紅弐式 reboot   作:羽山健次郎

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十七

五月雨荘五号室は相変わらず騒がしい。

入らなくても中の様子が手に取るように分かる真九郎だったが、意を決して扉を開ける。

 

「おかえり真九郎!」

 

座っていた紫が立ち上がって飛びついてくる。

 

「おい、あんまり無茶するなよな…」

 

いくら安定期に入ったとはいえ、乱暴に身体を動かしていいわけではない。

優しく抱きとめながら真九郎は苦言を呈す。

はや妊娠五ヶ月目に突入していた紫だったが、それほど目立った体型の変化はなかった。

ゆったりとした和服ばかり着ているからだろうか?

 

「おお、少年。お帰り、邪魔しているよ」

 

「真九郎くん、おっかえりー! …あれ? なんか美味しいもの食べてきた? お土産は?」

 

読みさしの本を放り出し、環は立ち上がって近づいてきた。

真九郎の首筋に触れそうなほど近くに顔を寄せ、鼻をスンスンと鳴らすことしばし、

 

「あー、エビチリ、青椒肉絲、エビシューマイ、麻婆豆腐、煮豚、カシューナッツと鶏肉炒め、フカヒレのスープ、鮑のステーキ、杏仁豆腐の匂いがするー」

 

…警察犬かあんたは。

思わず呻きそうになった真九郎だったが、室内の光景の方にこそ驚いてしまう。

そこに広がっていたのは、良い悪いは別にして、全く真九郎の予想を超えているもの。

四畳半の家具は最小限にしても更に狭い室内には、足の踏み場がないほど本の山が幾つもうずたかく積まれていたのだ。

いや、足の踏み場がないとう表現は適切ではない。

紫と環と闇絵が腰を降ろしているスペース以外、全て本で埋め尽くされていると言ってよかった。

 

「なんなんだ、この本は?」

 

「ああ、騎馬に運んでもらったんだ」

 

「いやそういうことじゃなくてだな…」

 

何気なく近くにある本の山に真九郎は手を伸ばす。

一番上に積まれた、辞書と見紛うがごとき分厚いそれの表題は。

 

『平成命名辞典 完全無欠版』

 

そればかりではない。

他に積み立てられた本のそのほとんどのタイトルは、『人名辞典』『姓名判断』『画数占い』『幸せな名前の付け方』エトセトラエトセトラ…。

 

「生まれてくる子供に名前はつけてやらなくてはならないだろう?」

 

そっと自らのお腹を抱えるような仕草をする紫に、真九郎も納得。

確かにそろそろ名前を考えて上げてもいい時期だろう。

しかし、この本の量は、ちょっとばかり尋常じゃなくはないか?

 

「よしっ、君に決めた!」

 

世界的にヒットした子供向け携帯ゲームの主人公のような歓声を上げて、環はテーブルに向かい合う。

テーブルの上になぜか準備されている和紙に、たっぷりと墨をなすり付けた筆を走らせ、環は自信満々に真九郎を振り仰いでくる。

その様はまるで裁判所から出てきた原告関係者のようだったが、彼女が両手に広げた和紙に書かれている文字は『無罪』でも『有罪』でもない。

 

 

命名 環太郎

 

 

「どうよ! どうですかこれ!?」

 

「…どうですかって言われても……」

 

「カンタロー! 北風小僧っぽくていい名前でしょ!? それに字面も、こう、円環? サークル? 幸せも酔いも延々ループするって感じ?」

 

「…………え、と」

 

「あれあれ~? 気にいらない? 最高だと思うけどな~素敵で無敵だと思うんだけどな~」

 

顔を覗きこんでくる環に、どう応じていいか本気でわからない真九郎。

 

「ふん、相変わらず環、君はセンスがないな」

 

今度は闇絵がテーブルに向かって筆を走らせている。

瞬間、どうかこれ以上事態をややこしくしないでください! と真九郎は心より願ったが、どうやら徒労に終わったようだ。

墨に劣らず黒い衣服を愛用する彼女の両手に、堂々と広げられた紙片には。

 

 

命名  闇之介  闇子

 

 

 

「…ああそうかー! 生まれてくるのは何も男の子だけってわけじゃないんだー!」

 

「そういうことだ」

 

うう、負けた…と床に両手両膝をつく環を一瞥し、珍しく得意げに鼻をヒクヒク蠢かせながら闇絵は言う。

 

「どうだね、少年?」

 

「………あの、その」

 

「別に礼など不要だ。ただ、贅沢を言えば生まれた子に、一言私のことをお母さんと呼ばせてくれると嬉しいな。

 なに、己の腹を痛めたわけではないが、名付け親でも親は親だからな、はっはっは」

 

