紅弐式 reboot   作:羽山健次郎

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紫との別れが辛いのは当たり前。

だが、彼女にはもっと相応しい人生があるはずだ。

もっと幸せな生き方があるはずだ。

それが真九郎の思考上の免罪符。

 

―――だから、俺なんかといつまでも一緒にいちゃいけない。

 

そんな風に格好をつけていられたのも、紅香から話を聞くまでのこと。

 

いずれ紫は、血縁者と契りを交わし子を孕む。

相手は、実兄の竜士が最有力候補。

しかし、子を産んだとて紫は、実の兄の妻として世間に公表されることはない。

かといって、一度表の家系図に載ってしまった紫を、独り身で子供を産んだことには出来るはずもなく。

すなわち、結婚相手を偽装する必要が生じる。

そこにむろんのこと、愛情なんて存在しない。完全な政略結婚。

閨閥の対象として、九鳳院の娘の価値は計り知れない。

 

聞かされたあと、真九郎を支配したのは怒りの感情。

九鳳院家に生まれたるものの責任? 義務?

そんなの、血統の存続のために紫の人生を使い潰そうとしているだけじゃないか!

そう糾弾したところで、おそらく九鳳院家は痛痒すら感じまい。

逆に、まさしくその通りだ、と言い返してくるだろう。

九鳳院にとって、女とはそういうもの。

血脈を維持する道具でしかないのだ。

それは、倫理も善悪も超越したところにある九鳳院の慣習である命脈。

豪奢で華々しい家系の影に隠された暗部。

強大な権勢と財力はそれらに由縁するのか。それとも秘匿するための財力と権勢なのか―――?

例えるなら一つの国家に匹敵する富と戦闘力。

その前に、一個人の力など蟻以下に等しい。

真九郎は自身の無力さを痛感する。

だからこそ対照的に紫に募る憐憫の情。

彼女の過酷な将来を憂う。

ひたすら紫を思いやる。

彼女の心情を推し量る。

おそらく―――辛いだろう。

苦しいだろう。

 

じゃあ、紫を苦しめているのはなんだ?

九鳳院家そのものだ。

その慣習と血の責務は、紫にとっての不可避対象。

仮に抗うとしても、それは九鳳院紫の存在そのものを否定することにも繋がってしまう。

…それでもいいじゃないか。

いっそ、九鳳院から逃げ出すのも一つの選択肢。

だが、紫は逃げないだろう。

嫌なことから逃げ出しても消えるわけではない、というのが彼女の信条。

九鳳院の娘として生を与えられ、その庇護のもとに育った彼女が家を裏切れるはずがないと、口さがのない人間はいうかも知れない。

義理があるだろう、恩もあるだろう、と。

しかしそれは、紫の本質を知らないだけだ。

真実紫はそのような理由とは無縁。

生まれた瞬間に負わされた責任。それを理不尽と承知してなお受け入れる高潔さは、決して血のなせる業ではない。

九鳳院という澱んだ血の果てに生まれた奇跡。

生まれ持った気高さの根底にあるのは、紫という名の少女の矜持のみ。

 

そこで真九郎の思考は止まる。

それ以上考えても栓無きこと。

なにより、考え続ける真九郎自身も辛い。

 

紫も受け入れている。

なら、仕方のないことだ。

誰のせいでもない。

 

だが、真九郎は自問自答を繰り返す。

繰り返してしまう。

 

そうか?

本当にそうなのか―――?

 

とうとう思考は一線を乗り越えた。

その果てに見つけた、新たな責任の在処。

 

―――紫はなぜ苦しんでいる?

 

実兄と契った挙句、見ず知らずの他人の妻にならねばならないから。

 

―――なぜ紫はそんな目に?

 

血縁者と契るのは九鳳院家では定められたこと。

見ず知らずの他人の妻として公表されるのは、表の家系図に載ってしまったゆえ。

 

―――どうして紫は表の家系図に?

 

奥ノ院から出されたから。

 

―――では、紫を奥ノ院から出したのは何者だ?

 

確かに、一度紫を奥ノ院から連れ出したのは、柔沢紅香。

しかし、紫の希望はあったにせよ、彼女を恒久的に奥ノ院から放逐させてしまったのは―――。

 

その答えに行き着いたとき、真九郎の中で罪悪感が膨れ上がる。

俺が紫を奥ノ院から助け出さなければ、少なくとも今みたいに辛い思いをさせなくて済んだはずじゃないのか?

