私は久堂紘平ではない。違う。私は久堂紘平じゃない。違う。違う。私は、私が、私が久堂紘平ではないのならば──
──私は誰だ?
「久堂? 大丈夫か」
「……え?」
「鼻血出てんぞ」
「え、あ……」
久堂紘平じゃない。久堂紘平じゃない。私は久堂紘平じゃない。私は、僕は、俺は、
頭の中にサイレンのように響く。
眼鏡をしているはずなのに視界がぼやける。
誰? 私は、
「久堂! おい! しっかりしろ! 久堂──」
エーミールの声が遠くなっていく。少しずつ聞こえなくなっていく。
久堂、じゃないんだけどなあ。
この期に及んで私は、そんなことを考えながらどうやら意識を失った。
──誰?
誰かが居る。エーミールじゃない。灰音じゃない。セイバーじゃない。眠っているはずのエミリでもない。霊体化しているであろうアーチャーでもない。
誰? 誰?
問いかけているのか、問われているのか。分からない。目の前に居る誰かと私の境界線が見当たらない。
──お前は□□だよ。
誰かは言う。
──私達は□□。
──ずっと同じ。
──繰り返すだけ。
──死ぬことを待っているだけ。
──だから、
──もう手遅れなんだよ。
違う。
声を発したのか胸中での言葉か。ともかく私は叫んだ。
違う。まだ遅くない。まだ、間に合う。
だって私は、そのために──死にに来たのだから。
死を待つのではなく、能動的な死を目的として来た。それさえも否定されたら、私は存在を保てない。
……存在? 私の存在?
私は──。
「──久堂さん! 久堂さん!」
……うるさいなあ。この甲高い声はまほらばだろうか。目を開くと案の定灰色のキャップ帽が目に入った。まほらばは涙目で私の肩を揺すっている。鼻血を出して気絶した人間にずいぶん荒っぽいことをするものだ。
「起きた!? 起きた! 久堂さん起きた! 良かったよう死んじゃったかと思ったあ!」
「病人の前でぎゃーぎゃー騒ぐな。……まあ病人かどうかは怪しいところだが」
エーミールの声だ。なんだかこの素っ気ない声音が安心する。
「聞いても無駄だと思うが、どうした?」
「……エーミールくん」
「うん?」
「久堂紘平……って、誰なのかな」
「誰って、お前の仮称だろ」
「それが違うっぽいんだよねえ……どうして私は自分のことを久堂紘平だと思ってたんだっけ……」
「寝起きで頭働いてねえな。あの後生大事に持ってたメモだろ」
「そ、っか」
エーミールは恐らく意味不明を極めているであろう私の発言にも冷静に答えてくれている。それはありがたいのだが、問題は私に覆いかぶさってしくしく泣いているまほらばだ。気にするなと言う方が無理だろう。
「……まほらばさん、どうしたの?」
「だって……久堂さん本当に死んじゃうのかなって思って……」
「──それの」
それのどこが問題なの、と口をついて出そうになった言葉を飲み込む。この思考はどうやら異常らしいし、泣いて心配してくれている女の子にそんな言葉を吐くほど私も人の心は捨てていない。
「あたし嫌いなものあったよ。お友達が死んじゃうの嫌だよ。悲劇は好きだけど、それはフィクションだから好きなの。本当に死んじゃうなんて、絶対嫌だよう……」
「……生きてるよ、まほらばさん。大丈夫」
「うん、うん……! ほんとに良かった……!」
「遠木、あとにしろ。で、久堂──じゃない誰か、か。お前は誰だ? ダメ元で訊くが心当たりは?」
「うーん……」
寝起きの鈍った思考をゆっくりと回す。今現在手がかりがあって、まだ私の存在が入りそうな──。
「……七五三千早……?」
「うん?」
「エーミールくん、七五三千早のこと少し知ってるって言ってたよね? 私がその七五三千早ってこと……ないかな?」
「んー……」
エーミールは珍しく少し悩むように眉間にしわを寄せた。
「……考えにくいな。つーか有り得ん」
「どうして? 七五三千早が早起き得意で有名だったとか?」
「無駄口叩けるくらいには回復したみてえだな」
言い、エーミールは私の顔を覗き込む。
「七五三千早は良く言えば斬新悪く言えば無茶な論文ばっか書き散らかしてる学者兼魔術師だった。論文の具体的なテーマは、魔術及び魔法と科学の擦り合わせ──魔術の存在を全世界に公表してヒトの進化を促す方法の提案──そんな感じだ」
「……無茶要素強くない? すぐ消されそうだけど……」
「ああ。だが放置されてた。そもそも誰からも相手にされてなかったからな」
「どうして?」
「七五三千早が最後に発表した論文は三年前。当時──七五三は七歳だ」
「……」
「お前今十歳か?」
「たぶん違う……」
「だろ?」
いよいよ分からなくなってしまった。
「まあともかく、違和感はあるだろうがしばらくは仮称・久堂紘平で通せ」
「うん、そうする」
私は七五三千早ではない。久堂紘平でもない。
……こうなれば七五三千早だけでなく久堂紘平も誰だか分からないな。どなたか知らないけれど、しばしお名前拝借しますね、久堂さん。
「エーミール、もう良い? あたし久堂さんの復活に安堵し足りないんだけど。良い? 全力安堵して良い?」
「よし、行け」
「よっしゃあ! ──久堂さあん!」
まほらばが飛びかかってくる。というか、ダイブとかボディプレスと表現した方が正確か。「ぐべえ」みたいな声が出て取り戻したばかりの意識が飛びかけた。
灰音の分も含め、エーミールはこれを二人分食らったのか……。
「あとでエーミールが作ったプリン食べようね。久堂さんが起きたら食べようってみんなで約束してたんだよ」
「……」
「どうしたの? プリン嫌い?」
「ううんプリンは好きだけど……いや、なんだか……」
「なに?」
「……なんでもない」
「なになに、言いかけてやめるのずるいよー!」
「ふふ。なんだか至れり尽くせりだなって」
「そりゃそうだよ! 病み上がりは主役なんだよ!」
……。
私の口八丁も案外効くものだな。
──なんだか。
生きていることを望まれている感覚。
生きていることを喜ばれる感覚。
なんだかそれが、ひどく懐かしくて、ひどく悲しく感じた。