何とか頑張って生きて投稿し続けます。
いつもは閑散としている昼休みの体育館に、珍しく人だかりが出来ていた。もちろんそれは偶然などではない。彼らは、ただ一人のためにここに集まっていた。
「やはり多くありませんか? まあいいんですけどね」
舞台の上からその人だかりを見ていた早坂愛は、誰にも聞かれないように独り言を呟く。彼女自身がかき集めた人員ではあるのだが、その総数を数えると少々思う所があるのも事実だった。
何しろ今日集まった人数はゆうに百を超えているのだから。
これは秀知院の二年生約半数に上る人が集まった事になる。美城の友人を集めてムービーを撮ろうと思っていた所から考えれば、膨れ上がった人数に物言いたくなるのも無理はない。
「佐上さん、今日は来てくださってありがとうございます」
「あれ? 三上くんはご飯の後はお昼寝する信条ではありませんでしたか? ……ふふ、冗談です。来てくれてありがとうございます」
……主役が楽しそうならいいけど。
早坂は眼下で繰り広げられる美城の挨拶回りを見て感心すると共に喜ぶ姿に安心した。一言二言かけてまた次の人に行く姿など社交界の主人にすら見える。もてなす側でしか参加出来ない彼女は、人を集めてどうでもいい事を話すパーティの場を誰が楽しんでいるのでしょう、とすら思った事があるが、この種の人間が楽しんでいるのだろうと納得した。
「早坂さん。カメラの方、滞りなく準備できましたわ」
壇上から見下ろす早坂の横顔に声がかけられたので、その方にギャルの仮面を被って対応すれば、そこにいたのは紀かれんだった。今日の彼女はマスメディア部員として『体育祭直前号』という記事を書くために遣わされた特派員である。その一環としてカメラ回りの仕事を任せていて、どちらかと言うと運営寄りの立場だった。
「ありがと~紀ちん。ウチがすれば良かったんだけど」
「いえ、早坂さんには五条くんと一緒に画角に収まるという大仕事がございますから、これくらい任せてくださいませ」
「ほんとにありがとね。……あれ? そういえば巨瀬ちんは?」
紀かれんがいるとなれば当然のように巨瀬エリカも居る……のだが、今は姿が見えなかった。少々……少々?変な少女であるが、同じように特派員として来ている彼女がすっぽかすなど考えにくい。かぐやが関わっているのなら別だが。
「見学にお来しになられたかぐや様を見続けていますわ。そこで」
「はわわ……二階部分からこちらを見下ろされるかぐやしゃまは天上の女神……。私は虫に生まれた……」
「なんか悪化してな~い?」
この前の薄目で見れば四条帝は男体化したかぐや説をぶち上げた頃からおかしさ極まれりといった風情のエリカだが、ここにきておかしさの萌芽が始まっている気がしてならなかった。エリカの土壌で育った物はまともでない事だけは確かだろう。かぐや崇拝をまき散らす植物だ。いつかここは腐海に沈むのだろう。
かぐやの身の回りを改める必要を急速に感じる早坂である。場合によっては火を使うかもしれない。禍根は根から焼き払わなくては。
「本郷陣営特派員や何やらでかぐや様に接する機会が有難い事に増えたから尊みが止まらないの。尊み秀吉……」
想いの高まりに反比例して知性が果てしなく下がったのか、語彙を失ったオタクみたいな事を口にするエリカだった。今からでもマスメディア部に付き返して新しい人員を呼ぶべきだろう。
「えっとマスメディア部の人が他に来てなかったっけ~?」
「仕事は! 仕事はちゃんとするから! 五条くんにはお世話になってるし、友達の早坂さんが企画した事には手を抜かないから!」
「ほんとか怪しいし」
「本当本当。五条くんに付いてるだけでもう四本は記事書けてるんだから。その恩返しはちゃんとするわ」
力強く頷くエリカだったが、一抹の不安はぬぐえない。機材の最終チェックのために二人はそれぞれの立ち位置に赴いたが、早坂が思う所は『やっぱり自分がやった方が……』である。
「お疲れさまでーす。白組応援団から法被の差し入れでーす!」
人の手によらないオートメーションのシステムを考え始めた早坂に、自動化とはかけ離れたような人の声が届いた。出入口から入って来たのは、がっしりとした体格で脳みそまで筋肉で出来ていそうな白組応援団団長・中山欽二だった。なお彼は三年生の学年一位である。
得意科目は英語。秀知院の長い歴史の中で一番シュワルツェネッガーの発音が上手い。
「おーい! 太鼓借りてきたぜ」
続いて似たような暑苦しい声がしたかと思うと、今度は赤組の応援団長・風間が太鼓を持って壇上に上がってくる。本番で使用するものより小ぶりな物だった。白銀との特訓時に藤原が叩いていた物と同じである。
