「真九郎、起きろ真九郎…!」
緩やかな振動が世界を揺さぶっている。
頭の中で小さな何かがはじけた。
ゆっくりと身体全部が水面へ浮上する感覚。
覚醒の前触れであることを意識しつつ、名残惜しげに真九郎はゆっくりと瞼を開けた。
極めて短い感覚を置いて、白かった視界が輪郭を伴ってくる。
すぐ目前で艶やかな黒い滝が光を反射していた。眩しい。
目を細める中、嗅ぎ慣れた甘くいい匂い。
白磁のような頬を膨らませ、驚くほど大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。
「…おはよう」
上体を起こしてそう挨拶を返す真九郎に、紫は腰の両脇に手を当ててたまま。
眉毛が釣りあがっているところを見ると、あまり機嫌は芳しくないようだ。
「おはようといえる時間帯か!?」
盛大に紫の指差す方向。
ファンシーなペンギン型の小さな時計の短針は、数字の4近くを指している。
ぼんやりと真九郎は部屋を見回す。
窓の外から柔らかな陽光が差し込んでいた。どう考えても夜中の四時ではありえない。
「あー…」
仕事を終えて帰宅したのは昨日というか今朝の五時。
疲れ果て、ろくに着替えもせずに布団の中へ突っ伏した記憶しかない。
「…今日は放課後に会いにくると事前に連絡をいれただろう? なのになんだこの有様は!」
紫が憤慨するのも無理はない。
中学三年の最上級生となった紫は、多忙を極めていた。
連日の九鳳院家の責務を果たし、学業も修め、そのくせ放課後にはクラブ活動にも精力的に参加している。
必然的に真九郎と会える時間が減少。
それは当然のことだ、紫はもっと中学生生活を楽しむべきだ。
だいたい一生に一度しかないんだからさ。
そういって鷹揚に構えていた真九郎だったが、紫との逢瀬が楽しみでないわけがない。
そんな激減してしまった大切な日に、真九郎が寝こけてしまっていたのは、やはりどうやっても言い繕えない失態だった。
「まったく、社会人になったのに大学生のときよりだらしないとはどういうことだ?」
鼻息も荒く、勝手知ったるなんとやらで真九郎の部屋を漁り、自分専用の装備を取り出す紫。
制服の上にエプロンをつけ、スカーフで長い黒髪をまとめやいなや、未だボーっとしている真九郎を布団の上からひっくり返す。
「相変わらず真九郎の布団は臭いな。たまには干せ」
せんべい布団と掛け布団を手際よく畳んで抱え、ヒクヒクと形の良い鼻をひくつかせる紫に、真九郎は赤面。
「あのな、紫…」
「いいから、さっさと顔を洗ってこい」
言い置いて部屋を出ていってしまう。
行き先は五月雨荘の中庭だろう。今から干しても日光を吸ってふっくらと乾燥するかどうか微妙だが、しないよりはマシなはず。
ようやく真九郎も重い腰を上げた。
疲れが抜けてないのか、逆にたっぷり眠って寝疲れしてしまったのか、足がふらつく。
とにもかくにも身支度は整えるべきだ。
紫に言われたとおり、まずは顔を洗って歯を磨いて…。
真九郎がタオルも持たず洗面台に向かおうとしたとき。
駆け足の音が五号室まで戻ってきた。
「ちょっと待て、真九郎!」
「どうしたんだ?」
首を捻る真九郎に背を向けて箪笥をガサゴソさせることしばし、紫は幾つかのものを放り投げてくる。
反射的に受け取った真九郎の手には、バスタオルと替えの下着が上下一組ずつ。
「もう銭湯が開いていたからな。どうせ昨日も入ってないんだろう?」
まさしくその通りなだけにぐうの音も出ない真九郎に、
「わたしと会う時は、前もって身奇麗にしていてもらいたいものだ」
偉そうな口調のわりには、紫の言葉に嫌味は一欠けらも存在しない。
