もっと短くまとめたい……
早坂愛はその日、いつもの様に起床して、いつものルーティーンを済ませた後、いつもの様に出勤し、いつもの様に仕事をしていた。
そしていつもの様に主人の朝の手伝いをしようとする段になって、いつもと違う事に気が付く。
かぐやが一声かけてこないのだ。
彼女はいつも七時ごろに起きて、早坂を身の回りの準備をするために呼びつけるのだが、今日の部屋はしんと静まり返っている。
まさか寝坊した訳でもあるまい……。
「失礼します」
少し躊躇しつつ、主人の自室の扉に手をかけた。重厚そうな見た目に反して滑らかに開いた扉の中に体を滑り込ませて、さっと後ろ手に閉じる。
かぐやが眠っているベッドには、天蓋から垂れ下がるカーテンがいまだかかったままだ。いつもならそこから出て窓の外を見ながら、
「おはよう早坂」
と言って着替えの手伝いをさせるのが常というのに。
不審に思いながらカーテンに手をかけて一気に開き、わがままな姫の眠りを妨げる事にした。真っ暗な天蓋の中に朝日が差し込んで、中の姫様は「うぅ……」と気力の無い声を漏らす。
「かぐや様、起きてください。お目覚めの時間です」
布団を引っぺがしても良かったが、まだ時間に余裕はあるのでそういう可哀そうな事はしないでおくことにした。
「は~や~さ~か~……」
……これは不味い。
早坂は普段のかぐやから退化著しい甘えた声が出て来たので、過去の経験に照らし合わせて一つの結論に至る。
彼女はサイドボードの一番下から体温計を取り出して額にピッとした。
【38.2】
風邪である。
完膚なきまでに風邪である。
もともとかぐやという少女は見た目に違わぬ繊細さの持ち主で、季節の変わり目などには体調を崩しがちであった。
とは言え今は温かくなっていく季節柄。秋冬ごろならまだしも、今の季節に責任は少ないと思われた。
となると別の原因があると考えるのが自然で、そして直近に体調を崩しかねない出来事があったのを早坂は身をもって知っている。
会長から『車に乗せてくれ』の一言を引き出すために、雨の中で彼の登場を待っていた事だ。
結局、雨で視界の悪い中だったので彼は四宮かぐやに気付く事なく、自転車が跳ね上げた水を引っかけた事にも気付く事なく、ただただ雨に濡れた哀れな少女を生み出してしまうだけに終わったが。
その際に冷えた体のダメージを回復できずに、今こうして風邪という形で四宮かぐやに纏わりついている。
何ともアホらしい結論であった。
「まあ、こうなる事も読めてましたよ」
「だったら……もっとはやく……とめてよぉ……」
「……私も今日は学校休みますから。お粥でも作ってきます」
天才のくせしてその当然の帰結に至れない訳がないのだが。
しかし四宮かぐやは白銀御行に恋愛頭脳戦を仕掛ける時に若干アホになるという特徴があり、今回もその例にもれず防雨対策を怠った結果、風邪をお召しになられる羽目に会ったという、何とも不名誉な事実のみが残ってしまった。
とすれば、早坂に出来る事と言えばさっさと風邪を治してもらって、恥の上塗りをしないように手助けするほかない。
ポンポンと掛け布団の上から胸元あたりを叩いて席を外す事を伝えると、きゅっと袖を引かれた。
「いやだぁ……そばにいてょはやさかぁ……」
「普段からこれ位可愛ければいいのに」
ベッドの上にしどけなく放り出された黒髪に、うるうると潤んだ心細そうな瞳が、彼女が弱っている事を言葉はなくとも伝えてくる。頬に差した赤みが端正な顔立ちと合わさって不思議な色香を放っていた。
こんな顔を見せたらどんな男でもイチコロに違いないと思うのだが、そこは彼女の自意識が許さない。
寝ぐせでくしゃくしゃになったかぐやの髪を早坂は指で梳きながら、いつもこういう時に学校に連絡させる部下を呼んだ。
別に自分でやっても良いのだが、声色を変えているとはいえ聞き慣れた生徒の声だ、察しの良い教師なら『どうして早坂が四宮の休みの連絡をするんだ?』と思い至る事は難しくないだろう。だったら最初から別人にさせていた方が確実だ。
早坂はかぐやが休みという連絡を任せて、自分の休みの連絡は自分で行った。
こほこほ、とわざとらしくせき込んで体調の悪い自分を演じる。
「もしもし……二年A組の早坂です……今日は――
*
「お休み、ですか?」
昨日、直接声をかけずに帰ってしまった事を謝りに行こうと二年A組に顔を出した五条美城は、早坂の友人二人からの言葉をそのまま返した。
「そう。愛ちゃん何か風邪ひいちゃったんだって」
「まあ昨日雨だったし、濡れて帰ったんじゃない?」
「そうでしたか……」
美城は窓の外、四宮別邸の方向に視線を送る。
顎に手を当てて考え込む姿は、どこか技巧めいたものがあるような気がしたが、その瞳に宿る慕情を感じ取れた。
まあかぐや様が風邪をお召しになられて、看病の為に愛もお休みをとったのでしょうけど。
受け取り側が勝手にそう思っているだけで、当の本人はこんな事を考えていたが。
彼女を心配する気持ちが無いのか?
