紅弐式 reboot   作:羽山健次郎

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十一

―――夢を見ていた。

とても心地が良い夢だ。

ちょうど冬の寒い日に入る温めのお風呂に似ている。

名残惜しく、いつまでも浸っていたくなる、そんな夢。

…だけど、夢は夢だ。

自覚した瞬間に、醒めることは決定づけられている。

お湯だってやがて温くなる。そのまま入り続けていれば風邪を引いてしまうだろう。

それと同じだ。

いつまでも浸ってはいられない。

 

真九郎はゆっくりと瞼を開けた。

まず目に入ってきたのは見慣れた自室の天井。

身体の調子は悪くない。

それなのに、なんだこの違和感は?

頭の中がすっきりとしないのだ。

原因はすぐに分かる。

記憶の一部が、まるで厚い霧が立ち込めているかのように曖昧模糊。

同時に、急いではっきりさせなければならないという激しい気持ちが沸き起こっている。

その焦燥感がひどく真九郎を混乱させていた。

確かに、自分は何か忘れているような気がする。

とてもとても大切な何かを。

 

上体を起こし、真九郎は口元を押さえて熟考。

記憶を呼び戻そうと試みるが、なぜか上手くいかない。

喉元まで出掛かっているような気はする。

しかし、手をかける寸前、スルリと形を変えて逃げてしまう。ひたすらもどかしい感覚。

しばらくそうやって真九郎は首を捻っていたが、このままでは埒が開かないと判断。

即座に別のアプローチに切り替えることを選択。

分からないことがあったら分かるところまで戻りなさい。

これは、揉め事処理屋を営む上だけではなく、人生あらゆることに応用が利く不文律。

教えてくれたのは亡き母親だったか、それとも銀子だったか。

金言に従い、真九郎はまずは覚えているところまで記憶の逆行を開始。

 

…そうそう、昨日は紫の誕生パーティがあった。

だけど、紫のやつ、途中でパーティを抜け出して。

そして俺はあいつを探して五月雨荘に…。

 

全く突然、頭の中が晴れ渡った。

怒涛のように記憶が鮮明になり、心臓が瞬時に活性化。

爆発的な勢いで、血液が頭に昇って来る。

 

急いで室内を見回すが、いない。

真九郎は跳ね起きた。

布団の下は全裸だったけれど、今は赤面している場合じゃない!

ズボンを履くのももどかしく五号室を飛び出す。

 

「紫っ!」

 

トイレは無人。

四号室と六号室には鍵がかかっている。どうやら住人からして留守のよう。

ならばと五月雨荘から走り出れば、まだ早朝で通りに人気はない。

しかし、朝もやのなか遠ざかっていく車の音があることを、真九郎は確かに聞いた。

 

「紫………」

 

行ってしまったのか…。

立ち尽くす真九郎の耳に甦るのは、彼女の声。

連鎖するように思い出す昨夜の出来事。

 

『わたしは、いずれ兄様たちに抱かれる』

 

服を脱ぎ捨て、上目遣いで抱きついて来た紫。

 

『だから、初めては、一番好きな人がいい―――』

 

 

「………」

 

俺は、紫を抱いた。

抱いてしまった。

あれは紛れもない現実で。

俺は…。

 

胸の中を交差する感情を上手く説明できない。

自分の行為と紫への感情に、どう整理をつけていいのか分からない。

 

「…へっくし!」

 

いまさらだけど上半身は裸のまま。

こんな格好のまま、いつまでも馬鹿みたいに立っていても仕方ないよな…。

真九郎は五月雨荘に取って返すことにする。

五号室に戻ると、仄かに紫の匂いが香っていた。

昨夜ケーキを食べた皿やフォークもテーブルの上に放置されたまま。

やはり、昨日、紫はここにいたのだ。

痕跡を再確認しながらテーブルの横に敷かれた薄い布団を見下ろして、真九郎は固まってしまう。

シーツの上に散らばる長い髪は、もちろん自分のものではありえない。

なにより、シーツの中央の黒ずんだ染み。

これは―――血の跡で。

 

「夢…じゃないんだよな…」

 

茫然と真九郎は呟く。

生々しい記憶に、実感を伴ってくる。

紫の抜けるような白い肌。驚くほど滑らかな手触りと弾力。

柔らかな唇も、それ以外の部分も、鮮明に焼きついていた。

一際深く分け入ったとき、痛みに耐えながら彼女が呻くように漏らした声も。

 

 

真九郎は震え始めた。

全身を覆うような後悔と罪悪感。

それは九鳳院の娘に手をつけるという、大それたことをしてしまったためか?

