―――真九郎!
―――翠!
誰かが呼んでいる声がする。
うっすらと目を開けながら、右腕に重みがあることに気づく。
「…紫?」
右腕を見て、真九郎は思わずそう声を上げてしまった。
こちらにもたれかかり、長い髪を下に敷いて和服姿で眠りこける少女は、初めて会ったときの紫の姿の生き写し。
「わたしがどうかしたのか?」
声がしたのは反対側の方。
「あれ? こっちにも紫!?」
そちらを向いて、また声を上げてしまう真九郎。
長い髪の整った目鼻立ち。絶世の、という形容をつけてもさして違和感のないほどの美女が、怪訝そうに眉根を寄せている。
こちらは現在の紫だ。
ようやく真九郎の中で現状の認識が整合される。
つまり、いまも右腕に掴まったまま眠りこけているのが娘である翠。
対して、なにやら膨れっ面でこちらを見てくるのが妻である紫。
どうにも混同してしまった。
長い長い夢を見たのが原因か。
「なにやら『36万円…』とか魘されていたけれど…」
「うん? いや、なんでもないよ、ははは」
今や真九郎の一回での仕事の収入は七桁を下ることはない。
当時の自分にとってあれは紛れもなく大金であることも違いないが、未だ印象深いのはきっと五月雨荘住人二人のスチャラカさぶりゆえか。
懐かしさの勝った苦笑で真九郎はそう応じて見せた。
「それにしても、疲れているのは分かるけど翠とそろって熟睡しなくてもいいだろうに」
紫が不機嫌な理由を真九郎は即座に理解。
娘が寝入ってしまっている間に、いくらかでも夫婦二人としての時間が欲しかったということなのだろう。
「ああ、ごめん、紫。少し時差ボケぼけっていうかさ…」
急いで宥める真九郎だったが紫はツンとそっぽを向いて取り付く島もない。
途方に暮れる真九郎に、意外なところから助け舟が。
「紫さまも大変よくおやすみでした」
「…騎馬!」
「これはとんだ失礼をば」
バックミラー越しに騎馬を睨みつける紫を見ながら真九郎も苦笑。
なんだよおまえも寝ていたんじゃん。
口には出さず、代わりに紫の頭に手を載せた。
そのまま髪を撫でつけると、最初は上目遣いで睨んできたが、やがて満足げに目を細める紫がいる。
…こいつも色々大変だろうな。
現在の真九郎も忙しいが、紫の多忙さはそれ以上だろう。
九鳳院関係の行事で忙殺される中、こうやって親子三人ゆっくりあえる時間を捻出するのに、果たしてどれだけの労力が割かれたことか。
そんなことをおくびにも出さず迎えてくれる紫に、真九郎が不満を言う筋はどこにもない。
「そろそろ着くぞ。翠を起こしてくれ」
あっさりと機嫌を直したらしい紫が言う。
「ああ」
真九郎は娘の小さな身体を揺する。
甘いミルクのような匂いをさせて一つ寝返りを打ったあと、娘は大きな伸び。
「…あ、お父さま、おはようございます」
「おはよう、翠」
娘の頭をかき回していると緩やかにリムジンは停車。
「ここで降りるぞ。少し歩くけど大丈夫か?」
「はい!」
元気いっぱいの娘を引き連れて、真九郎は社外へと出る。
申し訳ありません、ここから先は車では入れませんので。
頭を下げる騎馬に見送られ、親子三人、連れ立って街中を歩く。
道々で、すれ違う通行人が片っ端から視線を注いでくるのが分かった。
まずは和服姿の紫がとびっきりの美人なことは、いまさら真九郎が声高に喧伝するまでもなく。
そこに同じ和服姿の翠が続くのだから目立つなというほうが無理な相談だろう。
愛らしいことこの上なく、すれ違った女子高生など遠慮なく黄色い歓声をあげている。
対して真九郎自身は二人と釣り合ってないんだろうなと苦笑い。
だからといってそれは卑下に直結するものではなかった。
娘を真ん中に、三人で手を繋いで歩く姿は、家族以外のなにものでもないはずだから。
かつての自分が失ったもの。
今の自分が手に入れたもの。
ふと真九郎は、いまさらながら奇妙な符号に気づく。
自分が家族を失ったのは七歳のころ。
紫が五月雨荘にやってきたのも七歳のとき。
そして今、娘もちょうど七歳。
…最後の娘のところはやや牽強付会か。
苦笑して、真九郎は自分の発想に自分で駄目出し。
それにしても、娘が生まれるまでになんと色々なことがあったことか。
そして、ここまで成長した七年間も、実に様々な出来事があった。
とりわけ印象深いのは、かの柔沢紅香の引退だろう。
あれはちょうど五年前か。
呼び出された日のことは、今でもはっきりと思い出せる。
■
「真九郎、私の後を継げ」
折り入って話しがある、との呼び出しを受け、駆けつけた真九郎に向かって紅香の第一声はそれ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、紅香さん!」
「不満か? なんなら弥生もつけてやる」
「いえ、そういう問題ではなくてですね…」
「おまえなら、この私に比肩すると踏んでのことだぞ」
「……え?」
柔沢紅香。
裏世界最高最強の揉め事処理屋。
その称号に匹敵する? この俺が?
