漠然と思い出す。断片的で、他人事のようで、それでも確信を持って『これは記憶だ』と言えるような形で。
私は魔術師だ。そして彼はサーヴァント。英霊と呼ばれる存在だ。
擦り傷にまぎれてひりひりと痛む右手を見る。その甲には赤い複雑な模様が痣のように浮き出ていた。
これが令呪と呼ばれる契約の証。
サーヴァントが召喚され、私がマスターとなっているということは──。
「……今、聖杯戦争が起きているのか」
「通常のものとは異なるようですがね」
彼は静かな口調で答えた。
視線を令呪から彼へ移し、私は問う。
「確かに私は君のマスターらしい。けれど記憶が飛んでしまっていて、名前さえこのメモがなければ分からない始末なんだ。ひとまず私は久堂紘平らしいのだけれど、君のこと、君の知っていることを教えてくれる?」
「……そうですね。それが最善の応答でしょう、マスター。私はセイバーのサーヴァント。貴方と契約を結んだ騎士です。しかし──」
彼──セイバーは難しい顔をした。ひそめた眉と逸らされた視線さえも美しい、まごうことなき美青年だ。
「──私も霊基にいくつか欠けている部分があるようで。マスター、貴方と同じく自らの真名さえ分かりません。ただひとつ分かるのはこの聖杯戦争があまりに異常であること。しかしそれも感覚的なものです。詳しいことは、彼らに」
言い、セイバーは下を指差す。
私は事の一切が理解できず、返す言葉が少し遅れた。
「……彼ら、って? ここに他にも人が居るの?」
「ええ。双子の兄妹と、サーヴァントが一騎」
「サーヴァント?」
私のすっとんきょうな声にもセイバーは表情を変えない。ただ涼しげな顔で私の方へ近づいてきて、優しく肩を押し振り向くよう促した。
「この施設には地下室があります。そこに居るのはアーチャーのサーヴァント、そのマスター、そしてアーチャーのマスターの兄君です。ひとまず合流するのが最善かと」
「……」
「ええ、はい。本来の聖杯戦争ならばサーヴァントは敵同士。七騎のサーヴァントとそのマスターによる殺し合い。しかし今は『異常』なのです。いきなり襲いかかってきて死ぬ、なんてことは有り得ないと約束しましょう」
「……分かった。分かりました。地下室に行こう、セイバー」
「御意」
ガラスの破片を踏みながら歩く。セイバーはそれとなく私を抜かし、前を歩きながらつまずきそうな瓦礫を足で退かして私が歩きやすいようにしてくれた。
身体中の痛みにも慣れてきて、騎士とはこんな気遣いができるのだなあと余計なことを考える余裕もわずかではあるができた。
セイバーの言った地下室は、廊下脇の目立たない扉の向こうに隠すようにして入口があった。階段をくだると照明が無傷なおかげか存外明るい廊下があり、脇に扉がいくつかある。その一番手前の扉をセイバーは開いた。
ひんやりとした空気が押し寄せる。
その先には、思ったよりずっと広い部屋が広がっていた。
事務机がいくつか置いてあり、同じ分だけ椅子も。壁際には簡素ではあるがソファまである。奥にはきちんと機能しているらしい大きなモニター。そしてその前に座ってカタカタとキーボードをいじっている丸っこい体型の後ろ姿と、その隣に佇んでいる眼鏡をかけた少女と黒髪に褐色肌の──これまたセイバーに負けず劣らずの美青年が見えた。
「あ、セイバーさん、マスター見つけられたんですか」
少女が言う。大人びた顔立ちに似合わず細くて甲高い声だった。
「ええ」
セイバーが応じる。
「再度探しに行こうとした矢先、マスターの方から来てくださいました」
「だからやたら帰ってくるのが早かったんですね。何よりです」
少女は微笑み、私を見て、自らの薄い胸元に手を当てた。
「倉高エミリです。こっちの愛想のないのが兄の倉高エーミール、そして彼が私のサーヴァント。クラスはアーチャーです」
ひとつひとつ指を指して、エミリはゆっくり自分達を紹介していく。それから微笑を浮かべたまま改めて私を見た。恐らくこちらの自己紹介を待っているのだろう。
……しかし、私が提示できる情報などあの紙切れしか……。
「──ん?」
ふと紙切れの内容を思い出し、私はズボンのポケットに入れていたそれを取り出した。
「……やっぱり」
倉高エミリ。
倉高エーミール。
確かに紙切れにはその名前があった。私の力になるはずだと、七五三千早が記した中に。
「私は……久堂。久堂紘平といいます。たぶん」
「たぶん?」
「恥ずかしながら記憶がなくって。この紙切れしか手がかりがないんだ」
「は」
ここで突然、モニターの方を向いたままでいまだに後ろ姿しか見えないエーミールがため息に近い笑い声を漏らした。
「記憶喪失のサーヴァントには記憶喪失のマスターってか。ペットは飼い主に似るってあながち嘘でもないらしいな」
「お兄ちゃん、そんな失礼なこと言ったら駄目だよ」
エーミールは鼻を鳴らすようにして嘲笑の意を示し、またキーボードをカタカタとやる。別段怒りは覚えなかったがなんとなく嫌な気分にはなった。隣に居るセイバーを見遣ると、やはり彼は表情を変えていなかった。
「ねえアーチャー、お兄ちゃんがこんなんだから、申し訳ないのだけど現状の説明お願いできるかな」
「はい」
僭越ながら、とアーチャーのサーヴァントが一歩前に出る。
「現時点でも分からないことは多々あります。その中で我々が得た情報をお話致しましょう。──サーヴァントが召喚されているということからも分かる通り、現在この世界では聖杯戦争が起こっている。それは間違いありません。しかし敵は自分以外のサーヴァント、というわけではない」
