「お帰りなさいませ。ご無事でなによりでした」
「騎馬さんもお元気そうで」
「お陰様で充実した毎日を過ごさせていただいておりますれば」
まるで測ったような角度で腰を折り、騎馬はリムジンのドアを開ける。
彼に荷物を預け、乗り込もうとして、真九郎は出来なかった。
「おい、いい加減離れろって」
「嫌だ」
「いや」
母と娘の声が見事にハモる。
互いに真九郎の左右の腕を掴みながら上目遣いの表情。
「…迷惑か?」
「…………」
真九郎が思うに、母の方が娘の心情も代弁しているよう。
「いや、そんなことはないけれど…」
結局、やたら苦労してリムジンへの搭乗は成功。
しかし。
…リムジンってこんなに狭かったっけ?
困惑する真九郎。
別段海外に滞在した時間が長すぎて、感覚がアメリカナイズされてしまったわけではない。
単に紫と翠が、十分な座席スペースがあるにも関わらず、ぴったりと真九郎に寄り添っているだけである。
「……寂しかったぞ」
紫の物言いは昔と寸分も変わらない。
真九郎はそれが嬉しくもあり微笑ましくもある。
「悪かった。ごめん」
「いや、別に真九郎を責めているわけではない! 仕事だからな、仕方ない。単に私のわがままなんだ…」
湧き上がる既視感に束の間視線を絡めあい、真九郎は唇の片方を上げ、紫はクスリと笑う。
もはやお決まりの問答。
久方ぶりに会うたびの、それは二人の儀式のようなものだった。
「………」
左腕をギュッと掴まれた。
「おっと。翠もごめんな。なかなか一緒にいられなくて。悪いお父さんだよな…」
ふるふると翠は首を振った。
不満げな表情から察するに、そんなことはないと否定しているわけではなさそう。
このアクションは、もっと別のことに対する抗議だ。
「…翠?」
訝しげに顔を近づける真九郎。ちょこんと頬に小鳥に啄ばまれたような感触。
父の頬にキスをして、翠は満足そうに微笑む。
ようやく真九郎も思い至った。
行ってらっしゃいのキスとお帰りなさいのキス。
そういえば今回はまだだった。
「うん、ただいま。しばらくは日本にいるから」
真九郎は翠の頭を撫でかき回す。
くすぐったそうに、それでも気持ちよさそうに身じろぎする翠は、幼い頃の紫そっくりだ。
一方、現在の紫も大人しくしていない。
「ずるいぞ翠ばかり…!」
「おまえな、娘と張り合うなよ」
「なんだと? ひょっとして真九郎は私に飽いたのか? 翠の方がいいというのか?
…やはり環が言っていたとおりに、真九郎、おまえは真性ロリというやつなのか!?」
「そんな大昔のこと、今更引っ張り出すなって…」
昔から独占欲が強かったよな、紫は。
真九郎が半ば呆れ、半ば昔話に辟易していると、
「お母さま、しんせいろりって何ですか?」
なんと娘は興味津々の様子。
「いいか、真性ロリというのはな…」
あろうことか嬉々として娘に説明を始める紫。
これ以上は情操教育に悪いと判断した真九郎は強攻策を発動。
説明途中の紫の唇に、自分の唇を押し付けた。
大切なものにはキスをする。
紫の教えだ。紫は母親から教わった。この世の真理。
…ひょっとしてこっちの方が情操教育に悪いのでは? と思わなくもないが、大人は唇に、子供は頬にと区別して教えているので問題ない、はずだ。
ゆっくり唇を離すと、いくらか茫然とした表情で紫は呟く。
「…それはずるいぞ」
「そうか?」
上目遣いで優しく睨んでくる紫から視線を逸らすと、バックミラーに映った騎馬の隻眼と目が合う。
無言で『ご馳走様です』と告げてくるように感じて、今更ながら真九郎は赤面。
紫をあしらう余裕が出て来たぶん、自分が歳を取ったと思わなくもない。
それでも更なる年長者の前ではしゃいでしまったことに、教師の前で自信満々に答えを間違えた生徒に似た気恥ずかしさがある。
結局、自分の本質は、紫と出会った頃から大して成長してないのかも知れない。まだ学生だったあの頃と。
リムジンのあるかないかの振動に揺られながら、真九郎の思考は過去に飛ぶ―――。
■
「起きろ! 起きるんだ、真九郎!」
「なんだよ、どうしたんだ紫…」
