五条美城は白サギ嬢   作:アランmk-2

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連載三十二話、本編二十九話にしてようやく……


早坂レポート その二(下)私の白鷺

 夜の四宮別邸にお嬢様の来客があったそうだ。

 名前は立花祐実。あだ名は『みぃ』というらしい。

 

「久しぶり四宮さん。元気してた?」

 

 本家の執事に連れられてやって来たその女子は、白いワンピースをたなびかせながら、気安い雰囲気で四宮かぐやに扮する私に声をかけてくると、さも当然のように隣にまで来て私と同じように花火の上がる空を見た。

 黒のロングヘアーがさらさらと流れて、白い花のような甘い匂いを纏った風を運んでくる。流麗なる柳眉の下に、黒曜石を収めたような黒い目が大きく開いてこちらを見ていた。

 道行く人が十人いれば十人振り返るような、そんな可憐な容姿をしている人物だった。

 

「何かご入用の物があれば申し付けくださいませ」

 

 執事はいまだ疑いの色を隠さないような声をしていたけれど、ずっと居座るのも無礼に当たるし不敬を疑われるのも困るのだろう、静かにゆっくりと扉を閉めて退室した。

 

「夏はどんな感じだった? 私はあんまり出歩けなかったかなー」

 

「どういうつもりですか、立花祐実……みぃ……いや五条美城」

 

 何事も無かったかのように世間話をし始めた立花祐実、もとい五条美城に私は短く切り返した。

 一瞬、驚いたように彼は目を見開くが、すぐに言葉の意味を察したようだ。盗聴器やそれに類する物はこの部屋には無い、という意味を。

 

 ほっと彼は息を吐くと、よく手入れの行き届いた黒髪を脱いだ。

 ぱさりと黒髪の下から、五条美城その人の一番の特徴である白髪が現れる。電気を消して、夜の闇が降りたこの部屋で、そこだけが光の穴でも開いたように白く輝いていた。

 

「どこに置けばいいですか?」

 

 彼は脱いだ黒髪のカツラを手にもって、おかしそうに笑いながらそんな事を言った。帽子掛けを指さすと、そーっと王冠でも乗せるように恭しくそれをかける。

 

「こっわ……」

 

 帽子掛けから黒い髪が垂れ下がって、風に合わせてゆらゆら揺れた。完全に貞子だか伽椰子だかが出てくるホラー映画の絵面だった。

 私自身はホラー映画は平気だし、霊感があるなどというオカルト少女でもないが、単純に不気味さを感じる。四宮本家の執事も騙せる見た目という事は人毛なのだろうし。

 

「バッグにでもしまっておきましょうか?」

「いえ、構いません。髪に折り目が付いたり乱れていたら不審に思われるでしょう」

「ではお言葉に甘えて」

 

 不気味には思うが、それを言うのは負けた気がする。かぐや様が妄想で相対する会長に『お可愛い奴め』と言われたくない心理に似た物かもしれない。

 ……あれと同レベルかぁ……。

 

「それで? どうして変装までしてここに来たんですか?」

 

 美城は気にしないと思うが、さすがに客人を立たせっぱなしというのも従者として生きて来た私にとって座りが悪いので、椅子を二つ持ってきて窓辺に置いた。

 

「愛に会いたくて」

「またそういう事を言う」

「ふふっ」

 

 椅子に腰かけながら美城はそう言った。

 恋人にこう言われたらドキリとするのだろうが、あいにく私達は普通の恋人同士ではない。そこに何らかの裏を読んでしまうし、利益につながる何かを探してしまう。

 たまに本当にそう思っている時があるのが彼の厄介な所だが。

 

「気になっていました物で。海の後から色々誘ってもなしのつぶてではありませんか」

「それは……本家の方から人が来ていまして」

「京都からわざわざ?」

「はい。二人による締め付けが酷く、ロクに外に出してくれませんでした」

 

 そのせいでかぐや様は無味乾燥な辛い夏休みをお過ごしになる羽目に……。

 

