騎馬の運転するリムジンの後部座席で、翠は頬を膨らませていた。
「もっと早く助けてくれればいいのに…」
「だから許せと言っている」
苦笑しながら紫は娘の髪を鼈甲の櫛で梳いている。
「お母さまは笑ってますけど、とってもとっても怖かったんですよ!?」
「それでも逃げずに戦った。同級生の男の子を護ろうとしたんだろう? 立派だったぞ」
仲村少年は、あのあとしばらくして駆けつけた警察と救急車に託された。
騎馬の見立てでも外傷はほとんどなく気絶しているだけとのこと。
リコーダーも無事取り返せたし、翠の目的は十全に果たされたといってよい。
しかし、髪を梳かされながら、翠はその小さな手を膝の上でギュッと握った。
褒められたことより、今更ながら大それたことをしてしまった思いの方が強い。
あの時感じた恐怖が再燃し、膝が震え始めた。
「それにしても、どうして九鳳院を名乗らなかった?」
九鳳院家のネームバリューは絶対である。
裏世界はもちろん、街行く道理を弁えないチンピラでもそうそう本気で事を構えようとしない。
悪漢二人と対峙した際、九鳳院の姓で堂々と名乗り上げれば、少なくとも脅えるか、さっさと撤退したかも知れない。
このときの紫の表情は、やや意地が悪い。娘が九鳳院姓の価値を把握していると知った上での質問だ。
「それは……わたしは九鳳院だと思うけど、そのまえに紅翠だと思うし」
語尾がゴニョゴニョという感じになる。翠自身も上手く言葉に出来ないらしい。
だが、優しい声で紫は言った。
「そういうところが真九郎にそっくりだ」
「…お父さまに?」
振り返ってくる娘に、柔らかく頷く。
「真九郎が崩月流を修めていることは知っているだろう? 崩月の名も、九鳳院には及ばないがそれなりに影響力がある。
真九郎は、崩月家の内弟子として名乗り上げを許されていたが、普段はほとんどその名を使うことはなかった。ここぞというとき以外はな」
「…お母さまは、お父さまの名乗り上げを聞いたのですか?」
「ああ。真九郎が名乗りを上げるのは、絶対に譲れないこと、護りたいものがあるときだけだった…」
紫の頬にかすかに朱が差す。遥か昔の記憶を、彼女は見つめていた。
「それに、膝が震えていたことなんか何も恥ずかしがることではないぞ? 人間は、悲しみに震え、恐怖に震え、怒りに震え、喜びに震えるものだ。人はそういう風に出来ている」
くしくも自分が翠と同じ年頃に真九郎に向かっていった台詞だったことを思い出し、紫の美貌を感慨が掠める。
あれから十数年過ぎていたが、それは色あせることのない真理の一つ。
翠にしてみても、これほど救われる言葉はない。
母君にそっくりだと様々な貴顕紳士に褒めそやされるのも決して嬉しくないわけではないが、大好きな父に似ていると言われるのはなお嬉しい。
ただ、仕事で世界中を駆け巡り、親子三人、滅多に会することがないのは不満だった。その不満を翠は口にしたことはなかったが。
今度の授業参観までには帰ってきてくれると約束はしてくれたんだけど…。
「さあ、翠、着替えろ」
傍らから差し出されたのは若草色の紬。彼女の名前に近しい色。
それの意味することを悟り、たちまち幼い顔に朱色が加わった。
「お父さまが帰ってくるんですか!?」
「予定よりも早く仕事が片付いたと連絡があった。これから空港へ直接迎えに行く」
よくよく考えてみれば、母の着物姿から察するべきだった。
母が紅色の衣服を纏うのは、父と一緒にいるときだけ。
「そういうわけだから、今から私は『九鳳院紫』ではなく『紅紫』だ」
母は破顔した。そうすると、やけに少女じみた表情になる。
翠の全身に歓喜が満ち満ちていく。
久しぶりに親子水入らずで過ごせる。
