「よう」
駅前のカフェテラス。
指定の席に既に到着している先客に声をかけても、返事はなかった。
丸テーブルの上に置いた小型のノートパソコンに指を走らせ、顔を上げようともしない。
だが、真九郎は全く気にせず対面の席に腰を降ろす。
注文を取りにきたウェイトレスとメニュー表を見比べることしばし、最も安いブレンドコーヒーを注文。
それからようやく二度目の声を放った。
「久しぶりだな、銀子」
「そうね」
チラリと眼鏡の奥の目線だけを上げて、村上銀子はキーボードを叩く手を止めない。
まったくいつもと変わらない無愛想な表情と声。
結局、真九郎が注文したコーヒーが来た頃に、ようやく銀子は画面から顔を起こした。
「それで? 家にいたのをわざわざ呼び出して、何の用事?」
棘のある声。あからさまに不機嫌な様子。
…俺、何か不味いことしたっけかな?
『家にいた』のアクセントにやけに力が入っているのが気にかかる。
真九郎は胸に手を当てて回想。しかし、思い当たることは何もない。
とりあえず愛想笑いを返すことにする。
「仕事の報酬が入ったんで、溜まっていた情報料、まとめて払おうと思って」
「そう」
そっけない返事をする銀子の目前に茶封筒を滑らす。
受け取り、さっそく銀子は中を検分。
「…足りないわよ」
思わず真九郎は飲んでいたコーヒーを噴き出すところだった。
「そ、そんなわけないだろ!?」
出掛けに何度も確認したのに。
「前々回の調査資料の作成費用が抜けてる。あと、この間の盗難事件のも」
「…込みで駄目かな?」
「プロは、しっかり料金を取るからプロなのよ」
「………はい」
真九郎は財布を覗き込む。
あるだけの紙幣を根こそぎ差し出すと、どうにか支払額には到達した。
「確かに」
受け取った手で店員を呼び、銀子はチョコレートパフェを注文。
「珍しいな。おまえがそんなの注文するなんて」
「悪い?」
ジロリと睨まれ、真九郎は首を竦めてしまう。
「構わないでしょ。どうせ、あんたの奢りなんだし」
「はあ!?」
反射的に大声を出してしまう真九郎にきょとんとする銀子。
「…なによ?」
「い、いや! なんでもない、なんでもないよ、ははは」
銀子に背を向けて、真九郎は財布を漁った。
見事に小銭ばかりしか残っていない。
自分のコーヒー代もあるし…良かった、ギリギリなんとかなりそうだ。
「もしかして、お金もってないの?」
「えーと…」
ごまかしを許さない目付きで睨まれて、真九郎はあっさりと白旗を揚げる。
「ここで奢るくらいは残ってるからさ」
「家賃は? 水道光熱費は? 当座の食費は?」
「…まあ、なんとかなるだろ」
「あんたねえ…」
銀子は長々とため息をつく。
「ひょっとして、九鳳院のあの子にたかるつもり?」
「おいおい、なんでそうなるんだ?」
痩せても枯れても真九郎は男だ。いかに大財閥の子女にせよ、紫にたかったことなど一度もない。
どんなに飢えても、そんな情けない真似だけは決してしたくなかった。
「どうだか…」
「やけにつっかかってくるな銀子」
真九郎も睨み返す。
丁度パフェが運ばれてこなかったら、お互いにどうなっていたか分からない。
乱暴にパフェにスプーンを突っ込む銀子を横目に、真九郎はすっかり冷めたコーヒーを啜る。
微妙な空気。
「…ごめん」
先に謝罪してきたのは銀子のほう。
「今日のあたし、なんだかおかしい」
スプーンで生クリームの山を捏ねくりまわしながら、食べようともしない。
「気にするな。そういう日もあるさ」
鷹揚に真九郎は謝罪を受け入れた。誰にだって調子の悪い日はあるだろう。
ここで「生理か?」と訊くほど野暮でもなくなった。
「九鳳院」
「ん?」
「あの子と、いつまで一緒にいるつもり?」
「いつまでって…」
別に真九郎は紫を束縛しているつもりはない。
ただ、紫が自発的にやってくる。真九郎はそれを受け入れているだけ。
少なくとも真九郎はそう認識している。
だから、主体性は紫にあるわけで、真九郎が一緒にいるとかどうとかは違うと思う。
「いずれは別れなきゃならなくなるって、あんた自覚してる?」
「とっくの昔に分かってるさ、そんなの。というか、いきなりなんなんだ一体?」
真九郎の質問を無視し、銀子は目を細める。
パフェのカップの縁からこぼれたクリームが、卓上に小さな水溜りを作っていた。
慌てる風でもなく水溜りを拭いながら、銀子は軽く唇を噛んでいた。
その横顔に浮かんでいるのが自己嫌悪に思えたのは、真九郎の穿ちすぎだろうか?