否。

九鳳院家は血族同士でしか子供を成せない以上、いくら真九郎と紫が通じ合ってもそれは無意味。

九鳳院の男女にとっての性交は生殖行為以外の意味は持たないからだ。

文字通り子供を作るために行われる共同作業でしかない。

九鳳院の女は、同族の子供を産むことこそが存在意義。

それの裏を返せば、一族以外の誰と情を通じようが問題視されることはないということ。

どうせ血族同士以外では子供は作れない。一族以外の誰と情を交わそうとも、最終的には九鳳院の血族の子供しか孕むことはない。

同族の子供を産むしかないのだ。

ならばこそ今回のことで紫が、九鳳院の本家から糾弾されたり処罰されたりということはおそらくないだろう。

真九郎と紫、お互いが口外しなければ。

しかし――――。

 

このままにしておけなかった。

このままでいいはずはない。

何かが真九郎を急かす。

半ば無意識に持ち上げていたのは携帯電話。

紫の声を聞こう。

いや、紫の声が聞きたい。

真九郎は切実に思う。

そうすれば、自分のやりたいことがはっきりする。やるべきことが分かる。

これまでもずっとそうだった。

それに、いつだって紫は、俺を正しい方向へ導いてくれたじゃないか…。

 

紫の電話番号を呼び出そうとして真九郎は指を止めた。

液晶画面にメールの到着を示すアイコンが点滅。

少し迷ってからクリックして、目を見張った。

メールの取得時刻は今日の午前五時半。まだ真九郎がまどろんでいた時分。

そして送り主は―――紫。

 

「こんな…なんで、わざわざ…」

 

真九郎は呻いていた。

紫はメールをあまり好まない。

携帯電話を取得して使い方を覚えた当初こそ、一日に数十通も送ってきて返信する真九郎の指を疲弊させたものだが。

やはり電話なのだからな、直接おまえの声が聞きたいんだ。

メール? 手紙は自分で筆でしたためるからこそ心が籠もるのだぞ。

…そんな紫が、主張を変節させてまでメールで何を?

 

 

震える親指をボタンに載せる。

指が鉛のように重くなり動かせなくなった。

ある予感が、真九郎の手首から先を支配していた。

 

紫がわがままだと自分の行為を称していたこと。

朝になるなり、真九郎に声すらかけずに帰ってしまったこと。

まるで置手紙のようにメールを残していったこと。

 

真九郎の中に、漠然とした答えはある。

しかし、メールを見ることによって、はっきりするのではないか。

何もかもが明確にされてしまうことが真九郎を躊躇わせている。

全てを知ってしまうことが怖いとさえ真九郎は思う。

 

無限とも思えるほど長い時間考え込んでいたような気がするけど、実質は五分も経っていなかっただろう。

意を決して、真九郎はメールを展開。

一瞥して全身の血が冷えた。

意識と関係なく、震える唇が息の塊を吐いていた。

何か、ひどく大切な何かが漏れたのを感じる。

魂から、おそらく最も温かかった部分が、ゆっくりと抜け落ちていく。

 

これが本当の紫の望みだったのか?

だけど、これは決して叶えられることはない望みだ。

望んだところでどうにもならない願い。

…そうか。だから、だからわがままと言っていたのか―――。

 

同時にこれは、別れの言葉でもある。

直接言葉を交せば、未練になるから。

かといって予め手紙にしたためるほど、紫も平常の心持ちではいられなかったに違いない。

それゆえのメール。

 

全てが腑に落ちた。

しかしそれは、納得とは程遠いもの。

…だけど納得しなければならない。

脳裏をよぎった既視感を、真九郎は振り払う。

九年前とは違う。

無理矢理引き裂かれるわけではなく、これは紫は自分の意思で告げてきているもの。

あの時と違い、口にした言葉と裏腹に助けを求めているわけではない。

かといって自分の境遇を嘆いているわけでもない。

むしろ逆に感じとれるのは、九鳳院の女としての責務を果たそうとする彼女の並々ならぬ覚悟。悲壮なまでに誇り高い決意。

 

 

真九郎の肩が一瞬だけ勢いよくいきり立ち、がっくりと落ちた。

今更ながら気づいてしまったのだ。

自分の無力さに。

自分の卑小さに。

気づいたとき、両膝は畳の上についていた。

見えない現実の壁が真九郎の前にそびえ立っている。

冷たい壁に爪を立てて―――結局真九郎は何も言えない。

いくら認めたくなくても、もはやそれは紛れもない事実だった。

 

…もう、俺が紫のために出来ることは何もない。

 

確信し、受け入れた瞬間、後悔も罪悪感も全てが吹き飛ぶ。

心の中にぽっかり開く大穴を真九郎を見つめていた。

百万の後悔も、伝えられなかった言葉も、もはや何も意味を成さない。

過ぎた時間は、浪費した時は、決して取り戻せない。

何もかもが深淵に飲み込まれていくのをまるで他人事のように眺めながら、真九郎はようやく実感していた。

自分が失ったものがあまりにも大きかったことを。

 

「…紫……」

 

力なく呟く真九郎の手から携帯が転げ落ちた。

その画面に表示されているのはたった一文。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『わたしは、真九郎の子供が生みたかった―――』

 

 

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