敷地内に足を踏み入れると、静まり返った五月雨荘が真九郎を出迎えた。
常に明かりの灯ることのない四号室はともかく、環の六号室まで明かりが消えている。
まるで建物自体が眠りについたよう。
共同玄関で靴を脱ぎ、真九郎は蛍光灯の光も弱々しい廊下を歩く。
本当に人の気配がしない。
闇絵も環も揃って留守だとしたら、とても珍しいことだ。
足を忍ばせてたどり着いた五号室前。
ドアノブに手をかけて、真九郎はなぜか扉を開けるのを躊躇してしまう。
ためらわせたのは、不安と希望のない交ぜになった感情。
自分でもよく分からない。
ドアノブから手を離し、握りなおす。
それから扉を開けた。
開けるなり、室内へ声を放る。
「―――紫?」
電気も点いていない四畳半。
窓から差し込む月明かりが、蒼く部屋の中を染め上げている。
そのちょうど真ん中あたりに人影が。
「遅かったじゃないか、真九郎…」
紫が、いた。
テーブルの前に腰を降ろし微笑んでいる。
無事なことに安心するより早く、真九郎は眩暈にも似た感覚に襲われた。
月光をまとう紫はとても綺麗だった。
いつも以上に大人びて見えた。
なによりとても儚げで、そう、まるでこの世の住人とは思えないような―――。
「…どうしたんだ?」
紫の訝しげな声が真九郎を現実に引き戻す。
頭を振り、斜めに紫を見る。直視する勇気はなかった。
「それはこっちの台詞だよ。なんでおまえがここに居る?」
「来てはいけなかったか?」
「そうじゃない。誕生パーティをどうして抜け出したのか訊いているんだ」
「…………」
紫は沈黙した。
しかしその表情から、真九郎は、ああやっぱりなと思う。
…いくら秘密の通路を利用したとはいえ、近衛隊の護る会場からそうそう紫が単独で抜け出せるわけがない。
しかし現実に紫は五月雨荘にいる。
ならば答えは簡単。
紫は誰にも告げず行方を眩ましたわけではない。
近衛隊の了解と協力を得て、会場の外へ抜け出したのだ。
つまりは計画的犯行。
そして、おそらく、その最先鋒を務めたのは。
「騎馬を責めないでやってくれないか? わたしの命令に従ってくれただけなのだから」
真九郎の様子から考えていることを察したのだろう。紫はややバツの悪そうな顔つきになる。
いまさらいわれるまでもなく、リムジンで駅前に来る道々での騎馬の挙動は、真九郎の目から見てもおかしかった。
本当に紫が行方不明になったとしたら、それこそ近衛隊が総動員されるはず。真九郎などが出る幕はない。
だいたい九鳳院は監視衛星さえ使用できるのだ。それで見失う可能性は皆無。
「…酷く疲れたんだ」
「なんだって?」
「あの場所で、わたしの誕生日を本当に祝ってくれる人なんて、ほとんどいない…」
遠くを見るような眼差しをする紫に、真九郎は絶句するしかない。
それは奇しくも、今日の誕生パーティに招かれた真九郎が抱いたのと同じもの。
「だから真九郎に祝ってもらいたかった。ここで。去年と同じように」
紫は艶やかに微笑む。
「…まあ、おまえの誕生会だから別にいいけど」
たっぷり時間をおいて、真九郎はようやくそう返すことに成功した。
本当は全然良くない。
なぜなら。
紫は知っている。
自分の立場も、これからの運命も、何もかも。
それなのにここへ来たということは―――。
「ケーキを持ってきたんだ…」
テーブルの上には白い箱。横にナイフとフォークも用意してあった。
紫が蓋を開けると、苺の載った生クリームのケーキがワンホール。
既に色とりどりのロウソクが刺さっている。
…初めて五月雨荘で誕生会をしたときは8本だった。
いまやその数は二倍に増えていた。丁度16本。紫の年齢と同じ。
気づいたとき、真九郎は紫の対面に腰を降ろしていた。
無言で紫はマッチを擦る。
ぷんと香る燐の匂い。
小さな火が灯されて、月光で満たされた部屋に優しい傘を描く。
ロウソクの炎に照らされるテーブルの前の紫の顔を見て、ごく自然に真九郎は口にしていた。
「…誕生日おめでとう、紫」
「ありがとう、真九郎…」
微笑み、紫はわずかに前かがみになり、流れてくる長い髪を耳の前でつと押さえる。
ロウソクの炎は吹き消された。
一瞬だけ部屋が暗くなり、また月の光が戻ってくる。
真九郎はそのままケーキを切り分けはじめた紫を見守った。
「さあ、どうぞ」
実に1/4を丸々渡されて、ややたじろぐ真九郎。
「いや、まずは紫から食べるべきじゃないのか? おまえの誕生ケーキだろ…?」
「いいから早く食べて、感想をきかせてくれ」
