目を開けると誰かがこちらを覗き込んでいた。
―――紫?
どうしたんだ、真九郎? うなされていたぞ?
―――ちょっと悲しい夢を見ていた。
悲しい夢?
―――おまえがどこか遠くに行ってしまう夢だよ。
馬鹿だなあ、真九郎。わたしはどこにも行くわけがないじゃないか。
―――そうだな。
ずっとおまえの側にいる。だから、安心して眠れ、真九郎…。
―――ああ。
安らかな気持ちに満たされて、真九郎は再度瞼を落とそうとして…。
紫!?
声は出なかった。
代わりに、見開いた瞳は見慣れた天井を映す。
そして、こちらを覗き込んでくる人影も。
「…おっ、ようやく目を覚ましたみたいだねー」
紫ではない。
武藤環がこちらを見下ろしていた。
環さん…。
そう口にしようとして、やはり声は出ない。
それどころか、起き上がろうとしているのにまったく身体が動かなかった。
「しっかし、夕乃ちゃんもさすがだなー。目を覚ますのに三日かかるっていってたけど、ピッタシじゃん。いやはや大したもんだ」
三日、だって!?
真九郎は思わず身体を起こす。起こしたつもりだった。
しかし、視点は変わっていない。
やはり身体は動かないのか。
それどころか肉体の感覚すら曖昧だ。
まるで意識だけが無機物の器に移されたよう。
「夕乃ちゃんが運んできてくれたの、真九郎くん覚えてない? あはは、無理ないかもねー、あれだけズタボロになれば」
ま、夕乃ちゃんもボロボロだったけどねー。
そういいながら、環は唇に何かを押し当ててくれる。
水か何かを含ませた脱脂綿のようだ。
唇の隙間から染み込んで来る液体を、どうにか吸い込んで飲み下す。
冷たい感触がゆっくりと腹の中を降りていく気配はあるんだけど、やはり自分の身体の感じがしない。
「お姉さんが世話してあげるからさ。安心して休んでていいよ?」
目だけがどうにか動く。
視界の端に、洗面器やタオルにくわえ、漫画や雑誌の単行本が山と詰まれていた。
どうやら環はずっとつきっきりで看病してくれていた様子。
声も出せないので、一応視線だけで感謝を示したが、届いたかどうかは分からない。
でも、視線に載せた疑問の声を、環は感じ取ってくれたらしい。
「…何があったのか夕乃ちゃんも話してくれないし、詳しく訊いてないからわかんないけどさ。
これほど人間って滅茶苦茶に、それでいて綺麗に壊せるなんて、私も初めて見たかな」
土手での決闘。
肉を断ち、骨を砕いた感触を覚えている。
それ以上に手酷い反撃を喰らったかは、実のところ記憶になかった。
でも、今のこの状態が全ての答えなのだろう。
真九郎は茫然と思う。
―――俺は負けた。
夕乃さんに、完膚なきまでに叩きのめされた。
「そうそう、昨日は銀子ちゃんも来たよ?」
銀子が?
「真九郎くんの枕元で、ずっと泣いてた」
泣く? 銀子が? なんで?
「そしたらさ、そこに丁度夕乃ちゃんが薬とかメモとか持ってやって来てさ。
『先輩、あなたは限度ってものを知らないんですか!?』
『銀子さんに出来なかったことをしてあげただけです。そのくせに喰ってかかられても困ります』
いきなり銀子ちゃんのビンタがバシーンだよバシーン! こうスナップ利かせてさ?
すかさず夕乃ちゃんも叩き返して、もうド修羅場だったよー」
環の声帯模写は不気味なほどそっくりだった。
彼女の新たな特技に感心するよりも、銀子と夕乃の争いの方に真九郎は驚嘆していた。
二人の仲があまり良くないのは承知している。
でも、どうして揉める必要まであるのか、全く見当もつかない。もちろん会話の意味も。
それに実のところ、それよりも気にかかっていることがあり、真九郎の心の大半はそちらに飛んでいた。
環さんの言っていることが正しいなら、俺はもう三日も眠っていたらしい。
だったら、紫は、もう―――。
込み上げて来る感情は絶望。
動くこともままならない自分の不甲斐なさに対する怒り。
確かに、夕乃にすら勝てない自分が、九鳳院の近衛隊という集団を前にして目的を達成できたかどうかなんて分からない。
だけど、そんなのやってみなければわからないじゃないか!