「ですから、早いうちに海に出かけた選択はこの上なく正しい物でしたね」

「喜んでいただけたのなら良かったのですけど。結構こちらの都合に振り回してしまいましたし」

「今更あなたがそれを言いますか? それにいいんですよ。ああいった名目が無いと素直に行動に移せない人なんですから」

「さすが、かぐや様の事を良く分かってますね」

「十年も一緒にいますからね」

 

 その十年一緒にいる中でも、特に今年は夏休みを楽しみにされていた。

 休みが始まってすぐに会長と海に出かける事が出来る。友人と買い物に出かける予定も入っていたし、夏休みの終わりには生徒会の皆で花火を見に行く予定を入れている。

 過去になく充実した夏休みになる……はずだったのに、本家の人間は……。

 

「ですから、あなたがしてくれようとした事には、感謝しているんですよ? まあ御流れになってしまいましたが」

 

 出来なかったとは言え、何かをしようとしてくれた事に気付けばお礼を言っていた。かぐや様の事をどう思っていようとも、私は結局従者なので彼女の意思に別の観点を与える事が出来るが、それを超えてどうこうする事は出来ない。

 けれど、美城は従者を気取っていても正式な物では無いので、自らの望むままに行動を起こす事が出来る。

 私は内から、彼は内のようで外から働きかける事が出来る、考えてみれば中々に相性のいいコンビではないでしょうか。上位の存在にあっけなく負けてしまう所が難点ですが。

 

「どういたしまして。……今さらながらですが、かぐや様はどちらに?」

「かぐや様ですか? 今頃は生徒会の皆と花火を見上げている……はずです」

「はず? 愛らしくもない言葉ですね」

「仕方がないでしょう。私はここに残って監視の目を欺かなければならないのですから、外の障害を取り除いてあげる事が出来ませんし」

「かぐや様がご自身で外に行かれたのですか?」

「意志の所ではそうですが、手段の所では私です。私が張っていたジップラインを滑って外に向かわれました」

 

 小さく響く遠雷のような花火の音を聞きながら、私はそっと立ち上がると窓のすぐ傍まで伸びた枝を指差す。美城は不審そうな顔をしながらその枝を避けると、現れた中空にかかるワイヤーにあっと小さく声をあげた。

 我ながら大胆な事をしたものだ。そう思いながら忍び笑いを漏らすと、驚いている様子の美城に声をかける。

 

「どうですか?」

 

 言ったその声に、少し誇らしげな響きがあった事に自分自身驚いた。

 

「……どうにも解せませんね」

「?」

 

 美城のそんな言葉に、私は当てが外れたかの様に肩を落とした。

 かけた手間と、それに付随する苦労をした事を褒めてもらえると思ったのに……。

 

 ピンと張ってあるワイヤーの強度を確かめていた彼が、窓枠から降りてきてこちらを向く。関心するような目を一瞬だけした、が、新雪のように美しくも冷たい美貌の印象を和らげる丸い目を、鋭く尖らせて刃の切っ先でも向けるような、剣呑な雰囲気を彼は纏った。

 息を呑む。

 初めて彼を怖いと思った。

 

 

 

「外に出さなかったのは、四宮黄光の指示ではないのですか?」

 

 

「え……は……?」

 

 時が止まった。

 

 そう感じるには、十二分に過ぎる程の言葉が私を脳天から刺し貫いて、頭の中が真っ白になった。

 

 なぜ?

 どうして?

 あなたがその事を知っているんですか?

 

「なぜ? と言う様な顔をしていますね。隠す程度の事でもないのでお教えしますが、愛のお母さまと私の母は同級生なんです。四宮雲鷹に早坂奈央がしていた事を近くで見ていたので、私に気を付けるように言っていました。

『早坂愛は、今この時も四宮かぐやを裏切っている』と」

 

 ママと美城の母親が同じ学級に!?