いやいや、早坂という少女があんな雨で体調を崩す訳がないという信頼だ。
「それでさー、今日の分のプリントとか、ノートのコピーとか取っておいてあるんだけど」
「五条君が届けてくんない?」
「私が……?」
「他に誰が行くの?」
「なーんか早坂も昨日言いたい事がありそうだったから会ってあげなよ」
はい、と言って二人は美城に紙袋を手渡してきた。ペラペラと指先でそれを弄ぶと、懐にしまい込んで、「分かりました」と笑顔でそう言った。
その表情を見て何か肩の荷が下りたように二人は伸びをした。そして、何かを思い出したかのようにニヤニヤとして、漢らしい所の全くない転校生の顔を眺める。
「あ、弱ってるからってエッチな事しちゃ駄目だからね」
「しませんよ。何ですか急に?」
「でも早坂が怒ってるのって、二位取って調子に乗った五条君が何かいかがわしい事をお願いしたからってもっぱらの噂だけど」
「えぇー……」
――
「って言うんですよ? 酷いと思いませんか?」
「なんでそれをわざわざこっち来て言うんですか?」
放課後になると美城の姿は四宮別邸にあった。
部活動を二日連続お休みするという罪悪感は、さすがの彼にも無きにしも非ずと言った所であったが、今の所は差し迫った用事は無いのでこうして彼女の御見舞いにも行けるという物だ。
美城の予想通り、別邸の門を開けてくれたのは風邪など引いた様子は微塵もなく、元気な様子で職務に励む彼女の姿だった。
真っ新なワイシャツに袖を通し、襟元に巻かれたスカーフをアクアマリンが輝くピンで留めて、簡素であるが質素ではないエプロンドレスが腰回りからひざ下までを覆っている。
秋葉原で見られるメイドなど鼻で笑って吹き飛ばすくらいの完璧なメイドであった。
ただのメイド好きが彼女にオムライスへ『♡』と書いてもらうためには云百万円はかかる事だろう。
チェキしたらそれが現世最期の思い出になるような
「駿河さんと火ノ口さんからこうしてプリントを預かってまいりましたし」
「……とりあえず入って下さい。誰に見られているとも限らないので」
「まあ。男を連れ込むなんて愛ったら悪い子ですね」
「……」
ウィィーン……(正門が閉まる音)
「ああ! 無言で閉めないでください!」
「今度言ったらつまみ出しますからね」
「鮭とば」
「誰がおつまみを出すと言ったんですか!」
「つまみ、出すと」
「……」
ウィィーン……(正門が閉まる音)
「ごめんなさいごめんなさい閉めないで」
「本当にこの人は……」
総工費一千万円はかかった門での漫才は美城が頭を下げる事で終わった。観客はカメラの向こうにいる監視とすぐ傍で庭木の刈り込みを行っていた庭師である。
「ではどうぞ。四宮家当主に代わり歓迎いたします」
「ありがとうございます。そう言えばかぐや様のご容態の程はいかがでしょうか?」
四宮別邸は東京でも有数の豪邸であるが、自身もそれなりの家に住む美城は何ら臆する事なく足を踏み入れた。
「普通に風邪と言った所ですね。よっぽどの事が無い限り明日には学校に行けると思います」
「それは良かったです。あ、これお見舞いに持ってきました。愛から渡しておいてくれますか?」
「自分で渡せばいいじゃないですか」