あの場所だけで暮らしていれば、世間一般の常識を知ることもない。そうなれば、自分の置かれた境遇に疑問を抱くことさえなかっただろう。

粛々と、実兄との契りを受け入れたかも知れない。奥ノ院の倫理観が一般社会からかけ離れているといえど、比較対象がなければ自分の持っている知識を疑えない。

他の世界を知ってしまったからこそ、紫は苦しんでいるのではないか。

 

多くを知らず、多くを得ない方が幸せに暮らせるのかも知れない。

忘れもしない紅香の台詞。

 

そして紫に多くを与えたのは――――俺だ。

 

自分のしてきたことは、果たして正しかったのか?

古い慣習に囚われた少女を救い、解き放ったと思っていた。

閉鎖された異郷から、素晴らしい世界を見せられたと思っていた。

 

…何も知らなかった無垢な子供を汚し、更なる不幸に陥れてないと、誰が断言してくれる?

そもそも俺が紫と出会わなければ。

お互いに、こんな辛い思いをしなくても済んだんじゃないのか―――?

 

 

だから真九郎は事あるごとに繰り返す。

紫を助けたのは間違いではない、と。

 

そして真九郎は紫を遠ざけた。

紫を助けたのが間違いだったのでは、と煩うがために。

 

 

矛盾する思考の袋小路。

それこそが真九郎の本心の正体―――。

 

 

 

 

 

 

 

「わたしは幸せものだ」

 

全ての話を聞き終えて、紫の第一声がそれだった。

真九郎の愚かさを指摘するわけでもなく、自らの境遇を嘆くでもなく、まるで大輪の華が咲くように笑う。

 

「だって、真九郎は、それだけわたしのことを想ってくれたのだろう?」

 

紫の浮かべる優しげな笑みは、慈愛に溢れる母親のよう。

先ほどからずっと髪を撫でられていることに、ようやく真九郎は気づいた。

涙が滲んでくるのを止められない。

 

「ごめん、紫…」

 

潔く謝ろう。

そして、認めよう。

結局のところは紫のためなんかじゃない。

誰よりも、真九郎自身が傷つきたくなかった。

自分のしてきたことが間違いだったと指摘されるのが怖かった。

紫本人に糾弾されるのが、何よりも恐ろしかった。

紫がそんなことを決してするはずはないのに。

 

「真九郎と出会ってから、楽しいことも嬉しいことも、それこそ数え切れないほどある」

 

紫の声音は、幼子に噛んで含めるように。

 

「なのにおまえは、それを全て否定するつもりか? なかったことにするつもりなのか?」 

 

胸に抱かれながら、真九朗は首を振るしかなかった。

訊かれるまでもない。元からそんなことできるわけがないのだ。

 

「真九郎との思い出は宝物だ。それを失くすくらいなら、わたしは死を選ぶ」

 

「…そんなの大袈裟だよ、おまえは」

 

思わず顔に苦笑を刻んでしまう真九郎だったが、きっと紫は本気で言ったのだろう。

紫はこんな時に冗談は決していわない。そのことは真九郎が一番良く知っている。

 

別れが辛いのは、幾つもの思い出が宝石のように輝いているから。

それを失ってしまうのが怖いから。

ならば、無かったことにすればいい。

楽しい日々の記憶も何もかも、元から持っていなかったことにすればいい。

最初から何も得ていなければ、失ったとき悲しまなくても済む。

 

…やっぱり、こんな馬鹿馬鹿しい思考はないな。

真九郎は吐き捨てる。

そんなの、いずれ死ぬから生きているのは無駄だって言ってるみたなもんじゃないか…。

 

「本当に俺が悪かった。もう二度とそんなことは言わない。考えもしない。誓う」

 

「なら、いい。許す」

 

あっさりと紫は首を縦に振る。

その小さな顔を見上げながら真九郎が思う。

いずれ別離を迎えたとしても、出会ったという事実が失われるわけではないのだ。

ならば受け取ったものをどうするか。それは結局本人の気持ち次第。

紫と出会わなければ、紅真九郎という男は、もっと情けない存在だっただろう。

あるいは既にどこかで野垂れ死にしていたかも知れない。

この事実をいまさら返すわけにはいかないし、なかったことになんかできやしない。

 

「しかし、真九郎、おまえは泣き虫だな?」

 