「いや、今のおまえなら、私以上の能力があるだろうな。おめでとう、これで晴れて師匠越えというわけだ」
淡々と告げる調子の紅香であるが、表情と台詞がそぐわないこと著しい。
それでも台詞の内容自体、ないがしろに出来るものではなかった。
真九郎は噛み付くような勢いで否定。
「冗談はよしてください。俺なんか紅香さんの足下に及ぶはずもないでしょう!?」
しかし紅香は全く動じることなく肯定。
「個人の技能であれば、そうだろうな。おまえは私の足下にも及ばない」
吸いさしの煙草の先端を向けられる。赤い、紅色の光点。
「しかし、揉め事処理屋としての力は、確実におまえの方が私より上だ。
むしろ揉め事処理屋の範疇を超えているともいえる。どうだ、いっそ調停屋でもしてみるか?」
紅香の評価の意味するところに、真九郎も無自覚ではいられなかった。
彼女は、真九郎個人ではなく、その背景を指摘している。
表御三家の九鳳院。
紫との間に子供をもうけた真九郎が無関係を主張できないように、裏世界の人間にとってもその関係は軽視できるものではないらしい。
九鳳院の誇る凄まじいまでの権勢。
揉め事処理屋として活動する際、相対する人間は、どうしても真九郎の背後に九鳳院の翼を見る。
いざとなれば真九郎が九鳳院の力を行使する。もしくは九鳳院の方から介入してくる。
そんな風に見做されるのは、至極当然のこと。
「戦争の基本は、相手より多い戦力を用意すること。
その戦力の大きさが、そのまま相手への威嚇となるからな。結果として双方戦わずに済ませることが出来る。
『The art of fighting without fighting』というやつだな」
紅香は言う。
今の真九郎の現状を体言すれば、そんな兵法書の極意に通じるところがあるだろう。
真九郎本人が意図したことではないが、確かに大規模な組織同士の調停などの依頼も増えている。
およそ真九郎個人に対しては荷が勝ちすぎる依頼。
それでも遂行できてしまうのであれば、別の理由があって然るべきなのだ。
「であるからこそ、今のおまえなら私の後継者の資質は十分なんだよ」
「………」
ただの紅真九郎では及ばない。
九鳳院の庇護下にある紅真九郎であれば紅香を凌駕している。
紅香のいわんとするところを要約すればこうなるだろう。
それでも素直に喜べないのは、やはり個人のみの力ではないからか。
真九郎の憧れたのは、燦然と輝く太陽のような紅香個人。
「いいか、個人の器量と能力は違う。そこんとこ勘違いするなよ? おまえは私に勝る器量を持っているんだ」
真九郎の内心を看破し、紅香は一刀両断。
いくら人脈やコネがあるとはいえ、それを使いこなすには資質がいる。
また、いかな恩恵を受けられるかどうかも、結局は個人の天運次第。
そして運も実力のうち。
「だいたいおまえは九鳳院から一方的に益を享受しているわけではないんだからそこまで気負う必要もなかろう。
九鳳院の方でも、おまえを利用しているんだから」
その言い分も理解できる。
良い意味でも悪い意味でも今の真九郎と九鳳院は共存関係にあるといえるだろう。
しかし真九郎は違和感が拭えないでいた。
紅香の主張そのものではない。
常になく口早で、せわしなく煙草をふかし続ける彼女の姿がその理由。
たとえ百丁の拳銃に囲まれようと、悠々と自分のペースを維持し続けるのが柔沢紅香のはず。
「…分りました。謹んで引き受けさせて頂きます」
熟考の末、真九郎はそう答えを出した。
これは無論、紅香に対する義理立てのみに拘った結果ではない。