母の笑みは、それだけの状況と時間が作れたことを意味しているのだから。
歓声を上げて翠は着替え始める。
母に手伝ってもらって帯を締めながらふと前を見ると、バックミラー越しになにやら感慨深げな微笑を浮かべる騎馬がいた。
■
「慣れるもんだなあ…」
入出国管理のゲートを抜けて、紅真九郎は茫洋と呟いた。
自分の家族を巻き込んだ凄惨なテロの舞台となったのが空港だ。
アメリカと日本と場所の違いはあれど、それは真九郎にとって一種のタブーであったといって良い。
大切な家族と一緒に、自分の中のとても当たり前の何かを破壊した悲劇。
きっと一生治らないと思っていたものを、いまこうやってあっさりと克服している。
キャリーバックを引きずって歩きながら、真九郎は意識して神経を研ぎ澄ます。
幾つか特異な気が、ぽつぽつと入れ替わったのを感じる。
九鳳院の近衛隊の海外組と現地組が交替したのか。
「…たまらないよなあ」
真九郎はまたぼやく。
揉め事処理屋として一人立ちをして久しいけれど、この歳でお守り付きとは。
別に仕事自体を助けてくれるわけではないので気にしなければそれでいいのかも知れない。
事実、しばらくは自分が護衛されているのにも気づかなかった。
紅香あたりなら、
「気づけるようになるだけで上等だ」
と褒めて、はくれないだろうな、たぶん。
それにしても、自分はいつのまにこんなVIP待遇になったものか。
無言でため息をつく真九郎。
理由は分かりきっている。紫だ。
思えば、自分の人生には大きな転換期が二つあった。
一つは、空港でのテロ。
一つは、紫に出会ったこと。
前者の実行者は未だ掴めていない。
真九郎にしてみても、あの非道なテロの首謀者は、自らの手で追い詰めて断罪したかった。志具原理津との約束もある。
しかし、事件から二十年以上の時が経つというのに、未だ手がかりは掴めないでいた。
でも、いずれ。
そう固く決意する反面、九鳳院家を頼れば―――と誘惑に駆られたことがなかったともいえない。
表御三家の情報網は裏にも精緻している。九鳳院家の情報部ともなれば、CIAに匹敵する捜査能力を有しているだろう。
だが、そちらを頼ることを、真九郎は是としなかった。揉め事処理屋としての矜持がある。
なにより、紫に依存するような形になってしまうのが嫌だった。きっと一も二もなく引き受けてくれることを確信してなお。
九鳳院紫。
よもや彼女がこれほど深く自分の人生に関わってくることになるとは。
初めてあったとき、ただの世間知らずの小生意気なガキだと思った。
しかし、尋常でなく高潔で誇り高い紫の存在に、真九郎はどれだけ救われたか分からない。
いくら感謝してもし足りない。一生かけても足りないほどに。
問題は―――いや、問題と称していいのかも正直分からないが、紫もまったくこちらと同じ考えを抱いているらしいこと。
花火の閃光のように一瞬の輝きと熱を持って過ぎ去るはずだった出会い。
それが、色と熱を失うことなく結実したのは、やはりどう控えめに表現しても奇蹟と形容するしかなかった。
空港は出迎えと見送りの人でごった返していた。
名残惜しげに別れを惜しむ恋人。あるいは歓喜とともに出迎える家族たち。
真九郎の頬にかすかな笑みが浮かんだ。
自分も彼らと同じものになれたと、最近とみに思う真九郎である。
聞きなれた声。同時に人波が割れた。
その先に黄金色の輝きがあるのを、真九郎は確かに見た。
「真九郎!」
「お父さま!」
ああ、奇蹟が今、現実の形を伴ってこちらへと向かってくる。
右腕に妻を、左腕に娘を受け止めて、真九郎は自分でも驚くほどの明るい声でいった。
「ただいま、紫、翠」