泥酔した環を自室の布団に放り出してから戻ると、五号室に紫の姿はなかった。
窓辺に座った闇絵がダビデを膝の上に乗せて、新しい煙草に火をつけようとしている。
「紫は?」
闇絵は気だるそうに火の点いてない穂先を窓の外へと向ける。
帰ったということではなさそうだ。外へ出ていったということなのだろうか。
五月雨荘を出ると、紫はいた。
庭先の軒下に腰を降ろし、じっと夜空を見上げている。
「紫……」
その横顔に、真九郎は言葉をかけあぐねてしまう。
見惚れてしまったのだ。いつも見慣れているはずの顔に。
確かに、幼いころから紫の容色は際立っていた。端整な顔立ちをしていた。
将来はきっと美人になるだろうな、なんて勝手に確信していた。
だけどそれは、遠い未来の話のつもりだった。
紫の小さかった背丈も手足も、今や健やかに伸びている。
長い艶やかな髪だけはそのままに、ふっくらとしていた頬も柔らかく引き締まり、物憂げな眼差しはもう幼子の頃のものではありえない。
「…真九郎か?」
小首を傾げてこちらを見てくる仕草に、なぜか少しだけ息苦しさを覚える。
「あ、ああ。部屋に戻ったら、いなかったからさ…」
「ちょっと夜風に当たりたくなったんだ」
「…隣、いいか?」
頷く紫の横に、並んで腰を降ろす。
真九郎もしばらく黙って夜空を見上げた。
半円の月が浮かび、時々薄い雲がかかる。
月の淡い光が、雲のフィルターを通して、隣にいる少女の名前と同じ色を投げかけてきた。
―――静かだ。遠く駅前の喧騒すら聞こえてくるよう。
紫は喋らない。
代わりに、軽く目を閉じてそっと真九郎に寄り添ってくる。
夜風に乗って、紫の匂いが真九郎の鼻腔をくすぐる。
嗅ぎなれた甘い匂い。いつもと変わらぬ温もり。
成長しても、紫は紫なはずで。
別人に思えたのはきっと一瞬の気の迷い。
それか、きっとたぶん、自分も酔っているせいだ。
…変だ。なんだろう。心臓のあたりが熱くて切ない。
「なあ、真九郎」
「…ん?」
「わたしは、九鳳院だ」
ポツリと、紫は言った。
「わたしは九鳳院紫なんだ…」
その言葉の意味することを、真九郎は直感的に理解した。
しかし、わざとその直感を否定する。
深く意味を考えない。思考を追わない。
そう念じれば念じるほど沸いてくる疑問。
紫。
おまえは、どうするつもりなんだ―――?
心の中で首を振る。
全てを振り払え。
上辺だけでも明るい笑顔を作れ。
「何当たり前のこといってるんだ、おまえは?」
微笑んで、クシャクシャと紫の頭を掻き乱す。
真九郎にとっての九鳳院紫とはなにか。
それは、初めて会ったときのあの小さな紫の姿。
容姿は変わっても、日々成長していても、なんら彼女の本質は変わっていない。
自分もあの頃から何も変わっていないように。
何も変わらない。変わってなんかいない。
この関係は、これからもずっと続いていくもの。
真九郎はそう思う。
そう思っていた。
「そうか」
紫は嬉しそうに笑う。
無邪気な調子と裏腹な大人びた表情が、逆に真九郎を不安にさせた。
「なら、いいんだ」
「おい、紫…?」
そっと腕を抱えてくる紫。
もう真九郎は、すぐ側にある紫の顔を直視することはできなかった。
再び夜空を見上げた。
昼間の銀子の言葉が、渇いた胸に焼け付くように転がっている。
『そのとき一番辛い思いをするのはあの子じゃない。あんたの方』
いずれはそうなるのは必然。
分かっている。
だからこれは臆病じゃない。
――いまはまだ、このままで――――。
それ以上、真九郎は考えるのを止めた。
月がやたらと綺麗だった。
■
「…真九郎さん? 真九郎さん!」
「は、はい!」
「どうしたんですか、ボーっとして。せっかくのお料理が冷めちゃいますよ?」
対面の夕乃が優しく微笑んでいる。
真九郎は慌ててナイフとフォークの動きを再開。
一切れ口に放り込んだのは、オマールエビの前菜らしい。味は良く分からない。
「うふ、こうやって真九郎さんと差し向かいでお酒を飲む日が来るなんて…」
夕乃は上機嫌な様子。
はしゃぐ夕乃に続いて、真九郎もワイングラスを呷る。こちらも味は良く分からなかったけれど、曖昧に微笑んで見せる。
真九郎より一つ上の崩月夕乃は、女子大を卒業し、既に就職している。
大手企業の受付嬢を勤め、顧客や同僚の評判も上々。
上司の覚えも良く、取引先の重役クラスから「息子の嫁に…」と打診が来るくらいの人気だとか。
もう幾つかのお見合いもしたらしいとの、銀子経由の情報。
その時は、まあ、夕乃さんならそれくらい当然だよな、と返したけれど、冷静に考えてみれば、なんで銀子はわざわざそんなことを報告してくれたのだろう?