 

「お母さまから聞いていませんでしたか? 私も始めは信じていませんでしたよ。いえ……信じたくなかった、と言うのが正しいかもしれません。だってそうでしょう? かぐや様は愛に相当の信を置いていますし、あなたがそれに応えようとする姿を私も近くで見ていましたから」

 

 美城は淡々と原稿を読み上げるように淀みなく言葉を続ける。

 その整然とした言葉の流れに、私は言葉をさしはさむ余地がなくなり、ますます頭の中が混乱してまとまらなくなってしまう。

 

「ですがこの夏休みを見てどうでしょう? 最初に行った海の後からずっとかぐや様はどこにもお出かけになられず、男子と出かけるのが駄目なのかと思えば、千花達とのお買い物にも出かけられず仕舞い。そしてこの花火大会。さすが愛ですね、完璧な仕事ぶりです」

 

 褒められた。

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「ですから最後、どうして花火大会に向かえるような手段を用意したのか、それが腑に落ちないのです」

 

 腑に落ちない。その言葉を結ぶまでに至った経緯を簡潔に説明すると、彼は反証を待つ弁護士のように真っすぐ私を視線で射抜いて離してくれそうになかった。

 

「……ああ」

 

 私が考えて言葉にしようとする前に、美城は口を開いた。

 

「そこまで掌の上ですか?」

 

 どこまでも酷薄に。

 

「かぐや様は辛い夏休みをお過ごしになられました。気になる人とのお出かけ、友達とのお買い物。それらを奪われ、最後、一縷の望みを託していた皆と花火大会に行くという約束も奪われようとしています。そこで出て来たのは愛の用意した、この四宮別邸から外に通じる蜘蛛の糸。かぐや様は侍従のおかげで外を楽しむ事が出来て、あなたに感謝するでしょう。ああ、何て素晴らしい主従の愛でしょうか」

 

 彼の、この夏に起きた事をつぶさに拾い上げて行く言葉の流れを聞いて行くうちに、笑えて来たほどだ。

 

「これだけ信望を集めたあなたを握っておけば、四宮かぐやの自由意志さえ操れるかもしれませんね」

 

 そう。

 そうなのだ。

 あまりにも私という存在が四宮かぐやにとって重要になり過ぎる。

 

 仕組まれているみたいだ。私は自嘲の笑みに、顔がこわ張りそうになった。

 裏切りの星の下に生まれた者は、その歩む道も裏切りの光に照らされているのだろうか。

 

「わ……わたしは……」

「どうぞ。……四宮のする事は良く分かりませんね」

 

 そんなの、私だって分かりたくない。

 小さな女の子が抱える臆病で、繊細で、純粋な、そんな心を知った事かと踏み荒らすような連中の事など。

 

 私だって、美城のように、何の裏もなくかぐや様に仕えていたかったのに。

 姉妹のように育って来た。彼女の少しの喜びと深い悲しみを知っている。

 孤独は嫌いな、

 プライドが高く不器用な、

 頭が良くて頭が悪い、

 そんなあの子を、心から守ってあげたいと思っている。

 

「愛はかぐや様の事が好きですか?」

 

 心を見透かしたような質問が、彼の口から飛び出した。

 俯いた視線を少し上げる。

 夜闇にぽっかりと開いた穴のように輝く彼の白い髪が、断罪の天使が背負った光のように見えて、私の口を縫い合わせたように重くする。

 

「だったら……」

 

 それは懺悔か、それとも単なる言い訳なのか。

 裁きを前に追いすがるようなみっともなさを自覚しながらも、口から出てくるのは、地を這うように重苦しい言葉だった。

 

「好きだったら何だというんですか。それで全てが許されますか? 犯してきた罪が全て贖われるとでも言うんですか?」

 

そんな事はあり得ない。

 

「あなたは知らないでしょう? 他者を遠ざけていたかぐや様を。軽薄な人間が嫌いなあの子を。約束を守らない嘘つきが嫌いなあの子を。好きだから、何だというんですか。そんな事で、かぐや様は私をお許しになどなりません。私は嘘つきだから」

 

 私はかぐや様に嘘をついている。百万の行動に勝る一つの嘘を。

 その前ではどんな言葉も薄っぺらいかもしれないが、どうしても無くせない想いが確かにある。

 

「そんな嘘つきでも、あの子が外に行けるように手伝った事を貶めないでください。それは腫物のように扱う本家の意向でも、四宮黄光の指図でもなく、私がかぐや様のためにした事なのですから」

