紅弐式 reboot   作:羽山健次郎

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十九

吉報凶報どちらとも突然であるがゆえに人の心を惑わす。

予め内容を知っていれば、どのような連絡にも情報以上の価値はない。

良い報せか悪い報せかを判断するのは、あくまで人の心の持ち様だ。

それを踏まえてなお、人の心は御しがたい。

 

夜半過ぎ、一仕事を終えて五月雨荘に帰り着いた真九郎は、そのまま服も脱がずに布団へ突っ伏した。

瞼を落としたと思った瞬間、携帯が振動していることに気づく。

青いライトの明滅は緊急連絡用。

一瞬で意識は覚醒。通話のボタンを押す真九郎の耳に、いつになく口早の騎馬の声が。

 

「紫さまが産気づかれました」

 

ジャケットを引っつかみ、真九郎は五月雨荘を飛び出した。

ほぼ同時に目前に滑り込んで来るリムジン。運転席の騎馬の隻眼と一瞬だけ目を合わせる。

真九郎が飛びのるなり猛烈なホイルスピンを響かせ、高級車は深夜の闇を切り裂くように疾走する。

 

 

 

立派な門構えの向こうは広大な敷地。

都心にあるにも関わらず破格の規模を誇る邸宅は、紫が本家より下賜された新しい屋敷に他ならない。

月光を浴びてまるで真珠を敷き詰めたかのように輝く通路は、門から遥か屋敷まで続いている。

音もなくその道を疾駆したリムジンはエントランスへ到着。

すかさず後部座席から飛び出す真九郎の前に、既に屋敷の扉は大きく開き放たれていた。

 

「…こちらでございます!」

 

使用人頭である老女の案内を受けて奥の部屋へ。

そこには多くの使用人に囲まれながら陣痛に耐える紫の姿があった。

 

「紫!!」

 

「真、九、郎、か…!?」

 

気丈にも笑顔をくれる紫だったが、額にべっとりと長い髪が張り付いている。

唇を噛み、荒い呼吸を繰り返す様は、見ているこっちが痛々しいほどだった。

思わず真九郎も唇を噛み締める。

初産の予定日が前後二週間ズレ込むのは珍しくない。

それに真九郎も、そろそろ紫の枕頭に詰めきろうかと考えていた今日この頃。

 

「陣痛はどれくらい前から始まったんですか?」

 

始まったばかりの陣痛なら、喋れないほどではないはず。

 

「本日の夕方辺りからでございます」

 

紫の代わりに例の老女が答えてくれた。

真九郎は思わず時計に視線を走らせる。

報告が正しければ、もう10時間近く経過していた。

初産であれば、そろそろ出産可能な時間帯である。

 

「…なんでもっと早く呼んでくれなかったんだ」

 

呻く真九郎に、老女はやや躊躇ったあと、

 

「私もそう申し上げたのですが、旦那さまのお仕事の邪魔はしたくないと…」

 

「バカ! そういう問題じゃないだろう!?」

 

もちろん怒鳴ったのは紫に対して。

しかし、目尻に涙を浮かべ、頬を紅潮させながら必死で痛みと悲鳴をかみ殺す彼女に、真九郎はもう何もいえない。

シーツを鷲づかみにする細い手を取り、両手で強く握り締める。更に強い力で握り返された。じっとりと汗が滲んでいる。

 

「そろそろ移動させていただきます」

 

まもなくやってきた白衣を着た男性は、紛れもない医師だ。

彼の後に続く女性も看護師たちである。

 

「お願いします」

 

真九郎が頷くと、ベッドごと紫は運び出された。

向かう先は専属の病院―――ではない。

この屋敷の奥にある分娩室。もちろん紫の出産だけを想定して設けられたもの。

 

「旦那様、こちらを」

 

苦労して紫の手を解いた真九郎に、白衣が手渡された。

出産に立ち会って欲しいと、紫たっての希望。

袖を通しながら真新しい分娩室の中へ入ると、奇妙な活気と喧騒に満ちている。

しかし、飛び交う声もその意味も、いまの真九郎の耳には入らない。

ベッドの上で苦鳴をもらす紫の枕元に跪く。

再びしっかりとその手を握り締めた。

 

「…頑張れ、紫…!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…お疲れ様でございました」

 

真九郎が長椅子に座ってやや茫然としていると、老女がお盆に載せたお茶を差し出してくれた。

爽やかな玉露の匂いが、すっかり強張ってしまった真九郎の神経を和らげてくれる。

 

「ありがとうございます。そしてその台詞は、紫に言ってあげてください」

 

「お(ひい)さまもよく頑張られました…」

 

老女は着物の袖で涙を拭う。

真九郎の意見も心情も、全く同様。

いや、自分の方がより強く紫のことを褒め称えているはずだ。

 

