久しぶりに訪れる真九郎を、崩月の屋敷は優しく招き入れてくれた。
道場で科された苛烈な修行は思い出しただけで血の気が引くけど、それは真九郎が望んだこと。
それ以上に、家族の温かさ、人間の優しさを教えてくれた懐かしい家でもある。
実に八年もの間やっかいになっていたのだから、真九郎は少年時代の半分をここで過ごしたと言ってもいいだろう。
家族の死以来壊れてしまった自分を、どうにか社会で生きていけるまで癒してくれた恩人たちが住む場所。
そんな恩人の一人の前で、真九郎は畏まる。
「…まあ、そういうことなら仕方あるめえよ」
崩月法泉はそういって顎を掻いた。
「しかしよもやおめえが九鳳院の嬢ちゃんとなあ…」
そういわれて、真九郎は益々畏まるしかない。
事前に連絡を入れ、且つ改まって報告しに崩月まで出向いた真九郎の行動は、全て紫に由来する。
九鳳院と崩月。
片や表御三家の一つで、片や裏十三家の雄だ。
そして紫は九鳳院の子女であり、真九郎は崩月の内弟子。
少なくとも、紫の父蓮丈からは「崩月の小鬼」と認識されている。
紫と関係を持ったのは全く自分の責任。
だからといって、崩月との無関係を主張できないのも真九郎の立場。
自分のせいで崩月の本家に迷惑を及ぼしてしまうかも知れない。
それだけは避けたかった。
もっとも、迷惑が及ぶにしても真九郎にはどう解決していいのか見当もつかなかったが。
だから今日の報告は、謝罪半分相談半分と言っていい。
どうすれば崩月にまで累が及ばないように出来るんでしょうか。
戦鬼の能力の無断使用、夕乃との私闘の報告と謝罪を済ませ、そう相談の口火を切った真九郎だったが、しかし法泉は一蹴。
「なーに、気にするこたあねえし関係もねえ話よ。おまえはあくまで崩月の弟子だ。それにうちだって、今更九鳳院とつるんでも仕方あるめえ」」
崩月の家は、法泉の代で裏の権力争いから身を引いている。
一見冷たそうに聞こえる法泉の発言も、裏を返せば真九郎のことを思いやってのことだろう。
あくまで弟子でしかなく直系ではない。崩月としては一切関与しない、好きにしろ、と言ってくれているのだ。
真九郎は無言で俯いた。優しさが身に染みた。
出向いて来た当初、破門すら覚悟していたのだから。
「…まあ、本当のことをいやあ、うちの夕乃と一緒になって崩月を継いでもらいたかったんだがなあ」
苦笑する法泉に、真九郎は畳に頭を擦り付けるように平身低頭するしかない。
そんな風に冗談交じりで言われたのは、崩月流を修めてから数え切れないほど。
その恩に報いるためにも、出来ることなら師匠の期待に応えたい。
でも―――。
「真九郎、おまえのこった、九鳳院の嬢ちゃんと別に夕乃のやつとよろしくなんて、そんな器用な真似は出来ねえだろ?」
まあ、そしたらそしたで九鳳院と無関係ってわけにも行かなくなるだろうがなあ。そういって呵呵と法泉は笑う。
仮に真九郎が夕乃と結ばれたとしたら、崩月の当主扱いということになる。
そうなってから紫と問題を起こせば、確かに事は家系同士のいざこざへと発展してしまっただろう。
でも、それは在り得ないこと。法泉の言うとおり真九郎はそんなに器用な人間ではない。
夕乃のことを思えば真九郎の胸が痛む。
誰からの好意も一身に集める女性を、真九郎は有り体にいえばフッてしまった。
自分を待ち焦がれる彼女の想いを知ってなお、応えることは出来なかった。
夕乃にはもっと相応しい人間がいるから、などと無責任に思考停止できるほど、真九郎は人でなしではない。
求めて決して得られることがなくなったものを置いて、彼女はこれからの人生をどう歩んでいくのだろう?