寝ぼけ眼で真九郎は反射的に枕元を漁る。
手に取った携帯電話の液晶ディスプレイは7時半だ。
決して早朝とは形容できない時間。
しかし、真九郎はレポートの仕上げに終われ、眠りに就いたのは明け方の5時。
とても十分な睡眠時間とは言えない。
重い頭を振り振り、濁った思考をクリアにしようと努める。
「やれやれ、ずいぶんと不健康な生活をしているようだな…」
「大学生ってのはこんなのが普通だよ。環さんを見てただろ?」
「…なるほど。極端すぎる例だが、かえって非常に分かりやすいな」
「っていうか紫。おまえはまだ春休みだろう?」
小学校に通う紫は、朝早くから訪い、たいてい真九郎と朝食を共にしていく。
大学へ進学した真九郎にとって、乱れがちな生活のリズムを整える意味もあって紫の来訪はありがたかった。
しかし、お互い長期休みとなると、逆に会いづらい事態が続いている。
というのも真九郎自身、長期休みを当て込んで遠方へ足を伸ばしたりと大口の仕事を組むことが多くなっていた。
紫も学業を最優先しているわけだが、いざ学校が長期休暇に突入すると九鳳院家の事情が優先されるらしい。
皮肉なことに、二人とも学業に励んでいる方が会い易いのである。
もちろんいま紫が春休みである以上、真九郎も春休みなわけだ。
「ほら、さっさと目を覚ませ」
紫の開け放した窓から、三月末の朝の冷たい空気が雪崩れ込んでくる。
思わず真九郎は薄い布団の前を掻きあわせ、くしゃみを一つ。
おかげで完全に目が覚めた。
ほんのりと甘い香りとともに、薄桃色の花びらが二枚三枚と、ヒラヒラと窓から漂ってきた。
桜だ。
今年は例年より開花が遅いという話だったが、正直、まったく興味を失っていた
いつ咲いて、いつ散り始めたのか、とんと記憶にない。
「紫?」
窓辺に腰を降ろした紫の格好を、マジマジと見つめてしまう。
濃紺のブレザーにチェックのスカート。
「どうだ、真九郎。似合うか?」
紫が着ているのは、都内の名門私立女子中学校の制服だった。
…そうだ。そういえばそうだった。
現在の紫の春休みは、小学校を卒業して中学校へ入学するまでの期間を指す。
そもそも自分は、保護者代理で紫の卒業式に出たばかりではないか。
迂闊さに頭を抱えたくなった真九郎の心情を知ってか知らずか、紫ははにかんで見せた。
「先日、制服が仕上がってきてな。一番最初に真九郎に見せたくなったんだ…」
「…そうか。うん、良く似合うよ」
上機嫌で紫はその場で一回転。
意外と丈の短いスカートがふわりと広がる。
「おい、パンツが見えてる」
「別に真九郎なら構わない」
「いいから少しはおしとやかにしろよな、もう中学生なんだから。しかもあそこはお嬢様学校だろ?」
「…おまえがわたしの公的な場での淑女らしさを知らんとはいわせんぞ?」
半ば睨むような目付きで紫は真九郎を一瞥。
それに関しては、さすがに真九郎も異論を挟むつもりはなかった。
以前、というかその後も何回か、いわゆるセレブリティのパーティで紫の姿を拝む機会があったが、全く非の打ち所のない淑女ぶりだった。
上質の和服を着こなしての優雅な立ち振る舞いは、大和撫子の定義上であれば夕乃に匹敵するかも知れない。
両手を挙げて降参の素振りをする真九郎に、紫は満足そうに頷く。
「それに、わたしとて、TPOは心得てるつもりだ」
「おまえもずいぶんこましゃっくれた言い方をするようになったなあ…」
苦笑を浮かべながら、実に真九郎も感慨深い。
小学校一年生からあしかけ6年の付き合いだ。
その間、授業参観はもとより運動会、文化祭などあらゆるイベントに出席している。
心情的にも現実的にも、ほとんど親に近い目線で見てしまう。
ああ、この子もずいぶん大きくなったもんだ。別に自分が育てたわけではないけれど…。
「なあ真九郎。入学式にも出てもらえるか?」
「…そりゃあ出たいけど、小学校とわけは違うだろうし」
単なる公立の一小学校であるなら、常識に外れない範囲であれば鷹揚だ。いざとなれば九鳳院の名前でたいていの無茶も通る。
