紫も娘も落ち着いて再度眠りについたのはお昼過ぎ。
どっちも泣きつかれたんだろうな、というのが真九郎の正直な感想。
出産というストレスに加え、父親が全く音沙汰なかったという不安もあったのだろう。
その両方がいっぺんに解消されたのだ。
ひたすら穏やかな表情で眠る紫の頬を撫で、真九郎は寝室を出た。
向かったのは自分用の個室ではなく、玄関。
出ようとした寸前、騎馬に声をかけられる。
「どちらに?」
いつの間に背後を取られたのだろう?
別に悪いことをしているわけではないのに、ビクッと背筋を震わしてしまう真九郎。
「え、えーと、ちょっと外に…」
「何かご入用なものがあれば準備させますが」
「いや、そういうわけじゃなくて。ちょっと報告しに行きたいというか」
しどろもどろの真九郎の受け応え。
反して、騎馬の返答と対応は迅速。
「それは気づきませんでした。しばしお待ちを」
真九郎が声をかける前に、足早に行ってしまう。
間もなく玄関前にエンジン音。
扉を開ければ、用意されたリムジンの前で腰を折る騎馬がいる。
「どうぞお乗りください」
「えーと…」
「どうぞ」
車のドアを開けられ、二度も促されては仕方ない。真九郎は渋々リムジンの後部座席へと。
音もなくリムジンは走りだし、敷地を出たところで真九郎は運転席へと声を放った。
「騎馬さんもお疲れでしょうし、別にそんな大したとこに行こうってわけじゃなかったんですよ…?」
本音だった。ちょっと知り合いに出産報告をしようと思っただけ。
「お心遣いありがとうございます。しかし、これは私のお役目ですので」
「そんな大げさな…」
真九郎は、騎馬自身は紫の専属だと解釈している。
騎馬に送り迎えして貰える自分は、まあ紫がらみの余禄みたいなものだろう。
そんな風な意味も込めて肩を竦めて見せた真九郎だったが、騎馬の瞳は全く笑っていなかった。
「貴方様は、もはや紫さまと比翼の鳥も同じ。九鳳院にとって、どちらが欠けることも許されない一対の至宝です。今後とも誠心誠意お仕えさせていただきます」
またもや大げさな、という言葉を呟きかけて、真九郎はようやく騎馬の比喩の意味を理解。
主の無知を咎めないようにとの配慮された言い回しに隠された真意は、娘が無事誕生したことによる。
紅真九郎という一般人が、血族同士でしか子供を作れない九鳳院紫を妊娠させた。
あくまでこの時点では、ただ妊娠させただけ。(それだけでもじゅうぶん狼藉ではあるが)
だがおそらく九鳳院家としても真九郎と同じ点に危惧を抱いていたのは間違いないはずだ。
すなわち妊娠の先。
奇跡のように授かった命が無事に出産されるかどうか。
翻って、紫が娘の出産を果たしたいま、真九郎への評価も一転する。
紅真九郎は九鳳院の娘を妊娠、出産させることが出来る人間である、と。
近親者ではなく、全く外部の人間との間に産まれた子供。
近親姦で世代を繋いできた九鳳院にとって、真九郎の価値は跳ね上がらざるを得ない。
遺伝子異常への改善も期待できるうえ、一族最大の悩みである血統問題への解決へ間違いなく一石を投じることになるだろう。
引いてはそれは、奥ノ院の存在の否定にも繋がるのだ―――。
そこまで思い至り、真九郎はリムジンの後部座席で赤面。
娘の生誕を経て、九鳳院が用無しと自分を排除することは予想していたが、そんな風に価値を認め評価を転換させるという視点は完全に失念していた。
…俺ってもしかして本当にVIP待遇になっちゃったわけ…?
その呟きは、疑問の形をとった現実逃避に近い。
九鳳院から見れば、自分はよく言えば一族にとっての希望。悪く表現すれば種馬。
どちらにしろ、九鳳院にとっての貴重な
近衛隊副隊長である騎馬が、こうやって心を砕いてくれるのもその証左。
「まずはどちらへ参りましょうか、旦那様?」
…いい加減、覚悟を決めよう。
紫と一緒にいるって決めたんだから、いまからゲンナリしてちゃこの先やっていけないぞ?
