『本日は、お忙しい中、このような宴にご足労下さったことに心より感謝申し上げます…』
紫がマイクに向かって微笑む。
真九郎の知る普段の彼女から想像もつかない丁寧な口調と物腰。
しかし、それもまた、間違いなく紫の一面。
とてつもなく広いパーティ会場の片隅で、真九郎はグラス片手に佇ずむ。
壇上では、めかし込んだ幼い男の子と女の子が紫に花束を手渡していた。
『紫さま、たんじょうび、おめでとー』
『おめでとうございますー!』
元気一杯の祝辞。九鳳院の縁の子供たちか。
花束を受け取り二人の頭を撫でる紫の姿を、真九郎は掲げたグラス越しに見た。
琥珀色に染まる紫から視線を逸らして会場を見回すと、巻き起こる拍手に包まれる。
その盛大さと裏腹に、真九郎の気分はとても晴れやかなものとはいえない。
この会場に入ってから、ひたすら下降線を辿り続けている。
壇上から紫が降りて来て、招待客への挨拶に回り始めた。
出迎える客たちは、煌びやかな衣装を纏った可愛らしい少女の姿がとにかく目立つ。年頃から察して、紫の学友たちだろうか。
そして若い男性も意外と多かった。ただしこちらの年齢の幅は様々で、紫と同年代から真九郎と同じ年齢くらいまで。
この場に招待されているからには、おそらく彼らのほとんどが有名企業や財閥、または政界の有力者の御曹司なのだろう。
紫の手を取り芝居がかった挨拶をする少年の一人を見て、真九郎のグラスを握る手に力が籠もる。
―――あいつらの中に、紫の誕生日を心の底から祝っているやつは何人にいるだろう?
彼らを眺める真九郎の目付きは険しい。
脳裏には、数日前、仕事の打ち合わせで会った村上銀子の顔が浮かんでいた。
『今度紫の誕生会に呼ばれている』とこぼしてしまったときの彼女の反応が、頭の中でリフレインしている。
「九鳳院の娘の16歳の誕生日、ね…。本当の意図はどこにあるのやら」
「…どういう意味だ?」
「あんた、あの子の立場ってものを、正確に把握している?」
ムッとしながらも首を振った真九郎に、銀子は呆れながらも懇切丁寧に説明をしてくれた。
九鳳院は基本的に男系の家だ。代々の家系図に女子が記されることは皆無ではないが、そのほとんどが早逝してしまっている。
その連綿たる九鳳院の歴史において、突如現れたといってもいい紫の存在はどのような価値を持つのか。
それは、以前真九郎が紅香より聞かされた予想をあっさり覆すもの。しかも悪い意味で。
「九鳳院にとっての結婚は、あくまで外部の血を取り入れるものでしかない。
男系である九鳳院家へ、他家が娘を嫁がせる。血統を維持するにはそれしか方法はないから。そうでしょう?」
「…………」
真九郎は黙る。
九鳳院家が近親姦でしか子供を作れず、それゆえに奥ノ院というシステムを作り上げたのは秘中の秘だ。
基本的に生まれた女性は、全て奥ノ院へ送られる。ゆえに表の家系図に、女の名前が載ることはない。
かといって絶無ではさすがに異様なので、早死にしたことにして名前が記されることもあるとのこと。
それらを紅香から伝え聞いた真九郎であったが、さすがにこれは銀子に話すことも出来ないでいた。
「だけど、あの子は女。だったら九鳳院の方から降嫁させることが出来る」
淡々と告げてくる眼鏡の奥の表情を、真九郎は伺った。
…もしかしたら銀子は、奥ノ院の事も知っているのではないか?
承知してこんな喋り方をしているのではないか?