「…どうしたんですか、真九郎さん? ひょっとして料理が口に合わないんですか?」
「いえ、そんなことは…」
「支払いなら心配しなくて大丈夫ですよ。ここはお姉さんが奢っちゃいますから! せっかくのデートですし…」
最後は小声でいって頬を染める夕乃。
学生時代と違い、彼女に呼び出される頻度は月に二、三度ほど。
崩月の本家に呼ばれることもあれば、外食に誘われることもある。
今回は、有無を言わさず連れてこられたのがこのフレンチレストランだった。
一見して高級そうだと驚きはしたけれど、いまは金銭的に余裕がないわけではない。
真九郎が精彩を欠いてるのはもっと別の原因がある。
「大学生活は充実していますか?」
「…おかげさまで、なんとか」
「それならいいですけど。卒業したら真九郎さんはどうするつもりなんです?」
「…………」
「このまま揉め事処理屋を続けるつもりですか」
ため息をつく夕乃は、真九郎の沈黙を誤解している。
本業にかまけて単位が足りず、卒業も危ぶまれているなんて、口が裂けてもいえない。
「殿方は手に職を持つことも立派ですけどね、残された女の気持ちというものも重要なんですよ?」
「はあ」
「別に真九郎さんの仕事を否定するつもりはありませんし、私もそんな生半可に鍛えたつもりもありません。ですが、もっと、こう、安心してみていられる職業を…」
夕乃の弁舌は、ウェイターが次の料理を持ってきたことで中断。
メインは羊肉の香草焼き。
使い慣れないナイフとフォークに悪戦苦闘するする真九郎を、夕乃は優しい眼差しで眺めた。
「それで、真九郎さん」
デザートも片付け、食後のコーヒーを口に運びながら夕乃は真九郎を見据えてきた。
「何か悩み事があるのではないですか?」
優しい口調で威圧する因子は一欠けらもない声。
それでいて、強く相手に答えを促してくる。
懐かしさと抗いがたい力を感じ、思わず真九郎は俯いた。
夕乃は昔からそうだった。
崩月家にやっかいになってから2、3年ほど経ったときだから、あの時真九郎は小学五年生だったろうか。
クラスメートからいじめを受けたことがあった。
日々の修行で生傷の耐えない日々を送っていた真九郎にとって、同学年の子供の暴力など暴力のうちに入らない。
益体のないいいがかりも、十分に耐えることができた。
思うに、彼らは自分に対して夕乃があれこれ世話を焼いている姿に嫉妬していたのではないか。
だからいじめにあったことを黙っていたのに、夕乃は鋭かった。
真九郎が修行と関係のない傷を負っていることをたちまち看破し、例の口調で問いかけてきたのだ。
抗えず、真九郎がありのままのことを報告することになると、翌日からはピタリといじめは止んだ。
「相談してみてもらえませんか? …それとも、私では力になれない話なんですか?」
しおらしい夕乃の表情に迫られると、真九郎は弱い。これも昔から変わらないことの一つ。
少しだけ躊躇う真九郎だったけど、悩みの一つを打ち明けることを決意。
「…あの、夕乃さん」
「はい、なんでしょう?」
「結婚って、なんなんでしょうね?」
「…はい?」
夕乃は目をパチクリとさせた。間髪入れず、見る見るその頬が赤く染まっていくのに、真九郎は気づかない。依然としてコーヒーの黒い水面に視線と落としたまま。
「そ、その、結婚というのは、男性と女性が、ち、契りを…」
「ええ、それは分かってます」
世間一般でいうところの結婚の定義は承知している。
真九郎は知りたいのは、もっと別のこと。
人は、なぜ結婚するのだろう?