事実、彼女は単純にそう望んでいるだけ。大真面目な表情からもそれは明らか。
それゆえの説得力。迫力。
「…以後、気をつけます」
小声になってしまう真九郎は、自分でも色々と情けないなと思う。
「うむ。次に期待しよう」
一転、紫は破顔。手を振って真九郎に急ぐよう促す。
箒片手に掃除を始めた紫を部屋に置き、真九郎は五月雨荘を出よう靴を履いたところで、
「こんな真昼間から若妻プレイですか通い妻プレイですか羨ましいですねこんちくしょー!」
「環さん…」
思わずコメカミのあたりを押さえてしまう真九郎。
現在の環の格好を見れば、それも無理なからぬこと。
ショーツの上にシースルーのピンクのスリップだけというあられもない姿で、右手には一升瓶。
既にこの時間から酒臭い息を吐いているのは、本日が彼女にとっての休日ゆえと信じたい。
「日も暮れないうちからそんな格好してると品性が疑われますよ?」
「余計なお世話ですよー…ういっ、ひっくっ!」
一升瓶をラッパ飲みし、酒臭い息を吐き出す環。
真九郎を見かければ挨拶代わりに絡んでくるのは、彼女なりに一種の礼儀と心得ているフシがある。
そんな礼儀はごめん被りたい真九郎に反して、一旦五月雨荘を出ればそれなりの人格者として扱われているのが環の最大限に不可思議な部分だろう。
大学を出て(卒業出来たのかどうかは不明だ)、本格的に空手道場の指導員として活動をしている彼女は、地元でも手に負えないような不良どもを更正させたり、愚連隊まがいの暴走族を一人で壊滅させたりと大活躍。
先月あたりは空手道場のアメリカ支部の視察がてら、妖しい海外企業の謀略に巻き込まれたらしい。
凄まじく危険なウイルスが漏洩してどうたらという時点で激しく疑わしいのだが、『銃も効かない【たいらんと】?だか呼ばれる大男を素手でボッコボコにしてきたよ♪』と豪語する環に、真九郎はもちろん話半分も信じていなかった。
「あーもう愛が足りない愛が足りないー!」
意味不明のことを喚きながら一升瓶を呷る環に、げんなりする真九郎。
持参金はオレが用意するから誰か貰ってってくれないかな、なんて割と本気で考えてしまう。
年齢は本人の希望もあって触れないけど、環の見た目は若々しい。大人しく黙ってさえいれば、なかなかの美人だと思う。
しかし、言動が壊滅的にオヤジな時点で全てが台無し。
美点がないわけではないだろうけど、やはり欠点の方が目立ちすぎる。
「そういうわけで、真九郎くん。私をハニーって呼んでみない?」
「どういうわけですか…。なにはなくてもそれは遠慮しておきます」
「ぶー、減るもんじゃないでしょー。ねーねー扶養してみない? 扶養してよー」
しなを作る環を無視して真九郎は靴を履く。
いちいち関わりあっていたら時間がいくらあっても足りない。
さっさと五月雨荘の敷地を出て、真九郎はクシャミを一つ。秋風の寒さが身に染みる。
昼の陽光は、はや夕方の橙色にシフトしつつある。
返す返す紫との約束を寝過ごしてしまったことが悔やまれた。
さあ、風呂へ入ってこよう。これ以上紫を待たせるわけにはいかない。
■
紫と一緒に出かけるといっても、別段とくべつな場所にいくわけでもない。
適当に街をそぞろ歩き、目に付く店を冷やかして、食事を摂る。
良家育ちの紫が、その出自のわりに食事に拘らないのは相変わらずだ。
ジャンクフードもよく食べる。
「これはこれで赴きがあって良い」
世界的チェーン店の一番安価なハンバーガーにパクつきながらの彼女の台詞。
「それにな、食事は何を食べるかが重要ではない。誰と食べるかが一番大切なのだ」