裏世界において、柔沢紅香の占める位置と重みはとても看過できるものではなかった。
その後釜が据えられることなく紅香が去った場合、裏世界に生じる間隙は決して小さなものではない。
いわば真空地帯が生まれるにも等しく、仮にそうなれば何かしらの混乱が生じるのは明白。
真九郎の回答は、その混乱の回避を思ってのことも含まれている。
「そうか、引き受けてくれるか。これで私の肩の荷が下りた。懸念が晴れて嬉しいよ」
さっぱり嬉しくなさそうな表情で紅香が言う。
「ただし、条件があります」
きっぱりと真九郎は言った。
「条件だと?」
「教えてください」
「何をだ」
「紅香さんが揉め事処理屋をやめる理由です」
まっすぐ睨みつけるような紅香の視線を、真九郎は臆さず受け止めた。
もし、師匠が望まぬ引退を強いられようとしているなら、弟子としてはなんとしても助けたかった。
この人から受けた恩恵は計り知れないから。
それとも他に何か理由があるとすれば。
それはそれで好奇心がある。
本来ならそこまで立ち入るべきではない事情があるかも知れないが、こちらはこちらでかなりの無茶を引き受けているのだ。
訊ねる資格は十分にあると真九郎は思う。
ちっと紅香はそっぽを向く。それはまるで悪戯のばれた子供のような仕草。
「…どうしても言わなきゃ駄目か?」
その声音に真九郎は目を丸くする。弱音を吐く紅香など、七色のカラスの発見に勝る椿事ではなかろうか。
しばしの沈黙。
たっぷり吸いさしの煙草を丸々灰にするほどの時間を置いてから、ようやく紅香が口を開く。
「…孫が出来たからな」
「…はい?」
「しかも下手をすれば堕花と戦争だ。クソ忌々しい」
堕花とは確か裏十三家の一つのはず。
真九郎の脳みそはその事実を理解していたが、それ以上の衝撃が全て綺麗に吹き飛ばしていた。
紅香さんに…孫?
ってことは、紅香さんはお婆ちゃん!?
対面には渋面顔の紅香がいる。
ひたすら唖然とするしかない真九郎は、その日、人類の想像力に限界があることを痛感した―――。
■
紅香の唐突な引退は裏世界でそれなりにニュースにはなったが、真九郎がその後を引き継いだことで大きな混乱は生じなかった。
惜しまれ、憎まれ、そして一部では紅香の引退そのものが歓迎されたりしたのだが、その内情はいささか複雑である。
『あの方はやるときは徹底的で壊滅的でしたからねぇ。わたしどもとしても平和主義の紅さんのほうが組みやすいんですよ』
と悪宇商会渉外担当となったルーシー・メイの弁。
当の悪宇商会と現在の紅真九郎は比較的友好的な関係と言える。あくまで双方とも不干渉という前提のものだが。
道路を歩きながら、真九郎は今の己の立場というものに思いを馳せる。
引退時の紅香の指摘のとおり、今の真九郎の肩書きは揉め事処理屋というより調停屋といったものが相応しい。
顧客は個人ではなく専ら企業や団体だ。かつては紛争地域の小国へと赴き、部族間の対立に尽力したこともある。
仕事の規模に比例するように収入は当然鰻のぼり。同時に身の危険を警戒せねばならないわけだが、やはり背後に九鳳院を控える真九郎に、軽々と手を出すものもいない。
かといって九鳳院の代弁者という立場でもない真九郎であるゆえに、身軽に個人で行動できる。
考えてみれば、これほどうってつけの調停屋としての人材はいないだろう。
やはりこれは紅真九郎個人の力ではありえない。
顧客が見るのは『九鳳院の後ろ盾を持つ紅真九郎』という存在そのものだ。
だが真九郎自身にも拘りはなくなっていた。
九鳳院の後ろ盾を拒むつもりはない。かといって貪欲に利用しようとも思わなかった。