「そして叩き手も登場です。早坂さん今日は頑張りましょう」
そして物が同じなら人も同じだった。色づくゆるふわロングヘアーを一つにまとめたスポーティーな装いの藤原千花が、本番同様太鼓の叩き手を務める。
「先輩ありあーっす。このハッピ本番で使うやつ?」
「もちろんです。僕にはこがね君という強い味方がいますから、備品の貸し出しには困りません」
「へー。あれ? じゃ、こがねはどこいったし」
そう言えばあの忠犬こがねの姿が見えない。噂を聞きつければ喜び勇んで庭駆けまわりそうな後輩が。
「『石上がいるから嫌っす』って言ってましたね」
「一年からの根強いヘイト……!」
シンプルに嫌いな奴がいるから、らしかった。
他の一年生からの嫌われっぷりは想像を絶しますね、と校内のゴシップを網羅する早坂も改めて思い直すくらいである。そういえば美城は石上と仲が良い。尊敬する人が嫌っている人間と親しいのは内心で舌を噛み切りかねないほどに複雑な心境であるに違いなかった。
「そんな事言われたら石上くんも可哀そうですよ~。確かに石上くんは心が狭くてすぐ揚げ足を取ってきて、言葉で殴ってくるDV男みたいな人ですが……」
「フォローゼロ~」
「だけど一年生の皆から嫌われて遠巻きにされていい人でもありません!」
「書記ちゃん良い事言うじゃ~ん」
珍妙で知られる藤原千花だが、さすがかぐやと友人をやっているだけあって人間が出来ている物言いだった。
「そうだな。一緒に練習してりゃ分かる」
「……って、石上くんの事はとりあえず置いておきましょう。今日の主役はシロちゃんですから」
「そうだし。みぃは?」
そうこうしているうちに少しばかり時間を使ってしまっていた。昼休みが長いとは言え無限ではない。早く事を進めなければ、また体育館を借りて音響を用意して……といった煩雑な出来事を再びしなければならないのだから、早坂も珍しく藤原の言や良しの心境にある。
キョロキョロと壇上から見渡すと黒髪の居並ぶ黒山に、一つ真っ白な立ち姿を見つける事が出来た。
「ええ。ですから数日前に行われた物理のテスト問二は2003年の帝都大入試を参考に作られた物だと考えると上手くいくと私は思うのです」
「ちょっとー! お喋りおしまいー! こっち来てよ」
まだやっていた。
もしかしてここをパーティの会場か何かだと思っているのだろうか。
「呼ばれちゃいました。では今日はよろしくお願いいたしますね」
美城が話しを打ち切ってから壇上に来ると、自分を呼んだ恋人にふと微笑みかけた。
「はい。どうかしましたか? 愛」
「どうもこうもないし。先輩がハッピ持ってきてくれたから合わせよーって思ったのにいないから」
「それはすみません。あ、これがそうですね。欽二くん、着てみていいですか?」
「もちろんです」
言うやいなや欽二は美城の細い肩に体育祭のソーラン節で着るハッピをかけて……
「……欽二くん」
かけない。
肩のあたりに手をやったかと思うと、スッと潮が引くように手を下げるのであった。謎だった。
美城もこれには怒ったのか少し大きな声をあげる。
「おい欽二くんの筋肉。私に法被をかけてあげるのかい? あげないのかい? どっちなんだい!」
「あーーーーげる!!」
パサッ。
「恰好いいですね。黒地に赤色の襟で、裾に打つ荒波の模様が力強さを表しています」
「……そだねー」
色々ツッコミたい事はあったが、言い出すとキリがない生態をしている美城とその周りに対して早坂は勇気のスルーを決め込んだ。何で平然と先輩に服を着させてもらっているんだとか、というよりそれ女子用のやつじゃないですかとか、いろいろ。
「みぃ似合ってるし~」
「恰好いいですか?」
「カッコよくはない」
「そうですか……」
白磁の肌に白雲の髪を持つ美城に、黒の法被は対比効果もあってとても良く似合っている。可愛い。ただ他の人間が着たら普通にかっこいいだろう。
白銀が着た日には、かぐやはよく分かってないカメラの連射モードで120連射した挙句に1枚ほど早坂におすそ分けしかけて、『あげません!!』してくれるに違いない。それくらい法被はよく出来た代物である。
ただ致命的に美城が男の娘なだけだ。
「はいじゃあみぃのクラス横並びになってー。前の人にハッピ配るから」
いじけ出した美城を無視するように彼女は彼女で準備の段階に入った。
フォーメーションと言うほど立派ではないが、美城をセンターに両脇を早坂と眞妃が固めて後ろは5→7→9→9……と並んでいく形をとっている。並びが小難しいのと『〇〇君と隣がいい』とか言い出す奴が現れるので早めに並ばせておかないといけない。美城と違って体育祭本番あるんだから我慢しろや、とやんわり伝えるのも彼女の仕事であった。
