紅弐式 reboot   作:羽山健次郎

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十四

五号室の中には紫がいた。

 

―――夢、じゃないよな?

 

思わず注視してしまう真九郎に、紫ははにかむ。

 

「どうしたんだ?」

 

小首を傾げる彼女は、紅色のゆったりとした紬を着ていた。

ふわりと香る紫の匂い。久々に嗅ぐ香りに胸がいっぱいになった。

 

「…紫!」

 

思わずかけよって抱きしめようとした真九郎の腕と足はその場で急停止。

しかし、半瞬遅れて紫の方から抱きついてきた。

 

「………会いたかったぞ?」

 

それはこっちの台詞だ。

言いかけて真九郎は言葉を飲み込んだ。

素直に紫の身体に腕を回せないでいる。

それはなぜ? 

形容できない違和感を紫から感じたから。

真九郎に違和感の原因を見定める間も与えず、紫が顔を上げていた。

 

「今日は、真九郎に報告をしたいことがあって来た」

 

白頬が赤く染まっている。

紫の全体の印象は柔らかい。

心なしか表情も丸みを帯びているよう。

真九郎の中である予感が芽生える。

 

「…子供が出来たんだ」

 

ああ、やっぱり。

真九郎の腕の中に紫はいる。

なのにその感触も実感を伴わない。まるで他人事のように、意識は天井あたりから自分を見下ろしているのを感じる。

 

あれから二ヶ月。

竜士に抱かれた紫が、妊娠を確信するのには十分な時間が過ぎている。

それでなくても九鳳院では、紫の体調に万全の注意を払っているだろう。

変化があれば即座に究明、治療に移るはず。

その上で子供が出来たと紫は言っているのだ。

ならば、やはり、紫が竜士の子を身籠ったのは間違いない―――。

 

「どうした真九郎? おまえは喜んでくれないのか?」

 

訝しげな紫の表情と声に、真九郎はどう応じていいのかわからない。

それでも、

 

「…ああ、おめでとう、紫」

 

喉の奥から弱々しい声が出たけれど、ため息に似ていた。

むしろ戸惑う。

どうして紫はこんなに喜んでいるのだろう?

九鳳院の女としての義務を果たせたから?

義務を果たせば、あとは真九郎と一緒にいられるから?

それならば彼女の喜びようも腑に落ちる話で、同時に激しく解せない。

紫は絶対に自分の子供は自分の手で育てたいに違いない。

よもや、竜士との間に出来た子供を他人任せにして、真九郎のところに日参するわけはないだろう。

それとも真九郎に一緒に育ててくれと? それこそまさかだ。

 

どう考えても、以前と同様の紫との関係でいられるわけはない。

もし、紫がそれを承知して、真九郎と新たな関係を構築したいと望んでいるなら?

真九郎は理解しえないもの感じてしまう。

壁のような存在を意識してしまう。

それはいわゆる一般階級と特権階級との考え方の違いに似ているかも知れない。

紫自身も富裕層であり貴人と呼ばれて差し支えのない教育を受けている。

一般人と大いに価値観が異なるところがあるのはいわば当然。

特権階級の人間が、時には一般人には到底納得できない処遇を平然と受け入れたり、もしくは相手に科したりする。

とすると、この申し出も、紫の特権階級の出自ゆえの驕りから出ているものではないのか?

彼女自身は気にしていないのかも知れないが、真九郎には到底納得できるものではない。

紫は、他人の妻とも称して良い身分となってしまった。

一族の義務を果たせば後はいくら好きに振舞っていいとしても、彼女の申し出はおかしい。

俗っぽく表現すれば、人妻が夫は関与しないといっているから浮気をしましょうと誘っているみたいなもの。

いかに九鳳院の内情が特殊とはいえ、同情はすれど倫理観のズレを共有する気まではさすがにない。

世間一般に許されないことはやはり許されないんだと思う真九郎は、自分のことを一般人だと確信している。

 

…もしかしたら自分が狭量なだけかも知れない。

そう考えなくもなかったが、それでもなお、真九郎は今の紫を受け入れがたかった。

ふと、闇絵から昔聞いた言葉を思い出す。

『温かい料理と、一旦冷めてから温めたなおした料理は、似ているようで別物』

この状況。

それと同じか。

そっと抱きついてくる紫から身体を離す。

 

「無理だよ、紫…」

 

「? 何が無理なのだ?」

 

「いくらなんでも、子供を放って置くわけにはいかないだろう?」

 

「放って置くわけなどないだろう! もちろんわたしは自分で育てるつもりだぞ!? それに本家の方でも、既に優秀な乳母の手配を始めているし」

 

「だったらなおさら駄目だ。俺のところになんか来ちゃいけない」

 

「なぜだ!? 真九郎は子供が嫌いなのか!?」

 

「いや、嫌いとかそういう問題じゃなくてな…」

 

「じゃあどういう問題なのだ!?」

 

大声で睨みつけてくる紫に、真九郎は困り果てた。

よもやここまで考え方に違いがあるとは。

仕方ない。言おう。

 