華奢な指先で黒髪を掻き上げ、アーチャーは言葉を続ける。
「我がマスターの兄君の解析の結果、この世界に穴があいていることが判明しました」
「穴……?」
「ええ、穴。なんらかの原因で、数ある平行世界への扉に穴があいてしまった。結果、あらゆる世界で起こった幾多数多の聖杯戦争の
すなわち、とアーチャーはやや声を大きくした。
「これは聖杯戦争ではない。
聖杯戦争ならぬ──対聖杯戦争。
自分の名前も分からない、覚えているのは自分が魔術師であることと聖杯戦争の簡単な仕組み。そんな私でさえ素直に驚きを感じた。確かに『異常』だ。そんなことが起こり得るとは。
「じゃあ、つまり……今回七騎のサーヴァントは味方同士ということ?」
「今のところは」
言って、アーチャーは口を閉ざした。
沈黙が流れる。エミリが気まずそうに視線をあちらこちらへやってから、おずおずと私を見た。
「えっと、久堂さん、お怪我してますね。絆創膏とかガーゼくらいならありますから、ちょっとなら手当てできますよ」
「ああ、うん、ありがとう」
笑って見せると、エミリはほっとしたようにまた微笑した。今まで無言の兄と無言のサーヴァントに挟まれてただ過ごしていたのかと思うと、私という話し相手ができてやや安堵したのかもしれない。……いや、自惚れすぎか。
擦り傷に絆創膏を貼り、少し深めの傷にはガーゼと包帯を。慣れない手つきではあるが、エミリは丁寧に処置をしてくれた。
「お兄ちゃんもアーチャーも全然話してくれなくて、セイバーさんもマスター探しで出て行っちゃうし、そろそろ無音にも限界だったんです。久堂さんが来てくれて良かった」
……自惚れではなかったようだ。
「エミリさんとお兄さんは、双子なんだよね?」
「はい。一卵性の兄妹です。性別の違う一卵性の双子って珍しいらしいですね」
はい、できました。そう言ってエミリは私の怪我の手当てを終えた。ありがとうね、と改めて礼を言う。
一卵性の双子か。それにしてはあまりにも似ていない。……いや、目の前で微笑んでいるエミリとモニターを睨むエーミールの横顔の顔立ちこそ似通っているが、エーミールは座っていても分かるほど背が低い。女性にしては長身のエミリとはあまりにも違う。
私の視線から考えていることを察したのか、エミリは困ったように笑みを深めた。
「私とお兄ちゃん、一卵性には見えませんよね」
「チビデブで悪かったな」
「お兄ちゃん! 誰もそんなこと言ってないでしょ! もう、ほんとに口が悪いんだから……。あ、でも久堂さん、お兄ちゃん優しいところもあるんです。本当ですよ」
「そうなんだ」
相槌を打ち、別のことに考えをめぐらせる。
アーチャーのマスター、倉高エミリ。
セイバーのマスターは私、久堂紘平。
ならば残りの五騎もどこかで召喚されているのだろうか。改めて七五三千早が残した紙切れを見る。
倉高兄妹をひとりと考え、私を含めてちょうど七人。七五三千早は、私に仲間を集め対聖杯戦争を行うよう──世界を救うよう、託したのか。
「その七五三千早さん──珍しいお名前ですね。七五三さんって、久堂さんのことよっぽど大切だったんですね。世界を救ってなんて荒唐無稽なこと、本当に信頼している人にしか頼みませんよ」
エミリが紙切れを覗き込み、優しく言う。私を僅かばかり慰めている、あるいは励ましているような声音だった。
──と。
「七五三? 七五三千早だって?」
突然エーミールが声を上げて振り向いた。視線が彼に集まる。
「あいつの知り合いかあんた」
「いや、分からない。たぶん知り合いだと思うんだけど……エーミールくん、七五三千早を知っているの?」
「名前とデータだけはな。顔も声も知らねえが、論文はいくつか読んだことがある。良く言えば斬新悪く言えば無茶。そんなことばっか研究してた魔術師兼学者だよ」
「へえ……。じゃあ、久堂紘平という名前に心当たりはないかな」
「それは知らね。聞いたこともねえ」
「そっかあ……」
ため息をついて頭を振る。
「マスター」
今まで黙って立っていたセイバーがこちらへ声をかけてきた。
「お疲れとお見受けします。ご不安はお察ししますが、少しお休みになられてはいかがでしょう」
「うん……ありがとう。君も……」
「いえ、私は。サーヴァントですので貴方より頑丈です。いざと言うときに騎士が主を守れず、なんてことになれば洒落になりませんから」
「……」
そうか。
セイバーは、アーチャー及び倉高兄妹を信用していないのか。
確かに本来は敵のはずの存在。手がかりは記憶喪失の男が持っていた紙切れひとつ。ようやく見つけたマスターが殺されれば全てが終わり。いくら今まで殺されなかったとは言え、信用できる要素の方が圧倒的に少ない。
そしてそれは恐らく。
「……」
壁に寄りかかり、じっと目を閉じているアーチャーも同じ。
この中でひとり呑気に人に会えたことに安堵している自分が情けなくなった。
そんな矢先、エミリが再び声を発する。
「休むなら隣の部屋を使うと良いですよ。ここの施設の宿直室だったみたいで、ベッドがいくつかあります」
「うん、そうするよ。本当にいろいろありがとうね、エミリさん」
「いえいえ、久堂さんとは味方同士ですから。助け合うのは当然です」
無邪気に笑うエミリの顔を見て、私は彼女が敵ではないことを願わずにはいられなかった。