大きな目は、ひたすら真剣な色を湛えていた。
それ以上逆らえず、真九郎はフォークでケーキを一口。
生クリームは甘すぎず、重すぎず。されど滑らかな舌触り。
ややスポンジは固めだったけれど、サンドされたフルーツと良く合っている。
「…美味い!」
思わず真九郎は小さく叫んでいた。
考えてみれば、パーティ会場ではほとんど何も口にしていない。
実に丸半日ぶりの固形物はすこぶる胃に染みる。
それを差し引いても、美味しいケーキだと思う。
「そうか、良かった…」
微笑みながら脱力する紫に、真九郎はケーキを見直した。
派手なデコレーションのないシンプルなデザイン。
一見ではそう思ったけれど、よくよく見ればクリームの塗り忘れや、ケーキの高さも歪つだ。
これは明らかに専門店で作られたものではない。素人が作ったもの。
「…もしかして、紫が作ったのか、これ?」
「うん。何回も練習したけど、どうやら上手く出来たようだ」
そういってから、紫は自分のぶんのケーキにようやくフォークを伸ばす。
「…ふむ。我ながらこれは美味いな」
味見してなかったのかよ…。
苦笑しつつも、真九郎はたちまち自分のぶんを平らげる。
「お代わりはどうだ?」
「いや、もう十分」
「それじゃあ残りは明日にでも食べてくれ。冷蔵庫にしまっておけば大丈夫だろう?」
「ああ、そうだな。そうしよう―――」
真九郎は箱の蓋を閉じて、残ったケーキを冷蔵庫の中へ。
さあ、これでお仕舞い。さよならだ。
正直、胸が締め付けられるよう。しかしこれが真九郎の望む流れ。
「なあ、紫」
送っていこうか。
振り向いてそう口を開きかけた矢先、紫の静かな瞳とかち合う。
「真九郎。話があるんだ」
「俺は、ないよ」
「………」
「ほら、誕生会もやって、もう気が済んだろう? そろそろ帰らないと騎馬さんも心配して」
「おまえは最近、わたしを避けてないか?」
咄嗟に真九郎は反応できない。
紫の口にしたことは紛れもない事実。
ここ数ヶ月もの間、紅真九郎は九鳳院紫を避け続けていた。
紫がじっと視線を注いでくる。
沈黙に先に耐えられなくなったのは真九郎のほう。
「…色々と、忙しくって」
「それは嘘だ」
しまった、と思ってももう遅い。
紫は嘘を的確に見抜く。
「なあ、真九郎。わたしと一緒にいたくないなら、それはそれで構わない。でも、その理由を教えてほしい」
「…………」
真九郎は答えられない。
避けてなんかいないと言い張っても、通用しない。紫相手に、ごまかしは許されない。
その沈黙をどう解釈したのか。
紫は顔を伏せた。
「もしかして、わたしに至らない点があったか? なにか真九郎を不快がらせるようなことをしてしまったのか?」
顔を上げる紫のすがりつくような目。
真九郎の頭の奥が冷たくなる。懐かしい目だ。
そんな目をさせてしまうことが辛い。
そんな目で見られることはもっと辛い。
―――だって、紫に落ち度はないんだから。
「…そんなんじゃないよ」
「では、どうしてわたしを避けるんだ?」
その声音も、昔聞いたものに酷似していて、真九郎を惑わせる。
―――わたしは真九郎が大事だ。大事なのだ。
おまえがいてくれないと、わたしは、どうしていいかわからない。
どうして生きたらいいか、わからない。
どうして生きているのか、もう、わからない…。
一語一句思い出せる。
あの言葉が、ずっと真九郎を支えてくれた。
死地に挑んで生還するたびの、最後の命綱でもあったように思う。
だが、それも過去の話だ。
あれから何年過ぎたと思っている?
もう紫も一人前。
少なくとも、真九郎の助けなど必要ない。
自分の人生を生きられるはず。
だから。
「―――紫は、もう俺なんかと関わらない方がいいんだよ」
真九郎は言った。
告げてしまった。
自分のことを慕ってくれるのは嬉しい。
紫と一緒に過ごす時間は楽しい。
だけど。
だからこそ。
紫のためになる決断を。
「そもそも俺たちは身分からして違うだろ?」
片や、日本屈指の大財閥の令嬢。
片や、どこの馬の骨とも知れぬ揉め事処理屋。
本来、この二つを結ぶ接点など存在しない。
存在してはならない。
だが、人の出会いとは数奇なものだ。
いつなんどき、どんな展開で何者と出会うのか。出会って見るまでわからない。
それは神の悪戯か。それとも悪魔の気まぐれか。
確かなのは、人の思惑を超えたところで縁は結ばれるということ。
こんな二人が今まで一緒にいられたのは、もうそれだけで奇蹟。
これからも一緒に?