もちろんそう感じただけであって、根拠はない。
「つまり―――政略上の駒として、これ以上にないくらい非常に強力」
「じゃあ何か? 今回の紫のパーティーは」
「そう。実態は、誕生会と称したお披露目会」
「…………」
16歳を迎えた紫は、結婚の対象となる。
九鳳院と縁戚関係を持ちたい家系にとって、まさしく垂涎の的。
集まってくる客の大半は、その場で紫の品定めをしようというのか。
表情には出さず内面で激しく動揺している真九郎に、銀子はとことん容赦がなかった。
「麒麟塚に皇牙宮も興味を示してるそうよ」
―――思い出しただけで気分が悪くなった。
だが、その理由の大半は、他ならぬ真九郎自身に由来するもの。
怒りの矛先を彼らに向けるのは正しいようで、明らかに間違っている。
やり場のない憤りが、血の流れに乗って全身を循環していた。
頭の中が熱い。
籠もる熱に喘ぐように、真九郎は本日、幾度目かも知れない現状の整理を試みる。
紫が九鳳院の女であるならば、その責務を負わなければならない。
血族の誰かと契り、子を成さねばならない。
奥ノ院を出されたからといって、それは例外ではない。
同時に、体裁を取り繕う必要も生じる。
子を成しても、血族同士で夫婦を名乗るわけにはいかない。
奥ノ院に秘匿されたままでいればそれでも構わなかっただろが、表の家系図に名を連ねてしまった紫の場合、形式的にも外部の人間と夫婦にならなければ不自然だ。
独り身で置くには、銀子も言っていた通り、政略上の価値が大きすぎる。
全て、真九郎は知っていたことだ。
だけど、知らないふりをしていた。
問題を認識していたのに、気づかない風を装って、ひたすら先送りにしていた。
正面から向き合うのを恐れていた。
―――その挙句が、このざまか。
胸からこみ上げてくる苦味を飲み下すように、一気にグラスを空にする。
カッと胃が熱くなったが、それだけ。
胸の奥の不快感はそのままに、酔えさえしない。
ウエイターの手を煩わせることもなく、勝手にテーブルの上にあった水割りをもう一杯拝借した。
氏素性も確かな招待客たちの中で、明らかに真九郎は浮いている。
もちろん会場内を埋めるそれら富裕階層に知り合いはいない。
従って話し相手もいない。
となればもっぱら食べるくらいしか出来ないわけだが、真九郎は飲み物を口にするだけで精一杯。
贅を極めた料理の数々を前に、さっぱり食欲が沸かなかった。
真九郎の胸中を占めるのは焦燥感と悔恨。
たかぶり、ともあれば叫びそうになるくらいに強力なもの。
いっそこの会場にある全てを無茶苦茶に破壊したいくらいだ。
しかし、黙然と真九郎は酒を呷り続ける。
自分にそんな度胸はないことを、真九郎が一番知っていた。
くたびれ果てた老人のように壁際の椅子に一人腰を降ろす。
きっと人酔いでもしたのだろう。
そう無理矢理結論付けて背もたれに背中を預ける。
ふと周囲の気配を探った。
尋常でない気が、会場の内外に幾つか。
おそらく九鳳院の近衛隊だ。それぞれが相当の使い手と見た。
もっとも、自分に気取られることのない更なる手練も潜んでいるかも知れない。
仮にこの会場でひと悶着起こしたとしても、逃げ切るのは絶対に無理。
即座に真九郎は頭を振る。
…ひと悶着なんて起きるはずがないだろう? なにバカなことを考えてるんだ、俺は。
無意識で逃走経路まで検索してしまったのは―――揉め事処理屋としてのサガだ。きっとそうだ。
「本日はようこそおいでくださいました」
「!」
弾かれたように顔を上げると、そこには艶やかな紫の顔。
名前と同色のカクテルドレスが眩しい。
「どうしました? ご気分でもすぐれませんか?」
「は、はあ…その……」
「それとも何か至らぬところが?」
「いえ、大丈夫…です」
「そうですか。それではどうぞごゆっくりお楽しみくださいまし」
優雅に一礼して紫は立ち去った。
直後、周囲の招待客たちから、あれは誰だ? と訝しげな視線が幾つも集中したが真九郎はそれどころではない。
紫の慇懃な態度にショックを受けていた。
紫、怒っているよな。怒ってないわけないよな…。
紫の中学校の卒業式に、真九郎は出席していない。
それどころか、卒業後から数ヶ月、ろくにこちらから連絡もしなければ会おうともしていなかった。
紫から電話がかかってくることはあっても、「いま忙しくて」と適当な理由をつけて切ってばかり。
本当は、今日の誕生会だって来るつもりはなかった。
しかし、騎馬に直接迎えに来られては、さすがに逃げるわけにはいかない。断る適当な理由も思いつかず、久々に一張羅のスーツに袖を通した真九郎は、リムジンで会場まで連れて来られた次第。
…いや、紫のあれは当然の反応だ。
公の場で、特定個人に馴れ馴れしくすることなど出来るわけがない。私人の感情を排し、万人にあくまで公人として振舞わなければならない。
紫の態度は褒められてしかるべきもの。