分の悪い賭けだなんて百も承知している。
同時に、夕乃の行動理由も理解していた。
だからこそ、夕乃は身体を張って止めてくれたに違いない。
彼女にしてみれば、真九郎の行動は自暴自棄の極み。
「死なせるわけにはいきません」
紛れもない彼女の本心だ。
結果として、ある意味夕乃は真九郎の命の恩人とさえ言えるだろう。
それでも、理屈ではわかっていても、感情は納得してくれそうもなかった。
…紫。
紫―――!
帰国した竜士が、大人しく手を拱いているはずがない。
成長した紫に興味を失っているのなら、なおのことさっさと義務を果たそうとするだろう。
紫が竜士に抱かれる。
それだけは嫌だ。
それだけは許せない。
なのに、真九郎の叫びは声にすらならなかった。
激しく胸が痛む。心が切り刻まれたように痛む。
反面、奇妙な発見があった。
そう認識できるのも、生きていればこその話。実に当たり前のことだけど。
それに。
もし俺が死んで、紫も助けだせなかったら?
紫自身が、あくまで俺の手を拒んだとしたら?
計画の実行前は考えもしなかった。
想像すらしなかった不幸な結末が次々と浮かんでくる。
きっと身体にダメージを負っているから、精神も引きずられて気弱になっているんだ。
そう思い込もうとして、真九郎は気づく。
自分の中にあった絶対的な自信が、影も形もなく崩壊していることに。
夕乃の目的は、これを打ち砕くことだったのか?
彼女が身体を張って討ち取ったのは真九郎の覚悟だったのかも知れない。
いや、覚悟ではなく慢心? それとも驕り?
…駄目だ、自分のことが信じられなくなっている。
でも、間違いないことが一つだけ。
俺が紫を望んだことだけは―――。
しかし、既に時は過ぎ去ってしまった。
紫を竜士の魔手から阻止する機会は失われてしまった。永遠に。
真九郎は環から視線を逸らし、真っ直ぐに天井を見上げた。
溢れてくる悔しさと悲しみを押し留められない。
なのに涙すら流せなくなっていることを、夕乃に感謝していいのか恨んでいいのか、真九郎は分からなくなってしまった。
■
声を出せるまで三日。
どうにか身体を動かせるようになるまで五日。
固形物を摂れるようになるまで一週間。
自力で動けるようになるまで二週間。
日常生活を送れる程度になるまで一ヶ月。
それなりのトレーニングが出来るくらい身体を動かせるようになるまで二ヶ月。
「ったく、相変わらず冗談みてえな回復力をしてやがる」
往診に来てくれた山浦医師は真九郎の回復をそう評した。
端的に言ってしまえば、真九郎の負った怪我は誇張きの大重傷。
それでいて自宅療養に落ち着いたのは、あらゆる負傷箇所が苛烈なまでに損傷しつつ、最も回復しやすい状態にあったためらしい。
環が「綺麗に壊せる」と評した所以だ。山浦医師も見解が一致したらしい。
「それでも無理するんじゃねえぞ? 生半可に動くぶんにゃあ問題ねえが、ちょいと無茶しただけでもれなく傷が開く。オマケというか爆弾つきだな」
そう告げて山浦医師が帰ったあと。
五月雨荘の中庭で、真九郎はさっそくトレーニングを開始。
相手は環が務めてくれた。
もちろん本調子ではない組手なのでハンディ付き。
「いやあ、夕乃ちゃんしみじみと凄いねー。真九郎くんの回復も予定表とばっちりじゃん」
環はメモ帳を片手に感嘆の声を上げた。
そこには例の回復予想に加え、崩月に代々伝わる秘伝の薬の与え方の手順やら時間やらが、事細かに記されているらしい。
ちなみに、ここ二ヶ月、夕乃は五月雨荘に姿を見せていなかった。
「くっ!」
真九郎の拳を環はメモ帳を見ながらかわす。浮かんでいるのは全くの余裕の表情。
崩月流はケンカ殺法だ。
決まった型などが存在しないのは、いかに効率良く相手に攻撃を叩き込めるかに特化しているため。
空手を嗜む環にとって、流派を伴わない真九郎の攻撃は本来捌き辛いはず。
なのに一度として真九郎の攻撃は環を捉えることは出来なかった。それどころか掠りもしない。
あまつさえ、
「ほりゃ」
環に手首を掴まれたと思った瞬間、真九郎はあっさり地面に組み伏せられていた。