「唐突すぎた、ごめん。我ながら脈絡なさすぎ」
「…まあ、いいけど」
やっぱり今日の銀子は変だ。
そう思いつつ、真九郎はことさら明るい声を出す。
これ以上、深刻な雰囲気も話題もごめんだ。
銀子はパフェを一口。
それだけでスプーンを脇においてしまう。
俯いて、それからゆっくりと真九郎の顔を見据えてきた。
真正面から瞳を覗き込まれる。
「でも、これだけは覚えておいて」
「なにを?」
「その時、一番辛い思いをするのはあの子じゃない。あんたの方」
「…そんなこと、あるかな?」
「きっと」
■
「お祝いだ~お祝いだ~」
日もとっぷり暮れて五月雨荘に帰還した真九郎が見たものは、嬉々として五号室に酒を運び込む武藤環の姿だった。
「…環さん、いったい何がどうしたんですか?」
「あ、おかえり真九郎くん! お祝いったらお祝いだよにゃはは~」
答える環から猛烈にアルコールの臭気。すっかり出来上がっている。
この分じゃ、夕方から飲み続けてるな…。
いや、そういえば、朝に出かけるときから飲んでいなかったか?
「おお食べ物がいーっぱい! さすが! 気がきくじゃん!」
真九郎のぶら下げている買い物袋に手を伸ばしてくる環を慌てて牽制。
「駄目ですよ! これは向こう一週間ぶんの食料なんですからね!?」
「ぶ~、なんだよ、けち~! いいじゃんかー」
頬を膨らませる環だったが、こればかりは譲れない。
―――今日、銀子に当座の生活費もないことを看破されたあと。
さすがに金を貸してくれなかったが、銀子の連れていってくれた場所は『楓味亭』。
店主で父である銀正に頼み込んで、急遽真九郎をバイトに組み込んでくれた。
時給900円でたっぷり五時間の労働。
最初は賄い付きとの約束だったが、閉店前にスープは売り切れ。
大好物のもやしラーメンにありつけない真九郎に、
「ごくろうさん。いや助かったよシンちゃん。それと、悪いねえ、賄い分はちょいと色つけておいたから」
そういって銀正が渡してくれた封筒には、きっかり五千円入っていた。
「ありがとうございます」
「いや、礼をいうのはこっちの方さ。…ときにシンちゃん、うちの銀子とはどこまでいってるんでぇ?」
「…はい?」
「隠すな隠すな。銀子のヤツぁ、高校出たら急に一人暮らし始めてぇなんていうからな、こりゃきっと、シンちゃんとの将来のことを考えて…」
「は、はははは」
「なんでえ、まだなのかい? こっちにゃ遠慮はいらねえからよ。…そうだ、銀子のマンションの鍵、持って行くか?」
「ご心配なく。貰ってますから」
ガハハと笑う銀正に見送られて、真九郎は楓味亭の外へ。
…そういえば、だいぶ前に銀子から鍵、貰ってたんだよな。
どこにやったっけ? 机の引き出しの中にあったかなあ…。
などと逡巡しながら真九郎はスーパーへ。
さっそく貰った給金で食料を買い溜めしてきた次第。
「とにかく、お祝いってなんなんですか?」
「ふにゃ? 紫ちゃんのお祝いだよ?」
「紫の…?」
真九郎は首を捻る。
ここ最近、紫の誕生日を盛大に祝ったはずだ。
それから一ヶ月も経たずに、またお祝い?