自分自身を叱咤して顔を上げる。
「それじゃあ…」
真九郎は馴染みのラーメン屋の名前を口にした。
■
「おっといまは休憩中だよ。五時になったらまた来てくれ―――って、なんだシンちゃんじゃねえか! 久しぶりだな!」
午後二時過ぎの楓味亭。
店主である銀正は読みさしの新聞片手に立ち上がると、真九郎を出迎えてくれた。
「ご無沙汰してます」
真九郎にとって、楓味亭を営む村上家は自分の家のようなもの。
結果として崩月の家で暮らす時間の方が長くなってしまったが、元々事故で家族を失った自分を真っ先に引き取ってくれたのは、ここ村上家だ。
ここに車で来る道々で、銀子にはメールで出産の報告は行った。返答は「そう、おめでとう」の一言のみ。
幼馴染への報告は一応それでお互いに格好をつけた形だが、村上夫妻へは直接報告したかった。
真九郎にとっての銀子の両親は、真九郎にとってのもう一組の両親でもある。
「なんだよ改まって。いってえ今日はどうした? ははーん、ひょっとして銀子のやつとなんかあったのかい?」
苦笑を浮かべながら、真九郎はからかってくる銀正を軽くかわす。
それから表情を改めて、真剣な声で言った。
「今日はご報告があってきました―――」
九鳳院紫との関係。
彼女の妊娠と出産。
そして銀子を傷つけてしまったこと。
真九郎は包み隠さず全てを話した。
最初は驚き、それから腕組みをして聞き入っていた銀正は、話し終えた真九郎の頭にやおら拳骨を一発。
目玉から火花が散るほど痛いそれは、親が子供を殴るのにも似ていた。
甘んじて受けた真九郎に、更にもう一発拳骨が降ってくる。
二度目の方が更に痛かった。
「―――なんで二発も殴られたかわかるかい、シンちゃん?」
「いえ」
「一発は、子供が生まれたってえのに、今のいままで知らせもしなかった放蕩息子への一発だ」
痛みだけではない。思わず涙目で見返してしまう真九郎に、銀正は破顔。
「そんな目出度いことを隠すなんてつくづく大馬鹿野郎だなあ、ってもんだ。なあ、母さん?」
「ええ本当に」
「…じゃあもう一発は?」
「そんなの一人娘を傷つけられた仕返しに決まってんだろ。いわせんなよ、恥ずかしい」
結局、村上夫妻は、二人とも笑顔で真九郎の門出を祝ってくれた。
銀正の気風の良さと豪快さは、同じ父親となったいま、見習わせてもらいたいと思う。
反面、その明るさの裏に隠されたものに気づけないほど真九郎も鈍感ではなかった。
口にこそ出さなかったが、二人とも真九郎に銀子と結婚して楓味亭を継いでもらいたかったはず。
自分の生き方を貫くために周囲との軋轢は避けられない。
一般論で割り切るには、村上家の記憶は暖かすぎた。
リムジンの後部座席で真九郎の表情は懊悩に歪む。
その意味においては、次に訪れる場所は、真九郎にとって更に苦しいところだった。
■
崩月の屋敷に着いた真九郎を出迎えたのは冥理一人だった。
崩泉はもとより、夕乃、散鶴もそろって留守だという。
やや拍子抜けの真九郎に、冥理は「お父さんから伝言があります」とのこと。
居住まいをただし、畳に正座で耳を傾ける真九郎に、
『産まれてくる命もめでてえが、老い先短いジジイの色恋沙汰も肝要だ』
というわけで老人会の温泉旅行に言っちゃったのよー、と笑う冥理。
ズッコケそうになったのをどうにか踏みとどまった真九郎の苦笑も、間もなく本笑いへと変わる。
「ははは、師匠らしいですね。…それで、夕乃さんとちーちゃんはどこに?」
「山篭り」
夕飯のメニューを告げるような口調であっさりと冥理は言う。
「散鶴に婿をとって崩月流を継がせるって。だから鍛えなきゃって夕乃が」
「………」
その台詞は、真九郎の胸に突き刺さった。
土手での決闘のあと。まもなく夕乃は会社を辞め、数ヶ月ほど引きこもりのような生活を送ったらしい。
快活で社交的な彼女がそうなってしまったことに、精神、肉体的ともによほどのダメージを受けたであろうことが伺い知れる。
それというのも、夕乃自身、真九郎を生涯の伴侶にと決めていたからだろう。
だがその夢は破れた。ならばもはや結婚するつもりはない。
それが散鶴への婿取りという話へと繋がっているはず。
仕方がなかったとはいえ彼女の人生設計を狂わせてしまったことに胸が痛む。
「でも、この時期になって…」
紫の出産予定日はそれとなく伝えてある。携帯電話を持たない主義の夕乃であるから、せめてけじめをつける意味でも、直接あって伝えたかった。
「そこいらへんは察してあげなさいな真九郎くん。女にとって出産は決まり手なのよ? 横恋慕する女には特にね」
わずかな間をおいて、真九郎は冥理のいわんとすることに気づく。
例えば、男一人に女二人の三角関係。
態度を明瞭にしなかった男が、片方の女とカップルになったとする。
残されたもう一人の女は、すっぱりと諦めることは可能か?
