、とても懐かしいような、そして強くも優しいようなそんな、女性の声だったと、彼は刹那に振り返った。

眼前にあるのは‟死‟そのものだ。やっとの思いで上体を起こし、光を遮りながら目を凝らす。

 

 

「アハ…アハハ……アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!」

 

 

ベラスケス・エスペランザは笑っていた。ソレを眼前に、一歩もたじろがず、おそらく目を見開き立っているのだ。

「素晴らしい!!素晴らしい!!!なんと美しい!彼らの言葉は本当だった!本当に!」

抱えていた本を落とし、泣きながら、怒りながら、笑っていた。

ソレは部屋の中央、あの井戸のような囲いから噴き出しているようだ。尚も井戸から吹き上がる閃光纏いし暗黒は、次第により濃くその輪郭を得ているかに思えた。

 

「主任!!逃げろ!!!」

無意識の内に叫ぶ。彼の魂が、ソレは遭遇しても一秒でも同じ空間にいてはいけないものだと必死に訴えてくる。しかし、狂気に染まりきった愚者に、その言葉が届かない。

 

「やっとだ!!やっと奴らに!!もう奪わせない。私が奪ってやる!何もかも!!!」

エスペランザの輪郭から、彼の真正面に光源がいるのは明らかだった。

そして、微かな動きだったが、弦十郎にはソレが次に何をするのか、直観で理解した。

 

 

 

 

「ベス!!!!」

 

 

「これでやっと、あの子にあ――」

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉は途中で打ち切られ、

 

 

 

復讐のために身を焦がしてきた小さな男は

 

 

 

坂巻く漆黒の炎に飲み込まれた。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

『弦十郎さん!弦十郎さん!!!』

 

緒川の声を聞きながら、しかし弦十郎は何も動けずにいた。その円柱状の体内で、男が生きながら極寒に焼かれている事実を認識した。

 

「緒川…」

小さくしかしはっきりと、無線の先、旧知の友へ声をかける。

『弦十郎さん!一体何が!!?』

「蘭堂はいるか?」

その問いに緒川は無言で対応する。

『おう、弦』

「コレは…どうにかできる類か?」

その問いに、蘭堂は微かに嘲笑した。

『できると思うか?』

 

「………いいや」

弦十郎も苦笑を浮かべる。

『そうさな。強いて言うなら、直視するな。生身で手傷を負わせられるなど、思わぬことだ。とにかく避ける。それだけだ』

現物を見ていないながら、彼は眼前の異形に思い当たる節があるようだった。何よりの助言だ。

「…わかった。今まで有難う。替わってくれ」

言うが早いか、緒川が割り込む。

『弦十郎さん!!しっかりしてください!今から僕も——』

 

「ダメだ」

その言葉に、きっぱりと否定を返す。

「お前はこの機から救える人を外に連れ出してくれ。できればここにある解毒薬も渡したいところだが…叶いそうもないな」

ソレが食事を終えようとしている。思い返せば、ずっと時間はなかったのだ。

最後くらい、もう少し猶予をくれてもいいだろう、と弦十郎は思った。

「五分、いや一分でも耐えられたら奇跡といえる相手の様だ。俺に構うな。あとは頼む」

深呼吸をし、そしていつもの調子で笑いながら、告げた。

 

 

「了子君に、次の機会を作れず…すまない、と伝えてくれ。

 

さらばだ」

 

 

未だ己を呼ぶ緒川を無視し、通信機を外す。懐に仕舞うことなく、放り捨てた。

 

「待たせたな」

眼前の闇は、未だ眩い光の中にいる。しかし、見られている、のは確かだ。吐息のような冷気が、一層部屋を凍てつかせる。むしろその冷たさが、疲れを隠せない弦十郎の身体にとっては有難かった。

 

「さて…」

重心を落とし、身体が慣れた構えへと移行する。相対するものはあまりに強大。比べてしまえばあまりにもちっぽけな己。

それでもただ一人、その背に背負った覚悟と、耳に残る誰かの声を力に変え、風鳴弦十郎は前へと踏み出した。

 

 

「足掻かせてもらう!!!」

 

 

 

名状しがたい叫びをあげる

 

 

燦爛たる暗黒との

 

 

真に最期の死闘が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

「弦十郎さん!!弦十郎さん!!」

 