 

 それだけは言っておきたかった。

 確かに私はあの子のために成したのだから。本家から叱責を受けようと、鞭を受けたとしても、かぐや様が笑顔で『楽しかった』と言う事に比べれば何の事はない。

 

「そうです。私はかぐや様の事が好きです」

 

 それは十年前から変わらない、私の嘘の奥にある真実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふわりと光が揺れたような気がする。

 とさっ……と何かが落ちるような音がしたかと思うと、ぎょっとした。

 

「愛……申し訳ありませんでした……あんな追い詰めるような物言いを……すみません……」

 

 彼が、五条美城が跪いて私に赦しを乞うていたからだ。

 

「あなたの事を疑っていました。もしかしたら、かぐや様をただの道具のようにしか考えていないような人かもしれない、と。彼女の事をどうでもいいと思っているような冷血な人ではないかと。ですが、違うんですね」

 

 どこか嬉しそうな響きを持った声で彼はそんな事を言う。さきほどまで私を断罪する天使の如く問い詰めて来た人と同じ人間には見えない程に。

 今度は別の驚きで頭がぐるぐるした。

 何だこれは? どうなっているんだろう? 何で彼は、私がかぐや様の事を好きだと言うことでこんなにも喜んでいるんだ?

 

「止めてください。何だったんですか、さっきまでのあなたの苛烈さは? 私を許さないつもりだったんじゃないんですか?」

「そのつもりでした」

「ではどうして……私が裏切り者という情報を握っていたんでしょう? だったらあなたは許せないはずです。鉄の絆で結ばれたと称されるほどの、五条の一族の長男ですから」

「私が許せないのは、許されない事をしておいて何とも思わない事です」

「何を訳の分からない事を。どうして……」

 

 

 

「だって、愛が一番自分を許していないじゃないですか」

 

 彼の涙混じりの瞳と目が合った。

 

「あなたがただの害成す奸臣なら許せませんでした。ですがそうではありません。だから私がする事なんて何も無いんです。自らを許していない人に石を投げるなど、自己満足を超えて自己陶酔ではありませんか」

 

 そう言うと、彼は恥じ入るように顔を歪めて、何かに感じ入るように瞳を閉じる。

 何を思っているのだろう。

 この人の事は、分かっているようで分からない事だらけだ。

 

「愛」

 

 ただ、

 

「辛かったですよね」

 

 彼が他人に対しての献身を厭わない事だけは、私も知っている。

 

「なにを……」

「好きな人に嘘をつき続ける事が辛いのは、私にも覚えがあります。ですが、愛のそれは私なんかとは比べ物にならないでしょう。ましてやかぐや様が幸福になるような嘘ではないのですから。相手の為になる事なら、どんな事だって我慢できます。けれど、そうでないなら……」

 

 はっ……と息を吐くために言葉を区切る。彼の大きな瞳が悩める心のようにゆらゆら揺れて、自分の言った事が自分でもはっきりさせられないような印象を受けた。

 そんな瞳がピタリと止まる。

 私の目を真っすぐに見て。

 

 

「苦しくないはずがありません」

 

 見透かしたような事を言う。

 

「後悔にくれない日は無かったはずです」

 

 分かったような口ぶりで、

 

「ずっと見ていたのならなおさらで」

 

 私の気持ちをなぞる様に。

 

「かぐや様を知れば知る程好きになるのに」

 

 そうとは思っても現実は付いてきてくれない、

 

「かぐや様のもっとも嫌いな事をしなければいけない」

 

 唾棄すべき現実と共に私の今があるから。

 

「その板挟みを強いられる生活から逃げ出す事も出来なくて」

 

 それを生まれた時から宿命づけられている。

 

「かぐや様を、両親を責める事も出来ないから、自分を責め続けるんですね」

 

 だってそうでしょう。私一人が我慢すればいい。

 

「愛」

 

 ……けれど、

 

「そんなのは悲しすぎます」

 

 誰かに、

 

「どうしてあなたがこんなに苦しまなくてはいけないんですか」

 

 本当の私を見つけてと、

 