悪戯っぽい口調でいわれ、真九郎の顔に血が昇る。

情けないことに紫の前でこんな醜態を晒すのも二度目だ。もちろん慣れるものじゃない。

 

「…おまえの前でしか泣かねえよ」

 

「分かっている」

 

頭を抱えてくる紫の腕に、ぎゅっと力が籠もる。

 

「そうやって強がる真九郎も可愛い」

 

紫の笑う気配。

 

「お腹の上で男を泣かせられるようになれば一人前の女だ、と環も言っていた」

 

「………」

 

妙に台詞の意味を勘ぐってしまうのは、武藤環謹製だからか。

考え込んでいる真九郎をあとに紫は立ち上がっている。

それから真九郎に、どういうわけか座りなおすように指示。

素直に真九郎が応じて胡坐をかいたとたん、紫はいきなり背中を向けて座り込んできた。

腕いっぱいに抱きとめる柔らかい感触。足に被さる適度な重み。

長い髪は腕の中に収まり切れずに溢れた。その一房一房から清々しい匂いが香って真九郎の肺を満たす。

一瞬で真九郎は既視感と懐かしさに支配されてしまう。

まだ小さかった頃の紫は、こうやって真九郎の胡坐へ腰を降ろし、本を読んだり宿題をしたりしていた。

あまりにも直接的で思い切りのいい紫のスキンシップには、あの頃の真九郎も多少なりともドギマギしたものだが。

 

「久しぶりだけど、やっぱりこれが一番落ち着くな…」

 

無邪気に振り返ってくる紫に、真九郎は昔ほど平静ではいられない。

今や紫の肢体は伸び、身体つきも幼女の頃よりしっとりとした弾力に富んだものになっている。

背も伸びているから必然的に顔も近い。

こちらを見る大きな瞳には、自分の姿が反射している。

甘い吐息が鼻腔をくすぐり、真九郎は硬直してしまった。

一方の紫はそんな真九郎の様子にまったく頓着した様子はない。

さっそく真九郎の両腕を取り、自らの身体の前で交差するように抱きかかえている。

 

「………本当に、寂しかったんだぞ?」

 

「………」

 

「色々と相談したいことや話したかったこともあったのに…」

 

「…ごめん」

 

返事の代わりに、ギュッと手を握られた。

紫の了解の合図。いじらしい。

昔だったら、ほっぺたを突付いたり、耳をひっぱったりしたんだけどな…。

紫を背中から抱きしめる格好のまま、真九郎はそんなことを考える。

今はさすがにそんなことは出来やしない。

なぜかって?

そんなの…当たり前だろう?

 

 

代わりに会話を交わした。

もっとも真九郎の近況は特に何か変化があったわけではない。

訊くのはもっぱら真九郎で、答えるのは紫。

 

紫は中学校を卒業後、進学はしていない。

それでも日々忙しく過ごしているとのこと。

 

「家絡みの予定がないときは、本を読んだり料理の勉強をしたりと、その、色々だ」

 

その成果が今日のケーキなのだろう。

朗らかな紫の口調に反して、真九郎は複雑な思いに駆られる。

紫を高校に進学させない九鳳院家の意図。

既に婚姻を視野に入れていると考えていいだろう。

ゆえに進学を認めなかったとしか思えない。

 

「怖い顔をするな。そんな顔、真九郎には似合わない」

 

「………」

 

「真九郎は笑っていたほうがいいぞ。わたしは、これからもずっと真九郎に笑っていて欲しい…」

 

何気ない紫の物言い。しかし、その裏に込められた響きに、真九郎は自分の中で何かが氷結する音を聞いた。

 

「奥ノ院にいたころのわたしは、きっとただの『紫』だった。将来は九鳳院の跡継ぎを生むことだけを望まれていた」

 

恋というものをしてみたい。

少女のささやかな望みをかなえるため、柔沢紅香が暗躍し、バトンは真九郎へと渡された。

望みは―――叶ったのだろうか?

その是非に考えが及ぶたび、どうしても真九郎が微妙な気分になってしまう。

 

「奥ノ院から出されて、わたしは様々なことを学んだ。色々なことを経験した。

 …結局のところ、幼少時代が幸福なのは、自分が何者か把握していないからなのだろうな。

 無知と無垢は違う。奥ノ院から出ることがなければ、おそらくわたしは、自分が何者であるかすら気づくこともなかっただろう」

 

紫は真九郎の顔を見た。

 

「わたしを九鳳院紫にしてくれたのは、おまえだ、真九郎…」

 

全く不意に頭に浮かぶ漸近線のイメージ。

学生時代の数学で習ったそれ。

限りなく近づき、されど交わらない双曲線。

自分と紫の関係も、まさしくそうではないのか?