「恐らくこの後に会長がお見舞いに来るんです。そちらが最初の方がかぐや様も嬉しいでしょう?」
「それもそうですが、そんな事は気にするだけ無駄という物ですよ」
「それはどういう……?」
「着きました。まあ見れば分かります」
豪奢な扉が並ぶ別邸内でも特に立派な扉の前で、早坂はコンッと軽くノックして中からのうめき声を聞くと先に室内に入って行き、その後ろに続いて美城はそっと音をたてずにかぐやの部屋に入る。
毛足の長い絨毯が床中貼られて、窓際には天蓋付きのベッド。壁際には海外製のデスクが重々し気な顔をして鎮座していた。一目で相当な令嬢が住んでいる事が分かる部屋だった。
部屋の主はそんな優雅な部屋の作りとは裏腹に、ベッドの上で芋虫のように丸くなってうーうー唸っていたが。
「はやさか~はなびするぅ~」
いつものクールな佇まいからは想像も出来ない、鼻にかかったような甘い声でどう考えても今じゃない事を口走った。
四宮の姿か? これが……
知能を落とされ、体調を崩され、予定を潰され、風邪を認めぬ醜さ
生き恥
なお熱が下がると全て忘れるためかぐやは恥を感じる事が無い模様。
「ご覧の通りかぐや様はお風邪を召されますと著しくアホになってしまうのです」
「赤ちゃん返りみたいなものですか?」
「まあ、そうで無いとは言い切れませんね」
「じー……」
「どうされました? かぐや様」
美城が早坂と話していると、ベッドの上にちょこんと収まったかぐやは布団に顔を半分隠しながら、じいっと白い頭を眺めていた。
それに気が付いた美城は膝をついてかぐやの視線に合わせ、優しく微笑みながら自分とは少し異なる黒みがかった赤い目に問いかける。
「ぅー……」
「かぐや様?」
「ごじょーくん だ!」
「はい。そうですよ」
「え! なんでうちにいるの!?」
「今日は私、お見舞いの為に立ち寄らせていただき……」
「はやさかのおよめさんになったの!? わたしきいてない!」
「「違います」」
二人の声が綺麗にハモった。
「せめてお婿さんと言ってくださいませんか」
「あなたも何を口走っているんです?」
「じゃあはやさかがおよめさん……? やだぁ。まだむすめはよめにやらんー」
「かぐや様―? 絵本を読んであげますよー?」
「よんで!」
「これで四回目ですけど……」
「ホントお疲れ様です」
うきうきと嬉しそうな主人とは真逆の、早坂はくたびれた顔をしながら『ねむりひめ』の絵本を取り出した。
十七歳にして育児疲れの境地に一歩踏み入れている彼女であった。
「では昔々……」
【ピンポーン】
「おっと、来客です」
「そのシュシュにそんな機能が……!?」
青いシュシュが突然インターホンの音を鳴らした事に美城は軽い戦慄を覚えた。
機械に詳しいって言っても限度って物があるじゃん……。
そんな感じの事を思われているとは露知らず、早坂はカメラと繋がっているタブレットを取り出して来客の姿を検めた。
「あらまあ……」
「どうかしましたか?」
「会長です」
「遅かったですね。今日は生徒会活動は無いと、そのような事を言っていましたが」
「何かあったんでしょう」
「千花?」
「きっとそれです」
信頼と実績のある決めつけが藤原を襲う……!