大真面目な表情でいう紫に、真九郎も全く同感。
自分が中学生の頃までは、崩月家の全員で食卓を囲んでいた。
高校生になって五月雨荘で暮らし始めても、環や闇絵といった面々がしょっちゅうやってくる。
誰かと一緒の食事は美味しい。
そのことは身に沁みて感じている真九郎である。
家族が死んだときは孤独になったと思っていたが、いつも誰かが傍らにいてくれた。
最長の付き合いとなるのはもちろん幼なじみである村上銀子であるが、崩月夕乃はそれに継ぐ。
そして九鳳院紫。
考えてみれば、こいつとの付き合いが一番日が浅いんだよな…。
「? なんだ? 何かわたしの顔についてるか?」
ストロベリーシェイクを音を立てて啜り、不思議そうな顔をする紫。
多少行儀が悪いことをしても微笑ましく見えるのは、彼女にあまりに邪気がなさすぎるからか。
「いや、なんでもないよ。…さて、これからどうする?」
「そうだなあ…」
考え込みながら席を立った紫は、トレイと包み紙をまとめてゴミ箱へ。
既に食べ終わっていた真九郎も後に続いて店を出る。
「やっぱり映画だろう! デートの定番だ!」
くるりと回ってスカートを翻す紫に、真九郎は苦笑を禁じえない。
確かにデートには間違いないかも知れない。
だが、そこまで大袈裟なものでもないというのが真九郎の心情だ。
向こう七歳の紫のころから行動を共にしてきてる以上、デートというよりも保護者として一緒に遊びまわっているという印象の方が勝る。
それは今でも変わらないつもりだが、他人の目にはどう映っているのだろう?
そんなことを考えていた矢先、パトロール中の警官から声をかけられた。
「その、君たち、どういう関係?」
傍目には、20も半ばになった男が女子中学生を引っ張りまわしている構図。
警官の訝しげな視線も十分理解できたが、紫が九鳳院の名前を出すとあっさり退散。
きっと真九郎のことを護衛とでも思ってくれたのだろう。
恐縮しきりの警官が気の毒に見えたけど、紫はまるっきり悪びれた様子はない。
「姓名とはいえ使えるものは使う。資源は有効活用すべきだと社会の教師もいっていた」
「紫、それちょっと違わないか…?」
「それよりなんだあの警官。いうに事欠いて援助交際だと? わたしと真九郎の仲をなんだと思ってるんだ!?」
別にどうも思ってないだろ、なんて真九郎は口には出さない。
憤慨して足早になる紫のあとを、黙って追いかける。
「真九郎、これがいいな!」
唐突に足を止めた紫の指差す方向には、やや古びた映画館。
掲げられているタイトルも、古い映画のリバイバル上映らしい。
「…本当にこれでいいのか?」
「ああ。最近のアクションものや大作志向の映画は、級友たちと観賞して食傷気味だからな。真九郎と見るのは、落ち着いた雰囲気のこういうのがいい」
「そうか」
真九郎は窓口でチケットを二つ注文しようとすると、すかさず紫は学生証を提示して学割を申請。
「結構便利なものだな、学生という身分も」
ご満悦な紫に反し、チケットを渡してくる受付嬢の手が震えていたのは、九鳳院の姓を目の当たりにして驚いていたのだろう。
「学校の友達と結構来たりするのか?」
一方、真九郎の驚きは別のところにある。
紫の通っている中学校は、自他ともに認めるお嬢様学校だ。
何度か迎えに行く機会があったが、荘厳たる校門の前に高級車が整然と列を作っていた。
紫は例外にするにしても、そんな良家の子女たちが繁華街の映画館を闊歩しているのを想像するのは難しい。
「彼女らの一人は、庶民の生活を実地で知るのは大切だといっていた。
それに何も全員が全員いい所の箱入り娘というわけではないぞ?