どうしても男のことが好きならば、簡単に諦め切れないはず。
いずれ自分の方を見てもらえるかも知れない、と胸に秘めて待ち続けるか。
思い切りの良い女ならば、もっと積極的で攻撃的な手段に訴えるだろう。
ところが、正式な婚姻を結んでいないにも関わらず、カップルの間に子供が産まれてしまった。
子供は二人の愛の結晶。
教条的な表現はともかく、子供が出来たカップルは、世間的には夫婦と認知される。
そうなってしまえば、残されたもう一人の女には打つ手がない。わずかな希望も完膚なきまで打ち砕かれてしまうだろう。
なぜなら、もはやそれは恋人同士といった気軽なやりとりを逸脱してしまう。
夫婦に対する恋慕は、不倫として罪となるのだから―――。
このように一般論にも置換可能な事象を、冥理は今の真九郎たちと夕乃の関係になぞらえたのだろう。
そして、こと貞操観念の高い夕乃のこと。
彼女の辞書には、きっと略奪婚や不倫といった言葉は存在しないに違いない。
神妙な顔で考え込んでしまう真九郎を面白そうに眺め、冥理は朗らかに笑った。
「だからさっさと押し倒して種だけでも貰っちゃいなさいって言っているんだけどねー」
崩月の屋敷を辞したあと。
リムジンの後部座席で、騎馬の後ろ姿に視線を送る真九郎がいた。
「…どうしました? 顔色が優れないようですが」
「い、いえ、なんでも…」
慌てて顔をそらす真九郎だったが、頭の中で先ほどの冥理の言葉を反芻している。
夜半、真九郎のいる紫の屋敷に単身乗り込んでくる夕乃。それを迎え撃つは騎馬を先頭にした近衛隊。
脳裏に浮かぶのは、控え目に表現しても怪獣大決戦。
どう考えても楽しい未来図ではありえない。
…冗談だよな?
うん、きっと冥理さんの言ってたことは冗談だ。
頭を振って無理やり思考を切り替えて、気分を落ち着かせる。
さあ、次はいよいよ最後だ。
■
五月雨荘の前の光景は、良くも悪くも真九郎の予想を超えていた。
敷地への入り口にでかでかと置かれているのは樽酒。
そこに柄杓を突っ込んだ環が、自分も浴びるように飲みながら、しきりに通行人へも勧めている。
「なにやってるんですか、環さん!」
真九郎がリムジンを降りて駆け寄れば、
「はにゃ? あ、真九郎くんおっかえり~? え? なにやっているって? 振る舞い酒だよ、にゃはははは~!」
酔っ払いごと樽酒を五月雨荘の敷地の中へ押し込むと、そこにはビール片手の闇絵がいた。
彼女の座るビニールシートの周りには、ビール瓶がダース単位で乱立し、オードブルやら寿司やらがところ狭しと並べられている。
おまけに木と木の間には、『祝 ご出産!』 やら 『おめでとう真九郎くん 紫ちゃん』と書かれた垂れ幕まで張り巡らされていた。
これらを見ては、嫌でも真九郎は状況を飲み込まざるを得ない。
「おかえり少年。いや、もう親父と呼ばねばならないかな? あははは」
闇絵の青白い顔は常ならず紅潮中。既に相当出来上がっているらしい。
「いやめでたい。本当にめでたいな」
「ま、真九郎くんも座って座って♪」
片手で新たな未開封の樽酒を抱えてくる環。
「それでは! 真九郎くんと紫ちゃんの赤ん坊の誕生を祝して!」
手刀一閃。
ものの見事に樽酒は一刀両断され、景気良く中身がぶちまけられる。
あーもったいなーい! と環はケラケラ笑う。
こぼれた酒と凄まじいアルコール臭に顔をしかめる真九郎の前に、ビールの入ったコップが差し出された。
「飲みたまえ、少年」
「ほら、真九郎くん、一気、一気!」
煽られ、一息でグラスを空にする真九郎。
ビールはすっかり温くなっていたが、奇妙に甘露だった。
冷めたピザや乾いた寿司も頬張れば、実に美味い。
考えてみれば昨晩から何も食べた記憶がない。だが空腹であることを差し引いても、どれもついぞ味わったことのない美味。
つまりはこれも幸せの作用なのだろうか?