いくら呼び掛けても、もはや答えは返ってこない。緒川は拳を握りしめる。

先ほどの大きな揺れ、まるで船自体が別世界に変わってしまったような感覚。

異常事態に廊下で集結した彼らだったが、しかしそこで得られたのは、現状のさらなる悪化。そして、決死と定めた男の遺言だけだった。

 

「さて、では俺も行くとしよう」

 

蘭堂は呑気にそう言って、スキップでもするような足取りで進み始める。

「どッどこに行こうって言うんですか!」

藤尭が恐怖に慄きながらも問う。傍らには彼の服の裾を掴み、異常に震える子どもの姿が。塩を見た時の比ではない。立っていられず、座り込んでしまっている。蘭堂は肩を竦めた。

 

 

「どの道、もう助からんよ」

 

その言葉に、場の空気が更に凍り付く。

 

「召喚されたアレは、この機にいるすべての人間を敵と見なす筈だ。

半端に召喚され、あまつさえ死体への冒涜を成していたんだ。許す筈がない。俺らを食い尽くすかしない限り、アレは止まらない」

「ではどこへ?」

緒川は努めて冷静さを保ちつつ、蘭堂に向き直った。

「せっかくだからな。終わる前にもう滅多に見られなくなった神様、ってやつを見てお——」

 

 

言い終わらぬ内に、蘭堂の身体が壁へ吹き飛んだ。

 

呆気にとられる藤尭。殴ったのは、緒川。

 

「柄ではないんですけどね…」

それでも、そうせずにはいられなかった、と、未だふるえる彼の佇まいが告げていた。

衝動的に打ち付けられた頭を振り、取れかけたガスマスクの位置を正す。顔をあげた蘭堂の表情には、不可解、と書かれているようだった。

「…万に一つも、逃げられんぞ。そういう余地すらないほどの相手だ」

「そうかもしれません。でも…だとしても」

弦十郎が、己が父に言い放った言葉を思い出す。息を吸い、座り込む蘭堂に向け、

宣言する。

 

「あの人から頼まれた以上、僕は全身全霊を持って、遂行します。最後の、最期まで」

 

 

「……そうかい」

 

蘭堂は後頭部を押さえながら、裏腹に愉快そうな口ぶりで告げる。

「ならば、死者は全て無視した方が良い、と言っておこう。アレは死体を文字通り好む。少しくらいなら長く生きられるかも…しれん…」

衝撃のせいか、蘭堂の目は徐々に閉じていく。

 

「しかし…そこまでして…何を得…為そうと……」

 

蘭堂は半ばで昏倒した。緒川は彼の身体を調べ、大事がないことを確認すると、深く一礼した。

そして今度は座り込んだ二人の方へと歩み寄る。

「藤尭さん」

藤尭も、収まらぬ震えのまま、頷く。

「この人を、お願いします。僕は残りの乗員の皆さんを何とかしますので」

いつものように笑顔を浮かべる緒川。立ち上がろうとする彼に、

 

藤尭が縋った。

「だめですよ…いくら緒川さんがすごい人でも…」

未だ昏倒させて回収できていない者は少なくない。そのすべてをただの人間一人で脱出艇まで連れて行けるわけがない。

しかし彼は、その手を優しくほどく。

「大丈夫です。僕、こう見えて…」

指を二本立て

 

 

「忍び、ですから」

 

 

次に瞬きした時には、緒川の姿はつむじ風と共になくなっていた。

しばし呆ける藤尭だったが、考えている暇はない。自分の頬を叩く。

「やれることを…やるんだッ」

震える膝に鞭打ち、蘭堂の腕を肩にかける。そして、ゆっくりとポッドの方へ歩き出す。

 

だがその歩みは直ぐに中断されてしまった。

 

「どうした?」

シオが、着いてこない。振り返って見れば、己自身の両腕を掴みわななきながら、じっとその場に立っていた。

「はやくッ行くぞ!」

藤尭の声に顔をあげる。その表情に、彼は驚いた。

 

これが死者の、少なくとも今まで傍らにいたモノのする表情か。

 

何か決意めいたものが、そこにはあった。シオは目線を藤尭の背後の廊下へ移す。

先には友里がいるはずだ。

そちらをじっと見、そして

 

 

 