「この姿のままではバレてしまうので少し変装を」
「分かりました。私は……」
「はやさか~ほんよんで~」
「……みぃは私の代わりに本を読んでてください」
「はい……」
ぐずぐずとぐずりそうなかぐやを任せるのは早坂にとっても心が痛むが、来客を誰かに任せるのも四宮別邸を任されている者として許されざる行為だ。
ねむりひめの絵本を先に美城に渡しておく。シュシュを取って髪を下ろし、クローゼットの中からカチューシャを取り出して頭に乗せる。これだけでも印象が随分と変わるが、瞳が変わらないのですぐに四宮のメイドと早坂愛を結び付けられてしまうだろう。
カラコンでも入れて印象を変えなければ。出迎えの為に正門へ向かう道すがら、洗面台に向かう事にした。
「ではかぐや様、みぃが本を読んでくれますから、大人しくしていますか?」
「は~い」
「いい子」
「私はこの恰好のままでいいのでしょうか?」
「えー……、クローゼットの奥に私のウィッグがあるので、適当に髪色を変えてください」
「分かりました」
そう言って美城が頷いたのを見て、早坂は少し急ぎ足で部屋を飛び出した。何もないとは思うが、念のためにかぐやの部屋の前で待機するように一番近くにいたメイドに言ってから正門に向かう。
途中、洗面台の置いてある部屋に入ってカラコンを並べて品定めした。
一に自分の瞳とは真逆である色の赤。
二に普段より穏和な印象を与える濃い青。
とりあえず一の方のカラコンを付けてみた。
慣れた手つきで瞳に赤色を収めると、一瞬だけぼうっと視界が歪むが、慣れるといつも通りに見えてきたので鏡を見てみる。
四宮の従者が瞳に入れるのだ、そこらで買えるような安物ではないカラコンは、まさしく宝石の様に輝いて異彩を放ってみえた。
これなら普段の自分と今の自分を結び付けられる人はそうそういないだろう。
もう一つを試すまでもない。
……と思いながら鏡を見つめていると、ふと鏡の中の少女の目じりが下がって尖った印象を和らげた。
その温かい日差しのような瞳の色をした女を、早坂はそっと指でなぞった。
「おそろい……」
……
いや、いや、何を考えているんですか私は。
変装の為とは言え、彼みたいな緋色を瞳に収めようなんて。
これではまるで私があの人に並々ならぬ興味を持っているみたいじゃないですか。
あまりのバカバカしさに、ほどけていた厳しさが一気に引き締まり、穏やかだった目元は彼女本来の宝刀のような鋭さを取り戻す。
さっさと相貌に輝く赤いコンタクトを取り出して、もう一方の濃い青を入れなおした。
パチパチと瞬きして鏡を見ると、大人しい青色の水面がどこかゆっくりとこちらを見つめていた。
面白味は無いがこれでよし。
変装にバタバタしたとは言え、少し客人を待たせ過ぎた。白銀御行にそのあたりの機微は分からないかもしれないが、他の秀知院生だったら一つまみの皮肉を会話の端々に織り交ぜられるかもしれない。それくらいの時間だった。
『お待たせ致しました。どうぞお進みください』
――――
これが噂の四宮別邸……ネットの記事で見た事あったけど実際すげえな……
正門の前で少々の待ちぼうけを食らわされていた白銀は、しかしそんな事も気にならなくなる程に、目の前の豪邸に見入っていた。
どれくらい前の建物なのだろうか。どこかが汚れたりしている訳では当然ないが、さりとてその磨き上げられた白亜の壁からは時代を経た名優のような重々しい威厳を感じさせた。四宮の関東の城としての一面もあるのだから、そのような建築に見慣れた者も唸らせなくては意味が無い。
そこに来た家賃数万の安アパートに住む白銀である。圧倒されっぱなしになるのは仕方のない事だった。
ポ●リやゼリー飲料は失敗だったかもしれん。ここくらいは藤原に頼っても……いや、調子に乗りそうだから悪手だな。こういうのに詳しそうな五条は早坂さんのお見舞いに行っているらしいし。
「かぐや様のご学友の白銀様で御座いますね」
考え事をしながら歩いている彼の耳に、凛とした声が飛び込んでくる。少し、日本人には聞きなじみのない訛りが耳朶を打った。
落としていた目線を上に挙げると玄関の前に一つ人影があった。金髪の小柄な、少女と言って差し支えない人だ。近眼の白銀でも顔が確認できるほどの距離に近づくと、大きな瞳に深い青が宿っている事に気が付く。
その人はエプロンドレスの裾の辺りを摘まむと、少し持ち上げて優雅な礼をした。
「四宮家当主に代わって歓迎いたします。わたくし、かぐや様のお世話係を務めさせて頂いております。スミシー・A・ハーサカと申します。以後お見知りおきを」
メイドさんだ!!