「愛。私も手伝いますよ」
「ちょとみぃ! 基準なんだから動くなし!」
「あっはい」
時に美城にもたしなめる言葉が飛ぶのもご愛敬といった具合だ。
「愛ったら随分張り切ってるじゃない」
横でその光景を見ていた四条眞妃がしゅんとした幼馴染に声をかける。
行動禁止が出たせいで、その場を動くに動けなくなった美城にからかうように言った。
しかし同じように彼女も動くなと早坂に言われているので、言葉の居丈高さから想像するより情けない絵面を晒している。肩幅ほどに足を開いて真っすぐ立つ、夢島で茂野吾郎を苦しめた立ち方と同じ格好のせいで足がプルプルし出していた。
しかしそんな事をおくびにも出さない王者の風格すらある眞妃だった。
「ええ、本当に有難い事です」
「美城ってさ」
足プルってるとは思えない毅然とした表情で眞妃は、早坂に優しい目線を送っている幼馴染に問いかけた。
「ちゃんと愛の事を特別扱いしてあげてるの?」
「私が愛を蔑ろにしていると?」
限界の少し間抜けな様子とは裏腹に真面目な言葉だった。
「そうじゃないわよ。……けど、あなたの優しさって友情の延長線上みたいな感じじゃない。誰に対してもね。そりゃ友達として付き合うならこれ以上ないくらいの距離感だけど、彼女って立場から言うとどうかしら?」
「友情の延長線上に恋もあると思いますが」
「男同士の、よ。信頼はあっても、恋愛にはならないでしょ。今は良いわ。あの子も恋を始めたばかりで美城の事好き好きって感じだから。でもね、二三か月くらいすると付き合い立ての熱狂みたいな物が無くなるの。その後も好きが長続きするかどうかは、熱狂期間の内にどれだけ彼氏ポイントを積み重ねられたか、って私は思うけどね」
「はい。理解しました。田沼くんとは余程うまくお付き合いされているようで、昔から応援してきた私も安心した次第でございます」
「なっ……もう!」
眞妃のおせっかいに微笑ましい気持ちになった美城が、からかい返すように彼女の恋愛事情を褒めちぎる。
言葉を素直に受け取るなら田沼翼はしっかりと彼氏ポイントを積み重ねているようだ。バレンタインチョコを渡す渡さないでまごまごしていた眞妃を知っている美城から言わせてもらえば、眞妃ばかり好き好きの独り相撲を危惧していただけに大変結構な事である。
「とにかく、私は言ったからね」
「ご忠告のほう、真摯に受け止めさせていただきます」
「じゃあついでにもう一つ受け止めておいて欲しいんだけど」
「はい、何でございましょう?」
「一回付き合った女は、結構簡単に二回目の恋を見つけるそうよ」
絶賛初めてのお付き合いを楽しんでいる眞妃の口から出たとは信じられない言葉が出て来た事に、美城はいつもまん丸な目を二割増しで丸くした。『私はそんなの信じないけど』とでも言いたげに鼻白んだ眞妃に、さらに話を聞こうと思うタイミングと、後ろの方から田沼翼がやって来たのは同じくらいだった。
二人の語らいを邪魔するほど無粋なつもりは無いので、彼は着々と準備を進める自分の恋人に目を向ける。
あっちに行け、こっちに行け。自分に聞かせる声よりも数段高い余所行きの声でテキパキと指示をする早坂は、さすがと称賛するほか無い。この辣腕を自分のためにふるってくれていると考えるのは自意識過剰ではないだろう。他ならぬ早坂自身が言っている事だ。
こんな事をしてくれるのは、恋の熱狂がくゆらす揺らめきのせいだろうか。気の迷いとも、若気の至りとも言うかもしれないが。
いつか冷めて、あるいは覚めて、自分以外の人間に向けるようになったらどうだろう。
……恋愛の熱という物が分からなくなっている美城には、いまいちピンとこなかった。
「皆並んだ!? 並んだね! そこ動くなし!」
そうこうしているうちに、準備が済んだようだ。早坂がいないのでまだまだかかるのかと思っていたが、残りの準備は彼女が美城の隣の立ち位置に収まるだけだった。
「ホント皆勝手だし……」
「大した手腕でしたよ」
踊りの始まる前から大分ぐったりしたような早坂が自分の隣に来て、愚痴もそこそこ、準備は完了した。あと何が足りないかと言えば、
「はい。愛の分の法被です」
カメラに映る位置にいる彼女が法被を羽織っていない事くらいだ。
法被かっこいいねー、とかで余計な会話を生み出さないために体操服のまま指示出しに回っていたせいである。
彼氏から羽織らせてあげてください、という周囲の気遣いに応えて持っていた美城が、その言葉通り早坂の肩へ法被をかけてやった。
(特別扱いってどうすればいいのでしょうか?)