―――単純に出産に対する不安があった。

医療技術がいかに進歩したとはいえ、どの時代も出産は女性にとっては命がけのこと。

そこに、100パーセントの安心など存在しない。どんな万全な医療体制を整えていても、失われる命もある。

真九郎の心配は、そのことに更に上乗せされる。

もともと遺伝子欠陥で同族同士でしか妊娠、出産できない九鳳院の女。

紫もその例に漏れず、一族の身体的特徴を持つ。

そして彼女は妊娠した。相手は他ならぬ自分―――紅真九郎。

崩月流をその身に刻んでいるとはいえ、一般人である真九郎と紫との間に子供が出来る確率はゼロ。

受胎するだけでも、それはもう奇蹟の領分。

胎内すくすくと育っているだけで奇蹟の二乗でも追いつかないというのに。

 

…無事に産まれてくれるのだろうか。

 

事前に九鳳院お抱えの医師団によって様々な検査が行われていてなお、真九郎の心配はそこに尽きた。

九鳳院の血の澱みは苛烈だ。

どのような形で、どんなタイミングで遺伝異常が発現しないとも限らない。

最悪、出産の最中に予期せぬことが起きたらどうする?

産まれてくる子供にくわえ、母体である紫にまでその影響が及んだら…。

 

しかし、その不安も、眩しいまでの朝陽を前に、春先の雪のように消えていくのを真九郎は実感。

真夜中から明け方までの数時間にも及ぶ出産に、紫はよく耐えた。

付き添った真九郎の手を握り締め、長い髪を振り乱して歯を食い縛り、新たな命を産み出してくれた。

産まれたのは健康そのものの女の子だった…。

 

「お姫さまがお気づきになるまで今しばらく時間はかかりましょう。旦那様もお休みになられたらいかがです?」

 

出産で体力を使い果たしたのか、紫は現在眠っている。

老女の申し出を、真九郎はありがたく受け入れることにした。

産まれた娘は無事保育器へと移され、目を覚ました母親に抱かれる時を待つばかり。

仮にもここは九鳳院の屋敷だ。騎馬をはじめ近衛隊が動員されているこの場所は、五月雨荘以上に安全な場所と言える。

 

「お言葉に甘えさせていただきます」

 

寝室へ案内しようとする老女の申し出を丁重に辞退し、真九郎は長椅子に身を横たえた。

紫が目を覚ましたら起こしてください。

そう言って目を閉じた次の瞬間には、眠りに落ちていたらしい。

疲れていたのだろう。夢も見ない深い眠りは、不思議と満ち足りたもの。

一片の不安もない。まるで生まれ変わったような清々しさ。

 

…どれくらい眠りを貪っただろう?

ふと、気配を感じて目を覚ます。未だ疲労は回復しておらず、上げる瞼は重い。

ぼやけた視界が急速に明瞭になったのは、完全な外部的要因。

視界の中心にいる人影に焦点をあわせ、真九郎は息を呑む。

 

「…………!!」

 

水牛の杖が床を突く。

毛足の長い絨毯に阻まれ大した音も立てないのに、それだけで場の空気が張り詰めた。

九鳳院の家紋が染め抜かれた藍色の羽織に、大鷲のような威容が漂う。

九鳳院現当主、蓮杖がそこにいた。

 

蓮杖と直接顔を合わせるのは二度目。

なのにその鋭い眼光に、真九郎は完全に射すくめられていた。

紅香や法泉と相対するときとは違う。

悪宇商会の最高顧問と向かい合ったときさえこれほどの緊張は覚えなかった。

単純に武力や知力という風に分類出来るものとは違う。

 

これがカリスマというものなのか…?

 

真九郎は身じろぎ一つ出来ない。

紫の父という後ろめたさは除くにしても、完全に蛇に睨まれた蛙のようだ。

また、物理的に身動きの取れない状態であることも悟る。

蓮杖の威容の影に身を潜めているが、幾つもの気配が自分を取り囲んでいるのが分かった。

きっと近衛隊だ。

万が一、真九郎が蓮杖に危害を加えることを考慮しての牽制のつもりか。

むしろ今この場で自分が殺される可能性に、真九郎は思いを馳せる。

九鳳院の次代を担う命は誕生し、紫も無事。

もはや一介の揉め事処理屋である真九郎に存在価値はない。

前々から危惧していたことだ。それがいまや急速に現実へと近づいてやしないか?

なのに不思議と真九郎は動じない。

表御三家の一つである九鳳院の息女に手を出したのだ。殺されるのはむしろ当然かもな、とさえ思う。

 

…いや、駄目だ。俺は殺されるわけにはいかない。

ずっと幸せでいようと紫と約束したじゃないか。

矛盾するようだが、死んでもその約束だけは裏切れない。

 

即座に思いなおした真九郎は、無言で蓮杖の視線と相対する。

そして訴える。

むざむざ殺されたりなんかするもんか。

 

「…川足りなければ流れも澱む。新たな水を注がねば沼とて干上がる」

 

不意に蓮杖の唇から声が漏れた。

 

「前例が翻ったというのか? …くだらん。実にくだらん。だが」

 

眼光の鋭さはそのままに、瞳は真九郎を映してはいない。

まるで自らの内と対話するように、真九郎には見えた。

 

果たして満足する答えは得られたのだろうか。

蓮杖はあっさりと踵を返した。まるで目前の真九郎の存在を端から意識してなかったような所作。

その後ろ姿にさえ言い知れぬ威厳が漂い、真九郎の喉を引き攣らせる。

言わなければならないことを思い出したというのに。

 

いかに九鳳院の現当主といえど、相手は紫の父親であることには変わりない。

娘を身篭らせた男として、挨拶もともかく、言わなきゃならないことがあるだろう?