「ねえ」

 

 嘘をついて真っ黒だけど、

 

「愛」

 

 ただ、

 

「辛かったですよね」

 

 そう言って欲しかっただけなんです。

 

 

 

「……初めて会った時」

 

 私は遠くを見つめながら、十年前にこの場所で起きた事を回想する。

 

「四宮黄光の密命を帯びてこの別邸に来た私を、かぐや様は嬉しいと言って迎えてくださいました。その『よろしくね』という無邪気な笑顔を裏切る所から私の仕事は始まったんです」

 

 かぐや様には味方がいない。

 長女という立場でありながらも、歳の離れた兄達はすでに会社を動かしていて、長男次男と三男の跡目争いから対岸に立っている彼女を軽んじる者は決して少なくない。

 幼いながらも聡明な彼女がそれに気が付かないはずも無く、その孤独を埋めるために私と主従の関係を強く結ぼうというのは自然な成り行きだった。

 それすら黄光の狙いだったかもしれない、と疑い始めるとキリがないが。

 

「かぐや様があやとりを教えてくれようとなさった事も、孤独を感じておられる事も、口さがない周囲に傷ついている事も、私を信頼してくれているから見せる一面なのに、それを毎日切り売りして、黄光派閥の信用を稼いでいました」

 

 改めて考えると、なんて小物のする事だろう。乞食にも劣る下衆の仕事だ。

 

「かぐや様は裏切らない人しか周りに置きません。だから裏切り者の私はいつか手痛いしっぺ返しを食らうのではと思っていました。蛇蝎の如く嫌われて、路傍の石にすら劣る何かに成り下がるような、そんな未来がすぐ傍に広がっているのではないかと思うと……」

 

 可愛くて仕方ないかぐや様。

 姉妹のようにずっと一緒で、親よりも長く時を過ごした人。

 だから、嫌われるかと思うと、

 

「怖かったです」

「はい」

「辛かったです」

「はい」

「何で私がこんな事を、と、ずっと思っていました」

「はい」

「けれど、誰にもこんな事は言えなくて……」

「私が……」

 

 跪いた恰好でこちらを見上げている美城は、そっと私の手を取って言った。

 

「私が愛の味方でい続けます。あなたの苦しみを少しでも分かち合います」

 

 バカな、と言いたかった。

 口先だけなら何とでも、と続けようと思った。

 何かを言おうと思った。彼の目に溜まった涙を前にそれは儚くも消えて行く。

 

 四条眞妃に向けるそれのように、彼が、どのような限りない献身で私の苦しみを贖おうとしているのか、その目を見ただけで知っていた……そんな気にさせたから。

 

「だから、一人で抱え込まないでください」

 

 彼は手を伸ばして、私の頭に触れると、そのまま優しく、ゆっくりと撫でた。

 何もかもを許してくれる母親のような温かさを、男に感じるのも可笑しい話だが、確かに私は感じてしまう。

 彼が微笑んだ気がした。

 けれどそれを確かめられなかった。

 涙で溢れた私の目には眩しすぎたからかもしれない。

 

「う……ぅう……あ……」

 

 嗚咽を漏らしてみっともない泣く姿を、彼は黙って見守ってくれていた。

 泣き続ける私を、撫で続けてくれる彼。

 今だけは全てが許された気がして、ただ子供の様に彼に甘えていた。

 

 

 

「……お恥ずかしい所をお見せしました」

 

 鼻の奥にツンと涙の残りがある気がするが、私は何とか気を取り直して美城に頭を下げた。泣くなんて小学生の低学年の時以来かもしれない。それなのに、こんな……男の人に泣き顔を晒す事になるなんて。

 

「いえ。そんな事ありませんよ」

 

 彼自身は全くと言っていいほど動揺のかけらも見えないので、本当にこの人の前で泣いたのかと私の方が疑ってしまうくらいだった。

 

「愛、最後の花火が上がりますよ。かぐや様も皆とご覧になられたでしょうか」

 

 私の右手を握ったまま、彼は隣の席に座り直して窓の外を見上げる。泣きはらした目を見られたくないだろうな、と彼が思ったのかもしれない。

 今更、という気もしなくはないが、そのこそばゆい厚意を素直に受け取っておくことにする。

 

「好きなんです」

 

 ……えっ?