「おめでとう真九郎くん! これで立派なパパだね!」
「おめでとう少年。今度は父として、一人前の男として、より一層精進したまえ」
「二人とも、ありがとうございます」
「見事紫ちゃんと純愛を貫いたね! まったく大したもんだ!」
「何気に君も女泣かせだったな。でも、一番大切なものをきちんと選べたのだ。誇りたまえ」
「二人とも、ありがとうございます…」
「しかし逆玉な上に相手は他人が羨む幼な妻! くう、ロリコン野郎だね!」
「いやはや光源氏も真っ青だな、少年!」
「…今のは絶対褒めてませんよね? ねえ!?」
敷地内は既に薄暗くなってきている。
それでも環と闇絵はドンちゃん騒ぎは続けるらしい。
わが子のことを祝ってもらっている以上、真九郎も無理に止めるつもりはなかったが、いまさらながら疑問に気づく。
二人とも、誰から娘が生まれたことを聞いたのだろう?
二人には、一応普段から世話になっていることもあり、面向かって報告するつもりで真九郎は五月雨荘まできたのに。
敷地内の惨状から察するに、相当前から騒ぎ始めていたのは明白。
「…ひょっとして、紫から子供が生まれたって連絡でもありました?」
環と闇絵が顔を見合わせ、二人そろって首を振る。
じゃあどうやって、と更に尋ねようとした真九郎に向かって、五月雨荘の軒下を指差して闇絵は言う。
「朝も早くからあれだけ盛大なことをされてはね」
闇絵の指差した先を見て、真九郎は絶句。
五月雨荘の玄関から、ぐるっと建物全体を囲むように飾られた花輪の数々。
その様子は、さながら新装大開店だ。
おそるおそる真九郎は花輪の一つに近づく。
そこに書いてある差出人の名は。
『祝 悪宇商会代表 星噛絶奈』
…これって絶対嫌味だよなあ。
悪宇商会が紫の出産を察していたことについては、蛇の道は蛇としか言いようがない。
かつてルーシー・メイが秘匿されていた奥ノ院の詳細を知っていたことを真九郎は思い出す。
よくよく見れば、盛大な花輪たちの足下に、ぽつんと一つ小さな鉢植えが合った。
胡蝶蘭。
これも誰かのお祝いなのだろうか?
差出人の名前はなく、代わりに鉢植えに刺された一枚のメッセージカード。
そのカードを手に取り、真九郎は目を見張る。
そこにあったのは、ボールペンで書かれた一文のみ。
『ゆーあーないすだでぃ』
切彦ちゃん…。
思わずカードを胸に押し抱く真九郎の前に、環、闇絵両名もやってきた。
「これ、あたしと闇絵さんから!」
環が封筒を差し出してくる。
「ほんの気持ちだ、遠慮なく受け取ってくれたまえ」
と、闇絵。
「ありがとうございます、嬉しいなあ…」
思いもよらぬ二人の気遣いに、真九郎も相好を崩す。
受け取り、さっそく中身を開封。
入れてあった一枚の紙を見て、真九郎は笑顔のまま硬直した。
請求書
368300円也