踵を返した。

 

 

「待て!」

向かおうとしているのは、逆方向。緒川や弦十郎が向かった先だ。藤尭は空いている手を伸ばした。

 

だが、

 

「ッ!!」

その手は止まってしまう。彼の頭には亡者の、あの女性の姿が浮かんでいた。今は手袋をしていない。この状態で触ってしまったら、そんな想像が、彼の動きを止めさせた。最早その手は届かない。

シオが振り返る。そして

 

 

「え…?」

 

 

ほほ笑んだ。そんな顔を、したことなど、するはずもないのに。

それでも彼には、その行為が、自分たちへの今までの感謝を伝えていたように感じた。

 

子どもは走り出す。藤尭は幼子の形をしたナニカを、見送るしかできなかった。

 

 

 

 

一方的な殺戮行為に対し、それでも弦十郎は辛うじて四肢を保っていた。すべての動作が死へと直結する。その極限状態の中、

 

それでも彼は倒れない。

 

「まだ…付き合ってもらうぞ」

言語など理解する気はないだろう。それでもこぼれた言葉に対し、一層光が強くなったような気がした。

ソレの身体を直視せず、幽世に住まう異形の気配だけを頼りに、その殺意の先を読む。

人間離れした離れ業をやってのける弦十郎だったが、しかしそれは一矢報いるという選択肢すら捨てたが故。尋常ならざる戦いの中で、脳裏に浮かぶ、己の命が次の瞬間潰えるイメージを置き去りにする。

 

「一分でも…一秒でもッ」

 

踏みしめた足の反動でめくれ上がる室内。金属のぶつかり合ったような甲高い音をたてる。阻まれたことに怒っているのか、それとも歯ごたえのある獲物に喜んでいるのか。弦十郎には知る由も、考える余裕もない。

間もなく五分となろうとする、この奇跡的な均衡は、何時瓦解してもおかしくはなかった。

 

 

おかしくはなかったのだ。

 

 

「しまッ」

 

ついに極限以上に酷使していた身体が微かに崩れる。転がっていた死者の血だ。滑ったのは人間の知覚時間よりも短い間。

 

 

しかし、ソレにとってはその一瞬で充分だった。

 

音すら置き去りにし、眼前に迫る炎。回避は不可能。

 

 

 

すまない

 

 

 

そう思うだけの猶予があったことに、感謝した。

 

 

しかし、飲み込まれた感覚も、押しつぶされる衝撃も来ない。一体、何故。

光で霞む視界の中、弦十郎はそれを確かに見た。

 

 

 

子どもだ

 

 

あの感染源の少女、シオだ。ソレの前に立っている。何時、どうやって。

 

「弦十郎さん!!」

遅れてか、緒川の声がした気がした。かろうじて己の身体が倒れそうになっていることを理解する。

もはや視界はほとんど見えなくなっていた。緊張の糸が切れてしまった彼の身体は、自立していることすらままならない。

「さぁ!!!」

緒川らしき人物に肩を貸される。疲労が濁流のように押し寄せ、正常な思考を根こそぎ刈り取っていく。

「まて…あの子が——」

遠のきながらも、必死に意識をつなぎ止めるため、呟いた。

ソレはシオを前に、揺らめくばかりだ。エスペランザの時とは違う。品定めをしているのか、別の理由なのか。ただじっと見つめている。そう感じる。

「ッ!行きます!!!」

 

緒川の声がまた聞こえた。ダメだ。あの子を置いて行っては。手を伸ばす弦十郎。

 

 

 

 

その時、シオが振り向いた。

 

 

刹那、のはずだ。眩い閃光で見えないはずだ。認識する意識も気力も、最早なかったはずだ。

 

だとしても、彼の目には確かに映っていた。

 

 

 

シオが首を振っている。

 

ダメだ。助けるんだ。せめて、君だけは

 

 

 

子どもがこちらを見た。

 

俺が時間を稼ぐ。だから君は

 

 

 

子どもは満足そうに

 

 

微笑んだ。

 

 

 

陽だまりの様な、優しい笑顔だった。




読んでいただき、誠に有難うございます。

次、Chapter3で前日談の方は完結になります。お付き合いいただければ幸いです。

評価などいただけると、今後の励みになりますので、宜しければ是非に…m(__)m
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