夏。
そして海。
人々の心をこれほど浮かれさせる言葉が他にあるだろうか。
五条美城はその赤い瞳の奥に、浜辺の光景を映しながらそんな事を思う。
今もこうして蕩けそうな日差しの下でも、能天気な叫び声がキャアキャア聞こえてくる。
波打ち際を駆けまわる子供達。一緒の浮き輪に乗ってぷかぷかと揺られているカップル。
沖まで遠泳し始める海ガチ勢から、砂浜でナンパに勤しむ正に軟派な男達。ビーチバレーをしている女性に、離れた所でスイカ割りをしている大学生くらいのグループ。
様々な海の楽しみ方を見て、美城はふむふむと小さく頷いた。
どんな事をしたら四条眞妃が喜ぶのか、彼の頭の中は大体そんな事でいっぱいだった。
もちろん事前に遊ぶ内容はある程度考えて来ているのだが、状況は刻一刻と変わるので流動性を持たせるために決定はしていない。
そば食おうと思って蕎麦屋に入ったのにカレー食ったみたいな感じで、泳ごうと思っていたけどスイカ割りがしたくなるみたいな事は誰しも起こりうるのだから。
よーし……
/▼益▼\「今日も一日がんばるぞい!」
「何を頑張るというんですかその恰好で」
ぐっと拳を握りこんで気合を入れた美城に、契約恋人の早坂愛は呆れた調子の物言いで彼の目の前に座った。バニラのソフトクリームが浮かんだコーヒーフロートを片手に持って、パシャっと一枚写真を撮る。端っこの方に美城の影を入れて男と来ているアピールも忘れない。
かーっ見んね! 卑しか女ばい!
「それで? 何を決意して何が頑張るぞいなんですか?」
「え、帝国の支配?」
「そんなポップな物言いで!?」
インスタに写真を投稿した卑しか蝶はいつの間にか帝国の支配が強められようとしている事に驚き、呆れてスマホをパーカーのポケットにしまった。そうなれば早坂愛は
「今ちょっと射角が良いので……」
「何するつもりですか何をするつもりなんですか」
「先っちょだけデススターのお披露目を」
「気軽に星を滅ぼすのは止めてください」
早坂はペチッと美城の被っている兜を叩いた。
いなせなシスを連れて来た人が、渚まで支配及んでめっ(滅)!
される所だったとはこの場の誰も知らなかっただろう。十秒前の美城も知らなかったに違いない。彼は雰囲気で会話をしている。
「まあ冗談はこの辺にして」
「ではまずその兜でも脱いでみては?」
夏の海にダースベイダー現る!など、質の悪い冗談だ。
「ですが、そうなると顔を晒す事になるでしょう?」
「何当たり前の事言ってるんですか」
「昔ですね、千花と海に行った帰りに『シロちゃんは海では顔を出しちゃダメですから』と言われたので、抵抗あると言いますか」
「あっ」
その言葉で今はハワイでアロハなホノルるってる対象Fの事を思い出した。
終業式の日に、生徒会室で美城がてんやわんやを演じた後、藤原千花は善意百パーセントで早坂にこう忠告したのである。
『シロちゃん何にもせずに海にいると二秒に一回ナンパされるので気を付けてください』
いやいやそれは言いすぎっしょ。
早坂はカラリと笑ってそう藤原の言葉を一笑したが。
まあ二秒に一回は言いすぎとしても、相当な頻度でナンパをされるには違いない、と彼女は自分の彼氏をどんなに低く見積もっても、されないという結論には至れないでいた。
何しろ可愛いですから。私の彼氏は。
「ではどうするつもりですか? まさか一日中パラソルの下で荷物番という訳にもいかないでしょう」
勘弁してほしい。どんな機密を抱え込んでいたらベイダー卿に荷物を見守って貰えるのか。
秘密か? デススターの秘密なのか?