 

「花火が」

 

 ……あぁ、何だ、紛らわしい……。

 ホッとすると同時に、胸の奥に広がった落胆がチクリと内側から差してきた。

 

 落胆?

 

「私は日が出ている間は碌に外に出る事が出来ません。ですが、完全に日が落ちてからの花火大会は別でした。普段は遊べない皆と遊べた時間は、私にとって今も宝物です。かぐや様もきっとこの日をそんな風に思われるはずですよ」

 

 遠くを見上げながら、口元には微笑みを浮かべて、きっと彼が見て来た中で一番小さな花火のはずなのに、何とも愛おしそうな目線を空に送り続けていた。

 私はその横顔に、何か言わなくてはいけないんじゃないかという感覚に不意に襲われて、でもそれが分からなくてぎゅっと右手を握りこむ。

 

「心配しなくても会長が付いてます。愛は何でも自分のせいにしすぎです。失敗というのは……」

 

 それを心配ととらえた美城は、私を安心させるように手を握り返して、何か自分の事を話そうとしていた。

 

「自分で電話して屋上を解放してもらったのに、花火が打ちあがる方向に新しく建ったビルのせいで全く見えないという失態を犯した、私みたいな奴の事を言うんですよ。移動しようにもその新しいビルは四宮の物で、四条や五条の名前が使えないと分かった時は本当にどうしようかと思いました。……って、これは愛に言うような事ではありませんでしたね」

 

 くすくすと笑いながら過去を思い返す彼に、私も少しだけ笑って、けどそんな風に外に飛び出せる自由がある事が羨ましかった。

 

「ですがその失敗のおかげでより良い観賞場所を探す腕が上がりましたから、怪我の功名といいましょうか。今年も眞妃様に楽しんでいただけたら良いのですが……」

「ちょっと待ってください。眞妃様は田沼翼と一緒に花火を見ているのでは?」

「そうですよ。私にはそのホテルの株主優待がありました物で、少しお得に部屋を取らせていただいたのです」

「そうですか……」

「僭越ながら浴衣の方も私が選ばさせていただきまして、田沼くんの好みと眞妃様の要望に沿う形の物を選べたと思います」

「それは……」

 

 何と言うか、彼の無駄遣いというか。

 いや、きっとそれも彼が好きでやっている事で、私がとやかく言う事ではないけれど……

 

 ずるい。

 

 そう思ってしまった。

 

 私がかぐや様にしている事と同じではないか、冷静な私がそう語り掛けてくるが、理屈では無い部分が感情的に叫んでいる。

 四宮家に並ぶ名家に生まれながら、かぐや様より自由に過ごし、生まれた時からずっと五条美城という幼馴染がいて、彼から限りないように思えるほどの献身を尽くしてもらったに違いない。

 高等部に上がって彼氏が出来てなお彼に尽くしてもらおうというのか。

 

「みぃ」

 

 私は美城のあだ名を小さく呼ぶ。その子猫の泣き声のようなあだ名に、甘えた響きがあった事は否定しない。

 

「愛」

 

 ゆっくりとつないだ手を握りなおして、内に秘めた響きの全てを聞き届けてくれたように頭を撫でてくれた。

 きっとこうした甘えを、四条姉弟は当然のように聞き届けられ続けてきたのだろう。

 ずるい、

 ずるい、

 ずるい。

 

 良くない事とは思っている。

 大それた願いかもしれない。

 けど、

 

「大丈夫ですよ。私は愛の味方です」

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

ぎゅっと目頭が熱くなって、余りの自分の浅ましさに涙がまた溢れてきそうだった。

 

 ドン……

 

 最後の花火の連発が始まる。

 赤や黄色の光の束が、菊や牡丹や柳を描く。

 

「綺麗ですね」

 

 と美城が言うほどの純粋さが、私に十分の一でもあればいいのに。

 

「はい。綺麗ですね」

 