「病み上がりだし、やっぱあんまり無理しないほうがいいんじゃない?」
「…ありが、とう、ござい、ました………」
ぜいぜいと息を切らす真九郎に対し、環は涼しい顔で気づかってさえくれる。
彼女との実力差を勘案しても、話にならないほど弱っていることを真九郎は実感。
だからといって無理を続ければ、せっかく動けるまでになった身体が回復前までに逆戻り。
そういう風に夕乃に壊された。
あの闘いで、真九郎は戦鬼の力を解放。
全身全霊をぶつけたといってもいい。
おそらく夕乃とはいえ無傷では済まなかっただろう。
にも関わらず、真九郎は一蹴されてしまった。
それどころか夕乃は、あの激闘のさなかで、真九郎へ与えるダメージも調整していたことになる。
彼女と自分の実力差は、それこそ絶望的なまでのもの。
そのことを、真九郎は文字通り骨身に染みて感じていた。
それでもトレーニングを自らに科す理由。
リハビリはもちろんだし、揉め事処理屋を再開しなければ生活にも支障を来たすから。
環にはそう言っている。
でも、それは建前。
真九郎はまだ諦めてなんかいない。
―――紫を取り戻す。
身体が癒え次第、九鳳院の本家へ再突入を計るつもりでいる。
回復するにつれ、精神も強壮さを取り戻してきたらしい。
今度は夕乃に見つからないようにして行かねばならない。
だけど、完全に復調しないまま乗り込んでも結果は見えているだろう。
なにより―――。
早朝の土手でランニングの足を止め、真九郎は周囲に誰もいないことを確認。
それから、右腕に意識を集中する。
何度も、何度も試す。
しかし、なにも変化は起こらない。
「…くそっ」
短いが、絶望的な呻きが真九郎の唇から漏れた。
角が出ない。従って戦鬼化は不可能。
よもや夕乃に叩き折られたというわけではないだろうから、これは純粋に体調の問題だろう。
比類ない剛力をもたらす崩月の角は、おそろしく頑丈な肉体を土台として初めて発現する。
角が出ないということは、土台が弱っているからだ。
力の発現には耐えられないと判断した肉体か精神の何かが、無意識のうちにセーブをかけてしまうに違いない。
戦鬼の力は、いわば真九郎にとっての切り札。
身体はまだまだ完調に程遠い。ましてや切り札なしでは…。
その点に関しても、夕乃の目論見は二重に成功しているといっていい。
真九郎の戦闘力を著しく削ぎ、その上、自らの身をもって、覚悟だけではどうにもならないことがあることを示してくれた。
…やはり、俺にはどうすることも出来ないのか?
一瞬そんなことを思い浮かべてしまって、真九郎は即座に自分を罵倒する。
それこそ夕乃さんの思う壺じゃないか…。
さらにその考えに至ったことにより、彼女に対し感嘆を通り越して戦慄すら真九郎は覚えた。
全ての夕乃の行動を鑑みた場合。
文字通り真九郎を『死なせない』ためだけに、彼女は最良最高の一手を打ったことになる。
頭を振って、真九郎はランニングを再開。
努めて何も考えないようにし、ひたすら身体を動かす。
今は体力を取り戻すことだけを考えるんだ。
体力を取り戻しても、戦鬼化が出来なかったら?
そのときは―――なんとかしろ!
身体が動かないなら、頭を使え、真九郎!
自分自身に命じても、すぐに名案が浮かぶわけもなく。
焦りがペースを乱し、五月雨荘に戻るころには真九郎の呼吸は盛大に乱れていた。
軽く流す程度のつもりだったのに。
これは、精神面から鍛えなおさなければならないかな…。
「―――え!?」
五月雨荘の前。
一台のリムジンが横付けされていた。
あまりにも違和感があったため逆に気づくまで時間がかかってしまったが、老朽な五月雨荘の佇まいに全く不釣合いなこの高級車は、真九郎に見覚えがあるもの。
それに応えるがごとく運転席のドアが開いて、朝もやの漂う通りに初老の男が顔を出す。
「…騎場さん!」
間違いない。このリムジンは、九鳳院近衛隊副隊長、騎馬大作がいつも運転しているもの。
ということは…!?
丁寧に一礼する騎馬への挨拶もそこそこに、真九郎は五月雨荘へと走った。
共同玄関で靴を放り脱ぎ、五号室を開ければそこには―――。
「久しぶりだな、真九郎…」