しかし紫の進学先は、九鳳院に及ばなくても、それなりの有力者の子弟を預かる名門私立。
直接九鳳院本家と関わりのない真九郎を、許容してくれるものか。どこの馬の骨とも知れぬ不審者と門前払いもされかねない。
「その点は大丈夫だ。心配ない」
「そうか? 実際、俺は紫の身内でもなんでもないからなあ…」
あくまでも訝しげな真九郎。
「そんなこというな! わたしとおまえは身内などと陳腐な表現で括れる間柄ではなかろう!?」
「…なに興奮してるんだ、紫?」
紫の剣幕に、真九郎の方が驚いてしまう。
冷静に指摘され、ハッとした表情を見せる紫。
「あ、その、いや、すまない…。ではなくて! とにかく、わたしと真九郎は尋常ならざる関係なのだ! それは余人の追及できることではない!」
「そうだな。俺の方こそ悪かった。…もう、俺と紫は家族みたいなもんだよな」
家族。
自分にはかつてあったもの。
今は最も縁遠いもの。
一度壊れてしまった概念は、二度とは形作らない。
それを知ってなお、真九郎はそう口にしてみせた。
紫と自分の関係。
親子でもない。兄妹でもない。
それでも、そのどちらにも良く似ている。
それでいて、近いけれど決定的に違う。
当たり前だけど本当の家族ではない。擬似的なもの。
それならば、真九郎も『家族』という単語を口に出来る。
…それでいいのかも知れない。
当面、紫を満足させることが出来るのであれば、それだけで。
果たして、真九郎の台詞の効果は絶大だった。
「正鵠だ! そうだ、そうだな! わたしと真九郎は家族みたいなものだ! 家族以上の関係だ!」
紫は破顔した。あまりに嬉しそうな笑顔は真九郎が内心たじろぐほど。
「これが入学式の日程だ!」
保護者様へとの宛名もいかめしい封書を手渡し、紫は身を翻す。
「なんだ、もう行くのか?」
「…悪いが、今日は今から郊外までに行かねばならないんだ」
すると、わざわざ制服姿を披露するためだけにここへ?
「そりゃあ大変だな…」
「本当に済まない。また機会があったら連絡する。入学式の打ち合わせもしなければならないしな」
入学式の打ち合わせもなにもないだろうと真九郎がちょっと考え込んでいる間に、既に紫は部屋から姿を消していた。
まもなく短いクラクションが二回と、車の走り去る音が開け放しの窓から響いて来る。
…相変わらず慌しいなあ、紫は。
まるで疾風のように現れて、嵐のように去っていく。
正直、振り回されっぱなしだ。
それでいて、そうされることが真九郎は不快ではなかった。
会っただけで、全身の不純がこそげ落とされたような清々しさがある。
紫はいつだって正直だ。我欲のために自分を偽るということを知らない。
本気で相手と対する真摯さは、まるで高山の雪解け水のように鮮烈で爽やかだった。
天性の素質をスポイルすることなく、よくぞここまで真っ直ぐ育てってくれた。
その手助けを自分はして来たのだろうか、と真九郎はちょっぴり不安になって、それから笑い飛ばす。
紫に面向かって訊きでもしたら、きっと盛大に叱り飛ばされるだろうから。
彼女はおそらくこう言う。
『真九郎、おまえがいるから今の九鳳院紫がいる』と。
だったら、少しくらい自分のことを誇ってやってもいいのかも知れない。
しかし、今日の紫はいささか変だったな…。
制服姿を見せるためだけとはいえ、早朝の訪問はよくあること。
ただ、急に激昂したりこちらが恥ずかしくなるほど喜んだりといった感情の変化が気にかかる。
しばらく考え込んで、布団の上にあぐらをかいたまま真九郎はポンと手を打つ。
そういえば紫もお年頃なのだ。
来月には中学一年生の12歳。いわゆる思春期というやつに差し掛かるはず。
真九郎の思春期は崩月の修行のもとで過ぎ去ったが、一般的には情緒不安定になるらしい。
だとすれば、これからの紫の取り扱いには注意が必要かも知れない。
些細な事で大いに傷つくことがある。また傷つけてしまうこともあるだろう。
そんな風に考えこんで、ようやく真九郎は自身の姿の滑稽さに苦笑い。
これってまるっきり、年頃の娘を抱えて悩む父親のシチュエーションじゃあないか。