既に決定事項なのか、それは…。

全力でツッコミたい声を必死の努力で飲み込み、真九郎は引き攣った笑いを浮かべるので精一杯。

 

「ありがとう、環、闇絵! 参考にさせてもらうぞ!」

 

なのに二人に笑顔で応じる紫がいた。

 

「でも、出来れば、もっとじっくりと考えて候補を挙げてくれると嬉しいな。まだ生まれるまで時間はあるし」

 

そういわれて、環、闇絵ともに納得した様子で再び本を開き名前選びに没入し始めたのだから恐れ入る。

あっさり事態を収拾してのけた紫は、やはり傑物なのか。

呆気に取られた視線で紫の横顔を見つめる真九郎に、

 

「どうした? わたしの頬に何かついているか?」

 

「…いや」

 

本の山の間に無理矢理足を突っ込んで、真九郎は上着を壁にかける。

さてこれからどうしようと本でいっぱいの部屋を見回せば、

 

「お腹空いた~」

 

「ふむ、私も小腹が空いてきたな」

 

今日も今日とて好き勝手絶頂な住人が二人。

 

「真九郎くん、何か作って~」

 

「って、言われても…」

 

とりあえず、どうにか冷蔵庫より食材は取り出せたが、肝腎の流しにすら本で侵食されているのだ。

どければ調理は出来ないことはないが、よりによって可燃物満載のいまのこの部屋で、あまり火は扱いたくない。

 

「だったらあたしの部屋のキッチンを使えばいいじゃん」

 

「…それって環さんの部屋の掃除もしろってことですか?」

 

「にゃはは、ばーれーたーかー」

 

結局、真九郎は環の思惑に乗ることにした。

少なくともこの部屋で調理をするより、環の部屋を掃除して使ったほうがマシに思えたのだ。

冷蔵庫から卵と野菜とベーコン。ついでに塩胡椒といった調味料も一抱えにする。

 

「それで、二人とも何が食べたいですか?」

 

もちろんこれは半分以上嫌味なのだが。

 

「カマトロの照り焼き」

 

「ステーキ。ミディアムレアでな」

 

「…あんたらなあ」

 

環の部屋は予想以上の酷い惨状だった。

軒下に吊るされた極彩色の下着の暖簾に溜め息をこぼし、いっそ部屋の隅から隅まで焼却消毒を施したくなったのをグッとこらえる。

とりあえず流しの回りをざっと片付けるのには、ものの十分で済んだ。

部屋の隅に林立するカップめんの空き容器が示すとおり、普段はもっぱらお湯を沸かすくらいでしかガス台も使っていないのだろう。

ほとんど未使用のフライパンを引っ張り出し、表面にサラダ油を馴染ませる。

食材は限られているから出来る料理もそれなりだ。

…簡単に卵チャーハンにするか。

一旦ガス台の火を消して、五号室へとご飯を採りに戻ろうとした真九郎だったが、ふわりと温かい匂いに包まれる。

 

「…紫?」

 

ちょうど振り向いた胸先に、紫は飛び込んできた格好だ。

そのままグリグリと胸に顔を押し付けてくる。まるでさざ波のように光沢のある髪が揺れた。

無言で両眼を細める紫の表情は、日向でまどろむ子猫のよう。

彼女がこうまであけすけに甘えてくるのは、真九郎に対する絶大な信頼と安心の表れに他ならない。

少しだけ躊躇ったあと、真九郎も紫の両肩にまわす腕に力を込めた。

そういえばずいぶんと久しぶりだな、こうやって抱き合うのも…。

 

「…ん」

 

顔を上に向けて両眼を軽く閉じる紫がいる。

また少しだけ躊躇って、そっと真九郎はその唇に自らの唇を重ねた。

柔らかく、瑞々しく、甘い。

大切なものにはキスをする。

そして、大切なものにするキスは、とてもとても心地がよいものだ。

 

「…なあ、真九郎。わたしは幸せだ」

 

キスの余韻に頬を染めたまま紫は言う。

 

「環がいる、闇絵がいる。そしてなにより真九郎が側に居てくれる。みんなみんな、この子が産まれるのを祝福してくれている…」

 

「…そうだな」

 

紫の腹部に視線を落としながら真九郎も目を細めた。

そこには確かに新しい命が芽吹いている。

人体の神秘について感動を覚えないわけでもないが、産まれ出ずる日を心待ちにされ祝福を受けている命ならば、これに勝る幸せはないだろう。

それでもやはり、自分が父親になるという心境は薄い真九郎である。

対して紫が陶然として浮かべている表情は、まさしく母親のそれだった。

もちろん遠い記憶に真九郎自身の母親の記憶がたゆたってはいたが、崩月の家に引き取られて間もなく冥理が散鶴を身篭っている。

あの時の表情を、真九郎は忘れてはいない。

自らの胎内に命を育むうちに、女性は母親となっていくのだろう。

ただ一つ、真九郎が紫に対し気にかかることがあるとすれば。

 