ただ、己の影響力の及ぶ範囲で、誰かの悩みを解決できたら。誰かの笑顔と生活を守れるなら。
子供のころに、神様がくそったれだと思ったことは変わっていない。相変わらず世界は地獄に満ちている。
そんな世界で、くそったれを叫ぶ誰かを救える立場に真九郎はいた。
思えば、揉め事処理屋を志した動機も、誰かを救いたかったからかも知れない。
昔の真九郎と変わったのは、比較にならないほど膨大な数の誰かを救えるだけの力を得たこと。
だからといって正義の代弁者を気取るつもりもないし、救済者を主張するほど驕ってもいなかったが。
「もうすぐだぞ、翠?」
すぐ横で、娘の手を引く紫がいる。
その姿を眺め、真九郎は頬が緩むのを自覚した。
こんな地獄のような世界でも生きていく価値があることを、二人は教えてくれた。
むしろだからこそ世界に価値というものがあるのかも知れない。
この二人に、ありったけの愛情を注いでいこう。
そこから溢れたものが、やがて少しでも世界を良い方向へ変えてくれるのを、今の真九郎は願って止まない。
歩き進むにつれ、工事資材や車両の出入りでなどで道幅が狭くなっている。
それでもどうにか親子三人が辿りついた先。
工事用の足場とビニールシートで囲まれていたが、そこに確かに存在するもの。
「…ここが五月雨荘なのですか?」
振り仰いでくる娘の姿がある。
「ああ、そうだ。わたしと真九郎が初めてあった場所だ」
紫が答えてくれた。
「そうだな。そして他にも色々あった…」
折からの老朽化でさすがに改装せざるを得なくなった五月雨荘に、愛すべき住人たちはもう誰もいない。
この場所で過ごした思い出の数々は真九郎の中で永遠の輝きを放っている。
それは脳裏に焼きつきすぎて、消し去るには記憶巣そのものを破壊しなければならないほど。
隣を見れば、似たような眼差しを向ける紫がいる。彼女の考えていることもきっと同じだろう。
ゆえに、真九郎は私財を投じての全面改修に踏み切った。
過ぎ去りし思い出を守るために。
これからここを訪れるであろう誰かを守るために。
不戦の約定。
いつ、誰が定めたとも知れぬ条約は、未だに遵守されている。
なぜに破られることはなかったのか?
その理由はわからねど、今の真九郎には出来ることがあった。
不戦の約定を守らせる。
守ることを前提とした条約も、破られたときのペナルティがなければその強制性も半減する。
ならば、守らせるための何かしらの圧力が存在すれば良い。
かつて守られたものが、その守り手へと。
守護者としての影響力を発揮するために九鳳院の権勢を利用することになっても、真九郎は何も躊躇いはなかった。
さすがに表御三家に睨みを利かせられて破ろうとするものはそうそういないはずだ。
そしてふと気づく。
古来より、この約定はこのようにして支えられ続けてきたのではないか、と。
「ここでお父さまとお母さまに何があったんです?」
この場所に何か感じるところでもあったのかも知れない。興味津々で問いかけてくる娘に、真九郎は膝を落とし目線を合わせる。
「本当に色々あったんだよ。話すと長いぞ? 一晩以上かかるかも知れない」
「大丈夫です、頑張って眠らないで聞きます!」
そう必死に答える娘の姿が可愛らしい。
真九郎は笑いながらくしゃくしゃと娘の髪をかき回す。すぐ近くにある紫の顔も笑っている。
「そうだなあ…」
この愛する娘に何から語って聞かせよう?
俺と紫が初めて出会ったころからか。
数奇な巡りあいから始まった、今の翠、おまえに至るまでの奇蹟の物語。
それはやはり―――愛の話だ。