「もちろんそんなつもりはありませんよ。一日中そんなでは、眞妃様が気にされるでしょうし、海に浸かる以外の事は参加するつもりです」
「そのライトセイバーでスイカを真っ二つにでもしますか?」
「いいえ?」
「いいえ!?」
「スイカ割りなんて下手なほど面白いですから。私は三半規管つよつよ男子なので、十回転したくらいでは真っすぐスイカの下に辿り着く事ができます。それでは面白くないですよね。愛も目を回さないでしょう?」
「家庭の事情で」
完璧な従者を作るための、早坂家に伝わる訓練の一環だった。そんな特殊な事を施しているのは早坂家かゾルディック家かと言った所である。
「二人ともー、浜に出るわよ」
昼食を終えて一休みした丁度いい腹心地になった所で、眞妃は海の家の入口から大きく手を振って美城に呼び掛けた。見た目があまりにもあんまりなので、眞妃達に離れて座る様に彼が言ったのだった。
「眞妃様、今参ります」
すっくと黒の装いが立ち上がると、美城の周りはざわざわとし始めた。視線を集めている事を感じた彼は胸元に組み込まれている赤色のボタンを押した。
ダーンダーンダンダーダダンダーダダン♪
遠きものは音に聞け。これが遠からず世界を覆いつくす帝国のマーチであると……
「止めなさい」
「はい」
すぐやめた。
外に出てみれば夏の日差しは相も変わらず厳しく、じりじりと肌を焦がしそうな熱線は無遠慮な程に肌に突き刺さる。
まず美城がしたのは前線の陣を敷く事、つまり浜辺にパラソルを立てる事だった。
パッと赤青白のトリコロールが花開くと、美城の母が彼の為にこしらえたパラソルは、普通のビニール製のそれと違って濃い影が砂浜に落ちる。
「ビーチバレーをしましょう」
その影の下で前線基地を無碍にするような事を我さきに言ったのは美城だった。
日焼け止めを塗りなおしている眞妃は、怪訝そうな顔をしながらガチガチの重装備に身を包んだ発言者の方を向く。
「そんな重そうな恰好をして何言ってるの? 正気?」
「正気も正気です。クラスマッチではずっとセッターだったので私も攻撃したいのです」
「眞妃さんの言葉を借りて言いますけど、とてもスポーツをするのに向いてる恰好にはみえませんけど」
「大丈夫です。私にはフォースの導きがあるので」
「いやそれアナキン」
美城の言う事やる事に乗っかりっぱなしだった白銀と翼両名も、さすがに心配したように目線で『やめとけ』と言っていた。
「ま、ちょっとやってみましょうか。無理だと思ったらすぐ言うのよ」
「はい眞妃様。感謝いたします」
あまりにも反対されているのを不憫に思ったのか、眞妃はダメで元々みたいな心境で美城の肩を叩いた。
「コートは?」
「もちろん取ってあります」
相変わらず根回しが早い。
かぐやは感心するどころか彼の掌の上なんじゃないかと不審な目で、黒い兜をかぶった彼を見ていた。早坂はそんなこの夏後手に回りがちな主人を見ると思う事がある。
最初に言った人の発言権が大きくなりがちなのは、集団の常という物ではないでしょうか。だから一番にぶっ飛んだ事を言う書記ちゃんを誰も無視できない訳ですし。
とある大統領はこれを物事は最初にナプキンを取れる者が決めていると評した。とある書物では拙速は巧遅に勝ると説いた。
速さは強さである。
コートに着くと皆で軽く手首足首を回して準備運動し、邪魔になりそうなので上に羽織っていたパーカーを女性陣はするりと脱ぎだした。
下に着ているのが水着と分かっていてもドギマギする瞬間だ。一番いいパターンだし一番エロいやつであった。
パサッとパーカーを砂がかからないようにベンチに置くと、それぞれが着て来た水着が露わになる。
眞妃は少し落ち着いた印象の、深いエメラルドグリーンのビキニを身に着けている。小顔ですっきりとした首のラインから始まる細見のプロポーションは、無駄な肉が全くない芸術の巧緻の極みと言って差し支えない。
エメラルドグリーンの水着が派手さはなく、楚々とした眞妃の美しさを際立たせている。腰に巻いたパレオが翻り、ちょっとしたドレスのような可憐さがあった。
かぐやが着ていたのは、彼女の清楚な立ち振る舞いの印象から少し外れた赤いビキニである。
艶めく黒髪に白い肌、からの真っ赤なビキニは視認性抜群であった。ひらりと赤いパレオが舞った時、かぐやは苦々しい顔をして眞妃の方を見ていたが。両者を知る人は大体、二人は似ていると言うが、何も水着のチョイスまで似つかなくてよかろうに。
魂が双子のレベルで似ているかぐやと眞妃は、そのプロポーションもよく似ていた。
すらりとした肢体にくびれたお腹。以前かぐやは水着姿で会長を悩殺すると息巻いていたが、その自信に見合うだけの物は持ち合わせていた。
早坂愛が着ていたのは、シンプルな黒ビキニだった。
シンプルとはいえ、いやだからこそ素材の持ち味がそのまま出る強気なチョイスである。
キラリと光る黄金の髪が、サファイアの目を引き立たせるようにたなびく。真っ白な肌のその上を、真っ黒なビキニが覆っていた。
かぐや・眞妃と比べて、やや肉の付いた体。黒の水着が覆う胸は、掌サイズのちょっと小ぶりなふくらみで、うっすらと割れた腹筋がくびれたウエストをさらに引き締まった印象に見せる。
白と黒のコントラストが目に毒なほどで、早坂愛という少女を過不足なく魅力的に見せていた。
早坂は絶対的に言うと貧乳である。
であるが、眞妃とかぐやしか女子がいないこの場においては相対的に巨乳であった。
これをおっぱい相対性理論という。
僅かながら勝ち誇った笑みを浮かべた早坂は、ふふんと鼻を鳴らして胸を張った。
ふよん、とちょっとだけ揺れた。
あーダメダメ! エッチすぎます!