彼女の細い肩に指先が触れた時、ふと先ほど眞妃に言われた事を思い出す。恋人には特別扱いしてあげなさい、という言葉だ。
このままではただ羽織らせただけで、これくらい他の誰であっても自分はするだろう。なら、他の人にしたことが無い何かをしてあげなければ……。
「……どしたし、みぃ? 始まるよ?」
考え事をしていた美城はじっと早坂の事を見つめてしまっていたようで、不思議に思った彼女は問いかけた。小首をかしげて青い瞳を上目遣いに、ふわりと金髪を揺らして可愛らしく。
傍から見てると何イチャついとんねんと言われても仕方ない見つめ合いだ。本人としては真剣な事を考えているのだが。
「えっと、すみません。似合ってますよ、愛」
「何それ? ……ま、ありがと」
結局いつものような事を言ってしまったと美城は少し後悔しながらも、何故か早坂は嬉しそうなので困惑は増すばかりである。横で見ている眞妃は『なーにやってんの』みたいな事を思っていた。
「書記ちゃん」
全ての準備が完了した所で早坂は壇上の藤原に合図を送った。
ドン!
と、太鼓が大きく音を立てると、お喋りに興じていた人もしんと静まり返る。始まりの合図が鳴っているという事は、カメラが回っているという事は聞かされていた。後々まで残る映像に恥を晒す趣味がある人間はこの場にはいなかったようである。
ドン! ドン!
藤原の、太鼓を叩く音で踊りの準備が整いだす辺り、ソーラン節の唄が入った音楽が流れ始めた。
【ドッコイショードッコイショ】
まだ練習段階の慣れてない時期なので、歌い出しを把握しきれていない生徒が何人か遅れたが、幸いに後ろの方の生徒だった。
カメラによく映る前列のB組は藤原がよく言い聞かせていたので、見事な滑り出しを見せる。
中でもやはり目を惹くのは五条美城だろう。何も彼の見た目が特異だからというだけではなく、身長は低いが均整のとれた手足をキビキビと動かすのは単純に見栄えがした。
ドッコイショの音に合わせて細い腕を引く所作など、荒波から網を引くような雄々しさを錯覚させる。雄々しさの雄の字一つも感じ取れないような見た目をしておきながら。
それを見ていた皆を囃し立てる太鼓を叩く藤原は少し不安を覚えた。
シロちゃんの近くで会長が悪目立ちしないでしょうか。という物だ。なんせ数日前まで悪魔降臨の儀式にしか見えないシロモノしか踊れなかった人間である。彼女が心配するのも無理はない。
「ソーラン! ソーラン!」
しかし眼下には生き生きと籠を持ち上げ網を引く白銀の姿が……!
(か、会長~! 立派に育ってぇ~!)