むしろ一般の招待客の中で下の下ともいえる真九郎に声をかけてくれたことには、感謝すらしなければならないだろう。
すわ、それが紫が許してくれていると解釈するほど、真九郎は単純ではない。
だいたい、許して貰えたからなんだというんだ…。
力なく肩を落とし、真九郎はまた口の中が苦くなるのを感じていた。
そうか。これが後悔の味なのか―――。
気づいたとき、手に持ったグラスの氷は完全に溶け切って温くなっていた。
時計を見ればいつのまにか結構な時間が過ぎてしまっている。
宴は終わりではなかったが、既に帰り始める客もいた。
真九郎は半ば無意識で紫の姿を探す。見つけられなかった。
「…俺も帰るか」
茫洋とした呟きは、逃亡と同義語であることを真九郎自身が痛感していた。
この場に留まっていたって、もう得られるものは何もない。
むしろ自身の愚かさを再認識して辛いばかりだ。
入り口へ足を向けようとして真九郎は停止した。
出掛けに環からお土産をねだられていたことを思い出して、しばしの逡巡。
せめて折り詰めが貰えるか掛け合ってみるか…。
恥も外聞もない。そもそも自分には守るべき体裁もないのだ。
真九郎がまだ残っている料理の山を振り返った時。
「紅さん」
スッと音もなく騎馬が現れた。
「…どうしたんですか?」
完全に気配を感じなかったことに、改めて真九郎は近衛隊副隊長の実力を思い知る。
「どうぞこちらへ」
「?」
来るときと同じく、殆ど有無を言わせぬ迫力で、真九郎はリムジンまで連れていかれた。
わけの分からぬまま乗り込むよう促され、ドアが閉まったか確認もせぬままに車は急スタート。
「いったい何事ですか?」
「少々やっかいなことが生じまして。貴方のお力を拝借したく」
「俺の力? 近衛隊にもっといい人材はいるでしょう?」
謙遜ではなく事実を口にした真九郎に対し、バックミラー越しの騎馬の隻眼は笑っていなかった。
「紫さまの所在が不明です」
「なんですって!?」
九鳳院の令嬢が行方不明。
事実なら、日本を揺るがしかねない一大事。
「も、もしかして誘拐?」
近衛隊の闊歩するあの会場から紫だけを攫ってのけたとするなら、相手の技量は相当なものになる。
しかし、騎馬は即座に否定。
「おそらくその可能性は低いでしょう。紫さまは、要人用の秘密通路を使用して外に出られた形跡があります。監視カメラの一部も、その姿を捉えておりました」
「え? それじゃあ…」
「紫さまが行方を眩まされた理由は見当もつきません。目下近衛隊が調査と捜索を続けていますが…」
「…………」
つまり紫は、自分の意思でどこかへ行ったということか。
でも、どこへ?
「そこで貴方なら何か感じるところがあるのではないかと」
「…俺が?」
「貴方こそ、もっとも紫さまと過ごした時間が長い方ですから」
その言葉に、真九郎は頭を殴られたような気がした。
真九郎の人生において、紫は最も付き合いの浅い知己だ。
だが紫の人生においてはどうか?
騎馬の言うとおり、紫にとって一番長く時間を過ごした存在。
それが―――俺?
考えればそれは明白。
紫と出会って早9年。
父である蓮丈は常に世界を飛び回り滅多に本家にいないと聞く。
母である蒼樹は既に鬼籍に入っている。
ならやっぱり、もっとも長く紫と一緒にいたのは―――。
それともう一つ気づいたことがある。
俺にとっての紫と、紫にとっての俺。
二つがイコールで括れるはずはない。
同一の事象を体験しても、当人たちによって感じ方は違う。
一緒に映画を見ても感想が異なるように。
それは至極当たり前のこと。
なのに、真九郎には酷く新鮮なことに思えた。
どうしてだろう?
分からない。
リムジンは駅前に停車した。携帯で誰かと話をしていたと思ったら、音も無くドアを開け放つ騎馬。
「この近辺で紫さまを目撃したとの情報が入りました。手分けをして探しましょう」
「あの…」
「お心当たりをお探しください」
言いおいて、音も無くリムジンは走り去ってしまう。
ただ茫然と見送ってから、真九郎は頭を掻くしかない。
手分けといっても、あっちはリムジンでこっちは徒歩だ。
機動性に雲泥の差がある。探すにしても、全然公平じゃないじゃないか。
…いや、そんなことはどうでもいい。そうじゃなくて。
「お心当たりといわれてもなあ…」
駅前の繁華街は、真九郎が高校生の時分から馴染みの場所。
紫とともに遊び歩いたゲームセンター。買い物に訪れたスーパー。映画館。ファーストフードやファミリーレストランの数々。
二人で行った銭湯も近くに在るし、星領学園もそう遠くない。必然的に紫の通っていた小学校も近辺に存在する。
それぞれに思い出があった。その全てが心当たりといってもいい。
だけど。
真九郎の足は、自然とそちらを向いていた。
本当の心当たりはどこかと問われれば、あそこしかない。思いつかない。
そこで初めて紫と出会った。
自分が揉め事処理屋としての人生をスタートさせた場所でもある。
―――五月雨荘。