眞妃とかぐやの想いが珍しく一つになって早坂の胸元に目線を送ると、不穏な空気を感じた彼女はこの場の誰よりも大胆な物に身を包んでいる彼氏の背中に隠れた。
片手でポンポンとリフティングしていた美城は急に背中に張り付かれてボールを落とす。『?』と首を傾げつつも、皆の準備が完了した事を確認すると、足でボールをけり上げて胸の前で掴んで言った。
「では私と愛のペアでお相手します。眞妃様、好きなコートをお選びください」
「じゃあ日光を背にする方を貰おうかしら」
美城と早坂がペアになるのなら、眞妃は翼と組むのが自然の成り行きである。
だから仕方ないですよね、とかぐやは自動的にペアとなった白銀にこそこそ目線を送った。白銀もこそこそ視線を送っていたので二人の視線はぶつかり合い、それに気が付きサッと視線を反らし合った。
じれってーな。俺ちょっとやらしい雰囲気にしてきます。
「みぃ、ホントに大丈夫なの?」
「まあ見ていてください」
仮面の下ではいつものような余裕の笑みを浮かべているのだろう、という事が、伊達に彼女はしていない早坂はすぐに思い至る。
心配を払うように美城は上げたボールを軽やかに打って相手コートに返した。
狙われたのは翼の方である。だが一学期最後に行われたクラスマッチはバレーで、そのカンはまだ鈍っていない。真正面に来たサーブを丁寧にレシーブした。
「翼くんナイスー」
運動部のように眞妃は彼の事を短く褒めると、落下点に入って攻撃しやすいよう高くトスを上げた。
一、二、心の中で数えながらここだと思ったタイミングで踏み切った。しかしここはビーチである。予想していたよりも上手く踏み込めず、ジャンプの高度も足りず、腕の振りも足りない中途半端なアタックがへろへろと相手のコートに返って行った。
「ごめんマキちゃん」
「次で取り返し【バァン!】ましょう……え?」
「これが私の力です」
速さは強さである。
眞妃と翼のコンビは速攻で突き刺さった美城のスパイクにぽかんとして見入っていた。
美城は、翼が返した弱いチャンスボールを、そのままダイレクトに打ち返したのだ。2アタックですらない1アタックであった。
何の競技をやっても代表入り出来る、と評した鹿苑こがねの言葉を早坂は改めて思い出した程であった。でもその格ゲーの勝利カットインみたいなポーズはムカつく。
「あの子が天才だった事を忘れてたわ」
「授業では全然攻撃してなかったけど、バレー部並みだよ」
「これでご安心頂けましたか?」
「ええ。もう遠慮なんてしないからね」
「望む所です」
「いや私の意見も聞けだし」
「何よ心配性ね。美城が動けるか心配だったけど、その心配はいらないからここからは普通に遊ぶだけじゃない」
「あ、そういう? 言葉が強いんだよー四条さんって」
好戦的な言葉の割に、生じる変化は微々たる物のようだ。美城ナメ郎モードからナメないモードにマイナーチェンジを果たした四条眞妃は、翼からボールを受け取ってサーブの準備をした。
パンッと柔らかめの打球音から放たれたサーブは、ゆっくりと山なりで早坂の方へ飛んでくる。落下点に足を運んでアンダーで迎え撃とう……とした所でゆらりとボールが揺れた。早坂が優れた反射神経でそれを察知するも、間に合わず無情にも彼女の前でボールは落ちた。
某バレー漫画でも印象深いワザの一つ、ジャンプフローターサーブであった。ナックルサーブとも呼ばれるそれは、打つのに高い技術が必要である。
ニヤリ、と眞妃は笑った
(いやガチじゃん……)
早坂は少しビビった。白い肌に鳥肌が立っているかもしれない。
何が普通だ。性根の所が負けず嫌いなのは、やはりかぐやに似ている。
「凄いよマキちゃん。あれ漫画で見た事あるやつ」
「そう? 凄い?」
「ちょっと後で教えて」
翼は眞妃の事を凄い凄いと褒め称えた。
ポニョが宗介を好きなように男子はナックルが好きなのである。
今この時も野球部員はナックルの握りを試し、サッカー部員は無回転シュートの練習をする光景がどこかに広がっている。伸びしろですねえ!