幾度目かのママみを爆発させかねない光景が広がっていて、藤原の涙腺はちょっと緩んでいる。
頑張る我が子を見るだけで涙ぐむ世の母親に酷似していた。
ついでに言うと幼馴染である美城に対して藤原は芸術を教えた事があり、いわば白銀の兄弟子といった所である。それがこう……うまい具合に脳内で変換されて『シロちゃん見てください。御行くん、お兄ちゃんのために頑張ったんですよ』と強めの幻覚を発生させて、それがまた涙を誘うのだ。
自分をママと思い込んでいる精神異常者と言って差し支えない。
太鼓を叩く熱量が倍近くなっていた。
内心はともかく、力強さを増した鼓動に合わせて、始まりは緩んでいた人達も次第に鋭い真剣みを帯びていく。
まだ本番までの猶予は十分にあり、完成には程遠い踊りでも、真剣な物は見る人にも伝わるのだ。藤原のソーラン節に思う『青臭さも味になる』といった所で、いつか花咲く青々とした植物みたいな物だった。
「ソーラン! ソーラン!」
ドン! ドン!
藤原の一層力強い音が体育館中に響くと、一瞬しんと静まり返った。
最初に残心を解いた美城が振り返って大きく拍手をすると、百人あまりの生徒は心地よい高揚感と共に、つられて手を叩く。
時間にして三分ほど。しかし、この事は何年にも渡って思い出の一ページを彩るだろう。そういう三分間だった。
「皆さん! 今日は突然のお願いを聞いてくださりありがとうございました!」
つうっと額から珠のような汗を伝わせた美城が、壇上に立って集まった人に向かって大きな声で言った。張りのあるその声は体育館のどこにいてもよく聞こえる。そこに込められた感情もつぶさに感じ取れるほどの、はっきりとした声だった。
彼の張り上げた声に合わせて、体育館のボルテージも上がる。
午後の授業を知らせる予鈴が鳴るまで、楽しそうな喧騒が建物を支配していた。
◇
「美城は今日楽しかった?」
「はい。とても良い思い出になりました。ありがとうございます、愛」
「なら良かった」
昼休みの熱気が落ち着いてきた放課後に、今日の騒ぎの立役者の早坂と主役の美城はいつものようにボランティア部の部室に二人でいた。二つ並べた机で隣に座り合い、早坂の方が少し彼の方に身を寄せて肩が触れるくらいの距離感で。自業自得の面があるとは言え最近忙しかった彼女は、甘やかして、とでも言いたそうな空気を放つ。
よしよし、と美城が頭なでてやると『子供扱いしないで』と言いつつまんざらでもない早坂が嬉しそうに微笑んだ。
「堪能した後に言うのも野暮な気はするのですが、聞いて良いですか?」
「なに?」
「どうして今回のような事を考えてくれたのでしょう? 体育祭の思い出を作ると言うのなら、別に授業で行う室内練習の際にムービーを撮ってもらう、くらいでも良かったのではないでしょうか。愛も無駄に忙しい目に合わずに済んだと思いますよ」
さすがに百を超えるとは発案当初の早坂も思って無かったと思うが、たとえ十人二十人でも多少の忙しさは覚悟しなければならないはずだ。行事の事前準備で生徒会の仕事が増えて早坂に命令する暇がなくなるかぐやとは反対に、主命が無くなって多少暇になる早坂がそれを謳歌しても罰は当たらないだろう。
「でも美城は楽しんでくれたでしょ?」
「それはもう」
「だったら無駄なんかじゃないよ」
好きな人が喜んでくれたから嬉しい。と、随分こざっぱりした理由を彼女は素直に口にした。
「ありがとうございます。あの、ついでに一つ発想のきっかけを聞いてみたいのですが」
「ダメ」
「この前帝様がサッカー部のグループラインで『苦労してんだけど?』などと言ってご自身の若白髪を載せたら『は? 五条臭わせか?』って仲間にキレかけられた話しましたっけ」
「すぐ諦めるー。……ってちょっと気になる話題出して来ないでよ」
「眞妃様の驚愕の一手で丸く収まったのですが」
「だから興味を煽ってこないでください」
ここは会話の押し引きをする所じゃないの、と少し不満そうに口をとがらせる。ダメから押し問答してしょうがないにゃあ……に至るのが楽しいはずでは? 早坂はそういう機微を楽しみたい女子だった。
「では教えてくれるのですか?」
「……しょうがないから教えてあげる」
「やった。ありがとうございます愛」
ため息を吐きつつも嬉しそうに聞き入る美城に悪い気もせず話し始める。
「きっかけは美城が出てたサッカーの試合映像なんだけど。秀知院とのやつね」
「はい、もちろん覚えていますよ。帝様がハットトリックをお決めになられた試合です」