うおおお、と内心で上流階級のリアルなお世話係の登場に驚きと良く分からない興奮を覚える白銀だった。
映画の中でお世話係と言えば年輪を感じさせる初老の執事か、はたまた見目麗しい女性と相場は決まっている物だが、四宮家の長女であるからか傍に付けたのは後者だったようだな。白銀は勝手にそう納得した。
「して、本日はかぐや様のお見舞いにいらしたとお見受けいたしますが」
「あっはい、その通りです……」
間近で聞いてみると、日本語の一つ一つ単語を発音する発声法に慣れていないような声使いはより一層顕著に感じられた。
白銀は場違いにも思える場所に来た事と、甘えんぼな四宮かぐやがどんな物なのかという事と、目の前のメイドが外国の価値観でいきなり自分に怒って来たりしないだろうかという三つの緊張感に苛まれた。
「俺、プリントを届けにきただけなので、これハーサカさんから渡しておいてもらえればとか……」
と庶民出の彼が言うのも仕方のない事だったし、
「ここまで来てビビるなよ……」
と言われるのもまた仕方のない事である。
「いえいえ、かぐや様に直接お渡しするのが宜しいかと」
煮え切らない態度の白銀に業を煮やした早坂は、彼の後ろに回って背中をグイグイと押してかぐやの自室に誘う。
早坂にとって部屋に残してきた美城の事は気がかりではあるが、まあ彼はやれと言われたらやる人間であるので、パッと見で五条美城と分からないくらいには仕上げているだろう。そこは付き合いの月日くらいに信用していた。
四宮家と付き合いのあるお嬢様です、と紹介してさっさとお帰り頂けば白銀もさほど不審には思わないはずだろう。
ちらりと白銀の方を確認するが、これから女の子の部屋に入る事で一杯いっぱいの様子。
とりあえず、みぃにはつつがなく帰ってもらいましょうか。
「かぐや様、客人がお見えです」
ノックするが返答はない。
ろくに返事をする気力もかぐやにはないだろうし、美城は美城で他人の家で他人の従者に返答をするのを迷っているのかもしれない。
付けていた侍女からは何も言葉が無いので部屋に入っても特に問題はないだろう。……何だか楽しそうな表情だったのは気になるが。
「失礼します」
「あ、かぐや様、アイ王女が帰ってきましたよ」
「おぅどりーはやさかーん……」
「何を言ってるんですか……」
いきなりかけられた良く分からない言葉に、早坂はふっとため息を吐いて答える。
それを言うならアン王女でしょう。
そして瞬きをすると、遅れていた認識が現実に追いついて、目の前のあんまりな光景にようやく気が付いた。
「……というか何て恰好をしてるんですか、みぃ!」
小さく叫んだ早坂に、美城は小首をかしげて「何が?」とでも言いたげな顔をした。
金髪のウィッグ。これはいい。早坂が身に着けろと言った物である。
青色のカラコン。これもいい。彼の特徴その一は白髪でその二は赤い目であるからそれを隠すのは非常にいい。
黒を基調としたエプロンドレス。これは似合っている。頭にカチューシャも添えてバランスがいい。
金髪碧眼美少女のメイドがもう一人いた。
……?
……いやおかしいでしょう!
早坂は内心叫び声をあげた。
「はやさかーん? それと、みぃというのは……」
すぐ後ろに付いてきていた白銀は良くない真理に辿り着こうとしていた。
これはダメだ。
ずっとひた隠しにしていた事実が、かぐやのアホと彼氏の女装でバレるという事になれば、末代までの恥である。
そうなれば早坂家は私で終わらせる!
悲壮な決意を持って早坂は誤魔化しの知恵を絞った。
とりあえず思いついた事をさっさと口にする。これには美城の方が乗ってくれないと不発に終わってしまうが、絶対彼はこの設定に乗ってくるという確信を抱いていた。
「白銀様、彼女はドイツにいた私の腹違いの妹。ハーサカーンはハーサカのドイツ語読みです。かぐや様は彼女の発音を真似しているだけですので」
「えっそんな事が……」
「Guten tag . ミユキ・シロガネ」
「うわあああ本物のドイツ語だ!」
白銀でも知っているドイツ語と言えば挨拶のグーテンタークくらいの物だが、あえてカタカナで表すなら『グンツァーグ』という発音に絶対ネイティブの人じゃんという思いを抱かせるに至った。
「じゃあみぃというのは。あ……いえ、俺の友人にそう呼ばれている人がいまして」
「みぃ、自己紹介を」
「はい、お姉さま」
「お姉さま!?」
「
いけるか……?