そして、その手助けを、真九郎だけは絶対に出来ないのだ。
「申し訳、ありません」
真九郎は両手を畳について、改めて頭を下げた。
曖昧で不明瞭な関係。
ゆえに傷つかず、傷つけない雰囲気というものもあるのかもしれない。
しかし、中途半端な態度が時には一番ひとを傷つける。
今回の出来事の中で、真九郎はそのことを痛感していた。
自分に好意を寄せる女性の存在を知りながら、応えないでいた。
状況に変化が起きるのを恐れていた。
そのツケが回りまわって、結局よりたくさんの人を巻き込み、傷つけてしまった。
―――銀子。
幼なじみである彼女のことを、もしかしたら自分は一番傷つけてしまったのかも知れない。
銀子のことを思うと、夕乃とは別の痛みが真九郎の胸に響く。
彼女はきっと、前々から真九郎の紫に向ける気持ちを察していた。
だがそれは、決して叶うはずもない恋。やがては潰える仮初めの感情。
そんな風に達観していたようだし、実際に真九郎にそう苦言を呈したことさえある。
彼女自身の気持ちは黙殺したまま。
それでも。
それでも真九郎が本気なのなら?
銀子はそう考えるに至った。
そして確かめずにはいられなくなった。
真九郎が紫のことを、本当はどう思っているのか。
だから銀子は、幼なじみの行状をつぶさに観察。
おそらく、真九郎が紫と関係を持ったことすら察していたに違いない。
あわせて紫から決別を告げられたことも。
その上で銀子は試すことにした。試さずにはいられなかった。
彼女の気持ちは、あのメールに集約される。
九鳳院竜士の帰国という偽情報。
その報告を受けて、真九郎はどう動く?
諦めて、自分の気持ちにケリをつけるか。
そうなれば、他の女性のことを受け入れる余地も出来るだろう。別の誰かを愛せるようになるかも知れない。
それとも―――なんら大義名分すら負わず、ただ私欲のためだけに動くほど、九鳳院の少女が紅真九郎の心を占めていたら。
だから、銀子は夕乃に連絡した。
―――もし、真九郎が動くようなことがあったら、絶対に無茶を阻止してください。
これを保険と形容しては情がなさ過ぎるだろう。
結果として夕乃も利害が一致した。銀子の申し出を承諾。
これで深夜の五月雨荘の前にいきなり夕乃が現れたのと、彼女が真九郎が九鳳院の家に乗り込もうとしていたことを知っていた説明がつく。
「世の中にゃ大抵のことがどうにかなるが、人の心と命だけはままならねえ。だからこそ面白いとも言えるのかもなあ…」
「……………」
「夕乃のことを気に病むな、ってのもひでえ話だよな。…ま、せいぜいおまえは幸せになれよ? 嬢ちゃんとの子供、産まれるんだろ?」
「はい、いまちょうど三ヶ月も終わるあたりで…」
本当は、今日の報告に紫も同席するはずだった。
九鳳院の娘として、崩月の現当主へ筋を通さねばならないだろう?