「それ。でも私が気になったのは三つの得点を決めたシーンじゃなくて、一つの勝ち越し点を奪ったシーン……美城がゴールを決めた場面」
「そんな事もありましたっけ」
美城の笑顔がほんの少し苦々しい物に変わると、それを見逃さなかった早坂は確信を深めて言葉を続けた。
「あの場面、ディフェンダーが二枚来てゴールするには厳しい状況だったのに、美城は無理やり決めたんだよ。逆サイドには信頼できる点取り屋の帝サマが上がってきてたのに、使わなかった」
「パスコースが無かっただけです」
「それは嘘。だって帝サマがハットトリック決めた時、もっと難しいコースを通してパスしてたよね。追い詰められたらその人の素が出るって言うけど、美城が最後の最後に頼るのは仲間じゃなくて自分の才能……。傲慢ちきって言うのは本当かも?」
「それは……責めているのでしょうか?」
「いや? それを見てようやく美城の事が分かったって嬉しかったくらいだけど。私は見えない物は信じない四宮流の唯物史観の人だから、映像を見てやっと休んでた時に話してくれた事が理解できたから」
「それで、どうしてソーラン節の前に立たせようと?」
「だって美城、本当なら前に出たいでしょう?」
早坂は自分の五条美城像から得た確信の下にそう言った。
「五条美城の性格は明るい、だけど陰に引っ込まなくちゃいけない体質のせいで人の後ろに控えてるだけ。先頭に立てる資質も能力も気質も全てあるのに、諦めなくちゃいけないのは辛くないのかな、って思うと何かしてあげたくなったんだよ」
「だから踊りの船頭役ですか」
「本当はもっと大会みたいな物を開いて一位取らせてあげたかったけど、さすがにそこまで時間は作れなくて……ちょっと妥協案だったけど」
そのことが少し後悔なのか、甘えて蕩けていた所から取り戻したクールな表情を浮かべて、さらにその面に苦さを少しにじませた。やろうと思えばやれただけに後悔もあるのだ。
「いえ、そんな事しなくても十分楽しかったですよ」
今日の事でも十分大仰なのに、さらに大仰な事を考えていた恋人に困惑しつつも美城は嬉しい気分だった。
打ち明けたとは言え、普段の自分とは異なる欲を理解してくれるとは思ってもいなかったからである。さらに解放する場所まで作ってくれたのは驚きを隠しきれない。
「ありがとうござい……」
何度形にしてもいいだろうと思い、再び感謝を伝えようとした所でハッともう一度思いだす。眞妃が言っていた『愛を特別扱いしているか』という言葉だ。
自分の事をよく考えてくれて、そして実行してくれる早坂に対して、美城は確かに他の人よりも彼女が一段上に大切になった事を自覚した。なら、他の人と同じような感謝の表し方だけでいいのか。彼はそう思ったのでより良い感謝の表し方は無いだろうか、と考えて一瞬固まった。
「……どうしたの美城?」
ありがとうと言われるのを待っていたのに、お預けをくらった早坂は不思議そうな顔をして彼氏の赤い瞳を覗き込んでいた。まさか照れて言葉に詰まった訳でもあるまいし。明るい感情を表に出す事に全くためらいが無い美城が、どうして言葉に詰まるのだろうという純粋な興味からである。
「愛」
仕切り直すように美城は彼女の名前を呼んだ。
ん? と短く早坂は応えると、言い直してまでどんな言葉をかけてくれるのか、少しワクワクした気持ちで彼の言葉を待っていた。
——チュッ
「……え?」
かけられたのはどんな言葉でもなく、一つの行動だった。それは魔法にかけられたように早坂の全てを固まらせる。
「ありがとう、愛。大好きですよ」
美城は今まで見せた事のないような表情で嬉しそうに唇をなぞった。
早坂の頬に口づけたそこを。
「へ……? えっ?」
理解が追いつかない早坂が、数瞬前に彼に触れられた場所を指先で確かめた。白い肌の上が少し湿り気を帯びて、それが何なのかようやく分かると、頬に付いた赤い痕が掻き消えるほどに真っ赤になって黙ってしまう。
「わ、私用事を思いだしましたので!」
何故かいたたまれないような、心を囃し立てるような感情に支配された彼女は、美城の方も向かずにボランティア部の部屋を飛び出してしまった。
美城は追いかける隙もなく、あっという間にいなくなった彼女が座っていた席を名残り惜しそうに見るだけしか出来ない。
「愛……」
若干の後悔もありつつ、もう一度彼は恋人の頬に口づけた唇をなぞる。そこは忘れたと思っていた恋の炎でも付いたかのように、不思議な熱を帯びていた。
本日の勝敗 美城の勝利