「かぐや様と会長ペアに交代しましょうか。その間に田沼君は眞妃様に教わるというのは」
彼の教わりたいモチベーションを無駄にしないためにも、美城はそう言った。本人が学びたいと思ったなら、そのタイミングを逃すのはもったいない。嵐山さんもそう言ってる。
眞妃・翼カップルが横に避けると、そこに入れ替わりでかぐや・白銀コンビがコートに入って来た。これが早く前者のようにカップルと呼んでいい日が来ればいいのに。早坂はこの三組の中で唯一カップルと呼べない男女の組み合わせに嘆きの目線を送る。
「……」
「どうした四宮? バレーは苦手か?」
「いえ、良からぬ視線を感じた物で」
かぐやは目が良いしカンが良い。
早坂の視線にマウンティング愛ちゃんの心を感じてイラッとした。
「そちらからサーブをどうぞ」
美城はそこはかとなくかぐやのピリ付きに気付きながらも、そもそもかぐやが上機嫌な時の方が少ない事を思い出していつもの事かとボールを渡した。
ふふふ……とボールの影に口を隠しながらかぐやはうすら笑う。
(ちょっとあるからと何ですか、彼氏といるとそんなに偉いですか。)
早坂の態度にお灸をすえてやろうと思ったのだ。
書き出すと酷い。何か似たような人を知っている。しっとマスクって言うんですけど。
「いきますよ」
凛とした中にも、どこか柔らかさを感じる温かい物言いでかぐやは軽くボールを上げた。慣れない足元なので無茶はしない。軽めにオーバーハンドサーブを繰り出して、早坂の方に打ち上げた。
もちろんそんな柔さは擬態である。
ポーンと緩やかに飛んで来たボールに対して真っすぐ入ると、すぐに違和感に気付く。
同じ面がずっとこちらを向いている。完璧な無回転サーブだ。そこに容赦は少しも無かった。
先ほど眞妃が打っている所を見て、見様見真似で試してみた。できた。天才じゃったか!
しかしかぐやには及ばないとはいえ、早坂も優秀である。黄金聖闘士に二度同じ技は通用しないとばかりに対応して、すぐさまオーバーハンドレシーブで“掴まえ”に行った。
同じく某バレー漫画で見た技術で、この時ばかりは早坂は珍しくこがねに感謝した。
だが全アニメシリーズマラソンを次に提案してきたら命は無いと思え。というか寝不足で早坂が死ぬ。
まだ変化しきる前を打ち上げると、美城は感心したのかコーホー言わせると、体勢が崩れた早坂を気遣うようにゆっくりとしたトスを上げる。
早坂はトットッとステップを踏んで距離を作ると、しっかり助走をつけて高く舞い上がった。そのまま一閃……
「やらせん!」
かと思った所で、白銀のブロックが立ちはだかった。
身長もあり、後から跳んだ白銀と、小柄で先に跳んだ早坂。ふゆでなくともこの空中戦は分が悪い。
ストレートに打ちに行く所を無理やり変えて、クロスに打ち込んだ。
バシッ……
運よく白銀の腕に掠ったボールが、勢いを失ってネットのそばに落ちようかとしている。後ろ目に守っていたかぐやは慌てて前に駈け出すと、落下点に飛び込んで何とかレシーブを上げる。
「ナイス四宮」
よくやった、と言いたそうな白銀を、かぐやは一瞬ではあるが確かに見た。砂まみれになった甲斐がある。
「会長、決めてください!」
彼女らしくなく熱くなったかぐやは、大きな声を出して白銀に声援を送った。
かぐやの声を聞いた白銀は奮い立つ。
見せるなら、やっぱカッコいい所だろう!