即興の嘘にしては中々の完成度を誇る嘘であったと二人は思っているが、しかし相手は高校生屈指の頭脳を持つ白銀御行である。固唾を呑んで彼がどういう決断をするか、早坂は熱のこもった視線で見つめていた。もしバレたらどうするべきか。
あんたはここで愛と死ぬのよ。
と言って関係各位を末代にしてしまうかもしれない。
「なんだ、ミーアでミィなんですね。いや、変な事を言ってすみません。いいあだ名ですね、はは」
いけたー!
「えー、もしかして口説いてる?」
こうして一つ光明が見えてくると気持ちが楽になってくる。それに美城が乗じない訳が無かった。
くつくつと笑って白銀をからかった。
「え、いや、そんな事は」
「駄目ですよ白銀様。彼女が話すのはイギリス英語なんです」
「それがどういう……」
「これ、何と言いますか?」
このまま愉快な姉妹という方向性で切り抜ける事を決めた。
そう言ってハーサカこと早坂はタブレットの画面を見せる。
真っ赤な身をした丸い野菜。鮮やかな緑色のヘタがついたそれは、
「トマトですよね」
「もっと発音よく」
「トメィトゥ」
「ハッ……(嘲笑)」
「鼻で笑われた……!?」
「No トメィトゥ ミユキ。It`s トマート」
「うわ本当だ! イギリス発音でマウント取ってくる!」
「うぅ……、はやさかぁ~」
「あっ……かぐや様」
「しー、ですよ。しー」
「アッハイ……すみません」
白銀のツッコミの大声にかぐやは反応して、もぞもぞ動きながら一番身近な名前を呼んだ。
早坂は駆け寄り、美城は人差し指を唇に当てて静かにするようジェスチャーをした。何となく釈然としない感じはしつつも、かぐやが心配な気持ちが勝った白銀は押し黙って二人の後ろからベッドの上をのぞき込む。
「はなびさがそうっていったのにごじょーくんがだめって」
「花火? ああ、夏休みが近いですからね。ですがまず風邪を治す事が先決です」
「ふたりのいじわるぅぅ……はなびするぅぅ」
「それよりもかぐや様、お客さんですよ。ね、ミユキ」
「ちょっと妹さん」
「お客さん……?」
「ああ、四宮、調子はどうだ……?」
……
「かいちょう だ!!」
かぐやのぽわぽわーんとした瞳が急に焦点を結んで、白銀の姿を見つけると風邪にあるまじき声を出して驚いた。
「かいちょうもうちにすむの!? きいてない!」
「住まない! 住まないから!」
「では後は若い者どうしで……」
「妹さん!? それ使い方間違ってますよ!?」
役立つ情報を教えてくれそうにないハーサカ妹の方は諦めて、白銀はハーサカ姉の方に助けを求めた。
「ハーサカさん。話には聞いてましたが、これって一体どういう……」
「いいですか白銀様、今のかぐや様は普段の理性を失ったただのアホです」
「アホ!?」
「病気が治ったら今の事なんかすっかり忘れてますよ。酔っ払いと同じですね」
「いやそうはならんやろ……」
なっとるやろがい!