特待生制度もあるしな」
「なるほどね…」
納得する真九郎は同時に紫の交友関係の広さに感心する。
小学校のときはどこか世間ズレしていた印象があったが、どうやら改善されているようだ。
それにお嬢様学校であれば、紫の同類が多いのは必然。
そこでも紫の潔い性格は、きっと受け入れられ、愛されているのだろう。
…少しだけ誇らしくて、少しだけ寂しい感じがする。
どうしてそんなことを思うのか。
その感情の正体を見極めるよりも早く、紫が呼ぶ声が聞こえる。
「いくぞ真九郎! 始まってしまう!」
映画は可もなく不可もなく。
真九郎にとっての感想はそれだったが、紫の感想は異なる。
「なかなか面白かったが…最後のシーンはあれはなんなんだ?」
結婚式場から花嫁を強奪した主人公は、ウエディングドレス姿のヒロインと一緒に笑いながらバスへ乗り込む。
周囲の祝福も一段落すると、なぜか二人の顔から笑顔が消えた。
どこかへ向けて走るバス。
流れはじめるエンドロール。
「あれはな、きっと現実に気づいたんだよ」
「現実に?」
「花嫁は強奪してみたけれど、じゃあこれからどうすればいいんだって我に返ったんだろ。要は勢いだけの行き当たりばったりでした、ってことじゃないのか」
「しかし、あのままでは花嫁は望まぬ相手と添い遂げるしかなかったんだろう? 主人公と逃げたということは、二人とも愛し合っていたということではないのか?」
「そりゃそうかも知れないけれど、愛だけでは食べていけないだろ」
「どうも釈然としないな…。あの時点で花嫁が結婚するに任せていれば、主人公はもっと後悔したのではないか?
花嫁も奪って後悔したのでは、結局は何をしても後悔することになるという話なのか、あれは?」
「解釈は人それぞれだよ。そういう幅を持たせるために、わざとああいう終わりにしたのかもな」
真九郎は適当にそういって切り上げることにした。
映画に詳しいわけでもなければ、そもそもあの結末にも興味がない。
「…ふむ」
それでも紫はあまり納得していない様子。足を止めて、真九郎の目を真正面から覗き込んでくる。
「自分で決めたことなら、わたしは後悔しないぞ? それに、後悔するなら、しなかったことを悔やむより、出来ることを出来るだけやって悔やむ方がずっといい」
実に紫らしい考え方だと真九郎は思う。
彼女のような清々しい生き方は、どう真似しても自分には出来ないんだろう。
生まれた環境や育ちとは違う。持って生まれた魂の質。
紫のそれを見ることが出来るとすれば、きっととんでもなく綺麗なものに違いない。
対して、自分はどうか。
常に自らの行動は正しかったのか、間違ってなかったのか、何をするにしても繰り返し自問自答している。
反省するのは悪いことじゃないはずだ。
それでも、拘りすぎて足を絡め取られるような生き方をする自分は、不器用か臆病のどちらかか。あるいはその両方かも知れない。
「…どうした、真九郎?」
「ん?」
「なにか深刻な表情で考え込んでいたようだが」
「ああ、ごめん、何でもないよ」
見上げてくる紫の頭を撫でてやる。
くすぐったそうに目を細める紫の表情は相変わらずなのに、撫でる手の位置の高さが大きく変わっていた。
日々健やかに、真っ直ぐに成長している証。
真九郎は思う。
―――間違いだらけの人生でも、この子を助けられたことは、間違ってない。
「なあなあ! あの屋台のドネルケバブとはなんだ?」
「確かトルコの料理だったかな?」
「食べてみたい!」
「また喰うのかよ…。太ってもしらないぞ?」
「育ち盛りだから大丈夫だ、心配ない!」
ベンチに腰を降ろし、さっそく紫はケバブに齧り付く。
微笑ましく眺めていた真九郎だったが、紫の素っ頓狂な声に度肝を抜かれてしまう。
「そうだ、忘れていた!」
口元のソースを拭い、スカートのポケットからなにやら封筒のようなものを取り出す紫。
「来年のことを話せば鬼が笑うというけれど…」
手渡された封書は、上質の紙に赤いロウソクで九鳳院の紋様が押された立派なもの。
「これは?」
「わたしの誕生会の招待状だ」