 

「―――紅真九郎」

 

「は、はいっ!」

 

肩越しに、首だけ振り返っての蓮杖の声。

咄嗟に返事をしてしまう真九郎は、畏まって続きの言葉を待ちわびる。

しかし。

それだけだった。

それきり一言も喋らず、蓮杖は行ってしまう。

威容を誇る背中が完全に見えなくなると同時に、自分を取り囲んでいた気も消失する。

長椅子の上に倒れるように座り込み、ようやく真九郎は身じろぎした。

溜息が漏れて、額から汗が滴り落ちる。ようやく緊張の解けた証。

後を追いかけるべきかとチラリと思ったが、気力は完全に使い果たしてしまった。

冷や汗を拭うだけで精一杯。

 

…それにしても、どうして蓮杖はここに?

 

考えかけて、真九郎は即座に自分を罵倒。

そんなの、紫に会いに来たに決まっているじゃないか!

では、紫は?

そして生まれたばかりの娘はどこに?

言い知れぬ不安が、真九郎の胸を掻き立てる。

一目散に向かったのは新生児室だ。しかし、保育器の中に娘の姿はない。

 

まさか蓮杖は、紫とその娘を引き取るために…!!

 

最悪の予感に身震いしながら、次に真九郎が向かったのは紫の寝室だった。

道々で使用人の姿を誰も見かけなかったことが、不安に拍車をかける。

 

「紫!」

 

扉を開け放ち、まず視界に飛び込んできた使用人たちの姿に、真九郎の胸は軽くなった。

続いて転じた視線の先のベッドの上で、自分の心配が杞憂だったことに安堵する。

紫がいた。視覚に優しい緑色の浴衣を着て、その腕には赤ん坊が抱えられている。

小さな命は、確かに息づいていた。

 

…俺と紫の娘。

 

「真九郎っ!」

 

歓喜の声と眼差しに出迎えられ、真九郎は全身を温かい血が駆け巡るのを感じる。

同時に違和感に襲われたのは、最愛の人の頬に滝のように流れる涙を見つけたからか。

 

「どうした? 何を泣いているんだ、紫…?」

 

ベッドの脇に腰を降ろし、真九郎は紫の頬を拭う。

 

「もちろん、嬉しいからに決まっている!」

 

紫は涙で濡れた瞳を自らの腕の中に落として、

 

「わたしとおまえの子だ。わたしとおまえの子なんだ…!」

 

繰り返す言葉は、まるで幸福を噛み締めるように。

 

「そうだな、紫。俺と紫の子供だ。可愛い女の子じゃないか」

 

紫の華奢な肩に腕を回しながら、真九郎の頬を熱いものが伝う。

心に渦巻く幾万の感謝。

 

ありがとう。

この子を産んでくれて。

 

ありがとう。

無事に産まれてきてくれて。

 

それに、騎馬さんも、使用人の人たちも、みんなみんなありがとう。

 

「…わたしはお母様になったんだな」

 

「ああ。紫はもう立派なお母さんだよ」

 

「真九郎と結ばれたときも嬉しかったけど、今日ほど嬉しいことはないぞ!」

 

明け透けな台詞を平然と言い放った紫に、真九郎は思わず赤面。

しかし滂沱の涙を流す彼女を見れば、そんなのは些細なこと。

今はただ、この幸福に酔いしれよう。

 

「それに…先ほど、お父様が来てくれたんだ」

 

紫の言葉に、真九郎は俄かに現実に引き戻される。

 

「…何か言っていたのか?」

 

主に俺に対する苦言とか。

戦々恐々の真九郎だったが、紫は首を振る。

 

「真九郎に関しては何も仰ってはくれなかった。ただ、この子をじっと見つめてから一言…」

 

「なんて?」

 

「『良い名だ』と…」

 

紫の泣き声は号泣に変わる。

震える身体を抱きしめながら、真九郎の心情も紫に準じていた。

すわ自分と紫の仲を容認してくれた言葉とは思わない。

でも、間違いなく祝いの言葉であるはずだ。

蓮杖にも立場や公務があるのだろう。

出産前には姿を見せてさえくれなかったが、こうして無事に産まれてから、一目会いに来てくれた。

 

 

泣きじゃくる紫を抱えたまま、真九郎はベッドの枕元の壁を見る。

そこには墨痕淋漓たる文字で記された二人の子供の名前が貼り付けてある。

真九郎は優しく囁きかけるように言う。

 

「良かったな、紫…」

 

それから、紫の腕の中に視線を向ける。

まだ目を開かないしわくちゃの顔なのに、将来はきっと美人になると真九郎は確信。

…こういうのって親馬鹿っていうのかな?

自問自答して照れていれば世話がない。

気恥ずかしさを押し隠すように、真九郎は娘へと笑いかけた。

 

「良かったな、翠―――」

 

 

 

 

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