そして結婚することの意味とは?
大学の知人の一人は、家庭を持つことに意味があると教えてくれた。
確かに家庭の温かさは、崩月家でやっかいになってことで身に染みている。
でもそれは、元から完成していた所に真九郎が割り込んだようなもの。
自分自身で家庭を作る意味。理由。
真九郎はそれがよく分からない。
自らの家族が死んだあの日から。
「好きあった殿方と女性が親密になれば…、おのずと結婚することになるのではないかと」
上目遣いでチラチラとこちらを見てくる夕乃の仕草に全く気づいた様子もなく、真九郎は考え込んでいる。
夕乃の言っていることも間違いではないと思う。
恋愛の発展の先に結婚という帰結があるということだろう。
実に普通だ。
「…そんな…いきなり……でも…心の準備が………ああ、ずるいです…!」
身もだえする夕乃をよそに、真九郎の沈思は更に深まっていく。
一方で、政略結婚というものもある。
家系と家系の結びつきこそが重要で、そこに当事者たる男女の想いが反映されることは多くない。
近親婚を重ねる九鳳院においての婚姻とは、後者に近いのではないか?
真九郎を悩ませている原因は、実のところ単純で青臭い。
正しいのだろうか、そういう婚姻の在り方は。
少なくとも間違ってはいないだろう。
世界史や近代史を紐解けばいくらでも出てくる話だ。
時の権力者同士ほど、人質の意味も込めて頻繁に婚姻が結ばれる。
男尊女卑。
女性が道具扱いにしかされていなかった時代の名残り。
時が移ろえば価値観も変わる。
そんな昔の話を、現在の真九郎の倫理で語っても説得力を持たないのかも知れない。
―――でも、自分はあの時に喝破したのだ。
『そんなふざけたシステムがなければ存続できないなら、九鳳院なんか滅びてしまえ』
馬鹿げていると思ったから。間違っていると思ったから。
今は?
真九郎は自分を省みる。
人としてどこか壊れてしまっている自分に、家庭の意味も分からない自分に、偉そうに否定できるものなのだろうか?
「真九郎さん」
妙に力強い夕乃の声に、真九郎は顔を上げた。
「あの、そういう話はですね。こんな場所でなくちゃんと実家に来てして欲しいといいますか…」
「? そうですか?」
「そうです絶対そうなんです! そんな大切な話であれば、お祖父ちゃんを通してもらわないと困ります! 真九郎さんは、ほら、我が家の内弟子でもありますし!」
どうしてそこで師匠が出てくるんだろ? それに、そんな力説されるほど大切な話なのか、これって?
頬を赤らめたまま神妙な表情をする夕乃を見て、真九郎は大いに納得した。
そういえば夕乃さん、たくさんワイン飲んでた。たぶん酔っ払っているんだ、きっと。
それに、よくよく考えてみれば、師匠である崩月法泉は恋愛経験が豊富。老いて益々盛んだから、きっと独特の結婚観を持っているに違いない。
その一つでも披瀝してもらえば、何かしらの参考になるかも。
「ありがとう、夕乃さん。もしかしたら近いうちにお邪魔させてもらうかも知れない」
「ほ、本当ですか!?」
やおら椅子から立ち上がると両手を胸の前で組み、恍惚をした表情を浮かべる夕乃。
明らかにオーバーアクションなその反応を、真九郎はむしろ微笑ましく眺める。
夕乃さんってお酒に弱いんだなあ…。
もちろん、酔っているからといって、夕乃のことを軽蔑したりする真九郎ではない。
むしろ感謝している。彼女の発言は、真九郎にいつもいつもありがたい示唆を与えてくれた。
崩月法泉と同じく、自分にはもう一人師匠とも呼べる人がいる。
彼女に訊けば、もう一つの悩みの答えを得ることが出来るかも知れない。