「あのなあ、紫。いくらなんでも他人(ひと)様の子供を一緒に育てるつもりはないよ。俺は揉め事処理屋であって保育士じゃない」

 

「他人様…!?」

 

紫は、目をこれ以上ないくらい大きく見開き、口をパクパクと開閉。

 

「…真九郎、わたしは寛容だ。おまえに対して誰よりも寛容なつもりだ。だから一度だけなら許すことにする。

 その上で訊ねよう。おまえはさっきから、一体なにを言っているんだ!?」

 

凄まじいまでの紫の剣幕に、思わず首を竦めてしまう真九郎。

結局、しどろもどろになりながら、紫のお腹のあたりを指差す。

 

「だって、竜士との子供なんだろ…?」

 

「―――!!」

 

返答は、火の出るような平手打ちだった。

冗談抜きで目から火花が飛び散るかと思った一撃は、真九郎の体調が万全でも果たしてかわせたかどうか。

 

「真九郎、おまえ、なにを、なにを――――!」

 

わなわなと紫は震えていた。

打たれた頬を押さえながら、真九郎は茫然と立ち尽くすしかない。

こんなに怒っている紫を見たのは初めてだった。

しかし、一転、風船の空気が抜けるように、紫の怒りは拡散していく。

お腹に手を当て真九郎を見てくる紫の瞳は慈母のそれ。

 

「紫…?」

 

「一度は許すと言ったからな。でも、いいか? これっきりだぞ!?」

 

「…はい」

 

なんだかよく分からない展開に、それでも神妙に真九郎が頷くと紫は満足した様子。

 

「おまえは何を勘違いしたか知らんが、竜士兄様はまだ欧州にいるぞ? ここ数年、顔を合わせたこともない」

 

「…え!? でも、俺は、二ヶ月前に帰国したって…!」

 

そう聞いた。誰から聞いた? 銀子から。

その時、裏は取ったか?

なんで銀子の情報の裏を取る必要がある?

だから取ってない。頭から信用していた。

ということは、つまり―――?

 

幾つかの記憶の断片が、真九郎の中で煌いた。

そういえばあの夜。

夕乃さん、どうして俺が九鳳院の本家に乗り込もうとしているのを知っていたんだろう?

それに、俺が眠っている時に見舞いに来てかち合った際の二人の会話。

あれはどういう意味だったんだ?

 

今にも答えが組みあがりそうな寸前、紫の声が全てを吹き飛ばす。

 

「ここにいるのは、わたしとおまえの子だ、真九郎」

 

優しい声は聴覚神経を駆け上り、真九郎の脳髄を直撃。

爆散した衝撃が、電撃のように全身へ広がっていく。

 

…俺の? 俺と紫の…子供…?

 

手と足が震えていた。

どの感情が自分を揺さぶっているのか分からない。

でも、悲しみの感情でないことだけは、はっきりと分かる。

自らのお腹に手を載せる紫を見た。

それこそ、穴が空くほど凝視してしまう。

でも、それって間違いないのか?

真九郎の声なき疑問が届いたわけではないだろうけど、紫は恥ずかしげに目を伏せた。

 

「間違いなくわたしたちの子供だ。だって……わたしは真九郎しか知らない」

 

たちまち紬の色と見まごうか如く染まる紫の顔。

思わず真九郎は彼女を抱きしめていた。

お腹を圧迫しないように。

でも、この上なく強く優しく。

 

「…紫」

 

なんて言っていいか分からない。

どう自分の気持ちを伝えていいか分からない。

だけど一つだけ分かっていることがある。

こんなときは、泣いても決して恥にはならないということが。

 

抱き返してくる紫の手に力が籠もるのを感じる。

応えるかのように、ひたすら真九郎は抱きしめた。

一度は失くしたと思ったのに。

望んでも決して得られることはないと思ったのに。

最愛の少女が腕の中へ戻ってきた。

再び帰ってきてくれた。

 

おそらくこの瞬間、自分は地球上の誰よりも幸せだと思う。

報われたのだ、何もかも。

そう感じていた。

そしてこれから先に訪れるであろう困難も、真九郎は予想している。

ただ喜びに身を任せてられるほど自分は無責任じゃない。すなわちそれが大人になるということだ。

子供が出来たら産まれるのは当然。

九鳳院本家が、紫を身籠らせた自分を放っておくはずはない。

考えただけで頭が痛くなる問題が山積みだ。

…でも、今は。

この瞬間は、自身の幸せに酔いしれよう。

きっと人生最大級の幸福なのだから。

 

大丈夫、この先なにがあって全部乗り越えられる。

乗り越えてみせる。

だって、紅真九郎は、おまえさえ側にいてくれれば、何でも出来るんだから。

そうだろう、紫…?

 

自分にとってこの世でも最も大切な存在となった少女の髪に顔を埋める真九郎。

だが、ただ一つだけ疑問が残る。

そもそも九鳳院家は、同族同士でしか子供を作れないんじゃ?

なのになんで俺と紫の間で子供が…。

 

「そんなの決まっているだろう?」

 

紫は真九郎の目を見返して笑う。

目尻の嬉し涙を拭って、それから自信満々に胸を張って一言。

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛の力だ!」

 

 

 

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