 彼と同じ言葉を、彼と違う物を見ながら言った。

 夜を彩る花々に照らされたこの人の事をそう思うのは、純粋さと言う物の証左なのか、ただ四宮家の従者として鍛えられた審美眼によるところなのか。

 

 いや、分かっている。

 

「ねえ、みぃ」

「はい。なんでしょうか?」

「私は……」

 

 喉の奥に張り付いたように、とある言葉は出て来てくれなくて、感情のままならなさと、素直になれないもどかしさで胸が苦しくなる。

 

「……あ、花火が終わってしまいましたね」

 

 私が口を開けたり閉じたり、まんじりともしないまま時間を空回りさせていると、一際大きな花火が空に上がって、真っ赤な牡丹が辺りを赤く染めた。

 美城の言う通り、花火大会が終わったという事で、恐らく一緒に花火を見に来ましたと言って乗り込んでいる『立花祐実』はそろそろ帰らなければならない。

 

「何か言いたかった事があるんじゃないですか?」

「んー……いや、いいんです」

 

 言いたかった事があるのは本当だけど、こんな焦って慌ててというような状況で言う事でもないから、今は話さない事にした。

 美城は不思議そうな顔を一瞬したが、帽子掛けに掛けてある黒髪のカツラを早く被りなおさなければならない事を思い出して、そうっと自分の頭にそれを載せて、知り合いでも早々見抜けないような『立花祐実』になる。

 

「かぐや様、立花様、花火大会が終了いたしました」

 

 本家の執事がノックをして語り掛けてくる。間一髪という所か。

 本来なら見送るべきなのだが、顔を見せればさすがにバレてしまうのでそれはできない。

 

「かぐや様は少しお休みされると伝えておきます。後はかぐや様が帰ってくるまで、えーっと……頑張ってください」

「思いつかないなら無理に言わなくていいですよ」

 

 締まらない事を言った彼にくすくすと笑ってしまった。

 

「では、二学期に会いましょう」

「はい。楽しみにしています」

「何か言いたい事があったら遠慮しないでくださいね。私はいつでも待っていますから」

「頼りにしてますよ」

 

 『立花祐実』は手を伸ばしてきた。お別れの握手をしようという事だろうけど。

 

「違和感が凄いですね」

「だから入って来れたんですよ?」

 

 それはそうだ。

 

 きゅっと短く手を握り合うと、彼らしいふんわりとした微笑みでは無くて、ハキハキと溌剌な笑みを浮かべて役を降ろした、としか言いようがない程の変貌を遂げる。

 

「じゃーね、四宮さん。お互いに忙しくてあんまり会えないけど、次会う時まで元気でね」

「はい。こちらこそまたお会いできる機会を楽しみにしています」

 

 ドアの外に待ち構えている執事に聞こえるようにそんな会話をすると、

 

「お客様がお帰りになられます。送ってさし上げなさい」

「畏まりました」

 

 変装した彼が外に出て行く姿を見てから、私は顔を見せない方便の為にベッドへともぐりこんだ。

 後はかぐや様が帰って来てからこっそり入れ替わればいい。

 早く帰って来ないかと思いながら寝返りを打つと、出しっぱなしにしていた椅子が二脚ほったらかしにしてある事に気が付いた。かぐや様が帰ってくる前に片付けておかないと。

 まず私が座っていた椅子をさっと片付けると、次に美城が座っていた方の椅子に手をかける。

 二つともを片付けてしまうと、さっきまで会話していた空間がなくなって夢の跡のような侘しさを感じた。

 

「……夏休み、早く終わればいいのに」

 

 まったく……かぐや様を笑えない。

 

――

 

 ままならない現実は変わらない。

 罪悪感にまみれる日々はまだ終わりを告げてはくれないだろう。

 私は今も裏切り者だから。

 

 けれど、それを支えてくれるという奇特な人もいるみたいで、それに甘えてもいいのかな、なんて事を考える。

 いいのかな、ではないか。きっと彼はきっと好き勝手に甘やかすのだろうから。

 だから私の心が軽くなったり、楽になったりしてしまったら、全部あなたのせいですよ。

 

 

 

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