それは無理だ。ありえない。
いつまでも一緒に幸せに暮らしました―――なんてのが許されるのは、夢物語か御伽噺の世界だけ。
「…それは、真九郎の本心なのか?」
「…………ああ」
頷く。
だからこれで終わり。
夢は覚めて当たり前。物語は永遠に続くはずもなく、いずれは幕は閉じられる。
少しだけ後味が悪いかも知れないけれど、楽しかった日々の対価としては十分すぎるだろう?
さあ、紫、帰るんだ。送っていこう…。
しかし。
「…紫?」
紫は動じない。怯んでもいない。
月明かりに染められた部屋で、むしろ傲然と真九郎を見返してくる。
「正直に本当のことを話してくれ、真九郎。わたしに悪いところがあるなら直す」
「だから、俺は正直に話してる」
「違う。おまえの本心は別のところにある」
「なにを馬鹿な…」
「さっきの台詞は、半分は本当で、半分は嘘だ」
断言されて、真九郎の中から血の気が引いていく。
「わたしのため? それは確かに嘘じゃない。
だがな、真九郎。
「……!!」
ずばり指摘され、真九郎の中でざわりと蠢くものがある。
それは、もっとも心の奥底にしまいこんだ感情。
決して紫には見せられない汚れた部分。
「ははは、なにいってんだよ、俺は嘘なんか」
「紅真九郎!」
紫の、目の覚めるような一喝。
反射的に真九郎は背筋を伸ばしていた。
「どうして、わたしに本当のことをいってくれない?」
次に紫が示した言葉も態度も、むしろ穏やかなもの。
なのに、真九郎は我知らずあとずさっていた。
狭い部屋だ。すぐに壁に突き当たる。
もう下がれない。
なのに、紫の方が近づいてくる。
紫は語りかけてくる。
―――おまえは何を恐れている?
―――真九郎が本当に恐れているものはなんだ?
これは悪夢か。
真九郎の喉が引き攣った。
言葉にならない言葉が迸る。
…触るな。
頼むから、触らないでくれ!
紫は優しく首を振る。
「わたしは、おまえの本心が知りたい」
伸ばされる腕。頬に触れる掌の感触。
柔らかくて、少し冷たくて、心が落ち着いていく。
落ち着いて、冷めた血がまた昇ってきた。
そして―――弾けた。
破壊的な衝動が全身を駆け抜ける。
任せてしまえという意識と抗う意識がぶつかりあう。
その果てに、真九郎は紫の胸倉を掴み上げる。
「………どうして」
どうしてどうしてどうして。
どうしてこうおまえは、俺の深い部分に触れてくる!?
なぜ、そっとしておいてくれない!?
叫ぶ。
怒りの声にも似て、泣き言ですらない。
ただただ、卑屈な声は止まらない。
知らなければそれでいい。
知ってしまえば後戻りが出来ないこともある。
なのに、なぜ知ろうとするんだ!?
「そんなの決まっている」
爪先立ちで宙に浮きながらも、紫は苦しそうな表情すら見せなかった。
その目に宿る色は、卑屈という表現の対極にあるもの。
「わたしは真九郎が好きだ」
なんのてらいもない真っ直ぐな言葉が、真九郎の胸を突き刺す。やすやすと貫通していく。
「好きな人のことはもっとよく知りたいと思う。当然のことだろう…?」
真九郎の手から力が抜けた。
紫の瞳。浮かべる表情。既視感。
懐かしさに包まれ、身体を支配していた凶暴な衝動が抜け落ちるのを感じる。
それは真九郎を巻き込んだまま、現実と回想の狭間に落ちて行く。
空港でのテロ事件のトラウマで真夜中に飛び起きた真九郎に、恐れることなく相対してくれた小さな紫。
ひたすら優しく真九郎の話を聞いてくれた。
真九郎を理解してくれた。
真九郎の存在を受け入れてくれた。
あの時の真九郎はまだ高校生で。
紫は奥ノ院から出される前。
二人が一緒に五月雨荘で暮らしていたころの記憶―――。
…あの時と、紫はちっとも変わっていない。
場所だって、五月雨荘のこの部屋から変わっていない。
すると―――変わったのは俺の方か。
「…うっ、く」
ずるずると真九郎はその場にへたり込む。
鼻の奥から塩辛いものがこみ上げてきて、喉に詰まった。
目からもこぼさないようにするだけで精一杯。
情けないなと思う。
みっともないなと思う。
だけど、溢れ出した感情は止められない。
ふわりと覆いかぶさってくる紫の身体が、それに拍車をかける。
「さあ、話してくれ、真九郎…」