何か特別なイベントでもあったろうか。
正直、さっぱり思いつかない。
買い物袋を抱えたまま、自室へ。
黒衣の美女が片手を上げて出迎えてくれた。
「お帰り、少年」
「…闇絵さん、その少年ってのいい加減やめてもらえませんか? 俺ももう21ですよ」
「なに、お姉さんにとって年下はいつまでも少年さ。相対的なものだ。あまり気にするものではない」
まさしく煙に巻くように、闇絵は咥え煙草から紫煙を吐き出す。
「お帰り、真九郎」
見れば、酒瓶とビール缶の林立する座卓の前で、紫がはにかんでいた。
その反応に、真九郎は違和感を覚える。
いつもなら全身でぶつかるように飛びついてくるのが紫だ。
「聞いてよ~。真九郎くんたら、あたしたちに食わせる飯はねえ! っていうんだよ~!」
「それは看過できんな少年。人は酒のみで生きるにあらず、と世界で最も過激な宗教の開祖がいったそうだ」
「………」
二人の酔っ払いを無視して、真九郎は食材を冷蔵庫にしまう。
本当に紫のお祝いなら、料理を作って振舞うのもやぶさかじゃあない。
でも、見る限り、五月雨荘の住人二人は、酒を飲む口実にしてたかりに来ているだけ。
「…おい、紫。いったいなんのお祝いなんだ」
「……それは」
何故か顔を伏せる紫。
「あー訊いちゃった訊いちゃった! ふつーそこで訊くか~!? よっ! このスケベ!」
「環さん、ちょっと静かにしていてもらえませんか?」
「ぶー、なによ! お姉さんを蔑ろにするとウルトラスーパーマグナムメガトンパンチをお見舞いしちゃうぞ!?」
「しっ。静かにしたまえ環。………どうやら出前が来たようだ」
「おおう! ではとってきま~す」
しゅたたっと部屋を飛び出していく環に、真九郎は眉をしかめた。
…出前だって?
ピザ? まさか、鮨とかじゃないだろうな? 買出しで使い切って、もう全然お金はないぞ!?
「少年、安心したまえ。私と環の奢りだよ」
「…そうなんですか?」
内心で激しく疑いながら真九郎は闇絵を見る。
この二人が同時にたかるのならともかく、一緒に奢ってくれるなんて五月雨荘に入居してから空前絶後の出来事かも知れない。
「なに、女同士のよしみというやつだ」
「?」
間もなく戻ってきた環の手には、大きな重箱が載せられていた。
「どいたどいた~」
座卓の上の酒瓶やら空き缶を転がし、環はスペースを確保。
真ん中にどんと重箱を置く。
「紫ちゃん、おめでとー」
叫ぶように宣言して、環は重箱の蓋を開け放った。
「………これは?」
「少年は赤飯も知らんのか? 祝い事には欠かせない」
「いや、知ってますけど」
「最近は、この手のものまでデリバリーしてくれるとはな。便利な時代になったもんだ」
年寄りじみた発言をする闇絵を尻目に、真九郎は紫を見つめる。
「だから、なんの祝い事なんだ、紫?」
「ここで羞恥プレイ? 真九郎くんってばマニアック!」
「環さんは静かにしていてくださいってば…」
それでもやはり顔を伏せたまま、紫は答えようとはしない。
「あのなあ、紫。黙ってちゃ分からないぞ?」
「…やれやれ。野暮を承知で言うが、それはちょいと酷だぞ。そこはかとなく察するのが
「え…?」
「ヒントは十二分に出ている。熟考したまえ」
闇絵の言葉に真九郎は考える。
赤飯。お祝い。紫。
…駄目だ、ちっとも分からない。
「あのさ、紫ちゃん。あたしが代わりにいおうか?」
「…頼めるか、環?」
見かねて助け舟を出す環に、紫は俯いたまま小声で言った。
では、と環は立ち上がって背筋を伸ばし胸を張る。
「えー、ごほん。紫ちゃんは、女の子になったのでーす」
「…………はあ」
「あれ? なにその真九郎くんの反応?」
「だって紫はもともと女の子でしょう?」
「あ、いや、そうじゃなくてさー…!」
頭を抱える環。
「少年は中学校の頃に保健体育は習わなかったのか?」
闇絵もやや呆れ顔で真九郎を見ている。
「そりゃあ習いましたけど…」
「では、二次性徴とかいう言葉に聞き覚えはないかね?」
「馬鹿にしないでくださいよ、それくらい覚えてます…って、あ!」
「ようやく気づいたようだな…」
闇絵は短くなった煙草の穂先をジッと見つめて、
「そう、少女は初潮を向かえたのだよ。これで大人の女の仲間入りだ。祝わずにいられようか」
全てが腑に落ちる。納得した。
紫ももう13歳。二次性徴を向かえ思春期に突入したのだ。
人間として、極自然の流れ。幼子は幼子のままではいられない。日々成長していく。
それは当たり前の事実と受け止める準備はしていたはずではないか。
なのに真九郎は驚いていた。
まるで、完成させたはずのパズルの一欠片を見落としていたように。
いや、これは故意に見ようとしていなかっただけかも知れない…。
顔を上げた紫は、嬉しそうにはにかんでいる。
それでいて、自分自身に言い聞かせるような困惑した声が、真九郎の肺腑をかき乱す。
「わたしは、大人になったんだ。もう、子供も産めるんだ…」