「なあ、紫?」

 

「なんだ、どうした?」

 

「その…後悔はしていないのか?」

 

「…何を後悔するというのだ?」

 

パチクリと、紫の大きな瞳が瞬く。

不安と憤りの混ざった声音に、慌てて真九郎は言葉を紡いだ。

 

「ほら、紫はまだ16だろ?」

 

咄嗟に口をついて出たのは一般論。

社会的な結婚年齢の高齢化が問題視されて久しいが、それにしたって16歳で妊娠出産は早いだろう。

むろん法的に問題はないかも知れないが、本来の紫の年齢では、高校に通っているほうが普通なのだ。

同級生と一緒に校舎で学び、放課後は繁華街をそぞろ歩き、休日には連れ立ってテーマパークやショッピングに行くというのが世間的にも正しいはず。

もっとも紫の出自が普通でないわけだが、それでも出産は人生の一大事に違いない。

その後の人生さえ決定付けてしまう重要な。

 

「それがどうしたというのだ?」

 

真九郎の肩に顎を乗せながら、紫は安心したかのような声で返答。

 

「いずれ私は子供を産むつもりだったからな。しょせん早いか遅いかの違いに過ぎない」

 

「…でもな」

 

若ければ何でも出来る。

若いうちだからこそ出来ることもある。

揉め事処理屋で青春を磨り潰して来た真九郎が言うのもなんだが、紫には無限の可能性があったはずだ。

そう実感させるだけの器量が彼女にはある。

事実、紫の中学時代の成績を見るだけで、才能の豊かさが伺えた。

なお食い下がろうとする真九郎に、紫は華が咲くように笑う。

 

「わたしは幸せだといっただろう? だって、おまえの子供を身篭れたのだから」

 

…ああ、結局はそこに集約されるのか。

将来的に子供を産むつもりだったとついさきほど紫は言明したばかりだが、本来身篭るのは真九郎の子供ではなかったはず。

 

―――好きな人と結ばれて、好きな人の子供を産むのが、女として最大最高の幸せだ。

 

和やかな色を讃える紫の瞳は、声高にそう主張して余りある。

その視線を、真九郎はやや受け止めかねた。

単純に照れくさいのだ。

それでいて、腹の底から温かくなるような多幸感。

不本意ながらも顔を逸らしてしまう真九郎に、紫は頬を膨らませる。

 

「それとも何か? 真九郎は幸せではないとでもいうのか?」

 

「そ、そんなことあるわけないだろ!」

 

そう答えるのに躊躇はいらない。

最愛の人との間に子供が産まれるという条件は紫と同じ。

じゅうぶんに自分は幸せだ。

むしろ、自分にこんな幸せは許されていいのかとさえ思う。

一歩さがって俯瞰すれば、法的な婚姻問題や九鳳院本家の意向など課題は山積だが、紫と二人でいるだけで、それだけで真九郎は幸せだった。

もちろん無条件で勝ち取った幸せではない。

両手からこぼれていったものもある。傷つけてしまった人たちもいる。

それでも、全てを得るわけにはいかなかったのだ。

 

生きていくということは、何かを切り捨てていかねばならないということ。

真九郎の座右の銘は、昔と違って続きが付け足されている。

切り捨てた果てに手に入れた幸せは、決して手放してはならない―――。

 

「真九郎」

 

紫が真っ直ぐ目を覗き込んでくる。

 

「これからもずっと幸せでいよう?」

 

「ああ」

 

そうだな、と頷く寸前、またしても重ねられる唇。

火がついたように熱いそれを受け止め、そのままお互いの唇を貪ろうとして―――。

 

「どうした、真九郎…?」

 

急に唇を離されて訝しげな顔つきになる紫を背に、真九郎は無言で六号室のドアを開け放った。

そこには。

 

「………なにやってんですか、二人とも」

 

「あ、はははは、ご飯はまだかなーって! それに、ほら、ここはあたしの部屋だし!」

 

「なに気にすることはない。続けたまえ。私は一向に構わんぞ?」

 

「こっちが気にするんですよ!!」

 

逃げ出す環に、あくまで泰然としている闇絵。

紫もさすがに恥ずかしくなったのか、頬を染めたままそっぽを向いてしまう。

住人二人を糾弾しつつ紫を気づかいつつ、真九郎は確信せずにはいられない。

きっとこれが幸せというものの断面なのだろう、と。

 

 

 

 

 

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