「あ、私達これから仕事があるのでこの場を離れないと」
「白銀様、かぐや様のお相手をお願いします」
「わかりました」
二人は顔を見合わせて短く意思疎通を図ると、白銀とかぐやを二人きりにする事で同意した。従者スピリッツが流れている美城と早坂にこれ位は朝飯前だった。
美城のスピリッツは後乗せ添加物だったが。
「いいですか? この部屋には三時間ほど誰も入りませんが、ええ絶対に誰も入りませんが、変なコトをしては絶対にいけませんよ?」
「し……しませんよ」
「かぐや様の記憶は残りませんけど、変なコトしちゃダメデスヨー」
「だからしないって!」
パタン。
両開きのドアを閉じると中の叫びは分厚いそれに阻まれて聞こえなくなった。
「いいんですか? あんな煽るような事言って」
「いいんです。どうせ手を出せっこありませんよ」
「でしょうね。責任感の強い会長の事ですから」
美城は白銀と知り合って一月ほどだが、それでも彼の為人を知るには充分な時間だ。意識が曖昧な女の子を捕まえて酷い事するような人物でない事だけは断言できる。
「それよりもみぃの恰好です!」
「似合っていませんか?」
美城はその場でターンする。スカートの裾がふわりと舞い上がって、黒い色が彼の白い足に纏わりついた。そのコントラストが目に眩しいが、そんな事を言いたいのではない。
「似合ってるのが無駄にうっとうしい……」
「これはですね、変装しようとした際にかぐや様がメイドを呼んでですね、『はやさかのおよめさんにきせてあげて~』なんて言うものですから、勘違いしたあの方が面白がってメイド服を着せてきたせいです」
「断ればよかったでしょう」
「私から早坂と四宮の繋がりが漏れては申し訳がたちませんから。恥を忍んで袖を通す事にしたんです。まさか同級生の男がメイド服を着てるとは思いもしないでしょうし」
「そうですね。思った人がいればその人はとんでもない変態でしょうね」
白銀を連れてかぐやの部屋に戻って来た時に、あのメイドが楽しそうな顔をしていた理由はこれで判明した。
とりあえず責める気はなかった。主人も美城を初めて見た際には女の子と勘違いしたものである。
「あ!」
「どうしました?」
「……着替えが部屋の中に」
「はぁー……本当にあなたという人は」
これでは帰るに帰れない。
もしこのまま帰したら早坂愛という女は、彼氏にメイド服を着せて喜ぶような変態だと五条家の笑い者になる事請け合いだ。
あの姐さん姐さんと慕ってくるこがねでさえも、
『姐さんがそんな人だったなんてガッカリっす。あ、写真あったらください』
と言って失望するに違いない。……失望?
「まあ会長の『お見舞い』が済むまで待っている事にします」
「そうですか」
呆れ混じりにそう言うと、早坂はちょっとだけ行儀悪く壁に背を預けて休んだ。
その壁は『四宮ならば』という物々しい字の書が入れられている額のほど近く。
それに気が付くと少し硬くなった表情で彼女は美城を見る。
人に頼るな、貰うな、愛すな。
その逆を生きる美城には到底理解できそうにない言葉が、整然と列を組んでそこにあるのが不気味ですらあった。
母の五条静花が言った、四宮とは関わるなという言葉に今なら頷いてしまうかもしれない。
「……そうだ。愛に聞きたい事があったんです」
それを誤魔化すように声を張った。
「? なんでしょう」
「愛のお母さまの名前は、奈央で合っていますか?」
「どうして知っているんですか」
「私の母と愛のお母さまは同級生だそうですよ」
「秀知院ですか。当然ですね」
「それで……」
早坂の母親の名前は奈央という確定情報を得た事で、美城の中で疑っていたかった母親の言葉が真実味を帯びて胸の内にわだかまる。
という事は、奈央という女性が当時御付きをしていた四宮の息子を裏切ったという言葉にも重みが生じてくる。そうすると、『早坂愛は四宮かぐやを裏切っている』という母の言葉も、まるっきり無視できる物ではなくなってくるという事だ。
「みぃ、どうかしましたか?」
早坂愛は、気づかわしげに美城の顔を見た。慣れない服に、カラコンまで入れて、どう見ても体が強く見えない彼が体調を崩したのではないか、そういう思いで声をかけてきている彼女に疑いを持っている事を、美城は心苦しく思った。
外面を良く見せるのは簡単だと母は言ったが、やっぱり美城は早坂愛に裏切り者の血が流れているとしても、それを引き継いでいるとは到底思えなかった。
それに、奈央という人もやりたくてやった訳ではないだろうし。
「いえ、何でもありませんよ」
そう言って、美城は胸の奥に『裏切り』という言葉をしまい込んだ。