それに夕乃のこともあるしな…。
いつになく殊勝な様子の紫だったが、今朝方から体調を崩している。
普通妊娠12週ほどで治まる悪阻が酷く、外出もままならないとのこと。
だけどこちらから訪問すると通達しておいて変更するのも無礼な話。
紫はまた後日ということで、今日は真九郎が単独で赴いた次第。
「生まれたらちゃんと見せに来い。せっかくのひ孫だ、見ずに逝けるかってんだ」
「はい…」
弟子でしかないと断言しつつも、その実、真九郎を孫扱いしてくれている。
法泉の優しさは心臓を温かくしてくれたが、こと子供に関しては未だ実感が薄い真九郎がいる。
紫が自分のもとへ戻ってきた。
それは素直に嬉しい。というかそれだけで十分過ぎる。
その上に子供が出来たというのは、なんとも一足飛びな感じがして仕方ないのだ。
子供を作る行為をしたから子供が出来たわけで、実に自然なこと。
それは理屈では分かっているんだけど、どうにも実感が伴ってくれない。
本来、結婚という段階を踏んでそして子作りを、と考える真九郎は、夕乃の古風な貞操観念に染まっている。
ましてや紫と肌を重ねたのはたった一回だ。
「なーに、中るときゃあ一発で中るもんさ」
ケロリとした顔で断言する法泉。
「俺も若いころ覚えがあるぜ? 死んだ婆さんのときにゃあ、これはヤバイなとびびっと来てな。案の定冥理が出来ちまって、おかげで結婚する羽目に…」
「でも、師匠。九鳳院は同族同士でしか子供は…」
話は長くなりそうなので、真九郎は慌てて軌道修正。
「なんでえ、ここからがいいとこなのに」
ブチブチと言いながらも、法泉は丹前の胸元から出した手を顎に当てる。
ふうむとすっかり白くなった眉を寄せて考えこむ横顔は、国語の教科書の著者近影で掲載されそうなほど。
紫との関係を語る以上、九鳳院の内情を避けて報告できなかった。
奥ノ院のことも含めて、真九郎は包み隠さず法泉に話している。
近親姦を重ねた末の遺伝子弊害。
そのために、血族同士でしか子供は作れないはずの紫が、どうして自分と子供を作れたのか?
「俺ぁ遺伝子とかどうとか難しいことはよくわからねえが、要は血が澱んじまってるってことだろ?」
「…はあ」
…そんな乱暴な解釈でいいのかな?
気の抜けた返事をする真九郎に、法泉は破顔。
「だったら、崩月も負けてねえぜ?」
思わず師匠の顔を見返してしまった真九郎だったが、即座に納得。
崩月の戦鬼。
その異名のもととなるのは、身体から生える異形の角だ。
常軌を逸した肉体改造を何十年何百年、何代にも渡って科した果てに身についた器官。
通常の人間には在り得ないもの。
崩月という家系の血の凝縮。集大成。同時に血の澱みと形容できなくもないではないか。
「だいたいおまえからして普通の人間とはだいぶ違う身体になっちまってんだよ。それに」
法泉は真九郎の右腕を指差す。
「そこに俺の角が入ってるだろ?」
無意識の動作で真九郎は右肘を押さえている。
指摘されてみれば、過酷な修練により自分の身体は一般人から大きく逸脱している。
法泉の力を譲り受けた時点で、真九郎の肉体もまた崩月の歴史と血を背負っているのかも知れない。
そう考えれば、紫との間に子供が出来たことに対し一応の説明もつくのではないか?
九鳳院の血の澱みを、崩月の血の澱みが迎え撃ったのか打ち消したのか、それは分からないけれど。
「本当のところは俺もわかんねえよ。
でもな、九鳳院の嬢ちゃんが言ったことは間違いなく本当だろう」
『愛の力だ!』
紫のその台詞を思い出すだけで、真九郎は赤面。
法泉の巧みな誘導により、その場面まで克明に説明させられた真九郎である。
「結局のところな、何にもまして強いのは、力でも富でも名声でもねえ。人の心だ。いつだって人の気持ちが時代を動かして来たのさ。
爺臭い説教をするつもりはねえが、人間の楽したいって気持ちが自動車や飛行機を作ったんだぜ?