かつてバレーを特訓した時、藤原千花に行ったセリフを思い出し、身に着けたバレーの技術を駆使して彼は腕を振るった。
バチーン!
豪快な音が浜辺に響き渡った。
白銀の手は確かに捉えたのである。
……自分の頭を。
頭を自分の手でしたたか打った後、そのまま玉突き事故のように緩やかに落ちて来たボールに鼻っ面を打ち付け、ボールはネットに引っかかり、白銀は受け身を取る余裕もなく顔から砂に落下した。もちろんポイントは早坂と美城ペアに入る。
悲惨。
その一言である。
「か……会長?」
「あとちょっとだったのに!」
読者諸兄は忘れるはずもないだろうが、改めてここに記載する。
白銀御行は運動音痴である!
「大丈夫ですか? あの、慣れない砂の上だったので失敗しただけですよ」
かぐやはあの特訓の日々を知らない。白銀は元からバレーが出来ると思いこんでいる。直前にも砂に対しての踏み込みが足りなかった田沼翼の例を見ているので、白銀の失敗もそれと同じだと考えるのは自然な事だ。
だがそれは間違いである!
白銀の運動に対する脳内スキルツリーは、スポーツ毎に独立しているので、バレーを習得したからと言ってビーチバレーが出来るようにはならないのだ。
歌えるようになったからと言って、ラップが出来る様になった訳では無い事に藤原千花が絶望したあの状況に似ている。
「すまない……次は決める」
「はい。あっ……会長、鼻血が!」
「え」
柔らかいとはいえボールを真正面から鼻で打った事、そして鼻から地面に落下した事で白銀の両鼻の穴から血がポタポタと流れ落ちていた。
「いやこれくらいどうって事……」
「今すぐ顔を洗って鼻に何か詰めてください! あぁすみません、今は何も持っていないので……。眞妃さん! ティッシュかハンカチか持ってきてください!」
翼に手取り足取り教えていて上機嫌だった眞妃は、突然かぐやに呼ばれたのでびっくりしながら振り返る。その顔は不機嫌だったが白銀が鼻から血を流している所を見て、その不機嫌はしまっておく事にした。
すぐに翼と共に駆けつけると、美城が新品のミネラルウォーターのペットボトルを開けて、その水で顔の砂を落としている白銀という状況だった。
「何があったらこうなるのよ?」
「それが……会長がボールで顔を打ってしまって」
見たままを言わないのはかぐやの優しさか。彼女には本当にそう見えているのか。
後者なら医師にかかる事をお薦めしたい。
「翼くん、どうすればいいの?」
「えっと、最近は鼻血が出てもティッシュを詰めたりはしないそうだけど」
「では垂れ流せと?」
「そうじゃなくて、鼻をつまんで下を向いて十分くらい待つ、これだけでいいらしいですよ」
「白銀。はやく摘まみなさい」
「おう」
「口の方に回って来たら無理せず吐き出してください」
「わかった」
分かってしまえば何のことはない。僅か五秒の診察だった。
「ただ一度鼻血が出るとクセになりやすいですからね。海水が傷に悪いかもしれないので今日は泳ぐのは止めておいた方がいいかもしれません」
「ああ」
白銀は左手で鼻をつまみながら残念そうに肩を落とす。
よし、今日は泳がない言い訳を考えなくていい。
彼の内心はこんな感じだったが。
「会長、暑いでしょうから私の日傘を使ってください」
美城はマントの下の懐から日傘を取り出した。いつも使っている、レースのあしらわれた可憐な日傘である。
ただ取り出し方が完全にライトセイバーであった。
「すまないな。ああ、俺の事は気にせず続きをやってくれ」
見た目に抵抗はあるが、人の気遣いを無碍にするような白銀ではない。一言礼を言って広げてみた。
滅茶苦茶似合ってなかった。
「あはは、会長かわいー」
強面の白銀が、大真面目な顔で可愛い日傘を広げている光景に我慢できなかったのか、早坂は笑いだした。彼女自身は心配していない訳ではないが、ギャルというキャラ付けのためである。けらけら呑気に笑っていた。
だがそれが逆にかぐやの逆鱗に触れた!