急激な曲線を描いて近づき、寄り添いながらも決して交わることはない。

出会いが急であるならば、別れも同様の軌跡を描くだろう。

 

「わたしは、真九郎に出会えて本当に良かった。真九郎に恋をして、本当に良かった…」

 

「…!!」

 

真九郎は紫を抱きしめた。

だって他に何が出来る?

言葉なんて無力だ。

何も言えない。何と言ったらいいのかわからない。

 

「…泣くな、泣くな真九郎……」

 

紫も既に泣き声。

やがて泣き声は嗚咽に変わる。

真九郎の腕を抱えたまま、噛み付くようにむせび泣く。

 

どうしてこんなに切ないのだろう?

紫は俺の腕の中にいるのに。

すぐ近くにいるのに。

真九郎は紫の頭に顔を押し付ける。驚くほど滑らかな髪を頬で撫でつけた。

口の中で彼女の名前を繰り返しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…どれくらいそうしていただろう。

紫を抱えたまま、真九郎はちらりと時計を見る。

時刻は0時少し前。

もうすぐ日付が変わる。

紫の誕生日も終わってしまう。

シンデレラ・リバティもこれまでか。

 

…今日、ここでさよならといってしまったら。

明日からまた紫と会えるだろうか?

分からない。

だけど、決定的な別れの時はそう遠くはないはずだ。

そんな予感がする。

 

「…紫?」

 

泣きつかれて眠ってしまったのだろうか?

揺すってしまってから軽く後悔する真九郎の目前で、黒髪が波打った。

どうやら起きているらしい。

振り返ってくる紫は、涙の後を拭っていた。

きっと恥ずかしいのだろう。口元に引きつるような照れ笑い。

 

「なあ、真九郎。お願いがあるんだけど…」

 

「なんだ?」

 

「違うな、お願いじゃない。これは…わがままだ。うん、わたしのわがままなんだ…」

 

一人勝手に納得し、じっと視線を注いでくる紫。

 

「それでも…真九郎はわたしの言うことを聞いてくれるか?」

 

「ああ」

 

言下に真九郎は頷いた。

紫から貰えたものは数え切れない。

別れの前にとても全ては返しきれるものじゃあない。

だったら、今の自分に出来ることは何でもしよう。

この子の願いを、可能なかぎり叶えてやろう。

だいたい今日は紫の誕生日だってのに、何もプレゼントも用意していないじゃないか…。

 

決意と裏腹に、真九郎の胸に去来するのは寂寥感。

おそらく九鳳院紫が紅真九郎にする最後の願いだ。

ゆえにわがままだと紫は言ったのだろう。これは、彼女自身の無自覚な甘えの表明。

紫は誇り高い。真九郎以外の他人に、甘えようともしなければわがままも言ったことはないはず。

 

なぜか顔を伏せ、紫は言いよどむ。

そんな彼女を見ながら真九郎は考える。

別れに先立つ紫の願いとはなにか。

それに対する自分の態度も。

 

もし紫が自分のことを忘れないで欲しいと願うなら?

 

一生忘れない。墓場へ入るかどこかで野垂れ死ぬその日まで、ずっと想い続ける。

 

 

もし紫が自分のことを忘れて欲しいと願うなら?

 

忘れよう。確約は出来ないけれど、綺麗さっぱり忘れ去れるように、全力で努力をしよう。

 

 

それとももし紫が前言を翻して、九鳳院の名前も何もかも捨ててどこかへ連れ去って欲しいと願ったら?

 

その時は―――。

 

 

紫は立ち上がる。

つられるように、真九郎も立ち上がった。

明かりも点いてない部屋で二人。

月光に照らされながら向かい合う。

 

「真九郎」

 

胸の前に手をおいて、紫は深呼吸。

さめざめとした月の光の中で、微かに頬が赤く染まって見えたのは真九郎の気のせいだろうか?

いや、気のせいじゃない。

首筋まで朱色に染めて、紫は意を決したように口を開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――抱いて、欲しい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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