うちだってそうさ。強くなりってえって気持ちが凝り固まって、とうとう人間に角が生やせるくらいまで鍛錬しちまったんだからな。
一念は岩をも通すってやつ、ありゃ嘘じゃねえんだよ」
…師に対する最大限の礼と、子供が生まれたら見せにくることを確約し、真九郎は法泉の私室を辞した。
子供。
俺の子供、か。
屋敷の廊下を歩きながら、真九郎の心中はなかなかに複雑だ。
子供が産まれるといわれても、いま一つ以上ピンとこない。
ましてや自分が父親になることなど、想像すらできないのである。
でも、それは遠くない将来現実となるわけで。
しっかりしなければと言い聞かせる反面、不安が勝る。
嬉しいとかどうとかよりも、どうしたらいいのかよく分からないというのが正直な感想かも知れない。
紫の体型に目に見えて変化が起きればまた違うのかも知れないが、自覚を維持し続けるのも難しい現状だ。
ふと、真九郎は足を止めた。
中庭で冥理が洗濯物を干している。
ここは挨拶をしなければならないだろう。
真九郎が折り入って話があると声をかけるも、冥理は、
「面倒だから干しながら聞くよ」
「いえ、大事な話ですから」
「お父さんには話して来たんでしょ? だったら別に改まらなくっていいから」。
仕方なく、廊下に正座をして真九郎は挨拶を開始。
とはいってもむしろ半分以上侘びごとだ。
夕乃を傷つけたことも、崩月を継げなくなったことも全て話す。
さすがに九鳳院がらみのことは割愛したけれど、ひたすら畏まる真九郎を一瞥して冥理は一言。
「じゃあ、仕方ないね」
まるで夕食の買出しで野菜が売り切れだったときのようにそっけない口調。
「…すみません」
頭を下げながら真九郎は心から感謝していた。
これが冥理の心遣い。優しさなのだ。
立ち上がり踵を返す寸前、干したシーツの影から冥理の声。
「いつでも気兼ねなく戻ってきなさいよ。ここは真九郎くんの家なんだから」
「…はい」
その言葉に、真九郎はシーツ越しにもう一度深く頭を下げた。
中庭に面する廊下を曲がり、玄関前まで来たとき。
セーラー服の少女が玄関脇の廊下から出てくる。
「…こんにちは」
「ちーちゃんか!? 久しぶり。大きくなったね」
夕乃の妹の散鶴だった。
確か紫の一個下だから、今年で中学三年生か。
そういえば、夕乃さんが来年星領を受けるっていってたっけ…。
感慨深げに目を細める真九郎に対し、散鶴は言う。
「お兄ちゃん、結婚するの…?」
「それは…」
ちーちゃん、聞いていたのか…。
そう思う真九郎だったが、散鶴の質問自体はにわかに答え難いものだった。
むしろこれは、真九郎と紫二人にとっての命題。
九鳳院の本家にしてみれば、真九郎は大事な息女に手を付けた狼藉者。
ましてや身籠らせたとあっては、社会的どころか現実的に抹殺されてもおかしくない話なのだ。
もっともそれは普通の名門に限った話で、九鳳院の内情は異なる。
むしろそれこそが真九郎の首と胴体を繋いでいるとさえ言ってもいい。
…つくづく大それたことをしたんだな、俺は。
そのことに思いを馳せるたびに冷や汗が滲んでくる真九郎だったが、現実では散鶴の頭を撫でていた。
「結婚するかは分からないよ。でも」
嫌がるかな、と思ったけれど、昔と変わらず散鶴は真九郎の手を受け入れてくれる。
だからこそ告げるのは辛かった。
「夕乃さんと一緒にもいられない…」
「そう、なんだ」
一瞬、寂しそうな表情が過ぎるのを、真九郎は見逃さない。
散鶴すら傷つけてしまう自分に怒りさえ覚えるが、だからといってどうしようもなかった。
「相手は、紫ちゃんなの?」
「…ああ」
「うん! 昔からお兄ちゃんと紫ちゃんはお似合いだったよ!」
作られた笑い。明らかな虚勢。
真九郎も釣られるように笑顔で応じる。
それを指摘するほど残酷なことはないから。
「それじゃ、もう行かなきゃ」
「…また遊びにくる?」
「もちろん」
散鶴は門の前まで見送ってくれた。
手を振って別れの挨拶をしてしばらく歩いた後。
背中から声が追いかけてくる。
「…お兄ちゃんー! お幸せにー!」
「ちーちゃんも元気で。風邪引かないようにね」
再度手を振ってバス亭まで歩く帰り道。
背後を振り返りたい欲求を真九郎は堪えた。
後ろで散鶴が泣いている。
そんな気がしたから。