これを言ったら最後、二人の関係は完全な決裂を迎えるか、はたまた徹底的な敵対に至るか、とにかく今の関係でいられない事だけは確かである。
「ならいいんですが」
少しばかり不服そうな顔をした早坂に、美城はいつも通りを心がけて話題を振った。
「そう言えば、かぐや様のベッド」
「どうかしましたか」
「私も同じ物を使っているんです。いいですよね、あれ」
「うわぁ」
「ドン引き!?」
「当たり前でしょう。あんな姫しか寝れないようなベッドを男が使っていると知って嬉しい女がどこにいますか」
「えー、天蓋付きって良くありませんか?」
「女性が寝てたら、可愛いですよ」
「そうですか……」
物心ついたころから眠る時は天蓋から下がるカーテンを閉め切ったベッドの中で眠ってきたので、その報告は美城にとってショックだった。
その姿を見て、思ったより落ち込まれてバツが悪くなったのは早坂である。
みぃの中では常識なのかも……。
そんな思考が頭をもたげて、空気を換えようと彼女から話題を振りなおした。
「姫……というか、会長を連れてきた時に私の事をアイ王女とか言ってましたよね。あれどういう話の流れだったんですか?」
「あれはどうして愛をデートに誘わなかったのか、というかぐや様のお叱りから、理想のデートの話に及びまして」
「で、ローマの休日ですか」
「そうです。良く分かりましたね」
「教養として昔に見たんです。少しあやふやでしたが」
嘘である。
この女、ラピュタがテレビで放送されるくらいの頻度でローマの休日を見返している。
イタリアに海外旅行に行った際はサンダルを買おうと思っているし、髪を短く切りたいとは思わないが、スペイン広場の階段でジェラートを食べたいという妄想を描いている。
しかし保全のため実際は階段で飲食は出来ない(無慈悲)。
「それでアイ王女はオードリー・ハヤサカーンという話に」
「ではあなたはゴジョー・ブラッドレーですか」
「ふふふ、いいですね」
しばらく見た事のある映画の登場人物を、自分達に置き換えて遊んでいた。
どこかに行けない事が多い二人がする、何とも子供っぽい遊びだった。
「愛」
想像の中でローマを歩いた後である。
「はい。何ですか」
「今度の土曜日にどこかへ出かけませんか?」
美城がさらりと当たり前のように言った。
「いいですけ……ど……。え?」
その言葉に、早坂は特に考えずに肯定すると、ややあってその意味する所を理解した彼女が、目を見開いて隣の彼を見つめる。
つまり、それは、
「デートしに出かけましょうか」
という事になる
「え、でも……えっと」
あまりにも直接的な誘いに、早坂も年相応の少女らしく驚いて、あまりにも芸の無い事に呆れて、それでもどこか嬉しい自分がいる事に戸惑っていた。
「そう重く受け止められると困るのですが……。私は新しい高校で出来た友達と、どこかに遊びに行きたかったんです。それが、愛、あなただったら嬉しい。と言っているんですよ」
「友達……」
言葉にすると何ともこっ恥ずかしい気持ちになる。
しかし、なんとも収まりが良いように早坂には思われた。少なくとも契約に基づく恋人のフリよりは格段に血の通った言葉で、これまでの美城の理解できない所が友情というレンズを通して見ると分かるような気がした。
「どうでしょう?」
美城は装いをまるっきり変えた姿だったが、にこにこと浮かべる笑顔はいつもの彼だった。
そう、いつも通り。無駄に意識していた自分が馬鹿みたいだ。
早坂は笑って、ポツリポツリと言葉を口にする。
「……実は、私は機会があれば普通の高校生みたいな事がしたかったんです。友達と、どこかに遊びに行ったり」
「私と同じですね」
「それが私の色んな事を知っている人なら、なお良いとは思いませんか。面倒な事を考える必要がなくて」
「ここに愛が四宮の一員だという事を知っている友達がいますよー」
「友達? どこにそんな人います?」
「う……ひどいです」
「ふふっ。……そうですね、みぃ今度の休みは空いてますか?」
「もちろんです」
「どこかに連れて行ってください。そして楽しませてください。主人の前で恥をかかされた私からあなたへの罰ですよ」
言っていく内に段々と調子を取り戻してきた早坂は、どこか挑発するように美城に注文を叩きつけた。
その挑戦を待ってましたと言わんばかりに美城は笑みを深くすると、自信に満ちた顔で応えた。
「はい。謹んでお請けいたします」
本日の勝敗 デート編に続く
「……やっぱりメイド服を着たままだと決まりませんね」
「そんなぁ……」
早坂がローマの休日を見ているかは百パー妄想。
けど恋愛にハマったらベッタベタな物にはまりそう。
バック●ンバーとか聞いてると思う。