彼女の頭では、白銀を傷つけ鼻血を流させ恥をかかせた目の前の二人にどうしてやろうかという陰謀が一つにつき0.05のペースで作り上げられていた。宇宙刑事の蒸着プロセスに迫ろうかという光速の思考だ。
「眞妃さん私達で組みませんか?」
「え?」
「マキちゃん、やって来たら? 僕は会長の様子見てるから」
「翼くんがそう言うなら……」
渋る間もなくあっさりと、彼氏の言葉に従って眞妃はかぐやとペアを組む事に決めた。
それがかぐやの仄暗い思惑と気付かずに。
彼女は早坂と美城の従者カップルにアベンジする事を決めたので、強い選手が欲しかったのだ。
リベンジではない。アベンジである。両者は同じ復讐という意味を持つ単語だが、根底に流れる思想が違う。リベンジは私怨に基づくもので、アベンジは正義に基づくものである。
つまりこれは正義を取り戻す聖戦であり、ジョセフ・ジョースターが三回見たあのクソ長い事で有名なアラビアのロレンスもかくやという争いなのだ。
アベンジャーズ、アッセンブル!
なお眞妃にそんなつもりは一切ない。知れば手を切るだろう。関係の破綻のタイムリミットは今この瞬間も進んでいる。
「そっちからサーブでいいわ」
「はい、眞妃様」
そこから始まった打ち合いは苛烈極まる攻防であった。
四宮かぐやと四条眞妃。女性として最強の才能の持ち主二人が手加減無しで挑むのだし、それに相対する五条美城と早坂愛はそんな二人の事を知り尽くしている。
一進一退の長いラリーが続いていた。
白銀の鼻血が止まるには充分すぎるほどに。
「おば様」
タンッと早いリズムで眞妃がトスを上げる。
速攻の意図をくみ取ったかぐやは、助走もそこそこに飛び上がった。
「させません」
前に出ていた美城はそれを見て慌ててブロックに跳ぶ。かぐやは美城のブロックがネットからかなり離れている事を一瞬で見抜き、貪欲にポイントを取る為と、白銀の無念を晴らすというアベンジの為に胸元辺りに当ててネットにかけて落とす事を思いついた。
ごつい上着を着ているのでさほど痛くはないはずだ。空調服が壊れたというなら買いなおしてあげればいい。
一瞬でそこまで考えて、かぐやは照準を下に定めた。
大きく腕を振り、何度目か忘れたスパイクを放った。
パキッ!
何かが割れるような音と共にボールは跳ね返りネットにかかって相手コートに落ちた。かぐやの計算した通りに事は運んだようだ。
何かが壊れたような音がしたが……必要経費と思って弁償しよう。
「私達の勝ちですね。……すみません五条くん、何か壊れてしまいましたか?」
「いえ、大丈夫です。さすがかぐや様、固い所で受けようと思ったのですが間に合いませんでした」
パキッ……パキッ……
美城の被っていた兜の目元に亀裂が走って行く。彼がそこを指先でいじると、パキンと決定的な音をたてて面の半分が崩れ落ちた。
数時間ぶりに美城の素顔が露わになった。半分だけ。
黒い兜の下から彼の真っ白な髪が覗いて風にゆらゆらと揺れている。白い柳眉のその下に、雪のような睫毛に覆われた澄んだ赤い目がかぐやを見ていた。
「この傷は私の能力の及ばずの証として頂戴いたしますので、どうかかぐや様はお気になさらず」
優しく片方の目を細めながら、全く責めるつもりの無い美城の言葉が何となくかぐやを居た堪れない気持ちにさせた。
「「かっけぇ……」」
男二人は美城の姿を見て素直な感想を述べる。
戦隊シリーズや仮面ライダーの終盤でたまにある、仮面が割れて素顔が見える一番カッコいいやつであった。子供みたいにキラキラした目をしている。
「みぃ、大丈夫!?」
「美城!」
男二人と違ってあとの女子二人は普通に心配しながら美城の下に駆け寄った。
ワザとではない……と早坂も眞妃も思っているので、かぐやを責める事なく美城の顔をのぞき込んで大丈夫かと気遣いの言葉をかけた。
かぐやはちょっとくらい壊してもいいでしょうと思っていた事を墓まで持っていく決意を、その光景を見て固めていた。
復讐は何も生まない……。
本日の勝敗 かぐやの勝ち(精神的には敗北)